第22話 何もしない日が増えていく
その日、レティシアの執務机には、ほとんど書類がなかった。
正確に言えば、
「回ってこなかった」。
「……今日は、これだけです」
エマが差し出したのは、確認用の簡単な報告書が一枚だけだった。
「以上?」
「はい」
即答だった。
レティシアは、思わず書類を見直す。
抜けはない。
見落としでもない。
単純に――仕事が、少ない。
「……何か、滞っている案件は」
「今のところ、ありません」
エマは淡々と答える。
「昨日の調整で、だいたい片付きましたので」
それは、事実だった。
仕事は回っている。
自分が動かなくても。
その状況に、胸の奥がざわつく。
*
午前中は、その一枚の書類を確認して終わった。
修正は不要。
意見も、特にない。
レティシアは、ペンを置いたまま、しばらく机に座っていた。
「……何も、していない」
口に出してみると、違和感が強くなる。
王城にいた頃なら、
この時間帯は、すでに三件は横断調整をしていた。
誰にも頼まれていない仕事を、
自分で見つけて、勝手に抱え込んで。
それが「普通」だった。
だが、今は違う。
誰も、
「ついでにこれも」と持ち込まない。
「君ならできるだろう」と押し付けない。
*
昼前、ロイドが顔を出した。
「何か、手伝えることはありますか?」
その問いかけに、レティシアは一瞬言葉に詰まる。
逆だ。
これまで、彼女がそう聞かれることはなかった。
「……今は、大丈夫そうです」
「そうですか」
ロイドは、それ以上踏み込まなかった。
「では、午後は休んでください。
今日は、特に急ぎの案件もありません」
「……休む?」
「ええ」
あっさりと。
「効率が落ちる状態で仕事をされるより、
何もしない方が合理的です」
合理的。
その言葉に、思わず苦笑が漏れそうになる。
評価されない時間を過ごすことが、
合理的だと言われる日が来るとは思わなかった。
*
午後。
レティシアは、館の中庭に出ていた。
特別な用事はない。
ただ、時間があった。
風に揺れる木々を眺めながら、
自分が“何もしていない”ことを意識する。
「……私は」
小さく、呟く。
「役に立っていなくても、
ここにいていいのかしら」
問いは、まだ答えを求めきれていない。
だが、不思議と――
追い出される不安は、なかった。
*
夕方。
アレクシスが中庭を通りかかった。
「何か問題か」
そう聞かれ、レティシアは首を振る。
「いいえ……ただ」
一瞬、言葉を探す。
「今日は、何もしていません」
「そうか」
彼は、それを問題とは受け取らなかった。
「必要な時に、動ける状態でいるのも仕事だ」
当たり前のように言う。
「……評価は、下がりませんか」
思わず、そんなことを聞いてしまった。
アレクシスは、足を止める。
「なぜ下がる」
「……何も、していないから」
少し、恥ずかしい問いだった。
彼は、しばらく考えるように沈黙し、
やがて言った。
「君の評価は、
“今日何をしたか”では決まらない」
それだけだった。
多くを語らない言葉。
だが、十分だった。
*
夜。
自室に戻ったレティシアは、椅子に腰掛け、静かに息を吐いた。
今日一日、
大きな判断も、劇的な活躍もない。
それでも――。
ここにいていい、と言われた。
何もしない日が、増えていく。
それは、不安で、落ち着かない。
けれど同時に。
「……少し、楽ね」
小さく、そう呟いた。
役に立たなければ価値がない、
そんな前提が、
ゆっくりと、音を立てずに
崩れ始めていた。
この違和感は、
やがて、
彼女自身の答えへと繋がっていく。
その予感だけが、
静かに、胸に残っていた。
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