第31話 10月3週目
「他に思い浮かばなくて。芸がなくてすまない」
「いえ」
夏生さんは「ちょっと失礼する」と言い、席を立った。
エイジングビーフのお店で、ワインリストに目を落とす。文字がさっぱり読めなくなってしまった。
もう、どれでもいいわ。
そう思って、メニューを閉じた。
目を伏せて、これから何を話すのかを想像して、気分が落ち込んだ。
「失礼します」
声がして、顔を上げると、原田さんが立っていた。
「え」
「すみません。お話を……」
話を聞かず、席を立つ。
嫌よ。私はあなたのことが怖い。
「私、フラれたんです!」
「え」
振り返った。
恥ずかしそうに微笑む原田さんと、目が合った。
「めっちゃ頑張ったんですけど、全然、目もくれないって言うか。一度なんて、話しかけたのに、聞こえないふりされて、完全に無視、とか」
「……」
「あの、私の片思いで、不快な思いをさせてしまって、申し訳ありませんでした」
直立し、深々と頭を下げる原田さんの肩に触れる。
「頭を上げてください」
「本当に、すみませんでした。今日も、室田さんに奥様の誤解を解くのにどうしたらいいか相談をされて、二人で会っていましたが、けど、やましいこととか、何もありません。室田さんは、なんて言うか……奥様に、めっちゃ夢中です」
「めっちゃ……夢中……?」
「はい。間違いないです」
へなへなと椅子に腰掛ける。
「それでは、私は失礼させていただきます。入り口で室田さんが待ってますので、こっちに来るように伝えますけど、いいですよね?」
「お願いします」
原田さんは、ぴょこぴょこと跳ぶように走って行った。
心臓の音がうるさくて、お店に流れてるはずの音楽が聞こえない。
夏生さんが静かに戻って来た。
「あの……」
頭が混乱する。
「私……」
涙がこぼれ落ちる。
夏生さんが、私の顔に触れた。
大きな夏生さんに届くよう、椅子の足に乗っかって、首に手を回しハグをした。
「ごめんなさい」
耳元で囁く。
「誤解は解けたかな?」
「はい」
背の高いカウンターチェアから足が離れてしまった。
私の足は宙ぶらりんだけど、夏生さんがぎゅっと抱きしめてくれるから、平気。
「大好きなの、夏生さん」
少し顔を放して、夏生さんが私を見た。
「ステファンじゃないのか?」
「ステファンは、お友達です」
「そうか」
夏生さんは私のうなじに顔を埋めて、強く抱きしめてくれた。
お店の方達にも大変に気を使わせてしまったようで、恐縮しつつ、照れくさいやら、有難いやら……思い出のお店が一つ増えて嬉しかった。
「秋子」
「はい?」
「明日は誕生日だな」
「そうでした」
「今日は、寝かさない。日付が変わるまで一緒に起きてるぞ」
「目、開けてられるかしら」
嬉しい。嬉しい。
「ホテルを予約しているんだ。この後は、ロマンチックにいこう」
嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。恥ずかしい。
「気が進まないか?」
「そういうわけでは……」
「なんか、秋子の事が分かってきたぞ」
「はい?」
「君は、気が進むときには、すぐ『そうしましょう』って言うんだ、そうで無い時には、何かある」
「何かあるって……ふふふ」
笑ってしまう。
心を読まれているのに、どうしてこんなに嬉しいのかしら。
「お家に帰りたいわ」
私には、まだ夏生さんの心が読めない。
「せっかくレイアウトを変えていただいたのに、一緒の寝室でまだ、その、一緒にねてな……」
「秋子、みなまで言わずとも、だい、じょう、ぶ、だ」
あら、少し読めた気がするわ。
「とても嬉しい申し出、だ」
照れてるのね?喜んでいらっしゃる。
「でも、ホテルのキャンセル代、勿体ないわね」
ちょっと、確認させてね。意地悪だけど、許してください。
「いや……そんな、こと、気にしな、く、て……」
やっぱり。
「からかってるな」
「バレた」
夏生さんは、本心をいう時、言葉がとぎれとぎれになる。
それは、言葉にするのが恥ずかしいときに、頑張って言おうとしてるから、そうなるのよね?思い当たる節が、たくさんある。
初めてだわ。
夏生さんにかける言葉に、いちいちビクビクしなくていいなんて。
「原田さんに感謝ね」
「まったくだ。彼女は、自分の気持ちをぶつけることに躊躇がない」
「あなたに『めっちゃ頑張った』って、おっしゃってたわ」
「ああ、引くくらい」
「ふふふ」
夫が他の女性に好かれていると知っても、もう大丈夫。
「彼女は今は林田君が好きらしい」
「そうなの?」
「だが、林田君は別の子が好きなんだそうだ」
「上手くいかないわね」
「まったくだ」
それからお店が変わっても、日付が変わっても、私たちの会話が尽きることはなかった。




