第3話 3月3週目
9時近く、制服に着替えて、いつもの戸建てに向かう途中で声をかけられた。
「原田さん、犬の散歩お願い」
2つ歳上の先輩、山本さん。
えー、嫌です。今、無理です。窓拭きしたいんで、困ります。30分後じゃ駄目ですか?……心の中では、全力でお断りしてるんだけど、実際には、言えるわけない。
「……はい」
大中小の三匹のリードを持って、会社を出た。
大きい犬は力が強くてどんどん引っ張って行くし、小さい犬は動きたがらなくて座り込んじゃうし、中くらいのはあっちこっちに行きたがって、もうバラバラ。すごく大変。
犬なんて飼ったことが無くて正直、どうしていいか分からなかった。小さいのを抱っこしようと思ってしゃがんでたから気を取られて、周りをちゃんと見てなかった。
キュッ
音がして、振り返ったら、むろたさんが自転車にまたがって止まってた。
「失礼しました。思いがけない方向に飛び出してきて」と、犬を気遣ってくれる。
「いいえ、こちらこそ、すみません。お怪我はありませんか?」
黙って頷いた、むろたさんと、目が合った。
やっぱり、素敵!
「あ、あの、ハンカチ受け取ってくれましたか?」
咄嗟に口走った。
「あぁ、あれは私のでは無かったんですよ」
あ、笑った。歯、きれい。
「そうでしたか。すみません」
「いえ。守衛さんが預かってくれてると思います」
なにか、話を、もっと、繋げなきゃ、って頑張ってはみたんだけど、ダメだ、ネタ切れ。
「では、失礼します」
そう言い残して、むろたさんは行ってしまった。
わんこたちに感謝しながら、急いで散歩を終え、会社に戻った。
「原田さん、大丈夫だった?」
「はい。ちょっと、収集つかなくて自転車にひかれそうになりましたけど……」
「ちょっと!気を付けてよね、レンタル犬に何かあったら大変なんだから!」
「すいません」
お前さん達のせいで先輩には怒られたけど、むろたさんと話せたから、ありがとう、の意味を込めて皆の頭を撫でる。
「自転車って、あの、向かいの会社の偉い人でしょ?」
「ええ、はい?」
山本さんは顎を手に当てて、上を向いている。
なにか知ってるの?思い出して!がんばって!
「なんかさ、昔、来たことがあるんだよね、家の改築だったかなぁ」
「そうなんですね!」
よっしゃ!新情報ゲットだぜ!
急いで冬馬のところへ。
「ねぇ!顧客データ、むろたさんいるか調べて!」
「んなこと、できるか!仕事だ、こら!」
今日のアポ顧客の紙の束で、頭をポカッと叩かれてしまった。
営業しかアクセスできない過去の顧客データが気になって仕方がない。
今夜は誰も客がいない。
刺身の盛り合わせと鶏のから揚げ、どっちから手を付けようか迷う。
「あんな言い方しなくたっていーじゃん?」
「なんだよ、普通だろ」
「ちょっとくらい……」
「いいわけないだろ!」
しょんぼりしながら、醤油にわさびを溶かす。
「お前、あの会社のホームページ見たのかよ」
「え?」
「偉い人なんだろ?」
「山本さんが、そう、言ってたけど……」
スマホで検索した。
会社概要、企業理念、役員一覧、あった。
「みんな、室田なんだけど?」
「同族会社なんだな」
冬馬も同じ画面を見てるみたい。
「さすがに社長な、はずないよね」
「会長は女性だな」
「顔写真無いのかな」
二人でスマホをトコトコ。
「ねぇ、冬馬」
「だめだ」
「お願い」
「だめだ」
「なんでぇ」
「個人情報の取扱いについて研修受けただろ?」
「でもぉ」
「だめだ」
社長、副社長、専務、会長、常務、取締役、執行役員etc...たくさん名前があるけど、ほとんどみんな室田だった。
会長は秋子さんなので、たぶんお母さんかな。何としても下の名前を知りたい。
翌朝、犬の散歩を買って出た。
私は三匹に「だい・ちゅー・しょー」と名づけた。
だいは力が強いから手首にリードを捲きつけて、しょーは最初っから抱っこしてしまおう。
「ちゅー、あんたにかかってるからね、よろしく」
ちゅーは私の期待通り、あっち行ったり、こっち行ったり、突然走り出して、非常に面倒くさい動きをした。住宅展示場と向かいの会社の間を、行ったり来たりする。
来た!
自転車に乗った室田さんが、シャッと通り過ぎた。
守衛さんの前を通るとき、確かに聞いた。
「室田専務、おはようございます」
ナイス!守衛さん!
専務だ、専務。室田専務。
るんるんで散歩の続きをして、盟友の三匹と共に、住宅展示場に帰った。
特設会場に設置してある、即席の犬小屋にみんなを入れる。
「グッボーイだね、あれ?君たちオス、メス?」
「全員メス」
「あ、冬馬、あの人専務だった!」
「なんで分かったんだよ」
「この子たちのおかげ~」
私はみんなの頭をわしわしと撫でた。
スマホを出して昨日のホームページを確認する。
専務の名前は夏生さんだった。
「夏生専務、カッコイイ!」
名前も超絶素敵!
「あほか」