第2話 3月2週目
ドキドキしながら、いつもの通勤路を進む。
会社の前まで来たところで、いつもの方に背を向けて歩く。
いつもより1時間早く来た。
私の勤務先の向かいにある、化学調味料を作っている会社に、私の好きな人がいる。
(どうしても名前が知りたい!)
どうしたらいいか考えてたら、昨日、ふ、と思い浮かんだんだ。
会社の入り口には大きな門がある。
その門の端っこに、守衛さんがいる小屋がある。
「すみませ~ん」
男物のハンカチを握りしめて、ガラス扉を覗き込む。
制服を着た、おじいさんが、パイプ椅子に座っていた。
「なにか、ご用ですか?」
こちらを見て、立ち上がり、ガラス戸を開けてくれた。
「あの……これ、自転車に乗ってる人が……落っことしたみたいで……」
「あ、室田さんかな、ありがとう、まだ来てないから、渡しておきますよ」
「はい。ありがとうございました!」
ハンカチを手渡し、クルっと振り向いて小走りで去った。
「やった、やった!むろたさん!むろたさん!」
こんなに早く来たことなんてなかったから、知らなかった。
私の職場、住宅展示場は10時に開くけれど、出社は9時だ。
制服に着替えてから、掃除とか、当日の来客予定を確認したりして過ごすのだけど、今はまだ、8時ちょっと過ぎ。
「もう来てんの?」
冬馬がいたことに、驚く。
「春香、今日は早いんだね」
「うん。ちょっと。冬馬、いつもこんな早くに来てるの?」
「そうだよ」
「暇なの?」って言ってみたくなったけど、なんか笑えない気がしてやめた。
「決算セールだから?」
3月の決算イベントは、一年で一番盛り上がる大忙しの月なのだ。
「いや。ずっと。普段からこう」
やっぱ、暇なんだな。
「お前は、どうしたの?セールの準備大変なの?」
「ううん。私は別にノルマとか無いし、いつも通りなんだけど……」
周りを見渡す。
まだ、誰も来てない。
「むろたさんって言うの」
嬉しさ大爆発で教えてあげた。
「あの、オジサン?」
「そう。……って、そうなんだけど、オジサンって言わないでくれる?むろたさん!」
「はいはい。なんで分かったの?」
「守衛さんに聞いてきた」
「は?!」
冬馬の驚きが見れて、なんだか嬉しさ倍増。
「何やってんの?」
「え?自転車の人がハンカチを落としたって言ったら、むろたさん、かなだって、うっしし~」
「うっしし~、じゃないよ、ストーカーじゃねーか」
「こうでもしないと、進展しないんだもん、しょうがないじゃん」
冬馬の説教がうるさいから逃げた。
とりあえず制服に着替えたけど、やることが無い。
むろたさんの出勤時間は、決まって9:15だ。
窓拭きは、その時まで取っておかなくちゃ。
「冬馬、なんか手伝うことある?」
「ああ、犬小屋の掃除してくれるか?」
「え!私、犬好きじゃないのに」
「よろしく」
箒と塵取り、雑巾の3点セットを渡された。
今年の決算キャンペーンのキャッチフレーズは「ペットと暮らす家」ってことで、イメージしてもらいやすいように、犬のレンタルをしている。もちろん、躾けの行き届いた良い犬たちだ。
むろたさんは、どんな家に住んでるのかな……なんて、想像してしまう。
犬とか飼ってそうな気もするし、自転車ばっかりの男の人っぽい部屋のような気もする。
妄想してたら、アッと言う間に9時が近くなっていた。
慌てて、布巾と窓拭き用の洗剤を持って、二階のリビングに上がる。
この戸建ては、向かいの会社がよく見えて、しかもサボってることがバレにくい、特等席なのだ。
ブッシュと泡を目の前にやってしまうと、見えなくなるから「はぁ~」と息をかける。
適当に右手をクルクルして、窓を撫でる。
「あ、来た!」
顔を近付け過ぎて、窓にぶつかってしまった。
守衛さんに呼び止められて、むろたさんは首を横に振っていた。
「わーい、いつもよりちょっと長く見れた。ふぅ~。ずっと見てたいよぉ」
「お前、心の声がだだ洩れてんぞ」
「はーい、すいませーん」
行こうとしたら、冬馬に腕を捕まれた。
「おい!」
そう言って、窓を指さしている。
「あっ」
私の顔の油が……おでこと鼻の跡がべったりついていた。
「ひゃー!」
ブッシュ、ブッシュ、キュッ、キュッ。
「よし!」
「……」
「お願いだから、そんな冷たい目で見ないでください、冬馬さん」
「お願いだから、頑張って売上に貢献してくださいね、春香さん」
花金は居酒屋が混んでいる。
「いらっしゃい。カウンターしか空いてないんですけど、いいっすか?」
「「はい」」
生ビールで乾杯して、枝豆と出汁巻き卵を食べる。
「売上はいい感じなの?」
営業職にはノルマがあって、それを超えるとボーナスが出る。
事務職の私にノルマはないが、冬馬にはノルマが課せられている。
「お陰様で」
「なんか、おごって」
「いいよ」
「言ったな!私は行ってみたい店があるんだぞ」
「言ってみろよ。連れてってやるよ」
カツオのたたきとチョレギサラダを追加注文した。
それから、スマホをトコトコやって、見せる。
「エイジングビーフ、食べてみたい」
「エイジングビーフ?」
「寝かせた牛肉は旨味が増すんだって」
「へー、いーよ。ボーナス出るの再来月だから、ちょっと先になるけど」
「楽しみにしてる!」