第16話 6月4週目
秋子より一足早くフランスへ飛んだ。
乗り継ぎの飛行機が遅延し、到着は真夜中近くになってしまった。
「室田専務、フライトお疲れさまでした」
数カ月前から現地入りしている、部下が迎えに来てくれた。
「遅くなってしまって申し訳ない」
「こっちじゃ、日常茶飯事ですから、自分ももう慣れて、これくらいは当たり前になっています」
「大変だな、ご家族は?」
「妻と娘は、私以上に楽しんでいます。日本には帰りたくないそうです」
「それは、何より」
ホテルに送り届けてもらい、明日の朝食は、ホテルで一緒に取ることに決めた。
「明日は先日、メールでお知らせしました、現地採用したスタッフに同行させます」
「よろしく頼みます」
日本とは違い、湿度が低いここは、朝夕は肌寒いくらいに気温が落ちる。
シャワーを浴びて、ベッドに横たわる。
携帯を取り出し、妻にメッセージを送る。
『無事に着きました。来週は私が迎えに行きます。気を付けてきてください』
ホテルのレストランでコーヒーとクロワッサンを頼む。
「専務、こちらが例の……」
そう言って、紹介された男性に見覚えがあった。
「NATSUKI」
「ステファン?」
こちらのクラブチームに所属していた時のスタッフの一人だった。
気の良い男で、たまにではあったが、現地の自転車ショップに一緒に行ったことがあった。
「すまない。名前は見ていたんだが、まさか、知り合いとは……気が付かなかった」
「僕はNATSUKIがいると知っていて、求人に応募したんだ」
「そうだったのか」
「日本には実業団があると聞いている。NATSUKIがリーダーで、引っ張っているそうじゃないか」
「いや。ほとんど何もしていないよ」
会社は私が入社する少し前にクラブチームを発足させた。
自転車しかしてこなかった自分に、会社勤めなど出来るのだろうかと不安に思っていたが、働きながら、チームの世話をするという条件で就職が決まった。
「NATSUKI、帰りに家に寄るといい。ここに滞在している間、ボクのロードバイクを貸すよ」
願ってもない申し出だった。
翌日から、ステファンと私は自転車で集合した。
この時期のフランスの気候は最高に良く、セーヌ川沿いのサイクリングロードは昔からのお気に入りだ。
「今朝も走ってから来たのか?NATSUKI」
「ああ、20分程走ってから、ここに来た」
今日はヨーロッパの販売拠点とする、オフィスの見学だ。
「日本でも走っているのか?」
「通勤と、たまに趣味で乗るだけだよ」
パリには若かりし頃の思い出がいっぱい詰まっていて、複雑な気持ちになる。
夢を追っていた楽しさと、それが敗れた苦しみの両方が混在して、混乱する。
「HARUKAとは別れたって聞いたよ」
「ああ、帰国後続かなくてな。今は別の人と再婚してる」
「AKIKOだろ?知ってるよ。若くて、綺麗だ。NATSUKIは女にモテるんだな」
「やめてくれよ」
秋子は室田家の一人娘で、私より10歳も若い。
5年前、秋子は病気で子宮の摘出施術を行った。
当時、既に会長職に納まっていた彼女に、どうしても承認をもらわなければならない書類があり、捺印を貰いに病院へ押しかけたことがある。
華奢で色が白く「儚げ」という言葉がピッタリの女性だと思った。
会社の業務に必要な事だったとはいえ、不躾な訪問にも、嫌な顔をせず対応してくれた。
それから少し経ち、秋子が退院したころ、相談役である、秋子の祖父に呼ばれた。
「孫をもらってはくれないだろうか」
「いえ、そんな、私なんかじゃ……」
本気で断りたかった。
「ご存じと思うが、室田家は秋子で血筋が途絶える。私がここまで育てた会社も、いずれ誰かの手に渡るだろう。今は息子が社長を継いでくれたが、その後の事も考えたい。孫娘の婿にそれを頼めたらと願わずにはいられない。せめて、わしの目が黒いうちは室田の一族の会社で経営していってもらいたいのだ。私の希望を叶えてはくれないだろうか」
婿養子に入るなど、私に務まるはずもない。
「秋子さんのお気持ちもあるでしょうし」
「秋子は納得しておる。今の社員で、秋子に相応しいと思える独身の男性が君しか見当たらない。秋子は子をなさないので、君が子どもを望んでいるのであれば諦めるしかないが……」
子どもが欲しいと思ったことはない。
私には育てられる気がしない。
「一度、会ってやってくれないか?」
そう言われ、会うだけ会ってみる、という流れになった。
病院で面会した時と同じ印象の「儚げな女性」は、静かではあるものの、結婚を強く望んでいることが伝わってきた。
一族の会社に後継者を産めない辛さは如何程なものなのか、想像も出来ないが、彼女なりに自分で出来ることをやろうとしているのだろうという姿勢に胸を打たれた。
「こんなオジサンでいいんですか?」
自嘲気味に言った。
当時、私は41歳、秋子は31歳になる少し手前だった。
「年上が好みなんです」
緊張しながら、精一杯のジョークで返してくれた彼女と、今後の人生を過ごすと決めた。




