第1話 3月1週目
右手に乾いた布巾、左手に窓拭き用の洗剤を持って大きな窓ガラスの前に立つ。
「はあぁ」っと目の前に息を吹きかけ、自分の胸元あたりをそっと拭き拭きする。
「それ、意味あんの?」
やべ。サボってんのばれた。
慌てて、その辺にブシュッブシュッ、と泡を出す。
「そういう事を言ってんじゃない」
うるさいな。
大事な時間なんだから邪魔しないでよ。
「いつもなら見逃すけどさ、今はマズいって、ちゃんとやれよ」
「やってるもん」
名残惜しいけど、今日の窓拭きを諦める。
私は、ここで、毎朝、向かいの会社に自転車で通勤してくる男性を見ている。
「あのオッサンのどこがいいの?」
「そんなにおっさんかな?」
「父親レベルでオッサンだろ」
「子どもだねぇ、愛があれば歳の差なんて……って知ってる?」
「あほ」
なんと言われても気にしません。
「ほっといて」
ここは住宅展示場。
私は販売員で、今月は三月の決算セールをうたって、大々的にキャンペーンを行う。
「なんかさ、犬が来るらしいんだよ」
「いぬ?」
今話しているのは、同期入社の男の子。
おせっかいなところもあるけど、私の恋の応援をしてくれて、たまに相談にも乗ってくれる。ゲームオタクの眼鏡くん。冬馬。
「『こんな住宅で犬がいる生活、憧れますよね~』って言えってさ」
「はーい」
開店と同時に、小さな子連れの家族がやってくる。
子どもはバルーンアートのブースで預かり、両親のみを案内する。
「ご希望があれば、今日はワンちゃんをお連れできますよ」
「え!いいんですか?」
「ぜひ、ぜひ。こんな住宅で犬がいる生活、憧れますよね~」
はい。ミッションクリア。
私はここに勤め始めて5年目になる。
三月の決算月って、会社にとっては重要な月らしい。
「一件でも多く成約に繋げるんだ!工期はおいおい調整していくから、とにかく受注だ!」
鼻息の荒い上司に言われ、この時期、有休の取得は許されない。
3月末でリセットされてしまうから、年明け早々から、みんな必死で消化する。
「俺さ、有休消化しきれなかった」
「え?!やっちゃったね」
「勿体ないことしたな」
「なんか、計画があったの?」
冬馬とさっきお客さんに書いてもらった、「来場カード」を整理しながらひそひそ話す。
「正月休みをさ、延ばす予定だったんだけど、皆一斉に申請出しただろ?俺のが受理されなかった」
「ひさーん」
しょげてる冬馬が可哀想に見えた。
「帰り、飲んでこ。一杯おごるよ」
「ありがとう」
よく行く駅前の居酒屋。
少なくとも週一で二人で来る。
お店の人にはカップルだと思われてる。
「いらっしゃい」
いつものバイト君がおしぼりとお通しを持ってきてくれる。
「生中ふたつ」
「よろこんでー!」
おしぼりで顔を拭いちゃう冬馬。
「オッサンじゃん」
「それは、お前の好きな人だろ。俺は若者だ」
ビールジョッキが運ばれてきたタイミングで、ホッケとナスの漬物を頼む。
「「乾杯」」
本日のおススメ「ホタルイカの沖漬け」を追加で頼む。
「あの、オッサンのどこがいいの?」
「はぁ~。なんか、もう、見てるだけで幸せ」
「へー」
隣の席に中年男性の4人組が座った。
「ああゆう人が好みなの?」
「え?あんなに年取ってないよ」
冬馬に顔を近付けてひそひそと話す。
「いや、そんな変わんないって」
「……」
明らかに違うよ。
私の自転車プリンスは、こんなただのオジサンじゃないもん。
「私、別にただのオジサン好きってわけじゃないから、年上なら誰でもいいみたいに思わないでよ」
「ちょっ、春香、声でかい!」
聞こえてたら悪いから、オジサンたちのテーブルは見ないようにした。
「なんていう人なの?」
「名前?知らないよ」
冬馬は箸で掴んでたナスの漬物を落っことした。
「名前も知らないのに、好きとか言ってるの?」
「一目惚れなんて、そんなもんじゃない?」
「そぉか」
冬馬は落っことしたナスの漬物を、取り皿の端っこに置いた。
「これから知っていくんだよ、片思いなんてそんなもんなの」
「そんなもんなのか?」
冬馬がホッケの骨を避けてくれる。
「じゃ、冬馬は相手のこと全部知ってからしか好きにならないの?」
「全部じゃなくてもいいけど、ある程度は知る必要があるかな」
「それだとさ……」
「なんだよ」
ホッケの身の美味しそうなところを、私の皿に置いてくれる。
「好きな人なんて出来なくない?」
「どうして?」
「知ってる人の中から、好きな人が現れる確率って低くない?って思うんだけど」
「話したことが無いのに、どうして好きだって分かるんだよ」
「直感」
ホッケ、美味しい。
「お前の言いそうなことだな」
隣の客がうるさくなってきた。
「そろそろ行く?」
「いや、もう一杯飲みたいかな」
冬馬は取り皿に残っていたナスの漬物を食べた。
「それ、落っことしたやつだよ」
「あ、いけね、食っちった」
「冬馬のやりそうなことだな」
「この……」
割り勘で支払い、駅に向かった。
「明日も忙しいんだから、真っ直ぐ帰れよ」
「あーい」
駅で別れて、私はもう一軒、飲みに行った。