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桜子

作者: 扇鈴千鶴

「旦那さま、どうか接吻だけはお許し下さいまし」


 桜子を妻に娶る時、彼女から出された条件は最初に言われた言葉と同じく、それだけだった。


 彼女は幽銀楼という娼婦館の人気の娼婦で有り、皆が皆、喉から手が出る程に桜子を欲して、競い合い、我が物にしようと貢ぎ物を贈った。


 桜子の細身でいながらも豊かに膨らんだ胸、安産型で有る臀部、すらりと伸びた手脚は白く透き通るような肌で、その病的なまでの美しさを際立たせていた。


 桜子は高級娼婦で有るからして、私のような安月給の者にはなかなか手が出せない高嶺の花であった。


 しかし私は一目で桜子に惚れ、その魅惑的な花にどうしても自分にもその蜜を吸わせて欲しかった。


「どうか接吻だけはお許し下さいまし」


 初めて桜子の甘い水蜜桃のような体を抱いたのは、三ヶ月分の給料をつぎ込んだ時だった。


 その初めての交わりの時に言われた言葉はそれだけで、彼女桜子は、有りと有らゆる快楽を、悦楽を、このような貧相な我が身に与えてくれた。


 私は桜子との交わりを欲し、せっせと働いては彼女のいる娼婦館へと足を運ぶ。


 そんな日々が3年も続いた時だった。


 私は彼女に結婚を申し込んだので有る。


 給料6ヶ月分の高いダイヤの指輪を差し出し、愚直なまでになんの捻りもロマンチックな台詞もなく、ただ「結婚して下さい」と。


 桜子の朱を差した艶やかな唇が弧を描く。


「どうぞ、末永くよろしくお願い致します」


 その時の私は、桜子を妻にせんと欲する他の者に勝ったと思った。


 実際に彼女は私の物となり、私は華やかで有りながらも存外潮らしい桜子を、妻とすることとなり、あまりにも浮かれて、飲めない酒をたらふく飲んで吐いたものだ。


「旦那さま、どうか接吻だけはお許し下さいまし」


 桜子は妻として素晴らしい女性で有った。


 彼女の魅力は見た目だけでは無く、妻としても出来た女性で有り、料理も私好みの味付けを覚えて作り、私の着るシャツは桜子が丁寧にかけるアイロンのおかげで気持ち良く袖を通すことが出来、「いってらっしゃいませ」「お帰りなさいませ」と僅かに口元を笑ませるたおやかな微笑みは、毎日の幸福となった。


 また夜の営みは変わらずその甘やかで何処までも夢の中へと連れて行ってくれるような、夢心地のする愛撫、いやらしくもまるで処女のような恥じらいを見せる、遊女と少女のような顔を持つ桜子。


 私は何処までも何処までも、彼女桜子に溺れていった。


 しかしただひとつ、彼女が許さない接吻をしたいと思う気持ちは、日に日に募り、とうとう激しい営みをしている時、思いに任せてしてしまったので有る。


「おやめ下さい、旦那さま」


 彼女の悲痛なる声を無視して、桜子の唇を吸えば、それは柔らかく甘やかでいながら、吸えば吸うほど気持ちが昂る、幸せが満ち満ちる接吻で有った。


「いやっ」


 彼女に突き飛ばされて、やっと我に返った私は、桜子にとにかく謝った。


 済まない、済まない、許しておくれ、と。


 そうして、何故其程までに接吻を嫌がるのか、訳を聞いてみたのだ。


 桜子は頬を涙で濡らしながらも、ぽつりぽつりと話をする。


「私には恋人がいるのです……そう、幽霊の恋人が……」


 私は我が耳を疑った。


 桜子は、彼女は、頭に疾患を抱えた精神病者であったのかと、そう激しいショックを受けた。


 しかし桜子は訥々(とつとつ)と続けていく。


「私の恋人は旦那さまと同じく優弥と申します。彼は10年前に事故にて不運にも命を落とし、其れからは常に私の傍に居て、私を支え続けて居るのです」


「旦那さま、こうなったら全てを白状致します。私は旦那さまがお仕事でお留守の間、旦那さまが眠っている間、優弥と交わって居たのです……」


 瞳を伏せながらも涙が後から後から零れ落ちる桜子は、美しい日本画のような絵になる陰鬱さを孕んでいたが、私はただただその唇から紡がれる言葉に驚愕するばかりだった。


「優弥は幽霊で有りながら、私の体と交わる事が出来るのです。……本当ならば10年前のあの日、優弥が私を娼婦館から抜け出させて妻にしてくれる筈だった……」


 私が余りにも微動だにしなかったからだろうか、桜子は哀しげな瞳を此方に向けて微笑む。


「信じられぬお話で有りましょう。ですが本当のお話なのです。旦那さまとの結婚を決めたのも、優弥と同じ名前だったから。ただ其れだけで御座います」


 嗚呼、では、では、つまり……。


「優弥、優弥」と、愛を交わしている時だけ私の名前を呼んでくれていたと思ったのは、桜子に憑いているという昔の恋人の名前を呼んで居たので有ったのだ。


 私に幾度も抱かれながら、桜子は桜子は、この女は……。


「優弥はとても優しくとても嫉妬深いのです。他の男との結婚は許せど、接吻ばかりはならぬと申すので、私はどの方とも接吻をしてきませんでした」


 なんとも俄には信じがたい話だった……しかしながら、私は彼女がこっそりと私が寝た後に、自らを慰めているのを知っていた。


 声を潜めながらも「優弥、優弥」と胸が切なくなる声音で鳴き求めるので、何度起きて見てしまっただろうか。


 そうか、そうか。


 確かに幽霊として居たのだと言われてみれば、そうなのかも知れぬ。


 その時の彼女の体は、何者かに揺さぶられるかのように、ひとりでに艶めかしくくねらせ、喘ぎ、感じ入って居たのだから。

 

 そうか、私はその幽霊の男の身代わりで有ったのか……桜子よ、私はこんなにも、こんなにもおまえを愛し、おまえを欲し、おまえとの愛の交歓を愛おしく感じていたのに……おまえの私への愛は幻で有ったのか……。


 愛の交わりの時に呼ぶ名前は、私では無く、その男で有ったのか……!!


「桜子っ……!!」


 私は悲しみ激情に任せて、桜子の首を絞める。


「あ、あ、旦那さま……」


 桜子が涙を流して私を見上げる。


 おまえはおまえは、なんという女なのだ……私はおまえだけを見ていたというのに……っ。


「旦那さま……」


 彼女の空気を求めてひゅっひゅっと短く息を吸おうとする喉を、さらに締め付けてやる。


「旦那……さま……ありが……とう、御座い……ます……」


 途切れ途切れに話す桜子の声に、ハッとした時にはもう遅かった。


「さ、さ、桜子っ……!!」


 彼女は最後まで私に一切抵抗を見せなかった。


「ありがとう御座います」


 嗚呼、なんということだろうか……私は、私は、最愛の妻を自らの手であの世に送ったばかりで無く、最愛の妻を恋敵の幽霊にくれてやってしまったのだ……。


 だから桜子は抵抗をせず、最後に私に「ありがとう御座います」を言ったのだ……。

 

 桜子、桜子、私はなんていうことをしてしまったのだ……。












「桜子、桜子よ。私はおまえだけを愛しているよ……」


 まだ温かな体の彼女に接吻をする。


 その味は、死を甘受した女の哀しくも甘い愛の味がした……。



 完



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