前編
──潮騒じゃない。あれは人々の、ざわめき?
いつの間にかうたた寝をしていて、故郷の海辺にいる夢を見ていた。
もう二度と帰れない町の、国の、世界の。
懐かしい波の音に聴こえていたのは、無数の声が重なり合って空気を震わせるうねりだったらしい。
マリカは気だるげに身体を起こし、殺風景な塔の中の部屋をぼんやり見回す。
──ああ、今日だったんだ。
塔は王城の敷地内にあるが、他の建物と離されており周囲に近付く者はいなかった。そんな場所まで聞こえるということは、王宮前の広場には王都中の人々が詰め掛けて騒いでいるに違いない。
今代の勇者である王太子ジギスムントと、聖女であるその婚約者、フェオドラを称えるために。
マリカは学校の帰り、家まで20メートルの距離まで来たところで突然異世界に攫われた。気付けばゲームやマンガで見るような魔法陣の中心に立っており、意味がわからな過ぎてその後の見知らぬ異世界人たちとのやり取りでは妙に冷静だった。
「私が聖女で…この世界の瘴気を払い、魔王を斃す、ですか。何も知らない別の世界の、十七歳の学生にこの世界を背負わせる気で攫っ…」「召喚させていただいたわけです」
言葉を遮り、今さら言い換えたのは召喚を行った張本人らしき男で、公爵家の長男にして王家専属魔術師のアンゼルムと名乗った。
周りを囲んでいた人々の衣装や西洋風の顔立ち、魔法があるらしき世界、異世界からの召喚となればやはりゲームやマンガでお馴染みの設定なので、実際に自分の身に起きた驚きはあっても何ひとつ理解できないという恐怖はなかった。
そんなマリカの様子を、玉座から物珍しげに眺めていた国王が口を開く。
「聖女よ、もとの世界でどういう立場であろうと、召喚されたということはこの世界を救う力があるということだ。力には責任と義務が伴うもの。はじめからこの世界を救うため、今ここに召喚されるために聖女は生まれたと言っていい」
ものすごく勝手な理屈を重々しい口調で言われた。それが本当なら、聖女は最初からこの世界に生まれているのではないだろうか。
「突然見知らぬ世界に連れてこられて、不安なのはよくわかるよ。ただこの世界が滅亡の危機にあることは確かで、他に手段がなかった。貴女の力が必要なんだ」
国王の隣に立つ、王の面影がある男は王太子のジギスムント。アンゼルムもそうだが、気品があり冴え冴えとした美貌にもかかわらずマリカの心を揺らすことがない。状況が異常すぎるせいもあるが、二人とも公式の笑顔とでも名付けたいような表情を貼り付けているだけに見えるからだ。
「もとの世界に帰すことは叶わないが、この世界を救ってくれた暁には誰もが貴女を崇め奉ることだろう。救世の聖女の望みであれば王太子である私と結婚し、ゆくゆくは王妃となる未来だって」
「あ、それは無理です」
…ジギスムントの笑顔が、少しだけ剥がれた。
「こんな状況で初対面の人と結婚とか言われても。それにこの世界を何ひとつ知らない私が王妃なんて務まるわけないじゃないですか」
どうせ見目麗しい王太子と王妃の座を餌に、キリキリ働かせようというつもりだろう。とりあえずその気にさせれば後はなんとでもなる、と。
──実際は、私が思ってたよりさらに酷かったわけだけど。
「…それはともかく。瘴気を払うのは聖女の力でしか成し得ないのだが、魔王を斃すのは正確には聖女ではない、勇者だ。聖女は勇者に守られつつ旅をし、勇者は旅の果てで聖女の手助けを受けながら魔王を斃すのだ。そこは安心してよい」
国王が何事もなかったかのように話を続けているが、そこ以外に引っ掛かる部分が多すぎて、どこが安心できるのか理解できない。
「勇者は聖剣に選ばれる。今代の勇者はつい先日、辺境の村で見出され王宮に向かっているところだ。それに合わせて聖女の召喚も成功した。これで世界は救われるであろう」
マリカが返事をしてもいないのに、国王は勝手に話をまとめた。
理不尽極まる展開ではあったが、マリカは結局魔王討伐の旅に出ることになった。
もとの世界に戻ることはできないのなら、これから生きていくことになるこちらの世界が滅亡するのは困る。それ以前に討伐を断ればおそらく城を追い出されるのでいきなり生活に困る。それどころか断った時点で殺されるかもしれないので困る。いや聖女を殺してしまったら困るのはこの世界だから、それは最後の手段で監禁や洗脳によって頷かされるかもしれない。
…何もされなかったとしても、滅亡するまでの間は世界中の人間に恨まれて過ごすことになるだろう。
そんな正義感も義務感もない理由から、マリカは聖女の力を発現させ、コントロールする訓練を行った。力があるから召喚されたというのは事実のようで、ほどなく苦労せず力を操れるようになったのだった。
「マリカって呼んでいいか?俺のこともユーゴでいい。長旅をともにするんだ、お互い気を遣わず過ごそう」
辺境の村で狩りや傭兵をしていたという“勇者”は、マリカのひとつ上の十八歳だった。国王や王子たちと対面しても萎縮せず、体格も大柄なユーゴはもっと年上に見えたが、話してみれば世界は違っても同世代であり、笑うと少年らしさが感じられてすぐに打ち解けることができた。
旅には意外なことにアンゼルムも同行した。この世界を何も知らないマリカと、この世界の人間ではあっても辺境を出たことのない世間知らずのユーゴのため、旅の間のさまざまなサポートをするという。
「勇者と聖女の旅となると、民衆が騒いで道の妨げになるかもしれません。認識阻害の魔法をかけますので、普通の旅人として移動しましょう」
ローブやマントで姿を隠し、三人の間ではそれぞれもとの姿に見えるが外からは顔がわからないという魔法をアンゼルムにかけられた。妨げれば世界が滅亡するのだから邪魔する者はいないだろうが、応援のつもりで声をかけられたり引き止められるのも、頻繁に起これば旅に差し障りがある。そうした理由で三人はひっそりと王宮を出発し、その後も勇者様ご一行とは思えない地味な旅を続けた。
ユーゴについては王宮騎士が極秘で迎えに行き、その場にいた村人には適当な説明をしたそうで情報は漏れていない。もとのままの姿で歩いても問題はなさそうであるが、マリカの黒い髪はこの世界では珍しいらしくかなり目立つという。訳ありの旅のようだし、髪色はもとより顔の造作も人種が違うようだ。もしや異世界から召喚された聖女なのでは…とでも誰かが噂すれば、同行しているユーゴも勇者と気付かれるだろう。魔王を斃すまで国民が浮き足立つのを防ぎたいと言われ、とくに騒がれたくもない二人は素直に従っていた。
「魔王は瘴気が限界まで溜まると生まれると言われてるんだ。だいたい百年ごとで、そのたびに勇者と聖女が選ばれる。この世界の人間だったりマリカのように召喚されたりとさまざまで、身分は関係ない。何代か前には王族が勇者に選ばれたこともある」
旅の間、ユーゴはマリカにこの世界についていろいろ教えてくれた。
「だから各地の瘴気を払って、付随して生まれた魔物の討伐もして弱体化させたところで魔王を斃す、っていうのは毎回同じ。失敗したことはない…失敗してたらこの世界はもうなくなってるからな。だからきっと今回も成功する。悲壮な決意はいらないから、とにかく全力で戦うだけだ」
実際これまでは順調だった。世界を飛び越えて求められたマリカの力はもちろん、もともと腕の立つユーゴは聖剣を手にしたことで魔物相手でも危なげなく戦っていた。
旅の途中でジャスミンに似た花を見つけ、マリカが“茉莉花”と自分の名前を地面に書いて説明したことがある。ユーゴは「名前は知らないけど、この花は故郷の村にもたくさん咲いてるよ。旅が終わったら見に来るといい」と答えた。
──終わったら、か。旅が終わった後のこと、考えてなかったな。
魔王を斃して、ユーゴの村にお花見に行く。非日常から日常的なイベントの落差がすごくて笑ってしまった。旅の後の予定ができたことは、思いのほかマリカの心を浮き立たせる。
ユーゴはマリカが自分の世界に帰れないことを知っているので、「その、気に入ったらそのまま村に住んでもいいしな」と照れながら付け加えてくれた。
ともに旅をし戦う日々の中で、二人はしぜんと想い合うようになっていた。今後の具体的な話が出たことはこれまでなかったが、ユーゴがこの先も一緒にいることを前提にしてくれていることがわかり、マリカはあたたかな幸福感に満たされる。
何もわからないこの世界に居場所ができて、しかもそれが大好きな人の隣なのだ。
アンゼルムは二人の会話に入るでもなく、少し離れて聞いている。世話になっていることもあり、また旅のはじめはアンゼルムも多少親しげな態度だったため仲良くなれるかと思ったのだが、ユーゴとマリカが親しくなるにつれ単なる同行者として一線を引いた言動しかとらなくなっていた。サポートと言ってはいるが、おそらくは王家に任じられた監視役であることはユーゴもマリカも気付いている。
突然異世界に攫われた上二度と戻れないという事実は、旅の間もふとした弾みでマリカの心を暗く染めた。ユーゴはそんな時いつも話を聞いてくれ、そしてこの世界の人間として謝罪してくれた。王族もアンゼルムも誘拐の指示役と実行犯でありながら、まともに謝ってくれたことなどないのに。
そんなユーゴや、ユーゴの大切な家族、小さな花の咲くユーゴの故郷を守るため。
そう思えば前向きに頑張れる気になってくる。そしてその気力は聖女の能力も底上げした。
…その結果、浄化と魔物討伐を猛スピードでこなした勢いのままに、ユーゴとマリカは魔王をサクッと斃したのだった。
無事使命を果たした三人の帰途は、大勢の国民に感謝されながらのパレード状態でお祭り騒ぎ…にはならなかった。出発時と同じようにひっそり戻り、こっそり王宮に迎え入れられただけである。
国民に発表するのは後日、その際に勇者と聖女を紹介し、国をあげての祝祭が行われる。そう説明されユーゴは聖剣を王家に返上させられ、マリカはユーゴと引き離されて塔に監禁状態になってしまった。
──さすがにおかしいとは思ったよね。
世界が救われた後なのに防犯上こちらに滞在を、などと言われても説得力皆無である。だがいくら納得がいかなくてもマリカの聖女の力は攻撃ができず、アンゼルムの結界により逃亡も不可能だった。
そして塔の護衛…という名の看守や、侍女の話を耳にして情報を整理していくうちに、王家や国の中枢の者たちの企みが見えてくる。
旅の間のアンゼルムの認識阻害魔法は、ただ外見を曖昧にしていたわけではなかった。ユーゴの赤毛を銀髪に、マリカの黒髪を金髪に見えるように操作されていたのだ。
そして銀髪は国王や王太子の髪の色であり、金髪は王太子の婚約者だというフェオドラの色だった。王家は勇者に選ばれたのが王太子で、聖女は公爵令嬢のフェオドラであると最初から偽る気だったのだ。
未来の王妃に…とか言ってやっぱり婚約者いるじゃん、と思ったがそこは重要ではない。王家の求心力を高めるため、辺境の平民や異世界の平民が世界を救ったと知られたくないため、自分たちが平民に感謝し厚遇したくないため。どこを取っても傲慢で最低の理由で、いつ誰が言い出したのか知らないがこのような計画が練られたのだ。
フェオドラはアンゼルムの妹である。妹の、というより家のため、自分の地位のために、アンゼルムも率先して協力したのだろう。関係者全員の身勝手さをこの世界に来た瞬間から身をもって知らされたマリカからすれば、こんな連中ばっかりならそりゃ王家の求心力も下がってただろうなと冷静に考えてしまう。
…そのアンゼルムが一度、塔を訪ねてきたことがある。
様子を探るような会話の末にマリカが計画を察していることを知ると、アンゼルムの貼り付けた笑顔は酷薄なものに変わった。
「貴女には何かあった時のため、ここに居ていただきます。攻撃はもともとできないでしょうが、私の結界の中では自殺も不可能ですから、諦めて大人しく飼い殺しになってください」
「…こんな目に遭ってるのに、『何かあった時』協力すると思う?」
「貴女はしてくれますよ。勇者には無事でいてもらいたいでしょう?」
「…っ!ユーゴに何をしたの?!」
マリカはアンゼルムに掴み掛かろうとしたが、身体がいうことをきかなくなり近づけなかった。他者や自分を害する意思に反応して、魔法が働くらしい。
「何もしていませんよ、今のところは。ですが聖剣を持たない勇者であればどれだけ強くても、その気になればねじ伏せることができます。数を頼るなり、計略で陥れるなり…」
──いきなり異世界に放り込まれても、魔王と戦っても何とかやってこられた。私のメンタル最強かな?って思ってたけど、あの言葉であっさり心が折れるなんて…
実際はそれまでのストレスが限界を迎えたのが、あの瞬間だったのかもしれない。この世界で唯一心を許せる相手だったユーゴの命を持ち出されて、マリカは幽閉状態から逃れることを諦めてしまったのだ。
人々のざわめきはますます高まっており、マリカは部屋にひとつだけ空けられた小さな窓に近付いた。結界の効果かただのガラスに見えるが、椅子を叩きつけても僅かなひびすら入らない嵌め殺しの窓だった。
外を覗いてみても、離れた塔からでは広場の様子はわからない。言葉として聞き取れない大勢の人々の声が伝わってくるだけだ。
マリカは先ほどまで見ていた夢を思い出した。
潮騒。波しぶき。水平線。
この世界にも海はあるという。ユーゴが教えてくれた。
──いつかユーゴと行きたかったなあ。ユーゴの村へ花を見に行くのも、本当に楽しみにしてたのに。
涙がマリカの頬をつたい落ちた…その瞬間。
身体の中だけが激しく揺さぶられるような衝撃が走り、同時に耳鳴りのような高音が鋭く響き渡ってマリカは床に崩れ落ちた。
「えっ、なに、今のなに」うろたえながらも、マリカは自分と周囲の空気がどことなく変わっていることに気付く。
薄膜が取り払われ、隅々までクリアになったような。
「…結界が、解けてる?」
おそるおそる立ち上がったところに、血相を変えた侍女が飛び込んできた。先ほどの異変はマリカだけでなく、他の人間にも起こったようだ。混乱しているからか、何をしたんですか!とマリカが原因であると決めつけて詰め寄ってくる。
…見えない薄膜が消えたことで、現状に甘んじていたマリカの思考もクリアになったのだろうか。とっさに侍女の身体を部屋の奥に突き飛ばしたマリカは、部屋の外に出ると扉を閉めて閂を下ろした。
──やっぱり結界が解かれたんだ。理由はわからないけど、こんなチャンスはもう来ないかもしれない。捕まってももとに戻るだけなんだから、逃げられるところまで逃げてみようか。
聖女の力で攻撃は無理でも、防御魔法は張れる。魔法が解けた今、物理なら攻撃もできる。なんとかユーゴの居場所を探せないだろうか。二人で広場に乗り込んで、真相をぶちまけてやりたい。黒髪のマリカが異世界から召喚されたというのは説得力があるだろうし、その上で聖女の能力を見せれば信じてくれる者もいるかもしれない。
塔の階段を慎重に下りながら、途中の道具部屋で見つけた用途不明の棒を武器代わりに持って辺りをうかがう。結界に甘えて看守の数も最低限ではあったが、それにしても人気がなさ過ぎるのは先ほどの異変で皆逃げたのか…と考えていると、
「…マリカ!」
階段の下から、ずっと聴きたかった声がマリカの名を呼んだ。
「ユーゴ!無事だったんだね!」
再会の喜びに、二人は抱き合って互いの存在を確認した。話したいことはたくさんあったが、今はとにかく脱出が先だということで塔の入り口に向かう。
聖剣は取り上げられたままだが、ユーゴは途中で兵士から奪った普通の剣を手に塔に忍び込み、看守を倒していた。
ユーゴもマリカの命を盾にされ、行動制限の魔法をかけられ王宮の一角に閉じ込められていたという。お互いが人質だったのだ。マリカが塔にいることを突き止めて機会をうかがっていたら先ほどの異変で急に魔法が解け、城中が恐慌状態になっている隙に抜け出してきたそうだ。
「今のうちに逃げよう。聖剣はなくても絶対にマリカを守ってみせる」
「うん、私も使える魔法全部ユーゴにかけて、守ってあげるからね!」
何が起こったのか未だにわからないが、広場を中心に大騒ぎになっていて今すぐ二人を追って来る余裕はなさそうだ。王家の企みを暴露することは断念しなければならないが、この先ユーゴと一緒にいるためには優先順位は決まっていた。
もともと救世主として崇められたかったわけでもない。真実を明かせたとしても、その後騒がれ続けて安らげない生活を送りたくはなかった。ユーゴの功績だけは認めてもらいたかったが、本人はマリカ同様、静かで自由な暮らしを望んでいた。
「とりあえず俺の村に向かってみよう。追っ手がかかるようなら、安心して暮らせる場所を探してまた旅に出てもいい」
「…海も、見られるかな?」
ユーゴは一瞬間を置いて、マリカの大好きな…貼り付けた笑顔なんかじゃない、心からの笑みを浮かべた。
「ああ、一緒に見よう。マリカの花も、村ではまだ咲いてるはずだよ」
二人は手を繋ぎ…塔を離れ、王宮の敷地を出て、王都を後にして。
そのまま二度と戻ってくることはなかった。
読んでいただき、どうもありがとうございました!