7 中村とカイ
「あ、そうそう、ここにカイ君を連れてきてくれるかい」
「はい?」
金曜日になり、出勤した時のことだった。
中村さんが突然、そんなことを言ってきた。
中村さんに指示された通り、パソコンで文書を作成していた私は思わず手を止める。
そして、そっとパソコンを閉じた。
「正気ですか?」
確かに、カイは落ち着いてきた。
だが、それは以前と比べてだ。
彼はいまだに、「狂犬」の名をほしいままにしている。
「正気も正気だよ」
おっとりとした様子の中村さんに、じっとりとした目を向ける。
この人は本当にわかっているのだろうか。
「……彼、『狂犬』ですよ?」
「うん、そうだね」
「…………」
どうやら、本当にカイをここに連れてこなければならないようだ。
…………想像するだけで、気疲れする。
「…………どうなっても知りませんよ」
「じゃあ、明日お願いね」
「明日!?いやいやいや————」
上司の無茶ぶりに暫く抵抗したが、結局屈することになる。
この人に口で勝てる日は、一生こない気がした。
ブーン
車のエンジン音が、山道に響く。
「カイ、気分悪くない?」
「大丈夫」
「ならよかった」
幸いにも、カイは車酔いもしないし、閉所恐怖症でもなかった。
彼は、ただ人が苦手…………というか人を敵視しているだけなようだ。
(車持っててよかった………)
車を持たせてくれた親に感謝する。
もし公共交通機関だったら、トラブルしか起きなかっただろう。
「あれ、なに」
「ああ、あれは———」
窓の外に関心を向けるカイは、三歳児並みに質問してきた。
きっと彼は今まで、このごく普通の風景を見たことがなかったのだろう。
彼の過去は知らないが、壮絶な過去がある気がする。
「あ、もう着くよ」
目の前に、廃れた建物が見えてきた。
毎回思うが、こんなところに秘密結社なんてなんか物悲しい。
せめて、都会の廃れたビルにあってほしかった。
「グルルルル………」
(マズい、警戒し始めた…………)
何かを感じ取ったのだろう。
カイが唸り出した。
「カイ」
「グルル———ぐる」
運転席の横に置いていたあるものを渡すと、カイは唸るのをやめた。
その渡したものは————。
「……なんでタオルとか好きなの?」
「ぐるぅ♪」
そう、彼はタオルとか服とか、特にタオルケットが好きなのだ。
————私の、ね……。
(確か犬って———飼い主の臭いがする靴下が好きだったような……)
ご機嫌に顔をタオルに埋めるカイ。
それを横目でチラ見しながら、何とも言えない気分になった。
「ようこそ!我が秘密結社へ」
いつもはサラリーマンのような黒いスーツなのに、なぜか真っ白なスーツを着た中村さん出迎えられた。その恰好なら、パーティー会場へ直行できそう。
「…………一応聞いておきますけど、なんで正装してるんですか?」
「うん?大切なお客様をお迎えするためだよ」
「え、私の時は普通のスーツでしたよね?」
「君はメンバーとしてスカウトするつもりだったからね」
「手を抜いたってこと……!?」
最初から手駒……じゃなくて馬車馬として働かせようという魂胆があった事実に衝撃を受ける。どうやら私は、インターンに応募した瞬間から、運が尽きていたらしい。
「……カイ?」
「………………」
異様に静かなカイに気が付き、声をかける。
しかし、返事はなかった。
なぜなら、彼は暗く燃えるような目で中村さんを睨みつけていたから。
「あばば……!どうどうどう!」
「グルアァッ!!!」
飛びかかる前兆を察知し、なんとかカイの脇腹にしがみつく。
気分としては、腰巾着になった感じがする。
私がしがみついていることで激しい動きを躊躇するカイ。
よかった……抑止力になれなかったら、ぶん回されてたから。
「ちょっと、中村さん!カイに何したんです!?」
引きずられそうになる足を懸命に踏ん張り、“おやおや”という顔でこちらを見てくる中村さんに抗議する。
「いやぁ、私は何もしていないんだけどね」
「グルル!!」
「何かしてないとおかしいくらい興奮してるんですけど!?」
カイには、中村さんとの因縁があるのかもしれない。
だが、中村さんにはカイを歯牙にもかけていない。
(頭が痛くなってきた……)
その後、なんとか宥めたカイと共に来客用のソファに腰をかけた。
「それじゃ、佐藤君は備品室で待機しておいて」
「え?正気ですか?」
悠々と言い放った中村さんを見た後、隣を見る。
「グルルルル………」
うん、戦闘態勢の“狂犬”が待機してる。
一対一になった途端、絶対に頂上決戦が始まる。
「まあまあ、大丈夫だから」
「絶対に大丈夫じゃない!」
「グルル………!!」
私がどこかへ行こうとしてるのに気づいたカイが、さらに激しく唸り出す。
ガッ
「うえっ」
中村さんに抗議しようと立ったのがいけなかった。
私がどこかへ行くと勘違いしたカイが、背中をガシッと掴んできた。
(首っ、首絞まってる!)
思わず非難の視線をカイに向けたが、彼の熱い視線は中村さんに向けられている。
本当に、中村さんは何をやらかしたのだろうか。
「ほらほら、カイ君。佐藤君が苦しそうだよ」
「ガルルッ!!」
(火に油!火に油を注でる!)
このままでは一戦交わりそうな上、私の息の根も止まる。
絶体絶命かと思った瞬間。
「…………ッ」
突然、カイの動きが止まる。
そして、掴まれていた服も離された。
「ぷはっ」
(さ、三途の川が見えたような……)
美味しい酸素を吸い尽くしていると、中村さんが静かに手を振って来た。
…………どうやら、さっさとここを去れと催促しているらしい。
「ちゃんと言葉で言ってくださいよ……」
カイの方も見てみるが、無言になったままだ。
だが、視線はより苛烈な色を含んでいる感じがする。
「カイ?」
「…………」
私とカイの間で、まるで空間が途切れているかのように錯覚する。
カイと視線が交わらないし、声も届かないような———。
バチッ
「いたっ!?」
突然静電気が右手に走ったかと思うと、手のひらの中に何かがあった。
「……万年筆?」
目を白黒させていると、大気中が電気を帯びていくような感覚がした。
先程の静電気を思い出し、急いで備品室へ向かう。
そして備品室のドアを開ける前に、もう一度カイに視線を送った。
しかし、彼と視線が交わることはなかった。