5 秘密道具
「いってくるね、カイ」
玄関で靴を履き、傍に立っている彼に声をかける。
「……うん」
しっかりと人の言葉で返事をする姿に、しみじみとする。
少し前まで唸り声しか出せなかった人とは思えない。
「……いってらっしゃい」
「!」
いつものようにドアを開けようとすると、小さな声だが確かに聞こえた。
彼が、初めて見送りの言葉をかけてくれた。
「行ってきます!」
ガチャッと鍵をかけ、駐車場へ向かう。
そして、心の中で早く大学から帰ってこようと強く思った。
カイとの共同生活は、とても大変だった。
意思疎通は難しいし、彼の生活力が皆無だったのだ。
面倒くさがりの私でさえドン引きするほど、彼は彼自身に無頓着だった。
食事を自分からとることもないし、放っておくと部屋でずっと蹲っていた。
これではいけないと考えた私は、今までほとんどしなかった料理をした。
彼は、買ってきた食べ物には一切手をつけなかったが、手料理なら食べてくれた。
お風呂は自分で入ってくれたけど、髪はビショビショの状態で放置。
髪が痛んではいけないと、これまた私はせっせと彼の髪を乾す。
こうして共に過ごせば、心の距離も縮むというもの。
(初めて言葉を発した日は感動したなぁ)
教授の話を聞きながら、あの日のことに思いをはせる。
ボーっとしていると、リュックからバイブ音が聞こえてきた。
「?」
一時放置していたが、バイブレーションが鳴りやまない。
仕方なく、リュックからその発信源を取り出す。
教授の目を盗んで取り出しそれは、例の秘密結社から支給されたスマホ。
画面に映し出された文字には———。
『緊急連絡:至急来られたし』
「!?」
ガタッ
突然の連絡に、椅子を揺らしてしまう。
周囲から視線を向けられたが、そんなことを気にする余裕はない。
すぐに教室を出る。
そして車に乗り込み、発進した。
ダッダッダッダッダッ
バンッ!
「な、何かあったんですか!?」
階段を駆け下り、肩で息をする。
そして、開け放ったドアの先には中村さんがコーヒーを飲んでいた。
優雅に、そう優雅にコーヒーを飲んでいた。
「あ、来てくれたんだね」
「…………?」
メールと実際の様子の温度差に、体が寒くなる。
瞬時に嫌な予感を察知し、そっとドアを閉じようとする。
「おや、どこに行くんだい?」
「いえ!そんなそんな……」
逃亡が失敗し、渋々ソファーに座る。
「さて、佐藤くんを呼び出した理由はね」
「…………」
ゴクッと生唾を飲み込み、次の言葉を待つ。
「これを使い方を教えようと思ってね」
そう言って中村さんが取り出したのは、丸い手鏡だった。
「…………バカにしてます?」
え、何、手鏡の使い方?
覗くだけじゃない?
それ以外の用途があったりする感じ?
「まあまあ、覗いてみて」
「やっぱ用途って覗くだけじゃん!」
丸い手鏡を押し付けられ、ひとまずそれを覗き込む。
…………うん、ただの手鏡だ。
映っているのは、平凡な私の顔。
…………何の変哲もない手鏡のようだ。
「…………何も変わったことはな———」
「あれ、佐藤君?いつの間にここへ来たんだい?」
「え?」
気づくと、中村さんが優雅にコーヒーを飲んでいた。
「え?え??」
手鏡と中村さんを交互に見る。
「ああ、前の僕はそれの使い方を教えたんだね」
「??」
私は夢を見ていたのかもしれない———と思ったが、そうでもなさそうだ。
中村さんが訳の分からないことを言っている。
「この手鏡はね、少しだけ過去に戻れるんだ」
「…………はい?」
「まあ、正確には過去に戻ってるわけじゃないんだけど」
「はい?」
中村さんが詳しく説明をしてくれたが、私の脳は理解することを諦めた。
平行世界の破棄とか、特異点とか、そんな話をされた気がするが、定かではない。
「でも、そんな気軽に平行世界(?)とかをポイしちゃっていいんですか?」
「よくはないけど、必要なことだからね」
(よくないんだ…………)
そっと手鏡を机の上に置いた。
「この手鏡を覗くと、それに映っていたもの以外が過去に戻るって理解してくれたらいいよ」
「じゃあ、私が何かを持っていたらそれを過去に持っていけるんですか?」
「そうとも言えるし、そうとも言えない」
「もしかして、持っていけるものと持っていけないものがある…………?」
「大正解」
まあ、この世には二つも存在していてはいけないものがあるし…………。
例えば…………自分?
「あれ、それならもう一人の私って、今どこに…………?」
「ああ、この世界に君は一人しかしないよ」
「???」
「まあ、ドッペルゲンガーの心配はないと理解してくれたらいいよ」
「わかりました!」
理解することを諦め、元気よく返事する。
「これの使い方を教えたのはね、一般人に試運転してほしいからなんだ」
「いやいや、気軽に使っちゃダメなやつなのでは!?」
椅子で優雅に足を組んでいる中村さんに、体が前のめりになる。
「大丈夫、一日に数百回使用しなければ弊害はないよ」
「な、なるほど………」
案外、世界は丈夫だったらしい。
こんな危なそうな手鏡を使いまくっても壊れない世界って、凄すぎる。
「そういえば、君のとこの…………カイ君、だったかな?」
「カイがどうかしましたか?」
突然の話題転換に首をかしげる。
異様にニコニコしている中村さんに、嫌な予感がする。
「彼の髪を切りにいってごらん」
「無理です」
現在、彼の髪は無造作に伸びている。
それこそ、目が見えないくらいには伸びている。
私の懸命な手入れによって、あの明るい茶の髪はキューティクル全開だ。
では、何が問題なのかって?
…………それは、彼の瞳だ。
初めて髪を乾かした時のことだった。
乾かそうと前髪を上げた時、見てしまったのだ。
カイは、瞳孔の形が「十字架」のようになっている。
しかも、左右で瞳孔の色が異なっている。
右目の十字架は横が黒く、縦が白い。
左目の十字架は横が白く、縦が黒い。
こんな不思議な目をしている人を、美容室になんて連れて行ったら…………。
「奇異の目で見られるのは、まだマシな方ですよ…………」
悪い人に目をつけられたら、売り飛ばされてしまうこと間違いなし。
「そのために、これがあるんだよ」
机にある例の手鏡を指差し、中村さんは微笑む。
なるほど、ただ髪を切るためだけに無辜の民の記憶を消す。
そういうことですね、閣下!
「君も結社のメンバーだ。秘密道具の使い方を覚えてもらわないとね」
「民草を練習台にするとは、流石は悪魔のような御仁…………」
「何か言ったかい?」
「いえ、何も!」
こうして私は、カイの髪を切るついでに秘密道具の試運転に行くことになった。
手鏡の使用法が書いてある紙を渡され、虚無の表情になる。
どうやら本当に、この手鏡から逃れることはできないようだ。
私は、深いため息をついた。
「彼の存在を表に出すには、まだ早い」
手鏡と睨めっこをしている新人を眺めながら、中村は独り言ちた。