12 カイに義務教育をしよう
「それでは今から、第一回“カイ君の義務教育“を開催します!」
「うん」
パチパチ
リビングのソファーに座ったカイからスタンディングオベーションを受け、意気揚々と宙にうつされたスライドを指す。
「では、こちらをご覧ください」
ピッ
空中にあるスライドをタッチすると、画面が切り替わる。
そして、画面には「対人関係の基本」という文字が現れた。
「カイ、君に足りてないのは道徳だ!」
ビシッと指差す私に、カイは冷静に言った。
「ひとにゆびさすの、ダメ」
「おっしゃる通り!」
そう、この通り彼は基本的なマナーはわかっているのだ。
ただ……、ただ私以外の人に対する不信感が半端ない。
(まさかそのせいで、私のプライベート時間が消え去るとは思ってもなかったよ……!)
そうなのだ。
私はここしばらく、プライベートな時間を過ごせていない。
カイが片時も傍を離れようとしないから。
(最初の方は、『ああ、まだ心の傷が癒えてないのかな?』とか思ってたよ)
しかし、違った。
適度な距離感になるどころか、日に日に私の自由がなくなっていく。
これはマズいと思った私は、こうして彼に義務教育を施すことにしたのだ。
教育は人を豊かにする。
そして、カイの関心を私以外に向けさせるんだ……!
「ではこちらのVTRをどうぞ」
映し出されたのは、二名の男女。
場所は、どこかのカフェのようだ。
『どうしてわかってくれないのよ!!』
『落ち着いてくれッ!』
女性の悲鳴が店内に響き渡る。
興奮して立ち上がった女性の手には、水の入ったグラスが。
男性の方も立ち上がり、必死に正面にいる女性を宥めようとしている。
『あの女と離婚するって言ったじゃない!!』
『いやッだからそれは……!』
『あたしとあれだけ寝たじゃな———』
プツン
怒涛の展開に面食らっていたが、正気にもどってすぐに画面を消す。
なんだこれは。
「対人関係の基本」っていうタイトルで流しちゃいけない映像だろう。
(一体誰に依頼したんですか、中村さん……!!)
実はこの教材、私が用意したわけじゃない。
中村さんに「カイの対人スキルをどうにかしたい」と相談したところ、あるメンバーに中村さんが頼んでこのとんでも教材を作ってもらったのだ。
カイからスライドを遮るように立ち、慌てて画面をタップする。
手のひらにある機械から映し出された映像が目まぐるしく変化する。
次々と映されたのは、どれも男女の痴情のもつれ。
なんだろう、作成者の何かしらの怨念を感じる。
きっとこの作成者はクリスマスの時、藁人形に釘を刺してるタイプだと思う。
最後のスライドにたどりつくと、そこには大きな文字で———
『リア充はぜろ』
とあった。
黒い背景に赤い文字で書かれているため、作成者の私怨がさらに強調されている。
「せんせい、どうしたの」
「…………っ!ああ、なんでもないよ」
慌てて生徒であるカイに向き合う。
同時に、後ろ手でそっとスライドを消した。
「きょ、今日は先生が口頭で教鞭をとるよ……」
役に立たなかった教材をソファーに放り投げ、私はスマホを取り出した。
「カバ君は言いました。『どうしてボクには友達がいないんだろう?』」
ネットで『道徳心』と調べた結果、登場人物を動物にして語るといいとあった。
その指示に従いながら、私は「友達」というタイトルの物語を朗読していた。
「ここで質問です。カバ君はこれからどうすればいいでしょうか?」
(心にくるわー)
読みながら思ったが、この物語って残酷すぎない?
確かに、このカバ君は多少わがままだった。
でも、こんなハブられるほど悪いことはしてなくない?
逆にカバ君をハブったウサギとカラスがヤバいのでは?
「うさぎとからすをころ……懲らしめる」
「カイく~ん?暴力はちょっとな~?」
この人、今「殺す」って言おうとしてなかった?
殺意高すぎない?
「せんせいだったらどうするの」
「わ、私?」
生徒からの熱烈な視線に、答えないわけにはいかなくなる。
しかし、どうする……か。
「…………独りに慣れる、かな」
誰かの傍にいたいと願うから苦しいのだ。
いっそのこと、その願望を捨ててしまえば楽になる。
「そっか」
カイの声でハッとする。
もっと模範的な回答をすればよかったと焦り、彼の方を見る。
すると、カイはこちらを向いて微笑んでいた。
本当に————優しい笑みだった。
「じゃあ、この双曲線の漸近線は———」
「y=±4/5x」
「飲み込みがはやいね……」
「これくらい、簡単」
“カイ君の義務教育”は順調に進んでいた。
開講が10を超えたくらいの時には、彼の口調もしっかりしてきた。
(ひらがなで喋っていた頃が懐かしい……)
彼の舌ったらずな話し方は、なんだかんだ可愛くて好きだったんだけどな。
なんというか、母性がくすぐられるというか。
「まさか、カイが数学や物理の理系科目が得意だったとは……」
黙々と問題を解く姿に、畏敬の念を抱く。
私が当時早々にリタイアした問題たちが次々と解かれていく様は、圧巻だ。
「解けた」
「早くない!?」
物思いに耽っている間に、問題が解けてしまった。
なんて末恐ろしい……!
答えを確認すると、全問正解だった。
「その頭脳を当時の私にわけてほしかったよ……」
「俺の脳が欲しいの?じゃあ、あげる」
「冗談、冗談だからね?」
彼はたまに冗談に対して、真面目に返してくる時がある。
その返答がなかなかファンキーな内容であることも多く、結構度肝を抜かれる。
「まどかが欲しいなら、俺の全部あげる」
「いらないいらない」
このような彼の危ない発言にも慣れてしまった。
そのくらい、彼と長い時を過ごしたということだろう。
「…………本気なのに」
ボソッと何かを言った彼の前に、一冊の本を置いた。
それを見た彼は、少し嫌そうな顔をする。
「今日はこの本を読もうか」
人が何たるかを説いているこの哲学書は、カイにとって天敵だった。
なぜなら、彼にとって人間は信じるものなどではなく、疑うものだから。
「他人を信じない人は、他人から信じられることがありません」
「そんなことない」
いつものように本の要約をカイに伝えると、いつものように反論が返ってきた。
本から彼に視線を移すと、嬉しそうな顔をこちらに向けてきた。
「やっとこっち向いてくれた」
「カイ?ちゃんと道徳心を学習してる?」
ニコニコされるのは正直気分が良くなるが、彼の道徳教育が進んでいるのとは別だ。
「『汝の隣人を愛せよ』」
「俺はまどかを愛してるから問題ない」
「いや、その、隣人っていうのは広範囲の定義として使われてて……」
定義の説明をしようと口を開く。
しかし、すぐにその口を閉じた。
なぜなら、カイが椅子から立ち上がり、こちら側へ回り込んできたからだ。
「ちょっ、待って待って!」
慌てて立ち上がり、私はテーブルの反対側に逃げる。
「なんで毎回逃げる」
「そりゃそうでしょ!」
テーブルの周りをグルグルと二人で回っている姿は、傍から見れば滑稽だろう。
しかし、私にとっては死活問題なのだ……!
(撫でまわされるのは嫌だ……!)
この義務教育が始まった当初、カイにはモチベーションがなかった。
そこで、やる気を出すためにご褒美制度を導入した。
その内容は、カイが私を好きなようにできるというもの。
……危なそうに聞こえる?
今の私ならそう思えるが、当時の私はカイが大型犬にしか見えていなかったのだ。
正直、「要求されるにしても、どうせ頭を撫でてほしい程度でしょ」と舐め腐っていた。
(まさか、私の方が撫でまわされるとは思ってなかったよ!)
最初の方は、私の想定通りだった。
勉強後に彼の髪を梳いてあげたり、膝枕を要求されたりした。
ここまではまだ許容範囲だった。
でも、彼の口調がしっかりしてきた頃から雲行きが怪しくなった。
『膝の上に乗って』
『頭撫でたい』
『ちょっと首かじってもいい?』
どんどん怪しくなっていく要求に、私は心の中で悲鳴をあげていた。
(勘弁して!!)
「まどか、ご褒美」
「待って!まだ心の準備が!」
いつの間には背後にいたカイに抱きしめられる。
背後から拘束された私は、捕食される前の獲物になった気分だった。
「ちょっ、何するか!何しようとしてるのかだけ教えて!」
喰われる覚悟はできていないが、この際それは諦める。
ただ、内容だけでも教えてほしい。
そうすれば、心なし安心するかもしれないから!
「ん?味見」
「終わった……」
喰われることが確定した。
私はそっと目を閉じて、信じてもいない神に祈った。
薄々気づいてたんだ。
カイが物欲しそうに私の方を見ていたこと。
だからこそ、そんな目を向けられた次の日にいっぱいお肉を食べさせてたんだけどな。
お肉程度では、彼の捕食欲は抑えきれなかったらしい。
どうか、痛みがないことを願うばかりだ。
「い、いたいのはやだ!」
「…………っ」
小さな声でカイに抗議すると、後ろで息を呑む声が聞こえる。
…………余計なことを言ってしまったのだろうか。
「大丈夫」
「!!」
耳元で囁かれた声に息を止めた瞬間。
ガブッ
「!!!」
(噛んだ!!首を噛みやがった!!!)
混乱した頭で「あれ、意外と痛くないな」とか考える。
カプカプと噛まれ続ける首は、戦々恐々とした思いでいるだろう。
いつこの“狂犬”に噛み千切られるのだろう、と。
しかし、想定する痛みはこない。
むしろ、甘噛みされるせいでくすぐった。
「か、カイ!もう終わり!」
「…………もうちょっと」
「ダメです!」
なんとか引き剝がすと、不満そうな顔でカイがこちらを見ていた。
危うく喰われるところだった身としては、恐怖でしかない。
(中村さんが言ってたのはこういうことか……)
カイと共同生活をする直前に「“狂犬”の性には気を付けてね」と言われたことを思い出す。
(気を付けるもなにもないんだけど!)
私の首元を眺めて満足げな表情を浮かべる“狂犬”は、確かに人が飼い馴らせるような存在ではなかった。
「全部、俺のもの」
強欲な“狂犬”は、可愛くて可哀想な主人を見据えてそう呟いた。