【12】ジェイル・ロック
「留置所は、久しぶりだな……」
薄暗い四畳半ほどの個室。コンクリートの壁に、小さな窓が一つ。ベッドらしき板が壁から突き出ており、その上には薄いマットレスが敷かれている。
部屋の隅、影の濃い場所から、黒いシルエットが浮かび上がる。
影胞子だ。
「ホント、便利な能力だよな」
「同感だ。そして、キミへの報せが二つある。重大なものと、さして重要でないものだ。どちらから聞きたいかね?」
「……重要な方」
そうか、と呟くと。影胞子はスマホを取り出した。
『刑務所にて脱獄 死傷者多数 犯人は異外者か』
そうサムネイルで表示されたニュース記事を、下へスライドさせていく。
『射水吾朗(56)』
それは、身元の判明した死傷者として挙げられた一人。
「キミのオヤジさん、死んだよ」
「オヤジが、死んだ……?」
冬弥の手に、一枚の茶封筒が手渡される。
「その彼が遺した手紙だ。奇跡的に手に入った」
冬弥は震える手を精一杯抑えて、封筒を開ける。
――
冬弥へ。
お前がこれを読んでいるとき、俺は多分お前に会えない状態だと思う。
俺は、ヤクザを辞めることにしたからだ。
いきなり伝えることになっちまったが、実はけっこう昔から考えていた。というのも、もう時代が俺たちを求めていないことを薄々感じていたからだ。
昭和は良かった。ポリは弱い、ヤクザは強い。俺もお前みたいなロクデナシのクソガキだったから、暴力が全てを解決する時代が好きだった。
お前は小さい頃から、本当に素直じゃなかった。気に入らないことがあると、すぐに拳を振り上げる。でも、それは俺に似ているからだ。親父として、お前にまともな育て方ができなかった。
もしかしたら、このあとお前は俺のために誰かを恨むかもしれない。でも、そんな生き方はやめろ。復讐なんて、結局は自分を不幸にするだけだ。
お前には、俺みたいにならずに、普通の幸せをつかんでほしい。
まともな大人になってくれよ。
ほんとうに、すまなかった。
お前の親父より。
――
手紙を読み終えた冬弥の手が、わずかに震える。
「――影胞子」
しかし声は、驚くほど落ち着いていた。
「ああ、分かっているとも。彼女も既に脱獄している」
「そうか。助かる」
留置所の小窓から差し込む光が、冬弥の横顔を照らす。
「……これしか、知らないんだ……」
その声は、もはや誰に向けられたものでもなかった。ただ、暗い部屋に吸い込まれるように消えていった。
――
病室にて。
ハバキはベッドの上で、MRグラスを掛けて様々なタブを操作していた。
「ヘイ、ハバキ」
そこにレオンが現れ、声をかける。
「ん? どうした? 」
「退院だ。ホテルに戻って療養してろ」
「随分と早いな」
「別口で患者が来るんだよ。ベッド空けろ」
ハバキは肩をすくめて起き上がる。まだ身体の痛みは残っているが、傷は粗方塞がっていた。異外者 様々である。
「二十万。後で振り込んどけ」
「ん、保険効かない割には安いな」
「異外者 のデータが色々取れたからさ。値千金の紙ペラが何十枚もある。そういや、異外者 は覚醒後にえげつない筋肉痛があると聞くが、どうだった? 」
「あぁ、アレな。熱も出るし動けないくらいにはキツかったよ。俺は能力使って無理やりなんとかしてたが」
涼しい顔で、ハバキは言う。
「そうか。痛み止め出しとくから、後で薬局行ってこい。んじゃ、お大事に」
「助かったよ」
話しながら服を着替える。そして着替えたハバキの背後から、思い出したように「彼女が迎えに来てるぞ」とレオンの声。適当に返事しながら、ハバキは外に出た。
「やっほ〜」
「退院でございやす」
玄関先で、レース模様の日傘を差したサヤの姿が目に入った。アスファルトから立ち上る熱気が揺らめく中、彼女は涼しげな夏服で微笑んでいた。
二人は並んで歩き始める。照り返しの強い歩道を進みながら、サヤは快気祝いにでも行こうと提案した。
そのうち話題がひと段落したところで、サヤはこの前の戦いについて口にする。
「この前戦った冬弥くん、捕まったんだってね」
「らしいね。これで終わるとも思えんけど。一緒にいた影胞子ってヤロウが転送能力を持ってるからさ、脱獄なんて今日か明日に起きてもおかしくない。そうなったら、また戦うことになるだろうね」
サヤはいくらか思案して、やはり今ここで聞くべきだと思い、実行した。
ハバキの電車での行動を。
「この前の電車でさ、ハバキくんは彼を……見逃したじゃない? 彼の虐殺を。なんでなの? 」
「虐殺が起きた後だからだよ。起きる前なら殺す気で止めてた」
ハバキは淀みなく答える。
もしも自分があの場でのアラハバキだったら、きっと心のままに怒り、糾弾したことだろう。その行動に意味なんてない。それは感情の発露、人としての本能によるものだからだ。
だが確かに、理屈としてはハバキの行動が正解かもしれない。
何故なら。
「……死んだ人は、生き返らないから……」
サヤがそう呟くと、ハバキは頷いた。
「だからまぁ、あの場で俺がすべきは今回のようなことが二度と起こらないよう、予防することだと思った。だからそうした」
「……あんなことするくらいの憎しみを抱えた人に、あの対応は逆効果じゃないかな……」
「殺した方が良かった? 」
ハバキは冷静に聞く。
サヤは「そんなことない」と反論したかったが、それもまた違うような気がして言葉に詰まった。
それを見て、またハバキは頷いた。
「その考えは正しいと思うよ。社会的にはね。だが、俺はそれを求めていない。俺は彼を救うべきだと思ってるからな」
「それは……無理だよ。だってもう、償いきれないくらいの罪を犯してる……情状酌量の余地なく死刑だよ」
「そうだね。だけど、俺は救うべきなんだ」
ハバキは静かに話し始める。
「冬弥は馬鹿で哀れな子供だ。アイツの今までの人生は大体想像がつく。社会で孤立し、ヤクザに拾われ、無法者としての教育を受けてそれが正しいと信じてきたんだろう。もしかしたら、アイツ自身もそれに疑問を抱いているのかもしれない。でもやった。築き上げてきた狭い価値観の中で、それがアイツの正義だったからだ」
電柱に止まったセミが鳴いている。
「『人は自分で生き方を変えられる』なんて、俺は信じちゃいない。みんな『なるようになっちまう』。アイツも、俺も、鵐目もレオンも、そしてサヤも。それぞれの選択した結果が今の俺たちだ。そこには間違いもあるだろう。だが、それも含めて人生だ。善人も悪人も、人は皆自分の人生を生きる権利がある。これは結果と責任に関する社会的な話じゃないよ、もっと原始的な生命としての話だ」
セミの鳴き声が突如として途切れ、羽を震わせながらアスファルトへと落下した。
その小さな死骸に、近くで座っていた飼い犬が首をかしげながら近づき、何気なく咥えていく。
「……ハバキくんは、社会が嫌いなんだね。生きる上での障害だと思ってる」
「まとめるとそうなる。やっぱサヤ頭良いね」
ハバキはそう言って微笑んだ。
サヤは走り出し、ハバキの目の前で振り向く。
「『全てのたったひとりの味方』……だったよね。アラハバキは。どういう意味なのかやっと理解できたかも。誰にも助けてもらえない人を助ける存在」
「そういうこったね。誰にだって一人くらい、味方はいていいはずなんだ。それが悪人だったとしても」
二人は言葉を失って見つめ合う。真夏の陽炎の中、サヤの瞳に不安が揺れているのが見えた。
「死なないでね、ハバキくん」
サヤの声は、蝉時雨に溶けそうなほど柔らかかった。
「……あぁ」
ハバキの返事は、どこか遠くを見つめるような曖昧さを含んでいた。
入道雲が遥か上空でその形を変える。
いよいよ、夏も終わろうとしていた。