決意を胸に
「ふう…」
マリーは分厚い紙の束を両手でかかえながら、宮殿の廊下を歩いていた。ベージュ色のセーターを身につけ、膝の辺りまである白いスカートを履いていた。
白い壁に囲まれた廊下の中を、宮殿勤めの人間達が忙しそうにすれちがい、互いに挨拶をする余裕もなく、足早に目的の場所へと向かっていた。
(街の人達の誘導計画の打ち合わせに、避難所の準備と食材搬入の確認……夕方は、王族警護の人達との会議だっかな?やる事が山積みだ)
前へと歩くマリーの額から、細い汗が流れ落ちた。
(医療室の人達とも、早く打ち合わせをしておかないと……魔法での回復しかできないから、足手まといにならなければいいけど)
「忙しそうだね」
「え?あれ、アイナさん」
マリーは足を止め、明るい声の方へと顔を向けた。アイナが自信に満ちた表情を浮かべながら、廊下の真ん中に立っていた。
赤い髪は肩の下まで伸び、傷のない細い眼鏡がよく似合っていた。首元まである茶色いセーターと、黒いズボンを身につけ、両腕の袖を肘の辺りまでまくっていた。
「戻ってきたんですか?」
「緊急の会議があってね。午後からは訓練に合流するから、また出ないといけないんだ」
「うわあ、大変ですね」
「まあ、みんな似たようなもんだけどね。他人を気にする余裕がないから、一人くらいサボってても、だれも気づかないかもしれないな」
「フフッ。案外、そうかもしれないですね」
マリーは紙の束をかかえたまま、嬉しそうに笑っていた。
「昨日、他の人から聞いたよ。医療チームにも志願したんだって?」
「はい。色々と考えたんですが、やっぱりヘウルーダに残って、自分にできる事をしたいと思って……」
「そうか」
「アイナさんの忠告を無視するような形になってしまい、すみません」
「いや、マリーが決めた事なら、私も応援するよ。自分の思ったようにするのが一番だ」
「はい…ありがとうございます」
「ケガをした時は、マリーに治してもらわないと。たまに、やたらきつく包帯を巻いていくる人がいるんだよなあ。ああいうのって、女同士だと雑になるのかな?」
「フフッ。どうかなあ。考えすぎな気もしますけど」
「試しに一回、男のふりでもしてみようかな。こう見えて、色気のある低い声を出すのは上手いんだよ」
アイナは楽しそうに笑いながら、マリーの肩に右手を置いた。
「邪魔したね!それじゃ、また!」
「いえ。アイナさんも気をつけて」
マリーはアイナを笑顔で見送ると、うつむきながら目を閉じた。人々が行き交う廊下の隅で、静かに息を吸いながら、真剣な表情を浮かべていた。
「…よし!」
小さな声と共に、マリーの瞳がゆっくりと開いた。決意のこもった眼差しを前へと向けると、黄色い髪を揺らしながら、廊下の奥へと歩き出した。
二人へ
おれはヘウルーダに残って、マリーさんの護衛を続けてみようと思う。わるいが先にギルに戻っていてくれ。ギルメインの人には、首飾りの石の実験をするため、とか言っておいてもらえないか?
急にごめん。ほんとは二人に話しておきたかったけど、なんか、上手く言い出せなかった。ただ、このままギルの国に戻ったら、もうみんなで調査できないような、そんな気がして、もやもやしてた。首飾りの石の事も、ずっとわからないままのような気がして、だから、こっちに残ってみようと思う。
それと、わるいがシロルの事を頼む。こっちにいるとあぶないだろうから。また、落ち着いたらマリーさんの水晶で連絡するよ。ギルの国まで、気をつけて帰ってくれ。
アル
「チチ…」
朝陽が昇る前の薄暗い空に、小鳥の鳴く声が響いていた。木々に囲まれた静かな公園の隅に、アルが拳を握りしめて立っていた。穏やかな池には鳥の姿はなく、真ん中の辺りに小さな波紋ができていた。
「よし…」
アルは静かに息を吐くと、真剣な表情で空を見上げた。青黒い空の奥から、うっすらと太陽の光が差し込んでいた。
人気のない公園の中には街灯は見当たらず、薄暗い木々の間から、葉のこすれ合う音が聞こえていた。アルは拳を握りしめたまま、池に背中を向け、前へと歩き出した。
足下にわずかに光が差していたものの、ほとんど夜の道と変わらず、目をこらさなければ何が落ちているのかわからなかった。
「ん…?」
アルは前を見つめながら、ゆっくりと足を止めた。太い木の陰から、二つの人影が姿を現した。小柄なシルエットが、音を立てる事なくアルの傍へと近づいてきた。
「え?まさか…」
「まったく、面倒をかけさせてくれる」
「うむ。こんなに早く起きたのはひさしぶりじゃ」
ルーナとロンが、横並びになりながらアルの前に立っていた。
「どうして…」
「夜中に物音が聞こえたので、もしやと思ってのう。気配を消すのはまだまだじゃな」
「そうですね。書き置きなんてする暇があるなら、もっと修行してほしいものだ」
ルーナは腕を組みながら、眉間にしわを寄せた。白いローブの肩に、ツインテールの髪がくっついていた。
「おかげで、こっちは睡眠不足じゃからな。今夜はアルにおごってもらわねば、割に合わんのう」
「今夜?」
「うむ。ここの所、体がなまっておってのう。ギルに戻る前に護衛でもすれば、ちょうどいい運動になるじゃろう」
「いや、それは、おれ一人で……」
「そんな腕で、どうやってマリーを守るつもりだ?相手はゲルニスだぞ?私達の尾行に気づかないようでは、話にならないな」
ルーナは腕を組んだまま、じっとアルの顔を見つめていた。
「そういう事じゃ。まあ、どうせ残るなら、わしらもおったほうがいいじゃろう」
「護衛としてな」
「けど、ギルメインからは命令が…」
「向こうの話では、ギルでも志願兵の呼びかけが増えておるようでな。短期間の派遣兵という事で、ギルメインに雇ってもらうとしよう。実は、普通の兵よりも収入がいいのじゃよ。フォッフォッ!」
「それと、シラメリアで見せてもらった魔道用具の実験もしてみたい。十日もあれば、試作品を完成させるには充分だ。あとは、実戦でデータを取らないとな」
「ロン……ルーナ……」
「もちろん、その間の食費はアルに払ってもらうがな。期日までは、街中の店を食べ歩きでもするとしよう」
「いいですね。私も行ってみたい紅茶の店がある。夜は、順番に回りましょう」
ロンとルーナは、アルと向かい合いながら穏やかな笑顔を浮かべていた。
「いや、勘弁してくれよ。さすがに金がなくなるって」
「若いうちから金の事ばかり気にしてどうする。仲間の為に還元できる事を、もっと喜ぶのじゃ」
「確かに、使う相手がいるうちが華ですからね。一人でため込んで亡くなる事ほど、悲しいものはない」
「うむ!金銭とは、豊かな人生を送る為の潤滑油じゃよ!フォッフォッ!」
「ったく…めちゃくちゃな事ばっかり言いやがって……」
アルはため息をつきながら、けだるそうに二人を見つめていた。空の端から朝陽が顔を出し、白い光が三人の体を照らし始めた。明るくなっていく公園の中で、アルは肩の力を抜きながら、嬉しそうに微笑んだ。
「では、ハルディン総司令、説明をお願いします」
「はい」
コーデリアに促されるようにして、黒い兵服を着た男性がゆっくりと立ち上がった。二メートルはあろうかという長身に、がっしりとした体つきをしており、分厚い胸板がはちきれそうなほどに膨らんでいた。青い髪は短く上へと逆立ち、目元には細長いしわが刻まれていた。
広い部屋の真ん中には楕円形の机が置かれ、周りを囲むようにして、歴戦の兵士や役人がずらりと並んでいた。長身の兵士のもとには横長の黒板が用意され、テーブルの一番奥では、コーデリアが白いドレスを身にまといながら、品のある表情を浮かべていた。
「ゲルニスの侵攻を想定したうえで、国境線沿いに大部隊を配置します。ガトルミナ山脈に沿うようにして小隊を並べ、北方からの侵入ルートを阻止します」
男性は険しい表情で、黒板に地形図を書いていった。
「また、それぞれの隊の後方には、間隔を開けて兵を配置し、その後ろにはさらに別の部隊を準備させます。このように、敵が隊と隊との隙間を上手く通り抜けたとしても、後方の部隊がぶつかるように配置をします」
「山脈に沿うようにして、横並びになった兵士達の長い列が、三つできる事になるわけですね」
コーデリアは背筋を伸ばしながら、男性の方へと顔を向けていた。
「その通りです。防衛ラインを三つ用意し、一番後ろのラインを最終防衛線として、なんとしても死守します。このラインを越えられる事は、ラウの国内へゲルニスの兵士達が侵入する事を意味します」
「最終防衛線か……しかし、ゲルニスもその事は想定しておろう。陽動部隊を動かし、こちらの防衛ラインを崩そうとするのではないのか?」
「はい、バル大臣。敵が集中攻撃や陽動を仕掛けてくる事を想定し、それぞれの防衛ラインの数ヶ所に、転移用の特別小隊を配置させます。状況に応じて兵士達を魔法で召喚・移動させ、常時、防衛線の維持を図ります」
「空中からの侵入はどうされるおつもりですか?」
口元に深いしわの刻まれた女性が、低い声で質問をした。くせのついた緑色の髪が、肩の上まで伸びていた。
「ザルギナによる侵入を想定し、感知用の特別小隊を第二ラインに配置します。また、飛行用のザルギナを用意した兵達を小隊に組み込み、空中からの偵察及び防衛行動にあたってもらう予定です」
「わかりました」
「そうなると、国内の兵の割り振りをどうするか……ハルディン、ヘウルーダの配置はどうする?」
バルは腕を組みながら、神妙な面持ちで声を発した。
「はい。このように、王都の周囲に二重の円を描くようにして兵を配置します。ヘウルーダの中の兵は、今の三倍に数を増やし、宮殿内の兵士についても、現状の倍の数で警備にあたるものとします。比率としては南方の兵士達の四割をこちらに呼び戻し、ヘウルーダ及び北方の警備についてもらう事とします」
「想定戦力の対比計算は?」
細い眼鏡をかけた青年が、鋭い目つきで黒板の方を向いていた。
「はっきりとしたゲルニスの戦力は図りかねますが、過去三十年間の軍事分析と、十二年前に起きたヘウルーダ侵攻から推定して、帝国の保有する兵士の数は、最低でも我が国のおよそ八倍です」
「待て待て、それでは戦いにならんではないか?」
「物量に押されたら、勝ち目はない!この防衛ラインに意味はあるのか?」
「だからといって、国境付近を手薄にするのは、あまりに無策ではないかしら?」
部屋の中が慌ただしくなり、それぞれが激しい意見をぶつけ始めた。
「そうですか。戦力差が大きくなるほど、一点突破されやすくなる。決壊する堤防のように、そこから戦線が崩れる可能性は高いでしょう」
「まるで、そう望んでいるかのような言い方だな」
「私は事実を言ったまでです。現実を見ないまま、愛国心だけで戦いに挑む事ほど、愚かな事はありません」
「なんだと!貴様、ラウの民を侮辱するつもりか!」
「おい、落ち着け!その為の同盟国だろう!ギルを始め、近隣の国々からの支援があるのを忘れてはおらんか?」
「しかし、あまり過信しすぎるのも考えものだ。戦況が厳しくなれば、手のひらを返す国が出てくるやもしれん」
「それこそ、同盟国への侮辱ではないかしら?今は互いの信頼を確認し合いながら……」
「ビリビリッ!」
肌を刺すような空気の揺れが、黒板の周りから拡散した。前へと伸ばしたハルディンの右手を中心にして、辺りの空気が激しく振動していた。
「…失礼。まだ説明の途中でして、話を聞いていただけると助かります」
「ハルディン総司令、続けて下さい」
コーデリアは表情を崩す事なく、落ち着いた様子で声を発した。部屋の中は静かになり、皆が背筋を伸ばしながら、黒板の方へと目を向けていた。
「では……兵士の数ではゲルニスが圧倒的に有利なだけに、同盟国からの軍事支援は非常に重要になってきます。また、戦場においては地の利・戦略・兵の士気など、単純な兵士の数以外の要因も、勝敗に深く関わってきます。その事に付随して、一点、皆さまに了承していただきたい事があります」
部屋の隅に立つ兵士達が、素早い動きで窓へと近寄り、カーテンに取り付けられた暗幕を広げていった。暗くなった部屋の中で、ハルディンは小さな水晶の玉を取り出し、机の上に丁寧に設置した。
「ジジ…」
水晶から扇状の光があふれ、スクリーンのように映像が映し出された。
「これからご覧いただくのは、北方での戦いにおいて切り札となりうる戦力の一つです。賛否はあるでしょうが……」
暗闇の中で、ハルディンの声がわずかに小さくなった。