忘れ去られた物語
「パチチ…」
暖かな炎の光が、薄暗い部屋の中を優しく照らしていた。レンガ造りの暖炉の中で、縦へと伸びる黄色い炎が不規則に揺れ動き、乾いた薪の燃え落ちる音が響いていた。
「フフッ…」
「あったかいね、お父さん」
「そうだね」
細身の男性が大きなソファーに座り、穏やかな笑顔を浮かべていた。膝の上には、紺色の髪の少女が横になり、嬉しそうに目を閉じていた。
「外は寒いけど、部屋の中はあたたかいね」
男性は、右手で少女の頭をなでながら、ゆっくりと左を向いた。傍にある暖炉の奥から心地のよい熱気が伝わり、炎によって作り出された柔らかな光が、男性の青い髪を照らしていた。
男性の膝の上で、幼い少女は小さな体を丸めながら、頭に触れる手をこばむ事なく、満足げに横になっていた。少女は、自分の体よりも一回り大きな、白いセーターを着ていた。
「家があるというのは、ありがたいよ。こうやって、一日の疲れを取る事ができるからね」
「かなたのうみにて……いのりを…ささぐ…はてなきいのちの……あんねいを」
「おっ。よく覚えてるなあ。ナイラはかしこいね」
「えへへ~!すごいでしょ!」
少女は目を開きながら体を上に向け、男性の顔を見つめた。左の耳の辺りから伸びた黄色い髪の毛が、炎の光を受けて美しく輝いていた。
「うん、本当にすごいよ。お父さんは、すぐに覚えられなかったからなあ」
「ねえ、おとうさん。ガガインは、どうしてハイベルのところにもどらなかったの?」
「え?」
「おはなし。もどらなかったのはどうしてか、また、おはなしするって、いってたでしょ?」
「そうだったね。ナイラは、本当に記憶力がいいなあ。そうだね……」
男性は笑顔を浮かべたまま、天井を見上げた。
「パチチ…」
薪の燃える音だけが、部屋の中に小さく響いていた。男性は静かに息を吸うと、少女の頭に手をあてたまま下を向いた。
「…この前の話は、お父さんが、自分のお父さんから聞いた話だったんだけどね。それとは別に、この世界には大昔の出来事を記録した、特別な石があるんだ」
「とくべつな、いし?」
「うん。昔に起きた事が、映像のように残っていてね。石にさわるだけで、その映像を読み取る事ができるんだ。だれが、何をしたのかをね」
「へえ~!すごい!いしなのに、あたまがいいね!」
少女は目を輝かせながら、男性の話を聞いていた。
「フフッ。そうだね。ただの石なのにね。お父さんは昔、色々な所を旅していた事があったんだが、ある時、偶然にその石を見つけてしまったんだ」
「いしを?」
「うん。あの時は二日近く、いや、もっとか……とにかく、長い間眠ってしまってね。その時に、夢の中で、色々な出来事を知る事ができたんだ」
「それって、おおむかしのこと?」
「そうだね。今日はご飯も早くに済んだから、ナイラに聞かせてあげようかな。彼方の海の物語を……」
男性は暖炉の火を眺めながら、ゆっくりと口を開いた。
「ザザザッ!」
牙をとがらせたオオカミが、森の中をまっすぐに走っていた。爪の伸びた前脚で、うっそうとした茂みをかき分けながら、鋭い眼光を前へと向けていた。
「はあっ、はあっ!」
銀色の瞳の少年が、息を切らしながら木々の間を走り抜けていった。白い服には土の汚れがつき、胸の辺りに水色の三角形が描かれていた。黒い髪は上へと逆立ち、額から伸びた太い毛先が、右の眉にかかっていた。
「ガサッ!」
少年が森を抜けた瞬間、目の前に深い崖が現れた。切り立った岩が下へと伸び、はるか遠くから波の音が響いていた。
(しまった!浜のほうに逃げようと思ったのに…)
「グルル!」
崖を見下ろしながら立ち止まる少年の後ろで、銀色のオオカミが低いうなり声を上げた。少年は体を反転させ、腰にたずさえた小さな鞘から、小型の剣を取り出した。少年の腕よりも短い短剣が、陽の光を受けて白く輝いていた。
「う…」
少年は両手で剣を握りながら、少しずつ後ずさりしていた。茶色い靴のかかとが岩の端に触れ、あと一歩後ろに下がれば、転がり落ちそうになっていた。
(どうしよう…これ以上は……)
「ダッ!」
牙をとがらせたオオカミが、勢いよく飛びかかってきた。
「ザシュッ!」
突如、空中から青い影が降ってきた。長い槍を伸ばしながら、一瞬のうちにオオカミの体に傷をつけ、そのまま少年の手前で着地した。
「キャウーンッ!」
オオカミは赤い血を流しながら、体を小刻みに震わせ、森の奥へと走っていった。
「やっぱり、こんな所にいたのか」
「あ……兄さん!」
「やけに遅いから、おかしいと思ったよ」
紺色のマントで体を覆った少年が、木でできた槍を右手に持ちながら、静かに立ち上がった。青い髪が肩の上で揺れ動き、左耳の辺りからは、一部分だけ黄色く変色した髪が伸びていた。太陽を背にしながら、金色の瞳がほのかに輝き、細い眉毛は斜めにつり上がっていた。
体つきは子供そのものであり、大人の背丈には届かないものの、力強い眼差しと自信に満ちた表情からは、不思議な威圧感がただよっていた。
「ご、ごめん。すぐに帰ろうと思ったんだけど…」
「途中で、オオカミに追いかけられてたのか?」
「う、うん…シエラ浜のほうに逃げようと思ったんだけど、その、道がわからなくなっちゃって……」
「それで走り回ってたのか。あれくらいの大きさなら、一人で倒さないとなあ。もう、十歳になるのに」
青い髪の少年は、槍をけだるそうに地面に置くと、肩についたほこりを右手で払っていた。
「そろそろ、みんなを見返してやらないと、いつまでたっても馬鹿にされたままだぞ?」
「そ、そうだよね……ごめん」
黒髪の少年は力なくうつむき、地面を見つめていた。
「…まあ、いいや。とにかく、お前が無事でよかったよ。帰ろうぜ、ハイベル」
槍を右手で拾いながら、青い髪の少年は嬉しそうに笑っていた。
「う、うん」
「村のみんなには、森で修行してた事にしとこうぜ。正直に薬草を集めてたなんて言ったら、またうるさいだろうからな。おれから言っておくよ」
「うん。ありがとう…」
「女の仕事とか、いちいち細かいからなあ。そりゃあ男と女で得意な事は違うけど……おれは、お前のやりたいようにやったらいいと思うぜ」
「うん…」
「とは言ったものの、何もしないで帰るのも、もったいないな……よし、村まで競争でもするか!勝ったほうが、どっちかの肉を好きなだけもらうってのはどうだ?今日のお祝いで、この前の特大イノシシを焼くって言ってたからな!」
「ええ~?そんなの、兄さんが勝つに決まってるって……ずるいよ」
「やってみないとわからないだろ?ほら、いくぞ!」
青い髪の少年は、笑いながら森の中へと走り出した。子供とは思えない速さで前へと進み、あっという間に姿が見えなくなっていた。
「あ、待ってよ!兄さん!」
黒髪の少年は両腕を振りながら、勢いよく走り出した。
「ドドン!ドドン!」
軽快な太鼓の音が、夜の村の中に響いていた。木の棒を重ね合わせて作られたキャンプファイヤーからは、赤い炎が勢いよく燃え上がり、周囲を照らしていた。
大きな炎を取り囲むようにして、太い丸太が地面の上にいくつも並べられ、楽しそうな笑顔を浮かべた人々が、丸太にイスのように腰掛けていた。
ある者は串にささった肉のかたまりを嬉しそうにほおばり、またある者は木でできた大きなコップを片手に持ちながら、赤らんだ頬で上機嫌に鼻歌を歌っていた。
炎の周りに座る人々は皆、同じ模様の服を着ていて、白い布地に水色の三角形が描かれていた。男性は、左右に水色の線の入ったズボンを履いており、女性は皆、縁に線の入った白いスカートを履いているようだった。
「いや、さすがはガガインだ!おれも負けてられねえな!息子の為に、いい父親の姿を見せねえとな!ガッハッハ!」
がっしりとした体つきの男性が丸太に座り、大きな笑い声を上げていた。胸板の辺りがはち切れそうなほどに膨らみ、青い髪は短く刈り上げられていた。
「師匠みたいになっちまったら、嫁さんをもらうのに苦労すると思いますけどね…」
「ん?ドヌ、何か言ったか?」
「いえ!なんでもないです!」
細身の男性がおびえた様子でうなずきながら、コップに入った白い液体を口へと運んだ。ボサボサに伸びた黒い髪が、耳の真ん中の辺りまでかかっていた。
「ロガッタさんの作ってくれた槍のおかげだよ。切れ味がいいから、使ってて気持ちがいいんだ」
ガガインはマントを羽織り、両手でコップを持ちながら丸太に座っていた。
「そんな事言われたら、泣きそうになっちまうじゃねえか!今度は、もっといいやつを作ってやるからな!おい、ドヌ!わかったな!ハイベルにも、いい槍をやるんだぞ!ガハハハ!」
「はいはい、わかってますって。でも、ほんとにすごいよなあ。あんなでかいイノシシ、大人でも仕留められるかどうか……やっぱり、一族の後を継ぐ人間はちがうよなあ」
「それは言い過ぎだって。あのときは、上手く後ろを取る事ができただけだから」
「子供なのに、謙虚な事だねえ。おれなら、自分から言いふらすけどな。できる兄さんを持って、ハイベルも幸せだな」
「う、うん。兄さんは特別だから。僕は、全然だめだけど…」
ハイベルは丸太に座りながら、恥ずかしそうに下を向いていた。
「あ、いや、言い方が悪かったな。ハイベルだって、これからどんどん成長していくんだから、あんまり気にする事はないと思うぜ?」
「その通りだ!たった二歳の差なんて、大人になったら、ないのと変わらねえさ!気にする事はねえ!これから強くなって、ガガインを追い抜いてやればいいのさ!ガッハッハ!」
「う、うん……」
「ドドン!ドドン!」
精神を高揚させる太鼓のリズムが響き、人々の笑い声が大きくなっていった。楽しそうに語り合う人々の中で、二人の青年が丸太に座り、じっと夜空を見つめていた。暗い雲の隙間から、美しい星々が姿を見せていた。
「後継の件、どう思う?」
「おいおい、気が早すぎるって。まだ子供だろ?」
「だが、あの二人のどちらかになるのはまちがいない」
「そりゃあ、ガガインに決まってるだろうけど」
背中まで髪を伸ばした男性が、右手に持ったコップをゆっくりと口にあてた。
「あの歳で魔法を使いこなすなんて、普通じゃない。身のこなしも、大人と変わらないしな」
「ああ。あんなの、見た事がないぜ。あのまま成長したら、どうなるんだ?」
「村中の女から言い寄られるかもな。いいよなあ。強くてかっこよくて、一族の後継者で……」
「からかうなよ。おれは、ハイベルが少しかわいそうだぜ。あんなすげえ兄貴がいたら、いつだって比べられる」
「まあ、そりゃなあ。武術の才能はないみたいだし、将来が心配だよなあ」
「ねえねえ、なんの話~?」
茶色い髪の女性が、肩まで伸びた髪を揺らしながら、二人の間に割って入ってきた。
「うわ!お前、少し飲み過ぎだぞ」
「え~!いいじゃない、今日くらい!祝いの席なんだからさあ!何話してたの?」
「村の将来を担う、二人の子供のお話さ。片方は金色、もう片方は銀色。お前も気になるだろ?座っていけよ」
「ゴオオオッ!」
中心に据えられた炎の勢いが強くなっていった。活気に満ちた宴の中で、人々は自由に移動し、席から席へと歩き回っては、肉と飲み物を片手に楽しげに語り合っていた。
「こりゃ!二人とも、ちゃんと挨拶はしておるのか?」
白いひげを伸ばした男性が、ガガイン達の傍に近寄ってきた。
「あれ、じいちゃん」
「いつまでも同じ所に座っておってはいかんぞ!今日は天空の神に祈りを捧げる、大切な日じゃからな!村を束ねる一族の者として、みんなの所をまわらねばならん!それが、散っていった先祖の為でもあり、これからのシラメリアの繁栄へとつながり……」
「わかってるよ。ちょうど、次の所に行こうと思ってたんだ。それじゃ、ロガッタさん、ドヌさん、またね」
ガガインは、さわやかな笑顔を浮かべながら立ち上がった。
「ハイベル、いこうぜ」
「う、うん…」
二人は丸太から離れると、背筋を伸ばして足早に歩き出した。
「じいちゃんの話は長いからなあ。早めに逃げとかないと、肉がなくなっちゃうよ」
「う、うん。そうだね」
「それより、この前話してた祭壇の件、覚えてるか?」
ガガインの声が小さくなっていった。
「祭壇……神殿の?うん。覚えてるよ」
「色々考えたんだが、三日後の夜、忍び込もうと思うんだ」
「え?」
ハイベルは足を止め、銀色の瞳でガガインを見つめていた。