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だから僕は人に嫌われる

作者: ななまがり

 授業が終わるとすぐに家に帰る。1年のときはそれがいやで仕方がなかった。授業を受けるために生きているわけではけっしてなかったからだ。

 それが変わった。すぐには帰らないようになった。授業が終わってから家ではないどこか別の場所へ向かう機会が増えた。帰り道の途中で立ち止まっていつまでもいつまでも立ち話をすることもあった。そして、帰るべき家も変わった。家賃三万五千円の、狭くて汚いアパートには帰らないようになった。代わりに彼女のアパートに帰るようになった。

 僕の彼女。名前は中山帆奈美という。

 彼女とは2年のときの授業で出会った。初めて言葉を交わしたのはグループ課題のときだった。

 仲良くなるのに時間はかからなかった。僕たちは熱に浮かされるようにアドレスを交換し、学校の用件にかこつけてメールを送りあった。

 最初、お互い慎重になって2~3日空けていたメールの返信は三十分以内、十分以内、五分以内とどんどん短縮されていって、そのころにはメールの文面に電話番号が添付されるようになっていた。それから僕らのメールの使用率は激減して、パケット代が圧倒的に安くなった。けれども電話料金はかえって高くなった。

 このことに関して、僕らのあいだでまだ決着はついていない。

 僕が「どっちかっていうと、帆奈美のほうが積極的だったよね」と言うと、彼女は「そんなことないよ。そっちのほうが積極的だったじゃん」と言う。それでも頑固な僕は「違うよ、だってシャイな俺がそんなことできるわけない」と言うけれど、僕の彼女というのは僕以上に頑固な人で、「あたしだってシャイなんだから、あんなことできるわけないよね?」と言って、僕たちはどちらからというわけもなく笑う。

 どっちでもいいのだ。そんなことじつはどっちでもよくて、出会ってから三ヶ月後すべてのテストとレポートを終えた僕らは、お互いのアパートからちょうど等距離にある飲み屋に打ち上げに行って、ビールとか揚げ出し豆腐とか軟骨から揚げとかたこわさとかに「おいしいね」と言いあった帰り道、じゃんけんをして勝った彼女の家へ向かった。

 それから五年近く経って、僕たちはまだ一緒にいる。

 奇跡、みたいな話だと本当に思う。




 入学式はだいたいスーツを着ていくものだとは知っていた。でも、それはあくまで「だいたい」であって、「みんな」だとは思っていなかった。スーツを持っていなかった僕は、そんなふうに考えた。

 入学式の朝のガイダンスに普段着で出かけた僕は、だから周囲から浮いた。知らない人だらけが詰め込まれた教室で、遠慮がちで冷ややかな視線が注がれるのを確かに感じた。もちろん入学式には出席しなかった。たぶん、それがいちばん最初の失敗だった。

 努力を怠ったつもりはなかった。1年の外国語の時間ではいろんな人に積極的に話しかけた。冷たい反応を返されてもめげなかった。周囲から「ちょっと頭のおかしいやつ」という認識をされていたのはわかっていた。けれど僕は努力がすべてに繋がると信じた。第二の失敗をあげろと言われればそれになるかもしれない。結果的に、一年間でひとりの友だちも出来なかったからだ。 

 一度付与された認識は、簡単には覆らなかった。「ちょっと頭のおかしいやつ」である僕は、何かに積極的であればあるほどその認識を深めていっていた。悪循環から抜け出すすべがわからなかったのだ。

 そうして再び桜の季節が巡ってきた。人生最高の四年間といわれる大学生活の、二年目に突入していた。そのとき、僕は校舎六階のトイレにいた。




 窓を開けるとトイレの中に外の空気が入りこんできた。胸のポケットから煙草を取り出し、僕は百円ライターで火をつける。吐き出した煙が立ち昇る先には群青に染まる日本海があり、遠く佐渡島のシルエットが浮かんでいた。

 やっぱり春に吸う煙草はまずい、と僕は思った。煙草の煙と一緒に吸いこむ空気が汚れている感じがする。それは佐渡のもっと向こうから黄砂が飛んできているからかもしれないし、海岸の杉林から大量の花粉が舞っているせいかもしれない。あるいは、春を迎えて浮き足立つ人たちの陽気が何かに形を変えて、空中を遊離しているからなのかもしれなかった。

 それでも僕はまた煙草を吸って吐く。吐き出されるのは体に悪いとされるタールやニコチンを含んだ煙だけで、もっと体に悪いはずの空気は僕の中に蓄積されていく気がした。

 人は春が一番好きだという。

 出会いと別れの季節。

 サクラサク新生活。

 どうしてなのだろう。ずっと冬のほうが過ごしやすいと思っていた。

 厳しい気候に文句をいいながら歩き、親しい人と身を寄せあう。やっと辿り着いた暖かな場所で余計なことを考えずにただ寛ぐ。環境が厳しいからこそ人は優しくなれる。他人の存在がほんとうに尊いものだと思える。なにより、空気が限りなく澄んでいるから煙草だっておいしい。

 それがたった数ヶ月経っただけでなにもかも変わってしまう。

 もう一度煙草を深く吸いこんで、僕は窓枠に手をかけて窓から身を乗り出した。

 春は気候的にも不安定だ。気温の上下動が激しく、ときには十一月のような気温にもなる。

 けれども眼下を歩く学生たちはほとんど例外なく薄着になっている。男はジャケットやブルゾンの前を開け、背筋を伸ばして歩く。女は春を象徴するようなパステルカラーのニットやカットソーに身を包む。風が吹くたびに、彼らの服装がひらひらと軽そうに揺れる。

 絶対に寒いだろおまえら、と僕は思う。みんな春という言葉に惑わされているのだと。そして僕は心の底で、そんなふうに考える自分にエクスタシーを覚える。個性的な思考に根ざす独自のアイデンティティを密かに誇る。

 そんな自分が心底きらいだ。

 実際、こんなふうに身を乗り出したって、誰も気づいていない。気づかれない個性は存在していないのと同じだ。上を向いて歩こうなんていうけど、誰も上なんて見て歩いていない。自分の前を見るのに精一杯で、窓から身を乗り出す僕の存在に気づかない。もちろん僕以外は誰も下なんか見ない。

 一際強く風が吹きつけて、歩いていたミニスカートの女が慌てて裾を抑えた。その後ろを歩いていた男が動きを止めた。風は満開の桜の木を揺らし、散った花びらが広場を劇的に彩った。

 そしてその風は僕のところにも届く。同じ空気を孕んで僕の顔を撫でる。煙の方向が変わって目に入る。僕は煙草を落とした。それは目が痛くてつい落とした、ということにする。

 火のついた煙草は何事もなかったように再び歩き始めた男に向かって一直線に落ちていった。煙草は際どいところで男に当たらずに地面に落ちた。男は再び動きを止めた。地面を見つめ、それがなにかを確認するのに三秒。そうしてからようやく僕の存在に気づいた。しばらく見つめあったあと、男はいきなり走り出して、僕のいる校舎に駆けこんでいった。

 迷うような造りにはなっていないから、彼がここに来るのに急げば二分とかからない。けれど僕は逃げようとも思わなかった。むしろ期待していた。言葉の限りを尽くして罵詈雑言を並べて殴ったりしてくれないだろうか。そこまでやられてやっと、勢いをつけることができる気がする。

 人は死ぬとき走馬灯のように楽しかった出来事を思い浮かべるというけど、今はまだなにも浮かんでこない。本当にいよいよ、死が確定的になった瞬間にしかそれは浮かばないらしい。

 口の中にありったけの唾を集める。腕時計についているストップウォッチ機能のボタンに指をかける。口を開くと唾液が糸を引いて、それが千切れた瞬間、ボタンを押した。

 四・一六秒だった。高校で習った物理が正しいのだとしたら、それが僕に残された最後の時間のはずだった。僕の走馬灯が走るにはぴったりの時間に思える。高層ビルから落ちたりしたら、きっと時間を持て余してしょうがないだろう。

 彼女はどうだったのだろう。中学校の屋上から飛び降りた彼女には、それに見あう長さの走馬灯があったのだろうか。


 昔、僕のいた中学に、あるテレビ番組がやってきたことがある。校舎の屋上から日ごろ思っていることを叫ぶあれだ。野球部のバッテリー間の友情を叫ぶ人、友だちとのけんかの仲直りを叫ぶ人、密やかな先生への思慕を叫ぶ人……。番組の収録は滞りなく進行していって、まるでヤラセみたいだと僕には思えた。その中にひとり、ずっと秘めてきた恋心を叫んだ女子生徒がいた。

 脛の中ほどまで隠れたスカートを風に揺らしながら、彼女は大きな声で「ずっと好きでした! つきあってください!」と叫んだ。校舎を見上げる僕を含めた生徒たちのあいだをどよめきが走り、名指しされた男子生徒は大きくて明るい声で「ごめんなさーい! 無理でーす!」と答えた。周囲からいくつもの笑い声が漏れ、彼女はそれでも「ありがとうございました!」と大きくて明るい声で言い、僕たちの視界から消えた。

 翌日以降、会話のネタには困らなかった。彼女は背が低くて、制服が特注なんじゃないかという噂が流れるくらいには太っていて、髪の毛がごわごわしていて、それでいて胸だけが奇妙に発達していた。僕と僕の友だちは時どき思い出したようにその話をしたし、周囲も同じようだった。初対面の人とも話が通じてしまうような鉄板ネタだったのだ。

 それから自然な流れでいじめられだした。僕は直接見たことはないけれど、話によれば相当ひどいこともされていたようだった。歩いててドブに落とされるとか、体育の時間中に胸めがけてボールを思いっきり投げられるとかで、そんな話はとくに知ろうとしなくても自然と耳に入ってきた。

 一度だけ、彼女が女子グループに混ざって会話をしているのを見かけたことがある。周りの女子は「元気だしなよー」と言って、彼女を慰めていた。それに対して彼女がなんて返したのかはわからない。元気だった彼女の声も、そのころにはすっかり小さくて低くなってしまっていたからだ。ただ、次の瞬間には、ひとりのかわいい女の子が「そんなことないよー。千波ちゃん、おっぱい大きいじゃん。羨ましいよ、絶対モテるってー」と言っていたのが聞こえた。そう言う女の子の指には校則で禁止されている指輪が嵌まっていて、僕にはその輝きがとても眩しいものに思えた。

 彼女へのいじめがぷっつりとやんだのは、確かそんな会話を聞いてから一週間も経たないころだった。授業中、スカートを逆さまにして白いパンツを露わにした彼女が窓の外を落下していって、大きくて重いものが落ちる音が響いた。テレビのオンエアでは当然のように彼女の叫びはカットされた。

 今でもときどき、あのときの指輪の輝きと白いパンツを思い出す。けれど、彼女の顔だけはどうしても思い出せない。およそ数秒間の落下の最中、彼女は何を得たのだろう。きれいな走馬灯を見れただろうか。


 背後に人の気配がした気がして、僕は振り向いた。見たことのない顔だった。男は僕を一瞬だけ見てすぐに目を逸らしそそくさと小便を済ますと、春色のジャケットを翻してトイレから出ていった。

 あれから五分近く経っていた。今の男がさっきの男じゃないとしたら、もう来ないことに決めたのだろう。誰だってそんなに暇じゃない。それに、玄関からここまで来るのに怒りだって醒める。バカらしい気持ちになるには十分な時間だ。

 僕だって本気で死ぬ気がないことにはもう気づいている。そうでなければいつまでもここにこうしていない。

 せめて足をかけてみようとは思うけれど、人間の体は予想以上に重くてそれもままならない。この窓がもう少し低くかったら足をかけるのも簡単だった。だいたい、僕が死んだら周囲に取り返しのつかない迷惑をかけることになる。

 墜死した死体を間近に見ることになる学生、僕を「ちょっと頭のおかしいやつ」と見なしてバカにしてる連中。それに、さっきトイレに入ってきた男にしたって僕の死を知ればいやな気分になるだろう。あげく、死んだ同級生のことを考えると余計に死んではならないと思う。僕が死ぬ理由と彼女が死んだ理由は、どうしたって釣りあわない。

 だから僕は死ねないし、こうやって死ねない言い訳ばかり考えるからかえって死にたくなる。

 僕がここまで頭の回らない馬鹿だったらよかったと思う。それならなにも気にせずに死ねた。あるいはもっと頭がよくて人生を楽しめる才覚に満ちていたら、そもそも死のうなんて暇なこと考えなかったはずだ。

 現状の僕は、だから死にたくても死ねない。

 窓から何度も唾を落とす。こうやって体中の細胞を体外に排出していればいつかは死ねる。気が遠くなるような話だ。死ぬというのはそれくらいに難しい。

 全力で春を謳歌しているように見える学生たちの群れを見ながら、胸ポケットから煙草を取り出して百円ライターで火をつける。煙がたなびく先には相変わらず佐渡島があり、その向こうからは黄砂がひっきりなしに飛んできてやっぱりどこかの車のボンネットを黄色く染めている。

 だから僕もこのままでいるしかない。そうやって意識的にでも開き直って下を見下ろせば、さっきとは何かが違っているように見えるんじゃないかと僕は期待する。けれどやっぱり眼下を行く学生たちの装いは軽そうだし、風が吹けば空気は相変わらずおいしくないことに気づく。なにも違わなかった。ただ、その中にひとり、上を見て歩く女の子がいた。

 彼女は僕を見ながら歩き、ふっと微笑んだ。風が彼女の薄着を揺らし、足をとめた瞬間、散った桜の花びらが広場を彩った。

 すべては僕の願望が生んだ幻かもしれなかった。けれど、それが幻でも現実の出来事でも、どちらでもよかった。

 そのすぐあとの授業で、彼女と僕は再会を果たす。



      §



「書いてて恥ずかしくなかった?」

 途中まで読んだ湯浅さんはそう言って、紙の束を机にトントンと叩いて整えた。それから煙草を取り出して火をつけた。僕はその流れるような一連の動作を見てから、「まあ……」と頭をかきながら言った。

「読んでて恥ずかしかったですか?」

「まあ……」と湯浅さんも頭をかいて、「恥ずかしいというか、さ……これじゃあ難しいんじゃないかな」

 湯浅さんは何か言いあぐねて目をつぶり、頭を傾けた。何かを一心に考えている様子だった。僕はそのあいだに煙草に火をつけて深く吸い込んだ。ふたつの煙が交錯して、湯浅さんの顔が一瞬、煙に霞んで見えた。

「だいたいこれ、読者を想定して書いてる?」

「読者、ですか」

「ああ、読者」湯浅さんが紙の束を指差した。「これには読者の視点が欠けてるよ」

「恋愛って誰もが経験してるから、そういう意味ではみんな共感しやすいのかな、って思ってるんですけど」

「確かにそういう一面はあると思うよ」湯浅さんはすぐに言った。「だけどね、うーん……」

「いいです。思いっきり言ってください」

「ごめんね。ねぇ、これって実話?」

「うーん……」今度は僕が悩む番だった。「実話というか、実話じゃないというか」

「ああ、だからかなあ。これだと、あまりにリアリティが無いと思うんだよね。暗黒の日々にぽつりと現れた彼女の存在が尊いってのは読み取ってあげれるんだけど、なんかさ、この彼女が都合よすぎっていうのか、なんかリアリティがね」

「リアリティ、ですか」と僕は言った。

「うん、リアリティ」と湯浅さんは答えた。

 リアリティ。リアリティ。僕は考えた。リアリティっていったいなんだろう。

 僕が答えられずにいると、湯浅さんがいきなり立ち上がって「そろそろ行こう」と言った。そしてもう一度紙の束を整えてから、丁寧に自分の鞄にしまった。「あとは車の中で話そう。そろそろ行かないと親方にどやされる」

「あ、そうですね」笑いながらそう言って、僕も立ち上がった。


 窓の外では見慣れた風景が高スピードで後ろに流れていっている。風景を眺めるのに飽きると、僕は対向車線の車を観察する。バモス、マークⅡ、ムーブ、デミオ。やっぱり車はデミオに限る、と僕は思った。

「きみは恋愛もの、あまり向いてないと思うんだよね」と湯浅さんが言ったので、僕は県外ナンバーのコペンから湯浅さんへ視線を移した。

「なにも恋愛ものに拘らなくてもいいんだし」

「はあ」と僕は曖昧にうなずちを返し「でも恋愛もので書いてみたいんですよ。駄目ですかね」

「駄目ってことはないけども」湯浅さんはすぐに言った。「他人の恋愛に興味が無いって人もいるけど、そこらへんはどう考えてる?」

 それは僕も考えたことがあったから、僕もまたすぐに答えた。

「やっぱりそういう人にもわかってもらえるものを書かないと話にならないと思います」

「そうなんだよ、そう!」湯浅さんがいきなり大声になって、体が小刻みに左右に揺れ始めた。自分の考えを開陳するときの湯浅さんの癖だ。「それが文学ってものだからさ。携帯小説みたいに人のイマジネーションに頼るんじゃなくって、作品世界に読者を引きずり込んで普遍的に納得させる。それが文学」

「はあ」と自分でもわかっているのかわかっていないのか判断できないような返答が口から漏れた。

 赤信号に引っかかって車が止まった。湯浅さんが首を巡らして僕を見る。

「もういっそのことジャンルを変えてミステリとかSFとか書いてみたら? そっちのほうが作品世界を構築しやすいから」

「ミステリですか」

 確かに昔、ミステリを書いていたことがあった。というより、正確に言うと「ミステリのようなもの」を書いていた。とても人には見せられないような代物だった。あまり思い出したくもない、無意味な犯人の偽装工作を探偵が直感で看破していたような気もする。

 信号が青になって、湯浅さんがアクセルを踏み込んだ。車がタイヤを軋らせて急発進する。僕の体は慣性でシートに大きく沈み込んだ。

「ま、書くだけ書いてみたらいいんじゃないかな。将来恋愛もので書くにしても無駄にはならないと思うから」

「はい……そうですね」

 僕は三度曖昧な返事をして意識を窓の外に移そうとした。車は見慣れぬ地区に差し掛かっていた。

「あれどうしたらいい? 返そうか?」湯浅さんが僕のほうを向いて言った。湯浅さんの言う「あれ」は、今でも湯浅さんの鞄にしっかり収められている。

 僕はすこし考えた。

 返してもらったとして、いったいどうしたらいいんだろうか。「リアリティが無い」と言われた「あれ」を。

「できたら」僕は言葉を濁しながら言った。「もらってください」

「あ、そう。じゃあもらわせてもらうよ」

 車の運転が荒い湯浅さんは、それでも「あれ」呼ばわりしたものを大切にしまってくれそうな気がした。




 仕事が終わってアパートに帰ってから、僕はパソコンのワープロソフトを開いて「ミステリ」を書こうとチャレンジしていた。しかし一向に筆は進まなかった。参考までに、と学生時代読んだきりだったミステリを本棚から取り出して斜め読みしてみたりもした。そして僕は読んだミステリの絶対量が少ない、という事実に気づいた。それでもパソコンに向かいあっていた僕はいつの間にか深い眠りに落ちていて、目覚めると窓から日の光が射していた。

 寝ぼけまなこのまま新聞を取りに行くと、いくつかのダイレクトメールが玄関の床に落ちていた。机の上に持ってきて、一つひとつチェックしていく。すると、その中に二つ折りになった近所のピザ屋のチラシが紛れ込んでいた。それを見て僕は急激に空腹を感じた。朝からピザというのもいいかもしれない。そう思ってチラシを広げると、なにか四角くて白いものが滑り落ちた。

 奇妙な葉書だった。ごてごてとした飾りで縁取られていて、厚い。表に僕の名前が楷書で入っている。裏返すと大きな写真の中で生まれたばかりと思われる赤ちゃんが笑っていて、赤い文字で「子どもを授かりました」と書いてある。そして、差出人を見た僕は目眩を覚えた。

 青木学。大学時代の友人だった。いつの間に子どもなんて作ったのだろう。いや、そもそもいつ結婚したのだろう。青木学という名前の隣には青木弘美、という名前が並んでいた。僕の知らない名前だ。子どもの名前は青木駿、というらしい。もっと知らない。

 青木学という男をひと言で説明するのは難しい。彼も大学時代、僕と同じく「浮いている」学生のひとりだった。「ああ、青木くんはねー」と失笑つきで話されるうちのひとりだった。「ちょっと頭のおかしいやつ」である青木は、とくに女の子に対して積極的だった。正式にアドレスを交換したわけでもないのに、授業関係で回された名簿に記されている女の子に向けて見境無くメールを送りまくっていた。それは当然のように「ちょっと頭のおかしいやつ」という認識を強化することでしかなかった。同じく「ちょっと頭のおかしいやつ」であった僕はだから彼のことをよく知っていたし、向こうもそれは同じだったらしく、いつしかよく話すようになっていた。

 そんな青木の人生は、大学を卒業してから一変したようだった。それまでの努力が実を結んだのか、いわゆる「ヒモ」としての人生を歩みはじめたのだ。少なくとも、たまに電話したときに出てくる女の子の名前が毎回違っていた。

 その青木が結婚だという。あまりにも急激な展開だった。

 僕は仕事着に入りっぱなしだった携帯を取り出した。電話番号が変わっていませんように、と祈りながらコールする。それから長話になるかもしれないと思いあわてて充電器に繋いだ。

 何度目かのコール音のあと、相手は電話に出た。

「はい」

 ぶっきらぼうに、「はい」。変わっていないな、と思ってすこし安心した。それからすこし複雑な気分になった。

「あの、俺だけど」

「ああなんだ、懐かしいな! どうした?」

 電話越しに青木学は言った。対応があまりにも普通で、僕の頭は混乱しだした。

 なにかうまい言い方はないだろうか。弘美ちゃんとの結婚おめでとう。違う。僕は弘美なんて女は知らない。駿くんかわいいね。いや待て。本当に赤ちゃんは男の子なのだろうか。最近は名前で性別が判断できないことも多い。

 結局諦めて普通に言うことにした。

「結婚おめでとう。青木が結婚してたなんて知らなかったよ」

 普通すぎたかな、と思いながら耳を澄ませた。それでも反応がなかったのでひとつ皮肉を言ってみる。

「青木が結婚できるなんて知らなかったよ。そうならそうで教えてくれればよかったのに」

 しかしそれでも反応が無かった。僕は「もしもし」と言ってみた。耳から電話を話して電波状態を確認してみたが、ちゃんと三本立っていた。

 再び耳に受話口を着地させると、なにか意味のわからない音が聞こえていた。「う」とか「は」とか。そしてそれはしだいに繋がってきて、最後には「うはははは」になった。

 電話からうはははは、と聞こえている。

「引っかかった引っかかった!」青木はうははははと笑いながら言った。「引っかかった!」

 僕はすべてを悟った。そして、こいつは本当に変わらない、と思った。きわどいジョークを言う癖。そしてだいたいにおいてイタイ。きわどくだいたいイタイ。

「こういう手の込んだいたずらするか、普通?」

「普通じゃ、おもしろくないだろ? うはははは」

「俺がベビーベッドとか送ってたらどうするつもりだったんだよ」

「そんときはまあ、中古ショップに売りにいくわな」

「葉書送ったのは俺にだけか?」

「違うな」青木はすぐに言った。にやりとした顔が見えるようだ。「佐藤だろ。井上にモロノブ。もちろんなみちゃんにも送ったぞ。それからハッつんに楓に一樹、杏子ちゃん、ズーシーミ、芹沢にマル……」

 そのあと十人くらいの名前が続いた。

「おまえバカだろ」本物のバカだ。

「いやでもおまえがいちばん早かったよ。結婚おめでとう、知らなかったよってな。うはははは!」

「おまえ、本当に変わらないな」僕は言った。「相変わらず女のところ転々としてるんだろ? 結婚なんてまだなんだろ?」

「そうさー。今はアイっていう女のとこ。なかなかかわいんだから」

 青木は淡々と言った。僕はそれってじつはすごいことなんじゃないかと思った。

 大学を卒業して三年。それだけ経っても青木学は青木学だった。

「おまえだって相変わらずなんだろ? いつまでもなみちゃんとべたべたして、定職にも就かずにバイトか?」

「うはははは!」見事に図星だった。

 それから僕らは共通の友人たちの近況について話しあった。マルがメイド喫茶を経営してそこそこ儲かっていることを聞いて僕は感心した。杏子ちゃんもう二人目産んだんだってね、と僕が言うと、青木は本気で驚いていた。どうやら青木のところにだけ葉書が届かなかったらしかった。いい気味だと思った。

 電話を切ったときにはすでに昼が近かった。お腹が鳴って空腹を訴えた。それにも増して、会話が無くなった部屋はいつも以上にシンとしているように思えた。

 僕はまだ熱い携帯で彼女に電話した。お昼ごはんがまだなら一緒に食べたいと思ったし、青木のことを話したいと思った。

 電話に出た彼女は、私もまだ食べてない、と言った。

「ねえ、ガッくんって結婚してたんだって! 知ってた?」

 どうやら青木の言うとおり、彼女のもとにも葉書は届いていたようだった。

「うん、俺のところにも葉書届いてたよ。びっくりしたよね」

「ほんとにね。私、出産祝い何にするかでずっと悩んでて、ごはん食べるのも忘れちゃった。ね、今から行っていい? どこか食べにいこうよ」

 彼女のはしゃいだ声が僕の耳を優しく打つ。僕はそれに答える。


 彼女が乗ってきたデミオを僕が運転して出発した。慎重にアクセルを踏んでクラッチを切ると、僕らを乗せたデミオはそれに応えてスムーズに動く。外は柔らかな日差しに満ちていて、フロントガラスから差し込んだ光がダッシュボードと彼女を照らす。

 僕らはどこに食べにいくかであれこれ悩んだが、差し迫る空腹に耐えられなくなり、結局近場のデパートへ行くことに落ち着いた。八階のレストランは適度に混んでいたけれど、日当たりがよく眺めのいい席に座ることができたし、味も申し分なかった。なにもかもがツイていた。

 それから階段を使って、一階ごとにゆっくりと回って店内を冷やかした。ベビー用品売り場に寄って、新婚夫婦を装って店員にあれこれ質問したりもした。あれこれ質問したりした挙句、僕らが何も買わずに帰ろうとすると店員は絶妙に恨めしそうな顔をした。売り場を離れてから僕が店員の顔真似をすると、彼女は堪えきれずに噴き出した。

 地下の食品売り場で今夜の食材を調達した。豆腐、ひき肉、ショウガ、にんにく、白ねぎ、唐辛子とビール一ダース。レジに並んでいるときに僕が青木葉書の真相を話すと、彼女はお腹を抱えてなんとか笑いを堪えようと頑張っていた。その拍子に彼女が持っていた豆腐が手からこぼれて床に落ちた。それを見て僕も笑い出しそうになり、お腹を抱えてなんとか笑いを堪えようとした。ふと見ると周囲の人たちが僕たちのことをジロジロ見ていて、それに気づいた僕たちは平静を装って会計を済ませようとしたけれど、彼女の顔はひくひくと変な感じに痙攣していて、時折ふっと口から息が漏れていた。たぶん僕も似たようなものだった。もうどうにも収まりがつかない感じだった。

 一階に上がったとき、アルミラックに整然と並べられている絵葉書の群れを見て彼女が足を止めた。

「きれいだね」と言う彼女の言うとおり、アルミラックは七色の輝きを燦然と放ち、人が行きかう休日のデパートを彩っていた。近づいてみると、それを構成する一つひとつの絵葉書がじつに種類に富んでいることに気づく。ざっと見てもサンゴ礁の海、冠雪する絶峰、ロンドン・タワーブリッジ。宇宙から見た地球の写真があるかと思えば、なんの変哲もない雑踏を写したものまで多岐にわたっていた。

「ね」とラックの裏側を覗き込んでいた彼女が僕の目を見て言った。「私たちも、なにか送ってみる?」

 僕か彼女の言う意味を瞬時に理解した。そして彼女と一緒に、それに相応しい一枚を選びはじめた。しかしなかなか決めることはできなかった。宇宙はさすがにだれも信じない、と僕が言うと、彼女は僕が推薦した一枚を「このアングルで写真を撮るのは不自然」というもっともな理由で却下するのだった。

 そうして最終的に六枚の絵葉書が候補として残った。僕たちはそれらを前にして悩んだ。大いに悩んだ。アルミラックの前を長時間占拠する僕たちは、きっとおかしなふたり組だった。

 痺れを切らした店員が不審げな眼差しを隠さなくなったころ、彼女が妥協案を提示した。「これ全部買っていって、あとで決めよう」

 会計を済ませたら、合計六百円という安さに僕は驚いた。もっとも、それより驚いていたのは店員のほうだったのかもしれないけれど。


 僕の部屋の机の上からはノートパソコンが撤去されて、代わりに彼女の麻婆豆腐と缶ビールとコップがふたつと灰皿がひとつ載った。 

 お互いのコップに缶からビールを注いで同時に「乾杯」と言う。僕たちのコップからはすぐに黄金色の液体が無くなって、すぐに缶も空になる。そうなると冷蔵庫から新しい缶を取ってくる。豆腐が崩れた麻婆豆腐はそれでもおいしかった。

 缶が五つくらい空になったところで、彼女は赤ちゃんの笑う写真を手に取った。

「この赤ちゃん、かわいいね」

「そうだね」

「どことなくガッくんに似てない?」

 彼女だけが青木のことを「ガッくん」と呼ぶ。試しに僕は声に出さずに「ガッくん」と言ってみた。やっぱり変だった。

「ね、似てない?」

「そうかな」

「赤ちゃんかわいいよね」

「そうかな」

「赤ちゃんほしいよね」

「そうかな」

「ほしくないわけ?」

 彼女は笑った。

 わからなかった。赤ちゃん、と声に出してから僕は考えた。

 彼女の赤ちゃんならきっと彼女に似てかわいいんだろう。僕に似て生意気なのかもしれない。そしてかわいくて生意気になってしまうのかもしれない。

 それは、どことなく違和感のある想像だった。でも、その違和感だって、きっと僕たちにしかわからないものなのだ。

 ひょっとしたら、悪いことではないのかもしれない。

「ほしいかもね」

「そうかな」

 彼女は頬を膨らまして笑った。僕は彼女の唇に自分の唇をあわせた。


 狭いベッドにふたり並んで寝た。

 彼女と出会ってから五年くらいが過ぎようとしている。思い返してみると、短いようでいてやっぱり短い時間だった。五年、というのは僕たちにとってはただの数字でしかないのだろう。

 彼女は僕の目の前で規則正しい寝息を漏らしている。僕は布団の中で手を巡らして彼女の手を探りあてた。すこし力を込めると彼女も同じくらいの力で握り返してきた。ぎゅっと強く握ると彼女も同じことをした。

 堪えきれずに彼女がふふっと笑った。笑って、唇の隙間から白い歯が見えた。好きだ。

 今度はやんわりと握った。すると僕の手もやんわりと包まれる。

 手のひらに伝わる確かなぬくもり。顔にかかる彼女の吐息。

 リアリティってなんだろう、と僕は強く思った。リアリティってなんだろう、と僕は強く思う。

 リアリティってなんですか? 湯浅さん、僕たちにリアリティはないんですか?

 そんなことを考える僕の意識は緩やかに白濁していって、いつしか優しい眠りに誘われていった。

 隣で眠る彼女の夢を見た。




 湯浅さんは事務所で顔をあわせるたび、小説はまだか、小説はまだかと言うようになっていた。僕は「ちょっと構成が気に入らなくて」とごまかし続けた。本当はただの一行だって書いていなかった。

「小説ってどうやったらうまく書けるようになるんでしょうか」ごくたまに僕がそういうことを聞くと、湯浅さんは決まって「数読むことだよな」と答えた。

「まずは千冊読めっていうやつもいるくらい、大事なことなんだよ。ジャンルを選り好みせずに片っ端から読んでさ、あとは音楽聴いたりバイトして社会経験をたくさん積んだり……といっても、きみにここをやめられたら困るけどさ!」

 僕はあはははと笑いながら、でもどうして数読むことが小説がうまくなることに繋がるのだろう、と思った。けれどそれは自分の無知をさらけ出すようで聞けなかった。本屋に売ってるハウツー本を買おうと一瞬考えて一瞬でその気が無くなった。大学で文芸部に入っていた友だちに連絡を取ってみようと思ったけれど、カビの生えたような昔の文学ばかり勧めてくる彼のことを思い出したら一気にその気も無くなった。僕は心底そういうことがどうでもよくなっていた。小説に対する意欲がまったく無くなっていたのだ。

 そしてまた今年も桜の季節がやってきた。



      §



 目的地へ近づくにつれ、道を歩く人の姿が増えてきた。みんな薄着を風に揺らしながら、同じ方向へ歩いている。一年ぶりに目にする光景を思って、僕と彼女と彼らの胸は高鳴る。着実に前に進むたび、桜の気配が徐々に増していく。

「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。いずれ大きな花が咲く」彼女が歌うように言った。「この前友だちに教えてもらった言葉」

 いい言葉だと思った。

 桜は毎年花開く。夏の日差しに汗をかき、秋の長雨に晒されて、冬の雪に埋もれても、春になれば花開く。毛虫の住処にされても、葉が色あせても、寒さに身を縮めても、時がくれば花開く。

 未来は信じていいものなんじゃないか、と僕は思う。一歩一歩歩く道は険しいかもしれないけれど、でも確実に近づいている。僕や彼女や彼らの先行きは、もう約束されている。

 目的地はもう近い。

 僕は彼女の手を握りなおす。

 願わくは、すべての人に幸あれ。

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