ー1ー 今日も彼女はセリフをこぼす
あくまでも個人の主観ですのでそこはご了承ください。
ただ、好きな声優さんに合わせて読むと楽しいかもです。
「今日は予約もないし、マスターと二人でもまわせるか」
いつも通り、出勤し、シフト表を見ながらつぶやく。
「よっ、千秋」
「あ、マスター、おはようございます」
ウェットな質感の黒髪パーマヘアに、整ったひげと濃い目の端正な顔でザ・マスターなこの人がここの主の椎名浩平さん。人柄がよく男前。基本みんなマスター呼び。
「今からちょっと急用で15分ぐらいいなくなるけどその間、カウンターよろしくね」
「了解です」
僕は制服に着替えて身だしなみを整える。
シフト時刻になってカウンターに立ち、グラスをいつも通り磨こうとしたその時だった。
「マスター、おかわり」
カウンター席の真ん中から聞こえたその声は、可憐で透明感のある、でもどこか大人な雰囲気をかもしだしていて、それでいてどこかあどけなさが残るような、そしてなんだかどこかで聞いたことのあるような……。
「えっ……」
そして僕は冒頭のように固まるのであった。
「マスターっ!今日はアップル・カー縛りって言ったじゃん!」
マスター今はいな……ってか、ほんとにあのかおりん!?
驚きと興奮を隠せない。
こっ、こういう時って、本人かどうか確かめていいものなのかな? そっ、それともプライベートなんだからあえて聞かないほうが……
「マスター!!」
「はいぃ!! あ、いや、マスターは今、外しておりますので僕が対応させていただきますっ」
いかんいかん。かおりんのプライベートどうこうではなく今自分はここのスタッフ。私都合をもちこんではいけない。
顔に出ているかどうかは知る由もないが、たぶん、絶対、二ヤついている。
「君、新人さぁん?」僕が駆けつけるなり顔を見つめて言ってきた。
「えっと…一ヶ月前ほどから……」
「ほぇー。今まで会わなかったね」
「最近はまだ週2ぐらいだったもので」
「ほぇー」
んぐっ! ほっ、ホントに僕はあの伊野華織と喋っているのか!?
というか、今まで会わなかったということは結構この店には来ていたのか?
目の前にいる僕のあこがれらしき顔をした可憐な彼女は、首元まで伸びた髪がウェーブによってふわふわ揺れ、今風な女性のワンピースを着て、カラのグラス片手に……
「あぁ…今日のセリフ、本気ではずかった……先輩は慣れるとかいうけど…」と赤らめた顔で呟いた。
ほっ、ホンモノだぁぁぁぁ……
しかも、
酔ってるぅぅぅ……
自分の推しかつ、人気声優のこんな一面を見れるなんてレアすぎるにもほどがないか……。
ほぇー とかこの声で言われたら死んじまうだろ!
取り敢えず注文通り、シェイカーにお酒を入れながら気持ちを落ち着けようとする。
「きみ大学生?名前なんてーの?」となぜかほっぺを軽く膨らませて聞いてきた。悶えた。
「あっ、羽嶋千秋といいます」
「羽嶋くん?千秋くん?はっしー?あっきー?」
「なっ…何でも構いませんよ!」
ゴメン、全国の声優ファンのみんな。自分の名前を声優さんに贅沢にも4パターンも呼ばれてしまったようだ。
なっ、何か話してみたい……。
「華織さんは、アップルカーがお好きなんですか?」
……やべ。
頭の中でかおりんと言い過ぎたせいで、いざお客さんととして接しようとして焦って名前で呼んでしまった……。いきなり確認もなしに……失態。
「そう!でも大体日替わりでかえちゃうっ」
ケロッとした顔でかおりんは言ってきた。よかった、セーフだ。
「だから、君の呼び名も日替わりにしよっと!」
「なんでそうなるんですかっ」
人気声優にパンピー大学生がリアルにつっこみをいれた記念すべき日になった。
「ねぇ聞いてよ羽嶋ちゃん!」細身の体がカウンターに寄りかかってくる。胸のふくらみが強調されて耳から目までもうしんどい。ちなみに今日は羽嶋ちゃんでいくらしい。5パターン目だ。
「今日の収録のセリフ、すっごぉく恥ずかしかったんだよ!?」
彼女は相手が声優と知っているていで話しているのだろうか……。
いかんいかん。僕はここのスタッフとして取り繕う。
「っ、セリフって、なにかお芝居のお仕事ですか?」
我ながらナイスな返しだ。
「でねっ、そのあとコメント欄がぶわぁぁぁっとだよ」
聞いてない……。
「…っ、いいことじゃないですか。それだけファンの方の期待に応えているわけですし」
僕は見ていた。今日の昼のゲリラライブ配信を。
コメント欄で言ってほしいセリフを書き込み、向こうのスタッフさんか誰かがそれを選定し、かおりんが声優ボイスで言ってくれるというものだ。セリフ系は声優ファン不動の人気を持つ声優王道コーナーだ。
「まぁそうだけどさぁ。だんさんのあれはさすがに無理だよぉ」
そう言ってうずくまる彼女。だんさんとは今日セリフを採用された人のペンネーム。確かにあの人がコメントしたやつは歓喜…いかんいかん。
マジで慣れてないんだなぁ……。さすがのファンも慣れているものかと思ってる人は少なくないと思う。
だから本気で恥ずかしかっているとはむしろ興奮…いかんいかん。
「なんて言ったと思う?」
「はぁえっ!?」
おいまて、さっき自分で恥ずかしいって言ってたくせに自分から聞くの!?
「えっと…わからないですね」
すると華織さんは頬を赤らめたまま、まっすぐ澄んだ目で僕のほうを見つめてきた。
まっ、まさかほんとにあれ言うの!?
鼓動が高鳴るのが耳を震わせる。
すると彼女は麗しい唇をふっ、とゆるわした。
「ねぇ……今日だけは、君は私だけのものっ」
つぶやいているその数秒だけは、プロの目であり、何を隠そうあの伊野華織の目であった。
勝利。
僕は多分これを最後に死ぬんではないのだろうか。
ふぁぁ~~
そう言ってまたかおりんはうずくまった。
何がうれしいんだか……と不意なつぶやきに心が喘ぐ。
そしてこのシチュエーションでこのセリフはもうファンに刺されるだろ。いや自分自身を刺そう。
テーブル席に数人お客さんがいるだけの今日の状態で、この空間はもはや一対一。
大学生羽嶋千秋、やりました。
しかしさすが声優。どんなに酔っていても声は人を動かす準備をしている。
「羽嶋ちゃん、酒は」急に顔を上げてジト目をしてきた。
「あっ……ただいま……」
さすがに忘れていた。しかしこれ以上飲ませていいものだろうか。さすがに理性はあるよ!!
「これで最後にしたほうがよいのではないですか?」ジト目に負けてカウンターにグラスを置く。
「飲んだ気分によるなぁ」
普段はもうちょっとしっかりしているような…。意外と気分屋なのかな…。
はっ!気づかずうちにこんなプライベートな分析をっ……自分で自分をうらやましがる(ただの自己陶酔)に陥る。
かおりんはグラスを片手にしてそっと深オレンジ色に口づける。よくよく考えれば、自分で作ったカクテルをこんな届きもしないと思っていた人に飲んでもらうなんて絶妙に緊張する。
「いかがでしょうか」
「んー、マスターには負けるわね」
「申し訳ありません。まだまだ修行中の身でして……」
動揺しながら作ったというのもあるが、所詮は素人。うまいカクテルなどまだまだである。
憧れの人に酒を提供できたのは誇らしいが、冷静にカウンターを一時とはいえ任されたものとして若干の悔しさが残ったのもうそではない。
「羽嶋ちゃん」
「はいっ」
「まずいなんて一言も言ってないよ?むしろ可能性を感じたよ羽嶋ちゃん。また来るからさ。そのたびにまた新しいお酒作ってよっ」
彼女はいつも僕に見せてくれる笑顔を目の前で見せて言った。
こんなにくだけていても、憧れのひとは憧れであった。
ここでいっそファンであることを言ってしまおうかなんて思った。ファンであることを伝えるのがお礼みたいに勝手に感じてしまったからだ。
自己中心的な考えではあると思ったが、やはり……
伝えたい。
「あのっ!」
すぴぃーーー
……えっ?
あの……かおっ…
すぅぅ~~っ……
……寝た!?
髪を若干顔にかぶせて首をこくんこくんさせる姿は愛らしさそのものであった。
ってそんな場合じゃないだろ!
しかもこのタイミングって……
とんでもないところでファンを置いてきぼりにするところは彼女のライブMCそっくり。
と、日夜かおりんのことしか考えていないオタぶりに嘆く。
いやいやいやいやいや起きて!
「あのっ……お客さん?華織さーーーんっ」
「あっ、また寝ちゃった?」
「あ!マスター!」
用事を済ませて帰ってきたマスターがカウンター口から顔を出していた。
「あの、大丈夫なんですか?つぶれたりしてないですよね……」
「あー、今日はただ寝てるだけだから自力で帰れると思うよ」
「今日は自力でって、いつもどんなことになってるんですか!?」
その後、なんとも不運なことに僕がトイレに行っている際に、伊野華織は目覚めてすぐに帰ってしまったらしい。
最後に見送りができなかったのが残念だが、ここの常連な感じは重々伝わっていたので次回また会える期待をしてしまっている自分がいた。
「マスター、あの女性の方っていつからここの常連さんなんですか?」
「うちができて間もない時からだね。偶然通りかかったら気になってくれたんだとさ。知ってた?伊野華織ちゃんっていう声優さんなんだよ」
「ええ、いつも僕の生活の支えであり、蝕む存在でもあります」
「……千秋、一杯おごるぞ」
「病んでませんっ!」
♢
結局一杯だけ交わしたのだが、マスターがこんなことを言っていた。
「華織ちゃん、お前のこと言ってたぞ」
「ぶっ…っ、え、なんて言ってたんですか」おもわずむせてしまった。
「お前の酒、また飲みに来るって」
ぶふぉっっ! おもわず吹いてしまった。
「……華織さんがマスターにも言ってたんですか?」
「まっ俺の二番手だけどな」
改めてファンとしてではなく、バーの一人として嬉しさが込み上げてきたのは今日が初めてだった。
「あの、マスター」
「ん?」
「レシピのレパートリー増やしたいんですけど、付き合ってもらえますか?」
そう言うと、マスターは眉をきりっとさせ、
「おうっ」っと笑って返事をしてくれた。
伊野華織様、次回のご来店を心よりお待ちしております。
♢本日のカクテル♢
[アップル・カー ~Apple Car~]
世界的に有名なカクテル「サイド・カー」のベースを、アップルブランデー「カルヴァドス」に代えてつくったカクテル。オレンジ色で甘辛口。カルヴァドスのコクが印象的。
読んでいただきありがとうございます。
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まだまだ伊野華織は来店予定です!