4:塵に還る
―――夜。 一羽の鴉がやかましく鳴いている上井家周辺。
“彼”は勝手知ったる我が家のように、 何のためらいもなく、 その敷地に足を踏み入れる。
見に包んだ襤褸切れが、 吹き抜ける風を受けてはためく。
長い放浪生活のためか、 その顔には年齢にはふさわしくない皺が刻まれている。 しかし、 “彼”の中身はもっと老いてはいるのだが。
昨夜、 “目標”との精神交換に失敗した“彼”は様子を見に来たのだ。 “彼”が精神交換に失敗したのは初めてだった。 遠目に確認したが、 “目標”がこの地を去った様子はなかった。 仮に去っていたとしても、 “彼”の精神交換が失敗することはないのだが。
――――――さて、 どうするか。
以前、 取り替えたこの体の持ち主は、 様々な伝手を使って、 原因を探っていたみたいだが……結局は無駄に終わった。
その時に、 彼が残した情報を処分しなかったのが失敗だったのか?
そう自問しながら、 “目標”が寝ているであろう二階を見上げて―――。
何者かに取り押さえられた。
―――!?
上からのしかかられた上に右腕をねじりあげられて、 混乱する“彼”の目の前、 上井家の居間から明かりがつき、 中から青年が現れた。
彼こそ“彼”が狙った“目標”であり、 “彼”の孫である穂村 暁大だった。
「お祖父さん……」
穂村は悲痛な表情で“彼”を見た。
―――いや、 待て。 この男は何と言った?
確かに“彼”は穂村 暁大の祖父である。 しかし、 今この体は彼の娘と結婚した男―――穂村の父のものである。
それに上糸 振夢はもう死んだはずだ……公式には。 この上糸家の玄関でドロドロの腐敗死体となって発見されていたはずだ。
なおも混乱する“彼”に上から声がかけられた。 若い女の声だ。
「さて、 観念してもらおうか。 上井 栄福」
そう言うと、 若い女性―――円はさらに強く右腕をねじり上げる。 痛みに栄福の口からうめき声が漏れる。
「『禁じられた言葉』を!」
「は、 はい!」
『禁じられた言葉』を使えば栄福は塵に還る。 そうすれば、 この事件は解決するだろう。 栄福は円の拘束から逃れようとするが、 円がさらに力を籠めれば、 再びうめき声をあげて、 大人しくなる。
諦めたのか、 そう考えた円だったが、 栄福の横顔を見て、 自分の考えが甘かったことを知る。
栄福の顔に笑みが浮かんでいた。 追い詰められているというこの絶体絶命の状況で、 会心の笑みを。
「! 先輩!」
「っ!」
穂村の声に応えるように降り向いた円は、 軟体上の黒い液体が自身に襲い掛かってくるのを目にした。
軟体ながら、 円の頭部を狙う鋭い一撃。 その一撃をとっさに半身を反らすことで回避するが、 取り押さえていた栄福から手を放してしまう。 再び押さえようとしたが、 黒い影が円の胴を狙い鞭のようにその体を打ち込んできたので、 やむを得ず、 栄福の体から離れるように飛びのく。
「こいつは……! 」
黒い影を改めて目視して、 円の顔が驚愕に染まる。 黒い影は振夢を守るようにその軟体の身体をくねらせる。 知性があるのか、 先端を後ろにいる円と正面にいる間宮達の交互に標的に定めるかのように揺れている。
その光景を見ていた穂村は振夢の研究レポートに書かれていたことを思い出した。
それは、 『塵を踏み歩くもの』とは異なる神の落とし子。
それは、 いかなる武器の影響を受けない怪物。
その名は―――
「『滑る影』」
その声に反応したのか、 一般的な成人男性を超えるであろう大きさを持つ影は、 声の主である穂村の方に狙いを定める。
しかし、 それを見た円が振夢に駆け出す。 術師である栄福の意識を刈ることで、 『滑る影』このコントロールを失わせるためだ。 怪物よりも人間の身体をしたものの方が相手しやすいというのもあった。 ようやく起き上がったばかりの栄福は円からの不意打ちに驚いており、 ろくな防御を取ろうとしない。
―――手加減無用!
走り出した勢いのまま、 右の拳を打ち込む。
勢いを乗せた一撃は回避も防御もできなかった栄福の顔に叩きこまれることはなく、 粘性のある黒い液体、 『滑る影』に阻まれる。
慌てていた様子を見せていた栄福は『滑る影』による防御が間に合ったことを知ると、 「当然のことだ」と言わんばかりに見下した視線を円に送る。 そのまま、 『滑る影』に何らかの合図を出す。
合図を受けた『滑る影』は円の右拳を包みこむように捕らえると、 そのままおもちゃのように振り回す。
「う、 おおぉおぉおおお!?」
女性らしくない悲鳴を上げながら、 なすすべもなく回される円。 元々、 身長が高く、 筋肉も一般的な女性どころか、 男性よりもついている彼女がこのような形で振り回されることは予想外のことだった。 そもそもこの現代社会、 このような形で振り回される経験などそうそうないだろうし、 当然それに対する対策など用意しているはずもなかった。
そして、 『滑る影』は振り回した勢いを活かしたまま、 上井家の縁側へと投げ飛ばす。
ガシャン! と大きな音を立てながら縁側のガラス窓を突き破りながら、 円は上井家の中へと飛ばされる。 「いったぁ……」と小さな声を上げながら、 起き上がったその頭は自身の血で濡れていた。
「……っこの!」
その光景を見ていた穂村はとっさに、 近くにあった石を数個投げつける。 しかし、 石のほとんどは栄福に当たらず、 見当違いの方向へと飛んでいく。 唯一栄福目掛けて飛んで行った石も、 『滑る影』があっさりと受け止めてしまう。
ある程度は予想していたことだが、 実際に目にすると、 どうしても焦りの方が先に出てしまう。
栄福が残した研究資料の中には『滑る影』についても書かれていた。 物理的な攻撃は一切通用しないことが明記されており、 それは目の前の光景が証明してしまっている。
一応、 火や化学薬品での攻撃ならば『滑る影』に損傷を与えることができるとも書かれていた。 しかし、 この田舎に化け物に影響を与えることができるような化学薬品など存在していないし、 火は論外。 この住宅街で『滑る影』が火だるまにでもなろうものならば、 ここら一体が火事になりかねない。 当然ながらそのような惨事は避けなければならない。
そのような穂村の心情を見抜いたのか、 栄福はニヤリと嗤うと一歩一歩近づいてくる。
思わず、 一歩下がった穂村の後ろからすぐ横を何かが飛んでいく。
それは上井家で使われている椅子だった。 常人であれば持ち上げることも投げることもできるであろうそれは、 間違いなく穂村が先程投げた石より大きいものである。 勢いよく飛んできた椅子は何もしなければ、 栄福の顔へと命中することだろう。
しかし、投げられた椅子は、 当然ながら栄福に当たる前に『滑る影』に受け止められる。 いや、 それが狙いだったのだろう。 投げた本人である円は上井家の縁側を飛び越えると、 もう一つあった椅子を栄福に投げつける、 いや、 殴りつける。
この一撃も残念ながら『滑る影』が受け止める。 しかし、 それが十分な目くらましになったのだろう。 殴りつけた椅子を支点として、 滑りこむように後ろに回り、 その勢いのまま栄福の足を払う。
『滑る影』の反応すらなかった一閃は栄福も予測できなかったのだろう。 受け身を取ることすらせずに、 後頭部から盛大にひっくり返る。 栄福の口から苦悶の声が漏れるのを聞いて、 円はある予測を立てる。
―――おそらく『滑る影』には自動防御なんて都合のいい能力なんてない。
勝手な想像になるが、 栄福が感知した危険に対してのみ、 『滑る影』は反応するのだろう。 だから、 栄福が察知できなかった足払いには『滑る影』は反応できなかった。 ……のだろう。 たぶん。
しかし、 そんな予測など何の意味がないことを円は知っている。 なぜなら―――
「――――――」
栄福と『滑る影』の意識から外れた穂村が『禁じられた言葉』を唱えるのだから。
†
今の時間帯は夜だ。 少なくとも日本ではそうなっているはずだ。
しかし、 穂村が『禁じられた言葉』を唱え終わったとき、 上井家の庭は街灯でも月明かりでも各家の明かりでもない、 奇妙な灰色の光が降り注いでいた。 焦点は栄福に合わせられている。
灰色の光の出所を求めてはるか上空を見てみれば、 そこにいたのは“神”だった。
「あ、 あぁ……き、 貴様……」
絶望か、 恐怖か、 いずれにしろ栄福が必死になって絞り出して出た声はそれだけだった。
その身体は小さな子供くらいの大きさしかなかった。 しかし、 その肉体は千年二千年、 いやそれ以上の年月を経たミイラのように干からびていて、 皺だらけだった。 骨と皮だけしかないような細い首の上についている目鼻立ちのない顔にも、 毛が一本も生えていない頭にも、 無数の網目状の筋が付いていた。
先端に骨のような鉤爪の付いた管上の腕はまるで永遠の手探りをしている形で硬直しているかのように前に突き出されたままになっていた。
記述にある通りのその姿を栄福は見た記憶がある。
かつて、 この肉体になる前の、 上井 栄福本人の肉体だったころ。
永遠の命欲しさにこの神と契約したのだ。 永遠の命を与える、 または肉体を塵にしてしまう力を持つ彼の神と。
『塵を踏み歩くもの』、 真の名は『クァチル・ウタウス』。
今、 彼が召喚されたのは永遠の命を与えるためではない。 かつての契約者に罰を与えるためだ。 “破滅”あるいは“消滅”という名の罰を。
「ヒッ、 ア、 イァ、 嫌だああぁああああああ!」
今までの動きからは予想もできないような機敏な動きで、 栄福は跳ねるように起きる。 そして、 呆然とクァチル・ウタウスを見ている円を突き飛ばすと、 そのままどこかへと逃げだした。
……そう、 “どこか”へだ。 どこへ逃げればいいかなんて、 栄福本人も分かってはいない。 ただ、 かの神から少しでも遠くへ離れることだけを考えていた。
ただ、 『神』がそのような行為を許すわけもなかった。
クァチル・ウタウスは天空からその姿勢のまま地面に降り立つと、 干からびたその足を曲げることなく、 滑るように振夢を追いかけていった。
その途中で、 『滑る影』が主を守ろうとクァチル・ウタウスの前に立ちはだかるが、 クァチル・ウタウスが『滑る影』 に少し触れるだけで、 『滑る影』は塵になってしまった。 円達を苦しめた怪物でさえ『神』の前には無力だったのだ。
栄福とクァチル・ウタウスがどこかに行ってしまってからしばらくして、 栄福の悲鳴があたりに響き渡る。 かと思えば、 少し遠くで再び灰色の光の柱が天高く伸びていき、 クァチル・ウタウスと思しき影がその柱を伝って天に消えていった。 愚か者に罰を下した『神』は再び天へと帰っていったのだ。
「なにあれ」
ボソリ、 と沈黙を裂くように円が呟いた。
「なにあれ、 訳が分からないんだけど。 なにあのミイラ。 なんで空から降って来たの? 本当に訳が分からないんだけど。 一体どうなってんの。 あの『滑る影』も一瞬で塵にするし、 米軍? 米軍の最新兵器なの? 神の杖なの? それとも最新型の細菌兵器なの? そんなわけないよね、 もうほんとうにわけがわからない……」
「先輩!?」
一息で次々と言葉を綴る先輩の奇行に、 深夜だということも忘れて思わず大声を上げる穂村。 一方、 円の方はそんな後輩の動揺にも気づかずに、 矢継ぎ早に話し続ける。
「ところでさ、 穂村君。 さっきのアイツの絶叫で近隣住人が気付いたと思うんだ。 ほら、 見てよ。 周りの明かりが次々点いてる。 いや、 違うかな。 多分ここで私達含め盛大に暴れた時の騒音で、 目を覚ましたのかな。 そういえば、 私が投げられたときにガラスが割れて、 盛大な音を立ててたね。 だとしたら大変だね。 あのわけわかんない存在見た人がいるかも。 というか、 もう通報されているかもしれないから今のうちに言い訳考えた方がいいんじゃないかな。 私としては、 強盗でごまかそうと思うんだ。 ところで」
「先輩、 分かりましたから。 といか、 先輩もケガしてるんで少し休んでいてください。 お祖母ちゃんや周りへの説明は僕がしときますから」
「えっ、 あの、 この話はまだ終わってな」
「ハイハイ、 そうですね。 大変でしたね。 これから忙しくなると思うんで、 今のうちにその頭の血を止めてください」
まだ喋り足りなさそうな円を強引に家の中に入れる穂村。 ブツブツと何か呟いている円のために救急箱を持ってきたころ、 パトカーのサイレンがこの植酉町に響き渡る。
どうやら、 円が言ったように、 誰かが通報したらしい。 家の周りではザワザワと近所の人が起きたらしく、 玄関先に集まってきている。
家の奥から穂村の祖母が不安そうにこちらを眺めていた。 なので、 穂村は少しでも安心させようと笑顔で話す。
「大丈夫だよ、 全部終わったから」
孫の奇妙な言葉に 「はあ」と、 どこか納得のいってないような声で答えた祖母だが、 ベランダの窓ガラスが割れていることに気付いて仰天した。
「どういうことなの!? わたしが寝ている間に何があったの!?」
「あ、 お婆さん。 強盗ですよ強盗。 私も頭をガツンとやられまして、 でもまあ、 穂村君と一緒に強盗を追い払ったのでもう大丈夫ですよ。 ええ」
「そうなの? ……って貴女、 頭から血が出ているじゃない! 大丈夫なの!?」
「大丈夫ですよ。 頭からの出血って、 案外大したことなくても、 結構出るもんなんですよ。 いや、 本当に。 まあ、 この後、 病院か診療所に行こうとは思いますけど」
「は、 はあ……」
まるで詐欺師かペテン師のように話し続ける円の言葉に圧倒される穂村の祖母。 野次馬が大分増えてきたころ、 ようやくパトカーが上井家の前に止まる。
その光景を見て穂村は安堵したように溜息をつく。 これで、 悪夢に悩まされることはないだろう。 と。
先程まで上井家の周囲でやかましく鳴いていた鴉はもうどこにも見当たらなかった。




