1:発端
というわけで、 改訂版になります。
何卒よろしくお願いします。
悪を罰しない者は、 悪を行えと言っているのだ。
He who does not punish evil, commands it to be done.
レオナルド・ダ・ヴィンチ
Leonardo Da Vinci
くぁ、 と桐島 円は大きな欠伸をした。
梅雨入りを目前に控えた六月初旬の三塚大学。 その一室では非常勤講師、 石間 傑による退屈な講義が行われていた。
ワックスで整えられた髪と神経質そうな顔、 高級そうなスーツに身を包んだ石間の講義は退屈極まりないものだった。
円の友人であり、 同じように講義に参加している奥畑 実里は講義の出欠を取った後にすぐに寝てしまい、 講義が終わった後に円に起こされるということを毎回のように行っていた。
もっとも、 これは実里に限った話ではない。 周囲を見れば、 円と同じように大欠伸をしているものはまだましな方で、 実里と同じように居眠りをしているもの、 堂々とスマートフォンを操作しているものもいた。
だがそれも仕方がないと言えるだろう。 この講義は出席しているだけで単位が貰える講義であり、 とても九十分も集中していられるほど素晴らしい講義ではないからだ。
同じように出席するだけで単位が取れる講義は他にもあり、 それらは石間の講義よりも面白かったり、 ためになったりするような内容の講義を行っているので、 このつまらない講義に参加する必要はほとんどないと言っていい。
実際、 三塚大学の中でも小さい分類に入る講義室も半分以上の席が空いており、 円のようにスマートフォンを操作せずに、 今もなお起きている学生の机の上も、 講義とは関係ないものが広げられていた。
今もなお残っている学生達は、 講義を取った以上は単位を落としたくない。 といった考えからきているにすぎず、 円達もそういった考えから受講しているだけに過ぎない。 事実、 円の机の上はこの間図書館で借りた小説が広げられていた。
石間 傑の講義はつまらない。 受講する学生は定員の半分もいればいい方で、 真剣に聞いているのは一人いればその年は当たり年だ。 口の悪い他の講師や教授はそう噂している。 円としても同意見だった。
(……そう、 思っていたんだけれどもねえ……)
石間 傑の講義はつまらない、 講義室は半分埋まれば良い方。 それはこの三塚大学文学部の常識であり、 それは今期に入っても変わらなかった。 そのはずだ。
しかし、 六月に入ってから初めての授業。 小さな講義室の席はすべて埋まり、 立ち見をする人までいた。 だが、 石間の講義が面白くなったとかそういうわけではない。 いつも通りのつまらない退屈な講義だ。
隣に座っている実里も講義が始まって数分でいつものように眠りについた。 しかし、 もう片方に座っている女学生は崇拝するかのような目で石間を見つめている。 しっかりと講義自体は聞いているようだが、 机の上にノートなどは広げられてはいない。
退屈な話を聞き続ける趣味は円にはないので、 彼女は開いた小説の続きを読もうとする。 そうすると、 後方から視線を感じる。 振り向かなくとも、 それは後方で立ち見をしている生徒達のものであると何となくだが、 分かった。 分かったが、 振り向いて確認する気にもならない。
結局、 後方からとげとげしい視線を感じたまま、 いつものように講義が終わるまで、 円はずっと小説を読んでいたのだった。
講義の終わりを告げるチャイムが鳴ると、 講義室は一気に騒がしくなる。 机の上に広げた物を片付ける人、 隣にいる友人に話しかける者。 様々だ。
円も居眠り中だった友人、 実里を起こしてから講義室を出る。 一方で、 新しく講義を聞き始めたと思しき者達、 円の隣で講義を聞いていた女学生も含めて、 石間を崇拝するかのような目で見ていた者達は教壇を降りた石間と囲み、 積極的に話しかけていた。 なんだかんだと、 そのまま講義室を出ていったのは円を含めて十人程だった。
石間自身が崇拝されるような功績を成し遂げたという話は聞いたことがない。 いったい、 何があったのだろうかと疑問に思いながら、 円は実里と共に次の講義室へと向かっていった。 次の講義は、 彼女が日ごろから楽しみにしている准教授の講義だ。
「ねえ、 貴女達」
廊下を歩いていると突然かけられた声に、 円と実里は振り返る。 そこにいたのは二人の女学生。 円は彼女達と話をしたことも会ったこともない。 実里の方を振り向いても「知らない」と言わんばかりに首を傾けるばかりだ。
二人の女学生はそんな彼女達の様子を気にもせずに話を続ける。
「貴女達、 石間先生の講義を受けているのでしょ? 次から変わってほしいの」
「どうして?」
疑問を挟んだのは実里。 円も同じように疑問に思っていた。 見も知らない相手につまらない講義の席を代わってほしいなど、 疑問に思うのが普通といえるだろう。
「別にいいじゃない。 出欠も貴女達の代わりに取ってあげるからいいでしょう?」
どうせ、 居眠りしたり、 別の本を読んでいたりするだけなんだし。
そう言いながら、 とにかく代わるように要求してくる女学生達。 その異様な気迫に圧されたのか、 実里は自身よりも大柄な円の後ろに下がる。
円も二人の雰囲気に異常を感じた。 こういう時は素直に要求を受け入れるのが問題を起こさない一つの方法といえるだろう。 最悪失うのは単位の一つのみ。 あまり損をするという話でもない。
「その申し出はありがたいけど、 講義は自分で受けてこそ価値があるしね。 行こう、 実里」
「え? あ、 うん」
しかし、 その異常な必死さから何か怪しいと感じた円はこの申し出を断ることにした。 出席しているだけで、 この返答はいかがなものかと心の中で突っ込みながら。
要求を断られて呆然とする女学生二人を背にして、 同じように呆然とする友人の手を引いて円は次の講義へと向かう。
―――もしかしたら、 なにか事件が起こりつつあるのかもしれない。
呆然としていた二人から向けられる敵意を感じながら円はそう考えていた。
†
「やっと終わったぁ」
そう言うと同時に泉 彩香は盛大に背伸びをした。 その小柄な体格はどうしても小学生にしか見えないが、 実際は国立三塚大学の医学部を現役で合格した才媛である。
彼女は先程、 教授から与えられたレポートの課題を終わらせることが出来た。 出された課題の量からして、 最悪徹夜を覚悟していたのだが、 日が沈み切っていないうちに書き上げることが出来たそれは、 なかなかの出来であると彼女自身は考えていた。
誤ってデータを消してしまう前に、 一度記録をした後、 レポートのデータをUSBメモリに移す。 この後、 大学のパソコンルームで数十枚に及ぶレポートを印刷する必要があるからだ。 徹夜した場合は朝市で印刷をしに行くつもりであった。
データ転送できたら楽なんだけどなぁ。 と考えながらノートパソコンの電源を落とす。 彼の教授は大量の課題を出す癖にデータ転送での受け取りを認めていなかった。
一応これでもまだマシになっているらしく、 数年前までは課題の全てを手書きで処理しなければ認めなかったという。 しかも、 字の汚さまで口うるさく突っ込んでいたというのだから、 学生側としては迷惑極まりない。
それを考えれば、 かつてこの講義を受けた先輩方よりかは楽になったものだと思いながら、 自身の荷物をまとめ、 医学部生が多く集まるラウンジを離れる。 途中であった友人達と少し会話をした後、 パソコンルームがある校舎へと向かう。
「そうなんですよ! ぜひ先生に読んでほしい本がありまして……」
(……およ?)
その途中で一つの集団とすれ違う。 男女問わず十数名の学生に囲まれながら歩く中心には、 まだ若いが学生には見えない風貌の男性。 学生の身分では手に入らないであろう高級そうなスーツに身を包んだ男だった。 おそらくは大学の講師だろうが、 その顔に特に見覚えはない。 おそらくは別の学部の講師なのだろうと判断した彩香だが、 男を取り囲んでいる生徒たちの中に見覚えのある顔が一つ。
(林田じゃん。 何しているんだあいつ)
林田 修一。 彩香と同じ三塚大学の医学部学生ではあるものの、 二回生になってからあまり大学に来なくなった男だ。 彩香も二回生になってからは一度しかあったことはない。
噂では単位を落としすぎて、 そのまま留年してしまったらしい。 ただ、 彼女が最後にその姿を見た時の雰囲気が完全に異なっており、 彩香が彼に気が付いたのは偶然に過ぎなかった。
依然見たときには、 常に苛立っており、 余裕も夢もないような様子だった。 身だしなみにも気を使っている様子ではなく、 薄汚い印象がどこかにあった。 しかし、 今の林田は身だしなみこそそう変わらないものの、 まるで憧れのスーパースターに出会い、 話をすることが出来たような少年のように輝いた表情をしている。
だが、 その講師らしき男性のことを、 林田と同じ医学部生である彩香は知らない。 もしかしたら、 講師が所属している学部では有名人なのかもしれないが、 少なくとも医学部では無名といえるだろう。
それなのに、 最近大学では見かけなかった林田が男のことを憧れの目で見ているのか。 それに、 彼女は今まで一人の若い講師を十人以上の学生が取り囲んでいるという光景に出くわしたことがなかった。 その異常ともいえる光景に興味がわいた彩香はレポートの印刷を後回しにして、 その集団の後をつけてみることにした。 パソコンルームは日が沈んでからもまだ開いているし、 最悪、 翌朝に印刷すればいいとも彼女は考えていた。
幸いなことに講師を取り囲む奇妙な集団は話に夢中のようで、 こっそりと後をつける彩香のことには気がつく様子もなく、 我先にと講師に話しかけていた。
「実はまだ僕もさわりしか読んではいないんですけれど、 本当に素晴らしいですよ! 人生が変わりますよ!」
「へえ、 そんなにかい?」
「ええ! “グラーキの黙示録”という本の十二巻目なんですけれども……」
「む、 すまないがこれから私用なのでな。 その話はまた今度ということで」
熱心に話す林田の言葉を遮るようにそう告げると、 講師は学生の集団から抜け出て、 校舎の一つに入っていく。
そもそも、 まださわりしか読んでいないのに人に勧めるのはどうなのかという突っ込みどころがあるのが、 それ以上に気になったのが本のタイトル。
『グラーキの黙示録』というらしいが、 林田は何かの宗教にハマって勧誘をしているのだろうか。 周りの学生達も林田の話を止めようとしないのを見ると彼らも同じく宗教にハマっているのか。 とすれば、 これははた迷惑な勧誘行為ではないだろうか。
「ええ、 また今度に。 石間先生」
たしか、 迷惑な勧誘行為は禁止されていたような。 と、 考えていた彩香の耳に入ってきたのは林田の言葉。 どうやらあの講師の名前は石間というらしい。
そして、 石間が校舎の中に入っていくと学生の集団は一人一人とバラバラに動き出す。 その中で、 林田と彩香はすれ違ったが、 林田が彼女に気付くことはなかった。
何となく声をかけようとした彩香だったが、 ボソリと小さく呟いた林田の言葉に、 思わず押し黙る。
「早く、 アレを読んでいただかないと……俺達には救世主が必要なんだ」
その言葉からは焦りが見え、 同時に非常に強い意志が込められていた。
何が彼をそこまで追いつめたのか、 彩香には理解できなかった。 交流が少なかったというのもそうだが、 ただの成績上の問題では出せない気迫がそこにあった。
もしかしたら、 彼女の知らない“何か”がそこにあるのかもしれない。 彩香がそう考えている間に林田の姿は他の学生に紛れて見えなくなっていた。
「あっ、 そういや印刷しなきゃ」
少しの間、 林田と謎の集団、 そして彼らに囲まれていた石間という講師について考えていた彩香だったが、 あることを思い出し、 踵を返す。
そう、 完成したレポートの印刷はまだできていなかったのだ。 まだ時間があるとはいえ、 完成させた以上は早々に印刷しておきたい。 うっかり忘れてしまった場合などは考えたくもない。
急ご急ご。 と口早に呟くと、 彩香はパソコンルームのある校舎へと改めて向かった。
先程の言い表せない不安を忘れるように。
†
「まどかー」
翌日。 登校中の円を呼ぶのんきな声に振り向けば、 そこには小学生と見間違いかねない体格を持つ少女。 中学校からの友人、 泉 彩香がそこにいた。 二人とも同じ三塚大学に通ってはいるが、 学部が違うこともあって、 こうして会うのは久しぶりになる。
「おー、 相変わらず小さいなあ」
「やめてよもー」
わしゃわしゃと小柄な彩香の頭をかき乱す円とやめさせようと抵抗するものの、 どこか楽しそうな彩香。 かたや、 身長 一四三センチの小柄で細身の合法ロリ。 かたや、 身長 一七四センチと女性にしては高い身長に筋肉質な体躯。 理系と文系。 全く違う二人だが、 逆にそれが良かったのか、 中学でたまたま隣り合った席になってから今までこうして交流が続いていた。
ワイワイと近況を話し合いながら、 大学への道を歩いていく二人。 話の中で彩香が出会った奇妙な集団、 その中心人物である石間の話を彩香がしたとき、 円はこの間あった奇妙な出来事を思い出した。
「そういえば、 その石間先生の講義なんだけれども、 全く面白くないのに昨日の講義は満員だったんだよね……普段は教室の半分も埋まればいい方なんだけれども」
「へ〜、 その石間って講師に最近何かあったのかな」
「いや、 そんな話は聞いたことはないけども……石間って名前の講師って他にいなかったっけ? その人と勘違いしてたりとかはないかな」
「う〜ん。 あたしがみた“石間先生”の特徴とほとんど同じなんでしょ? その受講者が増えた講師。 同じ名前に同じような特徴なんて人が同じ大学に二人もいるなんてそうそうないと思うけれども」
「ほう、 それは何かありそうですなあ」
「う〜ん」と考える仕草を行う彩香。 そんな彼女に背後から声がかけられる。 円と彩香の二人にはその声の主に心当たりがあった。
円はなんとなしに、 彩香は心底嫌そうな顔で振り返れば、 声の主は彼女達が予想したとおりの人物だった。
「あ、 桜子先輩」
「何しに来たんですか。 アンタは」
振り返る時と同じような態度で声の主、 蕨 桜子に声をかける二人。
桜子は十人中八人は確実に振り返るような美貌に薄っぺらい笑みを張り付かせながら、 後輩に話し始める。
「いやな、 石間って言ったら、 あの講義も人柄もつまらないって評判の奴だろ? それがなんで突然人気者になったのか……興味がわいてくるじゃねえか」
「アンタが関わるっていうのならあたしは関わりませんよ。 この話には」
うぎぎ。 といった擬音語が似合いそうな表情で文句を言う彩香。 そんな彼女を気にもせずに桜子は円に話しかけようとし―――
「誰か階段から落ちたぞ!」
そんな声に行動を中断された。
声がした方へ三人は反射的に駆け出す。 三人が走り出した方向には確かに階段があるが、 そこで事故が発生したことなど彼女達の記憶にはなかった。 特に急というわけでも、 滑りやすいというわけでもなく、 手すりだってついている。 雨も梅雨入りを目前に控えてはいるものの、 昨日今日と、 雨が降ったことはない。
すなわち、 そこから転げ落ちる可能性などほとんどないと言っていい。 仮にもしあるとするのならば大学構内で飲酒するというアホが酔って足を滑らせたときか。 あるいは。
「実里!?」
「ま……どか……? だれ、 かに……突き、 落とされ」
「分かったから、 動かないで! 彩香、 救急車!」
「う、 うん」
そう、 もしもここで誰かが転落したというのならば、 事故よりも事件の可能性の方が高いのだ。
階段の下で、 頭から血を流しながら倒れている友人、 実里の姿を見て慌てる円。 そんな円の要請に慌てながら救急へと電話をする彩香。
そんな彼女達から何気なく視線を外した桜子は見た。
階段の上から人込みを抜けるように去っていく人影を。
(こいつは、 なかなか面白そうなことになってきたじゃねえか)
後輩が重傷を負ったというのに、 そのようなことを考えてしまうのは彼女本来の気質か。
ただ、 彼女はまだ知らなかった。
これは始まりに過ぎなかったということを。
冒涜的で救い難い事件。 彼女が好奇心から首を突っ込むことになる事件がどのような結末を生み出すことになったのか。
予知能力を持たない彼女にとっていまだ知らぬことであった。