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Bravo!  作者: レイチェル
9/33

9. 舞踏会の波紋



 やわらかなベッドの中で、テオはふっと目を覚ました。

 窓から差し込む光から、もうずいぶん日は高いということがわかる。ぼうっとする頭のままテオは起き上がろうとしたが、その瞬間頭にガツンと痛みが走り、すぐに枕に舞い戻った。


「……っ」


 頭が割れるように痛い。なんだこれ。

 テオは大きく息を吸っていくらか痛みを逃すと、記憶を辿った。

 

 昨夜はいよいよ宮殿に行き、舞踏会で演奏した。思いのほか人の数が多くて驚いたが、失敗することはなかった。その後は……そうだ、確か街角の酒場で大量に酒を飲んだ。頭痛の原因はこれだ。それからマルグレーテがやってきて、バイオリンを弾いて、そして…………吐いた。

 その事実を思い出すと、テオは盛大に大きなため息をついた。最悪だ。

 だが、まてよ、ベッドに入った時は気持ちが高揚していた覚えがある。なにかとても嬉しいことがあったような。一体なんだ。テオはずきずきする額に手を当てながら一生懸命思い出そうとした。

 たくさん吐いた後、広場の噴水でマルグレーテと少し話をして、それから馬車に乗って屋敷に帰った。

 吐いたことを除けば、いたって普通の展開だ。

 そもそも俺はなんで酒をあんなに飲んだのだろうか。テオは痛む額に当てていた手を見てはっとした。


 そうだ、手の甲にキス! 貴族の男に嫌味を言われたんだっけ……。結局マルグレーテの手の甲にキスはできなかった。チャンスはあったのに、俺が吐きそうになったから。

 考えれば考えるほど、最低な夜だ。テオは二度目のため息をついた。


 とりあえず喉を潤したいと思い、ちらっと頭をもたげ、ベッドの脇に水差しとグラスが置いてあるのに気づくと、手を伸ばして重い頭を少しだけ上げて水を飲んだ。おそらく執事のハーゲンが用意してくれたのだろう。

 グラスを置いて息を吐きながら再び枕に頭を戻す。

 昨夜も確か、寝る前にハーゲンが水を入れてくれた。いや、彼だけじゃない、マルグレーテと一緒にいた侍女からも水をもらった記憶がある。彼女にはちゃんと礼を言っていなかった。マルグレーテには? 噴水の前で伝えた気がする。ああ、くそ。わかれる時にでも手の甲にキスさせてもらえるよう頼めばよかった。彼女だったら許してくれたかもしれない。

 テオは頭の痛みを感じながら眉を寄せた。まて、昨夜俺はちゃんと彼女にわかれを言ったか? 馬車から降りる時、おやすみの一言も告げた記憶がない。なぜだ?

 テオは昨夜の様子を思い出そうとベッドの中で懸命にぐるぐる考えた。伯爵邸に着いて、侍女が先に馬車を出て、マルグレーテも出ようとした。その時彼女が何か言っていた……。


 突然テオは「ああっ!」と大きな声を出し、頭痛も忘れて思わず起き上がった。

 そうだ、マルグレーテがキスしてくれたんだ……俺の右頬に! 唇が離れた時の彼女の紅潮した顔を思い出した途端、テオは顔を真っ赤に染めて再び枕に頭を戻し、本日三度目のため息をついた。


 昨夜の舞踏会で、貴族の青年に「君はマルグレーテの足元にも及ばない」と言われたことは、大して気にしていないつもりだった。最初から身分が違うことはわかっていたし、何かを期待していたわけでもなかった。だが、いざ他人からそう言われてみると、その隔たりは深々とテオの胸に突き刺さり、どうしようもなく息苦しかった。

 だから彼女からのキスは予想外で、天にものぼる気持ちというものを初めて感じた。そうして、彼女の前で何度も吐いたという苦々しい記憶が抹殺されるくらいの喜びに包まれて、自分はベッドに入ったのだ。

 記憶を取り戻したテオは自身を落ち着かせるべく、呼吸を整えた。

 しかし、これからどういう顔をしてマルグレーテに会えばいいのだろう。もしかしたら、彼女の気まぐれな思いつきで、キスのことは忘れているかもしれない。彼女こそお酒を飲んで酔っていた可能性もある。あるいは挨拶がわりに誰にでもキスをしているのかも……。

 落ち込みそうになってきたので、テオは考えるのをやめた。


 ちょうどその時、扉が叩かれてハーゲンが入ってきた。手には替えの水差しを持っている。


「テオ様、具合はいかがですか」


「……頭が割れそうだ」


 ベッドから聞こえたテオの声に、ハーゲンは小さな笑みを浮かべ、空のグラスに水を入れた。


「今日は一日ゆっくりお過ごしください。必要なものがあれば持ってまいります。旦那様が話をしたいとおっしゃっておられましたので、そのうちこちらにいらっしゃるかもしれません」


 優秀な執事はそう言うと、水差し替えて部屋を出ていった。


 テオは額を抑えながら眉をしかめた。

 そういえば、昨日エドガーには何も言わずに宮殿を出てしまった。終盤に差し掛かっていたとはいえ、勝手に抜けたのは楽団員たちにも迷惑をかけたのに違いない。きっともう二度と演奏させてもらえないだろう。シュタンマイアー先生への詫びの言葉も考えておかなければならない。


 しばらくすると、ドアがノックされてエドガーがテオの部屋に入ってきた。

 きっと今の二日酔いの状態を大笑いされるだろうと思って身構えたが、入ってきたエドガーの顔は、南方で見た大理石のように白く、明らかに具合が悪そうだった。


「寝てなくていいのか……?」


 ベッドから頭を起こしたテオが思わずそう言ったのに、エドガーは力なく笑った。


「君にそう言われるとはな。これでもましになった方なんだ。体調はすこぶる悪いが」


 テオは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「エドガー、その、昨日は……」


「酒場でやけ酒を飲んでいたらしいな。どうした、テオ。珍しいんじゃないか? いつもは何を言われても平気な顔をしているのに」


 テオは唇を結んで下を向いた。そんな彼を見ながらエドガーは穏やかな視線を送った。


「まあ、大方予想はついている……あの後マルグレーテが君を探しに行っただろう? 会って解決したのか?」


 テオが少し赤い顔になって頷くと、エドガーは心の中でほっと胸を撫で下ろした。実はエドガーもマルグレーテと同様、テオがこの町を出ていくと言いださないか、ひやひやしていた。

 舞踏会で気を悪くしたのはわかっていた。しかし、社交界にはそういう類はつきものだ。貴族として育っていない人間に慣れろというのは酷だが、この先あの世界で生きていくにはなにかしらの逃げ道が必要だ。

 テオのウィーン滞在はマルグレーテがいてこそだな。エドガーは改めてそう感じた。


 テオはエドガーをまっすぐ見据えて口を開いた。


「エドガー、昨日はすまなかった。勝手に宮殿を抜け出して、エドガーや先生の顔に泥をぬるようなことをした。もう今後は劇場や公式の場で弾かなくてもかまわない。ただ……先生からのレッスンはもう少し続けたいんだ。頼む」


 エドガーはぽかんとした顔をしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。


「気にするな。楽団の連中もああいうハプニングには慣れている。それにシュタンマイアーはお前が途中で舞踏会を抜け出すことを読んでいたぞ」


「え?」


「少し前にシュタンマイアーと劇場で会ってな。こう言っていたよ、ウィーンに来たばかりなのに、宮殿の舞踏会での演奏などと大それた仕事を押しつけてしまって申し訳ない、テオ君はきっと最後までいないだろう、宮殿を抜け出してもそっとしておいてあげてほしい、とな」


 テオは驚いたように声を漏らした。


「先生が、そんなことを……」


 エドガーは頷いた。


「彼のレッスンは来週からまた始まるだろう。安心したまえ、君が心配することは何もないんだ。それよりも、よくあれだけの人の注目を集める演奏ができたな。皇帝陛下も君のバイオリンに喜んでおられた」


 テオは肩をすくめた。


「さすがに緊張したさ。手が震えてしょうがなかったけど、マルグレーテのおかげでいつも通りに弾けた」


 エドガーは、昨夜の姪の周りにいた青年達が脳裏に浮かんだ。


「そのおかげで、いつも以上にマルグレーテの関心を得ることができずに肩を落とした男達をたくさん見かけたがな。まあ君の役に立ったのなら、あの子も満足だろう」


「彼女には……ほんとうに迷惑をかけてしまった。俺を探すためにマルグレーテも舞踏会を抜け出したんだろう? 親父さんにこっぴどく叱られたかもしれない」


「それだ」


 エドガーは白い顔のまま得意そうに胸を張った。


「マルグレーテが舞踏会を抜け出した時、どうやって兄上をごまかすか、いろいろ考えたんだ」





~~~~~~~~~~~~~~~~~~





 舞踏会では、娘達が様々な人間と踊っている様子に、彼女の父親シュミット伯爵は満足していた。

 末娘のマルグレーテは音楽に対して異常な関心を持っているものの、今夜は一応様々な相手とダンスをしているようだった。

 伯爵自身、貴族達と話をしながら、彼女をどこの家に嫁がせようかと考えていた。相手が決まっていないのはもう末娘のマルグレーテだけだ。どのような政治を支持しているのかよりも、まず価値観の合う一族でなければ、いずれは対立する可能性もある。




「シュミット伯爵は鉄道の駅についてどのようにお考えですか?」


 伯爵は目の前で繰り広げられている鉄道談義に我に返った。ブリュグンデ男爵が自分に質問を投げかけている。伯爵は思考を鉄道へと戻した。


「駅はもちろん必要だが、やたらと作る必要はないでしょう。遠出をしない者たちの住む場所に駅を作っても意味がない。それこそ資金の無駄だ」


 シュミット伯爵の言葉に、高らかな笑い声をあげた人物がいた。


「相変わらずあなたは倹約家だな。使うか使わないかではない、建てたか建てていないかが重要なんだ」


 そう言ってのけたのは、格式高いシュレーゲル侯爵だった。彼の屋敷は宮殿を除いて一番豪勢であることで有名だ。

シュレーゲル侯は続けた。


「我々が贅沢をすることで貴族であることをたらしめんとしているように、我が国も駅をたくさん作り鉄道を敷くことで、各国に示しがつくということだ」


 旧来の貴族の鑑のような発言だ。しかしその言葉に、飛ぶ鳥を落とす勢いのグスタフ・ギュンター男爵が笑い、侯爵に挑戦的な視線を向けた。


「ばかばかしい。そんなもののために、この国はまわっていませんよ。第一に国庫のどこにそんな余裕があるとお思いですか」


 そう言われたシュレーゲル侯は明らかに不快そうに顔をしかめた。温和なブリュグンデ男爵が慌てたように言った。


「今夜は皇帝陛下の体調もご機嫌も良いようです。シュレーゲル侯、ひとつ陛下に提案してみるのもいいのでは?」


「……それもそうだ。陛下ならわかってくださる」


 そう言ってシュレーゲル侯は顔を歪ませたまま行ってしまった。シュミット伯爵はやれやれと心中でため息をついた。

 最近は貴族の中でも旧貴族と新貴族とで二項対立が目立つようになった。鉄道に関する話題ですでにこの様子だ。

 明らかに不穏とは言えないが、今の時代に貴族であることをシュレーゲル侯のように貫くのは、いささか難しいだろうとシュミット伯爵は思った。


 その時だった。


「兄上……兄上!」


 弟のエドガーが焦ったように息急き切ってやって来た。


「ベ、ベルタの具合が……!」


 シュミット伯爵は目を見開いた。






~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





 マルグレーテはくすくす笑った。


「叔父様の迫真の演技ね」


 クリーム色に包まれたマルグレーテの部屋では、長女のベルタと末妹がテーブルでお茶を飲みながら昨夜の出来事に話を弾ませていた。

 ベルタは肩を震わせながら言った。


「当然、私はただ疲れてしまったというだけで宮殿の一室の長椅子に腰掛けていたのだけれど、怪我も何もしていなかったから、叔父様の早とちりということで片付けられたの。その後で散々お父様にどやされていたわ」


「おお、恐ろしいこと」


 マルグレーテが身震いすると、ベルタは少し穏やかな顔になって首を振った。


「いいえ。私、お父様が血相を変えて部屋に飛び込んできたのを見て、とても嬉しかったわ。普段の生活でも社交界でも、私達にあまり興味がないように見えるけれど、私の具合が悪いときいて心配してくださったのよ」


 マルグレーテはふうんと意外そうに頷いた。確かに取り乱した父なんて見たことがない。


「その後は? どうやってお父様を宮殿に引き止めたの」


 ベルタは言った。


「お父様は私達にはもう帰る準備をしなさいと言ったの。ロザムンドやギゼラもね。それからあなたはどうしているかと尋ねてきたわ」


 マルグレーテはぎくりとした。


「そ、それでなんと答えたの?」


「疲れてしまったようだから、エンマと一緒に叔父様の馬車に乗って、先に宮殿を出たと伝えたわ。嘘じゃないでしょう?」


 マルグレーテはふむふむと頷いた。ベルタは続けた。


「お父様も私達と一緒に帰ろうとしていたみたい。そして陛下に挨拶をしてくると言って、部屋を出ていったわ。その後すぐに叔父様がお父様を待たずにすぐに帰れと言ってくれたの、まだ宮殿に引き止める必要があるからって」


 マルグレーテは叔父の顔を思い浮かべて感謝の念を捧げてから、ふと疑問を口にした。


「どうやって引き止めたのかしら。だって、街には辻馬車だってあるし、その気になれば……まあお父様はならないかもしれないけど……宮殿からだったら歩いて帰れるわ」


 ベルタはにんまりと笑った。


「お酒よ、お酒」


「お酒?」


「ええ、叔父様は残っていた貴族達を巻き添えにして、お父様を酔い潰したのよ」


「嘘……!」


 マルグレーテは顔を引きつらせた。あのお父様が? 叔父の酔っ払った様子はたくさん見てきたが、父の姿は想像すらできなかった。


「お父様を含めて、多くの貴族が叔父様のせいで宮殿で夜を明かすことになったの。だからお父様は今朝の朝食の席には、体調を理由に席を空けていたでしょう? 完全に二日酔いなのよ。きっとあの場にいた方々はみんなそう。もちろん、叔父様もね」


「叔父様……勇者だわ」


「お父様は昨夜の舞踏会のことはあまり思い出したくないと思うの。だから、きっとあなたのことを追求してくる心配はないわ。少なくとも朝帰りのお父様よりは早く帰ったのだから」


 マルグレーテはほうっと一息ついた。自己犠牲型だが、策士の叔父様が味方でほんとうによかった。


「叔父様にはきちんとお礼を言わないと。お姉様もほんとうにありがとう」


「私は大したことはしていないわ、それより……」


 ベルタはいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。


「テオさんはどこで何をしていたの?」


「街の酒場にいたわ。やっぱり宮殿よりそっちの方が安心するらしかったの」


 マルグレーテのさらっとした答えに、ベルタはさらに笑みを深めた。


「ギゼラとロザムンドはすぐ眠ってしまったから気づかなかったようだけど、私達が帰ってきた時、あなたはまだ屋敷にいなかったでしょう? 何をしていたの、マルグレーテ」


「なにも。ちょっとバイオリンを弾いてもらっていたら、いつの間にか時間が経ってしまっていたの。さあ、この話はおわり」


 マルグレーテは素気無い態度で立ち上がると、姉を追い立てるように言った。


「さあお姉様、私はやる事があるから悪いけど部屋から出ていってちょうだい」


「えぇーっ! 教えてくれたっていいじゃない、エンマはなんにも教えてくれないのよ!」


 食い下がろうとする姉にマルグレーテはそっけなく言った。


「あたりまえでしょ、私が口止めしたんだから」


「私だってあなたに協力したじゃないの」


「ええ、お姉様。ほんとうにありがとう。でも今私が言った事に嘘はないのよ。エンマに確認するといいわ」


 長姉はあれよあれよと言う間に部屋から追い出され、目の前で扉がパタンと閉められてしまった。

 しかし妹にそっけなくされたにもかかわらず、ベルタはにんまりと笑みを浮かべる。廊下に出たすぐのところに立っていた侍女のエンマは、主人のその顔を見てゾッとした表情になった。


「ベルタお嬢様、不気味ですよ」


「大きなお世話よ」


 そう言ってスタスタ歩き出し、後ろからついてくるエンマに小声で言った。


「うふふ、嬉しくって仕方ないわ! 音楽以外に興味がなくて、どんな男性とも関わろうとしなかったあのマルグレーテが、初めて関心を抱いたのよ。これは温かく見守るほかないわ」


「ですが……」


 エンマは言いにくそうに顔を逸らしながら言った。


「彼は貴族ではありません。あまり関心を抱かれても、マルグレーテ様がつらい思いをするだけです」


 ベルタははっとして、初めて気づいたような表情を浮かべた。


「それは……そうだったわね」








 その後、社交界ではさほど話題にはのぼらなかったが、音楽愛好家の間では天才バイオリン弾きの青年の噂は、瞬く間に広がった。劇場や楽団はその技術に目をつけ、ぜひ専属のメンバーにと、舞踏会の翌日からエドガーの屋敷やシュタンマイアーの家に手紙を送りつけてきた。

 しかし、テオはどの話もすべて断った。エドガーがそれとなく提案してもテオは首を振るだけだった。

 手紙の中のかしこまった賞賛の言葉は、シュタンマイアーの突出した技術のバイオリンより彼の心に響かなかったのである。


「俺は先生から今みたいに技術を教えてもらえるだけで十分です」


 同僚から届いた手紙を何枚かシュタンマイアーが読み上げても、テオはただそう言うだけで、話を終わりにしてしまうのだった。


 彼がそんな調子なので、劇場や楽団は今度はマルグレーテに手紙を送るようになった。新星のバイオリン弾きはシュミット伯爵の末娘と仲が良いらしいという噂になっていたからである。しかし、同時に伯爵も音楽嫌いとして有名であったので、手紙はメイドを通して本人に直接届けられるようになっていた。マルグレーテはそれらがテオの意に沿わないものだとわかっていたのでそのまま放っておこうとしていたが、舞踏会から一週間経つ頃にはマルグレーテの元に籠いっぱいに送られてくるようになった。


「信じられない、返事がないんだから諦めればいいのに」


 マルグレーテはいらいらとその束を袋に詰め込んだ。

 最初に手紙が来たばかりの時は封を開けて読んでいたが、三、四日もすると、自室のテーブルに開けていない手紙が増え、どんどん山積みになっていくそれらに、いよいよ耐え切れなくなったのである。

 姉のベルタがくすくす笑いながら、その中から一枚を手に取って送り主を見た。


「捨ててはだめよ、ちゃんと読んで返事を出さなきゃ……」


「絶対に嫌。“ご本人様からは色よい返事をいただいておらず、マルグレーテ様がご本人様に説得を試みていただければ……”ですって。なによこれ、私宛てじゃないのなら送ってこなくてもいいのに」


 マルグレーテはふんと鼻息荒く姉からさっと手紙を取り上げると、無造作に袋の中に詰めた。


「お前宛てじゃないなら誰宛てなのだ」


 突然後ろから聞こえた低い声に、マルグレーテは驚きのあまり袋を床にドサッと落とした。


「お父様」


 ベルタが慌てて居住まいを正した。

 マルグレーテはおそるおそる振り返る。

 

 父シュミット伯爵がマルグレーテの部屋の入り口に佇んでいた。彼の後ろにいるメイドのマリアがお茶を持ってきたタイミングに、ちょうど居合わせたのかもしれない。それとも自分に用があったのだろうか。


「誰宛てなのかと訊いている」


 何も答えない娘に伯爵が再度尋ねたので、マルグレーテははっとして慌てて息を吸った。


「そ、その……宛名は私ですが……内容はゆ、友人のテオに宛てたものです」


 娘がそう答えたのに、伯爵は表情を変えないまますっと後ろを振り向いて、マリアが持つ盆から一通の封筒を手に取った。

 マリアがばつが悪そうにマルグレーテを見ている。ああお茶ではない、手紙だったのだ。どうやら例の手紙を運んでいるところを見つかってしまったようだ。

 伯爵は宛名と送り主を確認して目を細めた。その父の様子にマルグレーテは喉をぎゅっと掴まれている気がした。


「お前には内容がわかっているのか」


 マルグレーテは、封を開けずに袋に詰めていたところを見られてしまっているので、下を向いて答えた。


「さ、最初の二、三通は読みました……でも、それからはほとんど、お、同じ送り主からだったので……」


 伯爵は無言で縮こまって言う娘を見下ろしていたが、やがて手紙をマリアの持つ盆に戻して身を翻した。


「送り返すか、エドの屋敷に持っていけ」


 去っていった父の背中を見送る。それが角を曲がって見えなくなると、マルグレーテはほうっと身体の緊張を解いた。

 ベルタは妹を見てふふっと笑みを漏らした。


「よかったわね、これで、彼に会う口実ができたじゃない」


 マルグレーテは「そ、そうね」と床に落とした袋を拾い上げたが、それを見つめたまま何も言わなくなってしまった。


「どうしたの、会いづらくなってしまった?」


「そ、そうじゃないけど……」


 ベルタは妹を見つめた。結局妹はあの夜何があったのか話してくれなかった。あの青年と気まずくなってしまったのだろうか。

 しかし、あの屋敷には叔父がいるのだ、悪いようにはならないだろう。そう結論づけたベルタは、扉近くのすまなそうな表情をしているマリアから手紙を受け取ると、それをマルグレーテに差し出して言った。


「ほら、行ってきなさい。連絡なしで行ってもきっと叔父様は驚かないわ」


 優しい姉にそう言われて、マルグレーテは小さく頷くと手紙を受け取った。







 テオと会うとなると、マルグレーテの心の中は騒がしかった。他でもない、わかれの挨拶の時のことだ。どんな風にして会えばいいのかわからなかった。あんなことをしてしまって、冷たい目で見られるようになってしまったらどうしよう。


 不安な気持ちを抱えたまま馬車はエドガーの屋敷についたが、テオはちょうどシュタンマイアーの元にレッスンに行っていた。

 出迎えてくれた執事のハーゲンがそう言ったのに、緊張していたマルグレーテは少し拍子抜けした。

 しかし通された客間で待っていると、ドタドタと屋敷の主人が入ってきて、いきなり噛みついてきた。


「来たな、マルグレーテッ!」


 マルグレーテは思わず「ひっ」と声を漏らし、立ち上がって去ろうとしたが「座りなさいっ」という声に、しぶしぶ長椅子に腰を下ろした。エドガーは眉を寄せ、腰に手を当てて仁王立ちしている。


「あの夜私がどれだけ大変だったか、ベルタから聞いただろう」


 マルグレーテは肩をすくめた。


「ええ、きいたわ。叔父様にはほんとうに苦労をかけたようね、とても感謝しています。ありがとうございました」


「その通りだ!」


 エドガーはふんっと鼻をならして腕を組んだ。そしてつかつかとマルグレーテの向かいの長椅子に歩み寄り、ドンッと座ると足を組んだ。


「あんなこともこの私だからやってのけたんだ。いいか、この恩は一生忘れないでほしい。わかったな?」


「もちろんです……叔父様が策士でほんとうによかった」


「賢者と呼んでくれ」


 エドガーが得意そうに言った時、客間の扉がガチャリと開いた。


 入ってきたのはテオだった。レッスンを終えて帰ってきたらしい。

 マルグレーテは一気に緊張した。


「おお帰ってきたか、テオ君。マルグレーテが来ているぞ」


「ご、ごきげんよう、テオ。調子はどう?」


 マルグレーテが立ち上がってぎこちなく挨拶をすると、テオは目を合わせずに小さく頷いた。そしてテーブルの上に楽器を置くと、背を向けたままケースを開けてバイオリンの手入れを始めた。

 マルグレーテも結局すぐに同じところに座り、下を向いて膝に置いた自分の手を見つめて黙っている。


 明らかに様子のおかしい二人に、エドガーはおやと目を瞬かせた。


「……ど、どうした、二人とも。いつもならぺちゃくちゃとおしゃべりを始めるのに。喧嘩でもしたのか?」


「違うわよ」


 マルグレーテは慌てて首を振った。


「その、わた、私が……テオを怒らせてしまって……」


「お、俺は怒ってなんかない」


 思わずテオが振り向いて言ったが、マルグレーテは「で、でも……」と顔を上げようとしない。

 二人ともそれから何も言おうとしないので、エドガーはわからないなあと頭をかいた。しかしこのままでは埒があかない。エドガーは推測して言った。


「まあ、どうせマルグレーテが無理やり演奏をしろとでも言ったんだろう。すまんな、テオ君。わがままで自分勝手な話に付き合う必要はないぞ、君は舞踏会の後で疲れていたのに」


「い、いや、演奏したのは俺がやりたかったからだ……その……お、お礼もちゃんともらえたし……その、マルグレーテ、俺は……その、あれは嫌じゃなかった」


 テオがそう言うと、マルグレーテは驚いたように顔を上げ、今日初めてまともに彼を見た。テオはわずかに顔を赤らめ、真剣な表情をしている。

 マルグレーテは少し気恥ずかしくなったが、彼の言葉に嬉しくなって笑みを浮かべた。


「よかった……もう口をきいてくれないんじゃないかと思ったわ」


「さすがにそこまでは……俺も変な態度で悪かった」


 微笑み合い、いつもの調子に戻った二人に、エドガーはわけがわからんと肩をすくめた。なんにせよ、仲直りしてくれてよかった、気まずい空気は苦手なのだ。

 安心したエドガーだったが、先ほどマルグレーテがやってきた理由を執事からきいたことを思い出した。


「マルグレーテ、お前の元にも楽団から手紙が届いたって?」


「そうそう、そうなの! それもこの一週間で尋常じゃない数よ、見て」


 マルグレーテは隣に置いていた手紙を詰めた袋を長椅子の前の小さなテーブルにドサリと置いた。テオが「こんなに……」と呟いた隣で、エドガーが立ち上がり袋の中を少し覗いて「これ、中身を全然見てないじゃないか」と言ったので、マルグレーテは心外だと言うように眉を寄せた。


「見たわよ! 最初の二、三通はちゃんと読みました。でも私が読んだところで、状況が変わるはずないもの」


「そりゃそうだが……」


「それに叔父様がちゃんと返事を書いているのでしょう? それならもうテオの意思は伝わっているはずじゃない。しつこいですよって叔父様から言ってもらえないかしら」


 マルグレーテの提案に、エドガーはいかにもめんどうだというような表情を浮かべた。


「勧誘を断るのは時間を要するんだ。ちゃんと断りを入れているんだからそのうち止むさ……テオ君はほんとうに、楽団に入るつもりはないんだよな?」


 テオは肩をすくめた。


「どこかに所属するつもりはない。俺にとってシュタンマイアー先生が特別なだけだ。それに……」


 テオは言いながら、バイオリンを手にとって弦の調節ねじをいじった。


「俺が字も読めないような人間だと知ったらすぐに手を引くことはわかってる。そういう連中はごめんだ」


 そこまで言うと、テオはバイオリンの弦を鳴らして音を確認し始めた。


 マルグレーテは友人の言葉に口を結んだ。彼がそうした世界を嫌っていることはわかっていたはずだ。

 しかしマルグレーテは、彼のその才能が多くの人間に認めてもらえるチャンスであるのにと惜しく思っていた。そしてそれはきっと、隣に立つ叔父も同じだ。彼はそうした音楽家を何十人も支援してウィーンの舞台に立たせてきた。おそらくテオのように断る人物は初めてではないのだろうか。


 テオが弦の調節を終え、ゆったりと音を奏で始めた。おそらく今日配られた新譜を練習しているのであろう。音を途切らせながら楽譜をおっているテオを、マルグレーテはじっと眺めていた。


「劇場と楽団の件、実はシュタンマイアーと話したんだ」


 隣に立っている叔父が、テオに聞こえないくらいの小声でマルグレーテに言った。


「私はどうしてもテオ君をウィーンで旗揚げさせたいと思っていたからな。彼のためにもそうするべきじゃないかと」


 マルグレーテも頷いた。やっぱり。叔父は続けた。


「だが、シュタンマイアーは違った。ウィーンでは確かに彼の音楽を有名にすることはできるが、より多くの層の人間に聴いてもらうことはできない。シュタンマイアーはこう言っていた、ウィーンで足止めしてしまうのは彼の才能にとって惜しすぎると」


 マルグレーテは驚いて叔父を見上げた。エドガーも彼女を見下ろす。


「目から鱗が落ちただろう。私もだ。ウィーンで旗揚げというのは、私の自己満足に過ぎない……世界はもっと広い」


 二人は視線をテオに戻した。

 テオは新しい楽譜を粗方もう弾けるようになっているようだった。さらに強弱をつけ、一層美しい音楽に仕上げている。


 シュタンマイアーの考えは、マルグレーテにとって意外であった。“より多くの層の人間に”という言葉が頭の中でこだまする。確かに舞台での演奏を聴くことができるのは、チケットを買った人間だけ、舞踏会では招待された地位のある人間だけだ。

 マルグレーテは、ウィーンで認めてもらうことこそ、テオにとっての最良であると思っていた。この音楽の都で地位や名声を得ることこそ、彼の才能を無駄にしないことだと。しかし彼にとってはそうではないのだ。

 ふいに、あのイタリア旅行の帰路で、テオがアコーディオン弾きの二人から金を受け取ろうとしなかったことを思い出した。必要ないからと断ったのである。

 彼には欲がないのだわ。街角で日銭を稼ぐ暮らしも、舞台で演奏する生活も大して変わらない。むしろ舞台で縛られている方が嫌だと、会ったばかりの時に言っていたではないか。

 マルグレーテは自分が狭い世界を見ていたことを恥じた。




「マルグレーテ」


 突然テオに呼ばれ、マルグレーテははっとした。彼はマルグレーテに楽譜を渡して言った。


「この楽譜今日もらったんだけど、正確に弾けてるか聴いてくれないか。その……できれば感想も」


 最後は少し照れたように言うテオに、マルグレーテは嬉しそうな表情を浮かべると楽譜を受け取った。


「もちろんよ、任せてちょうだい」


 弦の擦れる音にマルグレーテは聴き入った。

 幸せだわ、こんなに素晴らしい音色を間近で聴くことができるなんて。それに、友人として彼の音づくりに協力できるのだ。マルグレーテは、改めてテオという人物を大きく感じていた。






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