6. 良き師
舞台袖の扉付近は、花束や贈り物の包みを抱えた多くの人々がわあわあ歓声をあげながらひしめき合っていた。演奏者達に激励しようという人々である。
楽屋から演奏者達が出てくるとざわめきは一層増した。その勢いのすさまじさにエドガー達三人は圧倒されてしまった。とても中に入れそうにはない。
止むを得ず、その場を離れていくらか静かな階段に出ると、エドガーは「やれやれ」と息を吐いてから二人に言った。
「さっき彼には後で会おうと約束を取り付けたから大丈夫さ。騒ぎが収まるまでもう少し待とう」
そうして劇場のロビー奥の長椅子で腰を下ろして待つことにした。入り口から遠いその空間は喧騒からは遠ざかり落ち着いた場所だった。
エドガーは興味深そうな顔をしてテオに言った。
「それで、テオ君。ソリストのシュタンマイアーの演奏がお気に召したようだな」
テオは素直に頷いた。
「どう弾いているのかわからなかったんだ。あんなに指を動かしているのにバイオリンはしっかり支えていた。あんなのはこれまで見たことがない」
「ははは! そうかそうか……いやあ、やはり最初に声をかけておいてよかった。なあマルグレーテ?」
エドガーが呼びかけると、マルグレーテは肩をすくめてみせた。
「そうね。たまには叔父様の勘も当たるのね」
「おやおや手厳しい姪っ子だ」
しばらく三人が長椅子に腰掛けていると、正装した劇場係の男がやってきた。
「エドガー・フォン・シュミット様、そしてお連れ様方、お待たせいたしました。シュタンマイアー様のお支度がすみましたので、こちらへどうぞ」
三人が案内された場所は、楽屋よりもさらに奥の練習室だった。
扉を開けると、入ってすぐのところに大きなピアノが置かれ、その上にはきれいに手入れされたバイオリンと弓がある。そしてピアノの前には、舞台で見た初老の男が座っていた。彼は入ってきた者達の姿を目にすると、立ち上がって穏やかな笑みを浮かべた。
「やあ、よくいらしてくださいました」
エドガーの方もにこやかに挨拶として手を伸ばしながら言った。
「素晴らしい演奏だったよ! まるで時を忘れかけた。特に最後の独奏は驚いたな」
「それはそれは。お気に召したのならなによりです」
シュタンマイアーはエドガーの手を握って礼を言うと、そのまま笑顔をテオとエリーゼに向けた。
「わざわざこちらまで出向いてくださってありがとうございます。演奏は退屈ではありませんでしたか」
エリーゼはにっこりと上品な笑みを浮かべて言った。
「とんでもない、すばらしかったですわ! ……私はエリーゼ・ドゥ・ジレ・ドルセットです」
「ええ、存じ上げておりますよ。エドガー様の姪御様だそうで。いつも演奏を楽しんでいただいていると伺っております。ありがとうございます。そして……あなたがエドガー様から話にあったバイオリニストですね」
そう言われて、テオは頷いた。
「はい、テオといいます」
彼はにこりともせずに小さく頭を下げただけだったが、初老の音楽家は微笑みを向けながら手を差し出して言った。
「はじめまして。奇遇ですね、私もテオという名前ですよ、テオドール・シュタンマイアー。エドガー様からあなたは驚くほどバイオリンがうまいときいています……聴かせていただいてもよろしいでしょうか」
物腰の柔らかい丁寧な紳士に、テオは彼の手を軽く握り返すと鋭い目のままで言った。
「バイオリンを弾くのはかまいません。その代わり俺のバイオリンに満足いただけたら、さっきの最後の曲の弾き方を教えてもらえませんか」
その言葉にエドガーもマルグレーテも、もちろんシュタンマイアーも驚いて目を丸くしたが、老人は小さく笑った。
「ほっほっ。わかりました。協奏曲の三番ですね、いいでしょう。バイオリンはそのピアノの上の楽器を使ってください。皆さん、どうぞお座りください……ああ、テオ君は座らない方がいいですね」
テオは楽器を手に取った。エドガーとマルグレーテは言われるままに用意された椅子に腰掛け、シュタンマイアーはピアノの椅子をテオの方に向けて背筋を伸ばして座った。
マルグレーテはそばに座る叔父に小さく耳打ちした。
「大丈夫かしら、いつものバイオリンではないのに」
エドガーは肩をすくめてみせた。
「多少弾きにくいかもしれんが、まあ、心配ないだろう。彼に才能があるのは事実なんだ」
テオは手に取ったバイオリンの弓や弦の張り具合を確かめると、顎に楽器をあてがって少しだけ試し弾きの音を出した。
よかった、音の調子はいつもとあまり変わらないみたいね。マルグレーテは音を聞き、またテオの表情を伺ってそう思った。
一度テオは何か思案するような顔をしたが、次の瞬間にはもう曲を奏で始めた。
マルグレーテが初めて聞く曲だったが、今までと変わらず美しく、また短調のもの悲しさが溢れ出すようなメロディーだ。流れるような旋律はすぐに部屋中に響き渡った。
しかしこのような哀愁を感じさせるような曲は、テオのバイオリンからは聞いたことがなかったので、マルグレーテは意外に思った。いつもの彼の定番はもっと情熱的な、炎を思わせるメロディーだった気がする。
だが、このバイオリンはこの哀しげな雰囲気がぴったりの音色だった。さっき考えていたのは音色に合わせて選曲していたということなのかしら。
やがて演奏が終わると、マルグレーテは感動とともにいつものように拍手を送ろうとしたが、エドガーに止められた。叔父の視線を辿ると、腕を組んで考え込んでいるシュタンマイアーの姿があった。騒がずに彼の言葉を聞こうということね。
テオも楽器の構えを下ろして緊張した面持ちで彼を見ている。
やがてシュタンマイアーは顔を上げて真剣な表情で言った。
「なぜそのような曲を選んだのか伺ってもよろしいですか?」
テオは頷いた。
「このバイオリンの音がこういうメロディーに合ってると思ったからです」
「……理由はそれだけですか?」
テオが頷くと、シュタンマイアーはまた手を顎に当てて少し考えてから言った。
「耳は確かなようですね。それに指先は器用、弓の弾き具合もよし。多少荒いところもあるが……それがかえって華やかさを出しているか。しかしどちらかというと庶民派の……」
シュタンマイアーがはっきりとした答えを出さず考えているばかりなので、テオはしびれを切らしたように言った。
「お気に召さなかったようなら俺の技術不足です。聴いてくれてありがとうございました」
シュタンマイアーは笑い声をあげた。
「待ってください。大満足ですよ。あなたのバイオリンは大いに魅力的です。すみません、音を分析させていただいていた……バイオリンを貸してください、言われたところを弾いてみせますから」
そうしてシュタンマイアーはテオに歩み寄ると、バイオリンを構えて青年に見えるように指を動かしながら「ここはこうして……」と解説し始めた。
その様子を見ながら、マルグレーテとエドガーはほっとしたように顔を見合わせた。
「シュタンマイアーさんは良い人ね。テオのつっけんどんな態度を気にしていないのかしら」
マルグレーテの問いにエドガーは小さく笑って言った。
「まあ、あの歳までいろんな音楽家を相手にしてきたわけだから、慣れているんだろう。第一に私の紹介する人間なんだぞ、変な男なわけがない」
叔父のどうだとでも言いたげな言い方に、マルグレーテは肩をすくめると、再び音楽家たちの方を見た。
テオは、シュタンマイアーの指の動きを興味深そうに覗き込んでいる。そのうちシュタンマイアーがバイオリンを手渡すとテオはそれを受け取り、教わった通りに弾こうと指を懸命に動かし始めた。いつもの冷たいテオの表情から一転して真剣な眼差しになりシュタンマイアーと言葉を交わしている様子に、マルグレーテは笑みをもらした。彼はほんとうに音楽が好きね。
しばらくそうしていたが、やがてエドガーがポケットから取り出した時計を見て腰を上げた。
「さあ、そろそろ我々も帰らねばならない時間だ。シュタンマイアー、テオ君、悪いがその辺で中断してくれ」
「おや、もうそんな時間でしたか。これは失礼しました……テオ君、その要領で練習し続けてください。そのうちもっと速く指を動かせるようになります」
シュタンマイアーはにこやかにそう言ったのに、テオは「はい」と小さく頷いたが、手にしているバイオリンの弓をじっと見つめてから「シュタンマイアーさん」と呟くように言った。
「また会う時間を……指導の時間を設けてもらうことはできますか」
その言葉に、マルグレーテもエドガーも目を丸くした。あのテオが教えを乞うている!しかし、シュタンマイアーは驚きはせず微笑みを浮かべた。
「もちろんかまいませんよ。エドガー様からそう言った話も伺っておりましたしね。実は……申し上げづらいのですが、私からもお願いがあるのです」
「お願い?」
「はい。年明けに宮殿で舞踏会が行われます。毎年私はそこでオーケストラと一緒にソリストとしてバイオリンを弾いているのですが、今年は私用で出られないのです。その代理人を探しておりまして……ほんとうはその事でエドガー様にご相談させていただこうと思っていたのですが、良ければテオ君にお願いできないでしょうか」
テオ、マルグレーテ、そしてエドガーは目を丸くした。
「俺が……宮殿の舞踏会で、演奏を?」
テオは耳を疑ったが、シュタンマイアーは撤回することもなく頷いた。
「ええ。誰でも弾けるような曲ではありませんが、先ほどの演奏であなたなら心配いらないと判断させていただきました。差し出がましいのですが、ソリストとして私が作った曲だけでも弾いていただければと思っております。しかしもう二ヶ月後の話で……いかがでしょう?」
マルグレーテは無表情のまま考え込んでいるテオの顔をちらりと見た。辻音楽師としては願ってもない話だろう。だが、テオは宮殿などの堅苦しい世界には入りたくないと言っていた。
無表情に見えるけど、テオはきっと考え込んでいるのではないかしら。
マルグレーテとしては、テオが宮殿で演奏することで名声を得て、大勢の人に認められるようになってほしいと思っていたが、その過程で権力社会に嫌気がさしてウィーンを去ってしまうことも考えられる。マルグレーテは何とも言いがたい思いを抱いて友人の返事を待った。
隣でエドガーはただひたすらに引き受けろ、引き受けるんだと念じていた。
やがてテオは決意したように頷いた。
「わかりました。俺が弾いてもいいんなら、引き受けます」
マルグレーテは目を見開き、エドガーは瞳を輝かせ、シュタンマイアーはほっとしたように「ありがとうございます」と頭を下げた。
それからテオは週に二度、シュタンマイアーの家に通いバイオリンの技術を教わった。
指導者であるシュタンマイアーは人柄良く、テオが道端で日銭を稼ぐバイオリン弾きであるときいても彼に対する姿勢が崩れることはなかった。
「さすが、叔父様ね。音楽家は気難しい人間が多いってお父様から散々きかされていたけど、あの方は良い方ね」
マルグレーテはエドガーの屋敷の庭で紅茶を優雅に飲みながら言った。
久しぶりに父の許可を得て、マルグレーテは叔父の屋敷へやってきたが、テオは楽器の練習をしているようで、姿は見当たらなかった。木々の葉はすっかり茶色に染まり、風が吹くたびに落ちていく。一枚がマルグレーテの膝に落ち、彼女はそれを手で払い落とした。
エドガーは苦笑いした。
「お前のお父様は極端なんだよ。貴族にもいろんな人間がいるように、音楽家にもいろんな人間がいるさ……ところでマルグレーテ、テオ君がシュタンマイアーのところに通うようになってから、君は彼に会ってないんじゃないか? もう彼には飽きたのか?」
マルグレーテは紅茶でむせそうになった。彼の言う通り、ここ二週間ほどマルグレーテはテオの顔を見ていない。
「わ、私だって彼に会いたいわよ! でも、シュタンマイアーさんのところに通うほど熱心に練習しているのに、彼の邪魔はしたくないわ」
目を泳がせながらそう言うマルグレーテに、エドガーはじっと目を向けた。
「ほんとうにそれだけの理由なのか? どうせまたくだらんことで悩んでいるんだろう」
マルグレーテは憤慨したように声を荒げた。
「く、くだらんって! それじゃあ言いますけどね、テオが楽団員と一緒に練習するとき、だれもひがみや妬みを言わないと思う? 才能があるとは言え、突然現れたのよ。蔑んだ言葉を受けたら、テオはきっとみんなを嫌いになるわ。この話を持ち出したシュタンマイアーさんのことも、彼を紹介した叔父様のことも、それに私のことだって! ひょっとしたらウィーンを出ていってしまうかもしれないわ」
あまりの必死な言い方に、エドガーは目を丸くして身体を引いていたが、やがてくつくつと笑い出した。
「くくく、お前、そんなことを気に病んでいたのか……くっ、はははは」
「な、なによ。私には大事なことなのよ。せっかく友達として認めてもらえたのに、それが私の好きなウィーンのオーケストラが追い出してしまうかもしれないって……」
そこでマルグレーテは言葉を途切らせた。向かいのニワトコのしげみから、なんとテオが肩を震わせながら出てきたのだ。
「テオ! あなた、どうして……」
テオもエドガーと同じように笑っている。マルグレーテはぽかんと二人を見ていたが、やがてしかめ面になると大声を出した。
「ちょっと! いつまで笑っているの、一体どういうつもりなのよ!」
二人はようやく笑いを収めた。エドガーは言った。
「すまんすまん、お前がテオ君に突然会わなくなっただろう? それで何を考えているのか知りたかっただけだ。ほんとうにお前が彼に飽きてしまったのかと思ってね」
「ふん、期待通りの答えじゃなくておあいにく様だったわね」
マルグレーテの棘のある言葉に、エドガーは含み笑いをしながら言った。
「ああ、それはもう十分にわかったよ。むしろ怖いくらいに固執している気もするが」
「なんですって」
「マルグレーテ」
テオに呼ばれて振り返ると、彼は至極真面目な顔をしていた。急に緊張が走る。
「な、なに」
「俺はあちこちを旅してきた。だからどんな罵倒や物言いにも慣れてるつもりだ。仕事も、一度引き受けた以上は投げ出すつもりはない」
「そ、そうなの」
「確かに権力を振りかざして生きてる貴族は嫌いだし、その力で支えられてる劇場の人間には抵抗がある。それでも、君みたいに純粋に俺の演奏を気に入ってくれる人が一人でもいるんなら、俺はそこでバイオリンを弾く。なにを言われようとも、それは演奏者としての礼儀だ」
マルグレーテは目の前に立つテオの真剣な瞳を見つめた。テオはテオなりの覚悟を持って引き受けていたらしい。
「そう」とマルグレーテはほっとしたように頷いた。
「それならテオに嫌われる心配もしなくてよさそうね。私はテオの演奏が大好きだもの」
マルグレーテが美しい微笑みを浮かべながらテオにそう言うと、彼は少し頬を染めて目を逸らした。
「ところで、マルグレーテ」
エドガーが咳払いをした。
「実は、私からお前に連絡を入れるまで、二週間ほどあっただろう? その間にシュタンマイアーの指揮で小さい公演が三回あったんだが……」
「ええ、テオと二人で行ってきたのでしょう? 仕方ないわ、私から連絡しなかったのだから」
「もちろん、もちろんそうなんだが、その……テオ君は客としてではなく、その公演は、三回とも弾いたんだ……バイオリンを」
マルグレーテは目を見開き、机に手をつけて身を乗り出した。
「なんですって、叔父様、今なんと言ったの? テオが? テオがもう舞台で弾いたというの、三回も!?」
「そ、そうだ。最初の公演は一曲、二回目と三回目は二曲の演奏で……」
「だまらっしゃい!」
マルグレーテの金切り声に、エドガーは口を閉ざし、テオはビクッと肩を震わせた。
「どうしてそんな大事なことをこの私に言わなかったのっ!? 一体どういうつもり、テオの演奏を独り占めしたかったの? ねえ、叔父様、どうなのよ!?」
そうして視線をテオの方に移した。
「テオもテオだわ……私のことを一度も思い出さなかったというの? 私がテオの演奏を大好きだと知っていて? 嘘でしょう……ひどい、ひどいわっ! テオのばかばかばか!うううっ」
しまいにはマルグレーテは泣き出してしまい、テオとエドガーはぎょっとしたように慌て出した。
「ご、ごめん、マルグレーテ。別に悪気はなかったんだ」
「独り占めなんてそんなこと断じて企んでなどいない! 次からは絶対に一緒に行こう、約束する! どんなにお前のお父様が反対しても、なんとかして連れていってやろう」
泣きながら聞こえてきた叔父の言葉に、マルグレーテはぐっと拳を握った。
やっぱりだわ。叔父が自分を誘わないはずがないことはわかっていた。父、伯爵の許可を得ることができなかったのだろう。こういう時はいつもこうなのだ。
しかし、父に文句を言うことができないマルグレーテは、叔父や友人に当たるしかなかった。そうよ、いくら許可が下りなかったからって、黙って演奏してしまうなんてあんまりだわ。
マルグレーテは涙目で叔父を睨んだ。
「ほんとうに約束してくださる? もう独り占めしないと?」
「しないしない!」
マルグレーテは、エドガーとテオの顔を見比べていたが、やがてこくこくと頷いた。
「……わかったわ、約束よ。次回は絶対に私も呼んで」
テオは申し訳なさそうな顔を浮かべた。
「実は……その、今夜、公演があるんだ」
「えっ! 今夜ですって、そんな……」
マルグレーテはがっかりと肩を落とした。マルグレーテが演奏会に参加する際には、前もって三日より前に父から許可を得なければ、外出することは叶わないのだ。
「貴族の生まれって、どうしてこんなに不便なのかしら……」
マルグレーテは旅の途中を思い出してため息を吐いた。旅をしていた時は、突然公演に出向くことだってあったし、街中でもあちこちで演奏を聴くことができた。誰の許可を得ることもなく、毎日自由に音楽を楽しめたのだ。
しかしウィーンに戻ってきた今、マルグレーテは父親の意向に背くことはできない。こうして叔父の家に外出することにすら父親の許可がいる。
沈んだ顔のマルグレーテに、テオは咳払いをした。
「わかってる、突然言われたんじゃ、君は来れないだろう。だから、その、今夜弾く予定の曲をここで聴いてくれないか……今」
テオはそう言ってバイオリンを掲げた。マルグレーテは一瞬ぽかんとしたが、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ええ、もちろんよ。お願い!」
それから二週間後。シュタンマイアーは、第一幕の演奏を終え、舞台袖で弦の調子の最終確認をしているテオを見やった。
前回の公演の時は終始無表情で、演奏も慣れたものであったが、今日の彼は落ち着かなげに弦の調節ネジを何度も回している。緊張しているのだろうか。これまでそんなそぶりは全くなかったのに。
シュタンマイアーは、テオにオーケストラとの合奏を慣れさせるために、小さな公演で何回か弾かせていた。最初の公演は少しズレが生じたが欠点はそれだけで、テオのバイオリンは道ばたの辻音楽師とは思わせないほど、楽団の音楽によく馴染んだ。
シュタンマイアーもテオの演奏には聴き手を引き込む力があると感じていた。まるで壇上で指揮をとっているかのようにすべての楽器の音を率いてひとつの音楽を作り出す。稀に見る才能の音楽家であった。
「テオ君、バイオリンの調子はどうですか?」
テオははっと顔をあげた。
「だ、大丈夫です。その緊張してしまって……」
シュタンマイアーは軽く眉をあげた。
「珍しいですね。今回は難しい曲でしたか」
「い、いえ、曲の方は問題なくて……もう大丈夫です、心配かけてすみません」
テオは立ち上がると、きりりとした目でシュタンマイアーを見た。もうそこにはそわそわした様子はなかった。
シュタンマイアーはにっこりと頷いた。
「それならよかった。緊張したら、音楽のことだけに精神を集中させてください……さあ出番ですよ」
シュタンマイアーがテオと共に舞台に出ると、客席からは大きな拍手が起こった。第二幕の始まりである。
シュタンマイアーは客席の最前列のエドガーの隣に、シュミット伯爵令嬢がいることに気づいた。彼女は嬉しそうに拍手をしながらこちら側に微笑みを向けている。彼女の視線の先にたどり着くと、シュタンマイアーは、ああそういうことかと納得した。テオが出演する演奏会に、シュミット伯爵令嬢が初めてやって来たのである。
先ほど緊張しているように見えたのは、彼女が原因でしたか。シュタンマイアーは口の端をあげた。
テオは舞台に上がると、先ほどとは打って変わって冷静沈着、無駄な動きをすることなく冷たい表情を浮かべたまま位置についた。
シュタンマイアーがすっと手をあげ、演奏が始まった。
マルグレーテとテオ、エドガーを乗せた伯爵家の馬車は、帰路についていた。最近になって夜の風が一段と冷たくなり、凍った空気を感じるようになっていたが、馬車の中では、今夜行われた演奏会の感想が熱く述べられていた。
「素晴らしかったわ、息をするのも忘れてしまったくらい!」
マルグレーテは上着を着ることもなく興奮したように語った。
「あのメロディーの切なさ! あれはテオのバイオリンだからこそ出せた音よ。シュタンマイアーさんはそれをわかっていてテオに弾かせたにちがいないわ」
「それはどうかわからないが、あの弾き方はシュタンマイアー先生が教えてくれたやり方だ。今回の公演で俺も初めて弾いた」
テオの言葉に、エドガーも満足そうに頷いた。
「回数を重ねるたびに、君の技術は上がっているし、オーケストラの演奏とも溶け合っている。これなら宮殿の舞踏会は問題ないだろう」
テオは小さく「そうかな」と照れたように下を向いた。マルグレーテはほっとしていた。彼の冷たい態度が心配だったが、楽団員ともいざこざを起こさずにシュタンマイアーの元でうまくやっているようだ。
客席にいても、トーア劇場が市民寄りの舞台であることもあって、テオの身分に対するやっかみが聞こえてくることはなかった。
「劇場のオーケストラの演奏とは合わせやすいのかしら。違和感はないの?」
マルグレーテの問いにテオは肩をすくめた。
「俺も最初は心配だったけど、大体オーケストラが俺のバイオリンに合わせてくれるんだ」
「そりゃそうだ」とエドガーは言った。
「テオ君はソリストなんだ。いわば指揮者と同じような役割だから皆が合わせるはずだ。もちろん、オーケストラの団員にもよるが」
「シュタンマイアーさんの人選が良いのよ。それにテオに実力があるからだと思うわ。みんなの魂を掴んでしまう音をしているから」
マルグレーテの言葉にテオは小さく笑った。
「大げさだよ。俺はただ、先生の言う通りに弾いているだけだ。毎回技術の高い弾き方を下ろされるから必死さ」
エドガーも笑い声をあげた。
「ははっ! 天才バイオリン弾きも切羽詰まっていたか。まあでも確実に君のためになっているようでよかったよ。乾燥しているから、指を切らないようにな」
「私のクリームを貸してあげる! 毎晩寝る前に塗らなきゃだめよ」
こうした小さな演奏会を行っている間に、宮殿の舞踏会の日はだんだんと近づいていた。もう秋も終わり、季節は厳しい冬を迎えようとしていた。