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Bravo!  作者: レイチェル
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5. 演奏会


 演奏会の日。美しく着飾ったマルグレーテは、シュミット伯爵の書斎の前に立っていた。少し迷ったように手を上げ下げしていたが、大きく深呼吸を三回すると、こぶしを握り控えめに扉を叩いた。


「入れ」


 シュミット伯爵は机の前に腰を下ろし、書類に目を通していた。

 相変わらず父は威厳ばかりあって近寄りがたい。緊張して声が震えないように意識しながら、マルグレーテは淑女らしく気品たっぷりに声をかけた。


「お父様、お仕事中に失礼致します」


 シュミット伯爵はマルグレーテの言葉を聞いても顔を上げることなく、作業を続けながら言った。


「……もう時間か」


 マルグレーテは心の中でほっと息をついた。よかった。今さら演奏会なんて行くなと言われたらとどうしようと心配していたが心配はなさそうだ。気品を崩さずお辞儀をする。


「はい。行って参ります」



 公演は日が沈む頃に始まる。マルグレーテは日が傾くまでに時間があるのにもかかわらず準備を済ませていた。どうせ叔父は支度をするのに遅れるのだ。

 玄関の前では執事のルドルフと御者のカールが立っていた。


「いってらっしゃいませ、お嬢様」


「いってくるわ、ルドルフ。お父様のご機嫌をくれぐれも頼むわよ……今日はよろしく、カール。早めに出てもらって悪いわね」


「いいえ、とんでもございません。エドガー様のことは心得ておりますよ」


 申し訳なさそうなマルグレーテに、カールは恭しく頭を下げた。カールは初老のルドルフよりもいくらか歳下で、マルグレーテが生まれる前からこの屋敷に仕えていた。

 

 シュミット伯爵家の大きな二頭立て馬車は、マルグレーテを乗せて伯爵邸を出発した。





 エドガーの屋敷では、玄関を出たところでテオが腰に手を当てて立っていた。

 テオはいつもの服ではなく、エドガーの買い与えた礼服を身にまとっていた。金色のボタンが光るフロックコートの下には清潔な白いリネンのシャツ、首にはクラバットを巻き、ベストは長いズボンとお揃いの黒だった。ブーツも新しく、磨かれて光っている。しかし、テオはその紳士らしい服装に着心地悪そうにしており、しきりに首元のクラバットを気にしているようだった。いつも持ち歩いているバイオリンのケースを持っていないのにも違和感があった。

 執事のハーゲンが扉を開けたままにしてくれているが、おそらくエドガーはまだ二階だ。彼自身が指定した時間からもう半時も経っている。テオは小さくため息をついた。

 その時、ガラガラと音を立ててやってきた馬車が止まった。馬車の窓から見知った顔が現れ、弾んた声で呼ばれる。


「テオ!」


 マルグレーテだ。彼女は窓からテオを見て、大きな目を丸くさせた。


「まあ、素敵な姿ね! 紳士の服装も似合っていてよ、テオ」


 テオは肩をすくめた。


「全部エドガーが用意した……彼はまだ降りてこない」


 マルグレーテは呆れたように目をぐるんとさせた。


「叔父様ったら! 一体何を手間取っているのかしら。とにかく乗ってちょうだい……カール」


「はいはい、お待ちを」


 マルグレーテが言ったのに御者は頷くと、台から降りてテオのために馬車の扉を開けてくれた。「あ、ありがとう……」と申し訳なさそうに言いながら、わざわざ降りてこなくても自分で開けるのにとテオはひとりごちた。


「やっぱり早めに出発してきてよかった。いつもこうなのよ、私が叔父様を待つの! テオも怒っていいのよ」


 テオが自分の向かいに座ると、マルグレーテは憤慨したようにそう言った。テオは小さく笑うと肩をすくめる。


「まあ確かに遅いけど……彼のおかげで演奏会に行けるんだ、文句は言えないだろ」


「え……」


 テオが言った言葉にマルグレーテは虚を突かれたような表情を浮かべ、握っていたこぶしを身体の横に下ろした。叔父のおかげで演奏会に行ける。そんな事は当たり前で、一度もありがたいことだと考えた事がなかったのだ。

 しばらく彼を見つめていたが、俯いて小さな声で言った。


「……そ、そうね。あなたの言う通りだわ」


 マルグレーテは自分の横柄さを恥じた。テオと会うまでは気づかなかったが、自分はずいぶん高慢のようだ。父以外の人間には自分の意見を頑なに通していて、それが当然だと思っていたことに今更気づかされる。


「テオのそういうところ、私も見習わなきゃ」


「そういうところ?」


 マルグレーテの言葉を理解できず、テオは眉を寄せたが、マルグレーテは首を振って笑みを浮かべた。


「いいえ、なんでもないの……それよりも、いよいよ演奏会ね! 今回は珍しく劇場専属の公演だから、ひとつひとつの楽器の技術が高いはずよ。席も舞台から近いから演奏している様子もちゃんと見られると思うわ」


 そう言われて、テオは少し固い表情になった。


「……俺は劇場なんて行ったことがないから、マナーやしきたりはわからない。エドガーは“ただ音楽を聞いて、曲が終わったら拍手すればいいだけだ”って言ってたけど……」


 いつになく緊張した様子のテオに、マルグレーテは明るく笑いかけた。


「叔父様の言う通りよ。舞踏会や晩餐会じゃないから安心して。それに今夜のトーア劇場は市壁の外からもお客さんが来るの。そんなに固くなることはないわ」


 テオはそれをきいて頷いていたが、不安を抱えたような表情は変わらない。マルグレーテはしばらくその様子を見つめていたが、やがて言った。


「ねえ、テオ」


 マルグレーテはこちらを向いたテオの目をまっすぐ見て言った。


「きっと、これから叔父様があなたを誰かに会わせようとか、どこに行くべきだとか言うかもしれないけれど、あなたはあなたがやりたいことだけをやってね。無理に叔父様の付き合いに合わせる必要はないわ。もちろん私にもよ。あなたは自分のためにウィーンに来たんだから」


 テオは、例のごとく刺すような目でマルグレーテを見ていたが、やがてふっと柔らかい目つきになった。


「わかってる」


 マルグレーテは、テオが時折こうして見せてくれる表情に、たまらなく嬉しさを感じていた。冷たい目だけを向けていた最初の頃とは大違いだ。

 そこへ、エドガーがバタバタと玄関から出てきた。


「いやいやいや、ははは、悪い悪い、遅くなってしまったな。おおマルグレーテ、今日は一段と美しいな」


 へらへらと笑いながらやってきた叔父に、マルグレーテはにこりと微笑んで首を傾けた。


「ありがとう、叔父様。お気になさらず、私も今来たところですから」


 エドガーは、姪が遅れてきた自分に対してわめきだすか嫌味の嵐になることを想像していたので、いつもと違う彼女に目をぱちくりさせた。


「ど、どうした……マルグレーテ、なにか変な物でも食べたか?」


「まあ、失礼な事をおっしゃるのね。さあ参りましょう」


 エドガーは目を瞬かせながら「そ、そうだな」と頷いて馬車に乗り込み、テオの隣へ腰掛けた。

 半刻ほど停まっていた馬車は、ようやく劇場の方へとゆっくりと動き出した。


 マルグレーテが上品な笑みを絶やさずにいるのに、エドガーは顔を引き攣らせて隣のテオに小声で尋ねた。


「おい、彼女は一体どうしたんだ。気味が悪いぞ、ずっとあの調子か?」


 テオは肩をすくめた。


「最初の方は怒ってたけど」


 エドガーはテオの短い返事にぞっとした。きっと姪は相当腹を立てているに違いない、この笑みの裏には怒りがあるのだ。彼はそう考えると、今度は笑いを引っ込めてしおらしく頭を下げた。


「……悪かった、マルグレーテ、テオ君。もうこれからは早めに準備して、君達を待たせないように心掛けることを誓おう」


 マルグレーテはテオと顔を見合わせた。彼の先ほどの言葉通り、演奏会に毎回連れ出してくれる叔父に感謝の意を込めて接していたが、なぜだか叔父は勝手に反省しているようだ。

 マルグレーテは小さく吹き出すと、くすくす笑いながら頷いた。


「ええ叔父様、ぜひそうしてちょうだいね」





 ウィーンでの演奏会は、一番大きなもので宮殿近くのブルク劇場と、あらゆる階層の人間が訪れるトーア劇場、または貴族個人の家々で、ほぼ一年中行われている。劇場にはそれぞれの楽団が存在し、貴族個人に雇われている演奏者もいた。

 ブルク劇場は王室専属だが、トーア劇場は音楽好きの貴族や資産家の定期的な寄進で維持されている。そのため、寄進した彼らには専用のボックス席が設けられていた。

 エドガーもそのうちの一人であり、シュミット伯爵家の娘達が小さい時から一緒に連れだって劇場へ出向いていた。しかし、そのうちに姪っ子達は様々な階層の人々が集まるトーア劇場より格調高い王室のブルク劇場の方が良いと拘るようになる。分け隔てなくどちらにも参加するのは、もっぱらマルグレーテだけだった。


 馬車が到着すると、三人は劇場に入り、まっすぐボックス席へと向かった。エドガーはマルグレーテとテオが席についたことを確認すると「劇場の関係者に挨拶してくる」と言って、客席から消えてしまった。


「……叔父様もさすがだわ。楽団の方々との繋がりを維持するのも大変ね」


 マルグレーテはぽつりと呟いたが、テオは客席から手すりに手を置いてオーケストラを眺めていたので、彼女も身を乗り出して下を見た。

 すでに楽団員達が楽器の音を鳴らしている。テオは口を開いた。


「……こんなにたくさんの楽器が集まってるのは初めて見た」


 マルグレーテはテオの無表情の中でわずかに驚いている様子であることを読み取った。


「ふふ、そうね。私も初めて見たときはびっくりしたわ。こんなに大勢いるのに、ひとつのハーモニーを奏でてしまうからほんとうに感動するの」


 マルグレーテはほうっとため息をついた。


「この、演奏が始まる前に準備をしている楽器の音も好きだわ。楽器には必要な音を出しているだけなのだろうけど、わくわくしちゃう」


「……違う」


 マルグレーテは「え?」とテオの方を向いた。彼はオーケストラから目を離さないまま首を振った。


「音を出してるのは楽器を準備してるんじゃない、演奏者の身体を準備してるんだ。演奏ができる状態になるまで、ああやって音を出して身体を起こしている。楽器はいつだって弾けるんだ。寒暖で音程の差はあれど壊れてなければ鳴らないことはない。楽器の演奏家でもそんな事を知らない連中が多いが……」


と、テオはそこで言葉を途切らせた。まるでマルグレーテに対しての嫌味を言っているようではないか。気分を害してしまったかと慌てて彼女の方を振り返った。

マルグレーテは目を丸くしてこちらを見ていたが、やがてふっと笑った。


「テオは音楽の話になるとほんとうに饒舌になるわね。楽器でなく演奏者の身体のためね……。知らなかったわ、テオは私の知らないことをなんでも教えてくれるわね」


 思いがけないマルグレーテの言葉に、テオは少し照れたように「いや……」と目を逸らしたが、突然「あっ」と声をあげた。マルグレーテもその視線を追う。


「まあ、叔父様ったらあんなところへ!」


 エドガーは舞台袖にまで上がり込んでいた。しかも正装の紳士と話をしており、時折こちらに視線を移してくる。テオの話をしているに違いない。


「全く、叔父様の暴走にも困ったものね。何としてでもあなたにウィーンで旗揚げさせたいみたいだわ」


「……エドガーは顔が広いな。貴族はそういうものなのか?」


 テオの問いに、マルグレーテはうーんと考えてから答えた。


「もちろん社交界では多くの人間の顔を知らなければならないけど、叔父様はこうした劇場や演奏家の方々とも繋がりがあるから、少なくともお父様よりは断然顔が広いと思うわ。お父様はウィーンから動こうとなさらないし」


 マルグレーテがそう言った後、珍しくテオがくすりと笑い声をもらした。マルグレーテが驚いて目を見張ると、彼は小さな笑みを浮かべたまま言った。


「マルグレーテは、親父さんのことを話す時はいつもそうして顔を歪めるんだな」


「え……そ、そうかしら」


 マルグレーテは思わず自分の頬を両手で押さえた。


「そうさ、鉄道の旅の時も今も、“お父様”って言うたびにだ。いつも笑顔なだけに、歪めると結構ひどいぞ」


「結構ひどい、ですって! そ、そんなことを言う方がひどいわ、女性にそんな……」


 羞恥と怒りで真っ赤になったマルグレーテに、テオはますます腹を抱えて笑い始めた。


「もうなによ、顔のことを言うなんて最低ね……!」


 マルグレーテは憤慨したように口を尖らせたが、テオが声を出して笑っているのがほんとうに珍しく、いつしか見とれてしまっていた。

 この人、なんて無邪気に笑うのかしら。それに笑うとやっぱりハンサムだわ。普段は無表情だからちっとも気づかないけど。


 マルグレーテがぼうっとテオの顔を見つめて何も言わなくなってしまったので、テオはようやく笑いを収めて咳払いをした。


「……笑って悪かった。けど、久しぶりに笑わせてもらった」


 テオの皮肉に、マルグレーテはつんと明後日の方向を向いた。


「知らないっ! 知らないわ、もう!」


 そんなマルグレーテの態度にテオはまた含笑いを浮かべたが、少し彼女の横顔を見つめた後に口を開いた。


「前から思ってたけど、怒ったり笑ったりするたびに表情を変えるなんて、疲れないのか?」


 マルグレーテはきょとんと振り向いた。


「え……? 疲れないわよ。むしろ表情を変えない方が苦だわ。舞踏会なんか行くとね、常に伯爵令嬢として笑顔を保たなきゃいけないのよ。怒りたい時に怒って、笑いたい時に笑えるのが、私にとって一番自然なの」


 そう言ったマルグレーテは少し憂いを帯びた目をしていた。

 いつも顔をあまり変化させないテオには、マルグレーテのその“自然”がわからなかった。しかし舞踏会という言葉を発した時に、マルグレーテはまた顔を歪めた。どうやら彼女は苦手なものを言う時にそういう顔になるらしい。テオはまた笑いが込み上げてきたが、ちょうどその時、エドガーが席に戻ってきた。

 彼はマルグレーテの隣の席に座りながら、意気込んだ様子で言った。


「ソリストと話してきたぞ! テオ君、演奏会が終わったらバイオリンを借りて一度君の演奏を聴いてもらおう」


「叔父様!」


 眉間にしわを寄せたテオが口を開くより先に、マルグレーテは怒りを露わに言った。


「勝手に事を進めないでっ! 良かれと思っても大きなお世話な時があるのよ、叔父様は自分勝手だわ」


 思わぬ姪の怒声に、エドガーは少したじろいだ。


「わ、わかっているさ。別に無理強いはしないよ、テオ君の意見ももちろん聞くつもりだ……ははは」


 再び笑いで収めようとする叔父にマルグレーテはまた怒りの声をあげようとしたが、テオが彼女の肩に手を置いた。


「とりあえず演奏を聴いてみる。その後でどうするか決めるよ」


 マルグレーテはテオを心配そうに見てから頷いて笑顔を向けた。


「そう……? わかったわ、大きな声を出してごめんなさい」


 どうやら怒りは収まったようだとほっと息を吐いたエドガーは、二人にオペラグラスを手渡した。


「これでオーケストラを見てみたまえ。よく見えるぞ」


 マルグレーテとテオは受け取ったオペラグラスを覗いた。


「確かによく見えるけど、どうして? 今夜は演奏会でしょう。オペラみたいに物語があるわけでもないのに」


 マルグレーテの問いに、エドガーは答えた。


「そりゃあ、テオ君のためさ。曲調はもちろんだが、どんな風に弾いているのかも気になるだろう? バイオリンは特に弾き方によって音が変わるときいた」


 テオは目を丸くさせてから、小さく頷いた。


「……ありがとう」


 無表情ではあったが感謝のこもったテオの言い方に、隣で見ていたマルグレーテは叔父に見直したような視線を送ってから、今度は舞台とは違う方向にレンズを向けて覗いた。


「わあ、たくさん集まっているわ。オペラグラスはこうして客席の人達を観察するのにも良い道具に……げっ」


 突然マルグレーテは令嬢にあるまじき声を出した。


「どうした?」


 エドガーの問いにマルグレーテはもう一度よく覗いてからすっとオペラグラスを下ろして顔を歪めながら言った。


「信じられない……エリオット・シュレーゲルがいるわ」


「ほう、シュレーゲル候の息子? それはまた……」


 エドガーも苦い顔をした。テオはマルグレーテに尋ねた。


「彼が苦手なのか?」


「苦手なんてものじゃないわ、できれば人生で存在さえ知りたくなかった男よ。口を開けば口説くか嫌味ばかりなの。ああ、なんであの男がいるのよ、演奏会になんて興味ないくせに……」


 マルグレーテがうな垂れたのに、エドガーは小さく笑った。


「まあこうした劇場に赴くのも、教養なり社交なりの一つだからな。どうせ向こうはオペラグラスを持っていないんだからこちらには気づかないさ」


「そう願うわ……それに今日はテオがいるもの、あの男の存在なんて今すぐ記憶から抹消するわ」


 マルグレーテがテオの方をくるりと向くとにっこりと笑った。

 その時、客席から大きな拍手が鳴り始めた。指揮者とソリストの登場である。いよいよ演奏会の幕開けだ。


「彼は……なんで他の演奏者より遅れて指揮者と舞台に出るんだ?」


 拍手をしながら尋ねるテオに、マルグレーテも拍手をしながら答えた。


「ソリストだからよ。演奏する側として指揮者と同じようにこの楽団を導く立場にあるの。他の楽器でもソリストはいるんだけど、今日は、えーと……バイオリニストのシュタンマイアー様よ」


 マルグレーテが出演者の書かれた紙を読み上げるのを聞いてテオはふうんと頷いた。

 オペラグラスを通して見るそのソリストは、灰色の髪と髭をきちんと揃えた柔和な雰囲気の初老の紳士だった。


 拍手が鳴り止んで、始まった曲は教会で歌われるような静かな賛美歌であった。

 厳かな雰囲気と天の光を示すような美しい旋律が響き渡り、まるで教会にいるかのような神聖さを思わせる。どの楽器も決して飛び出ることがなく、静かにゆったりとした曲調であった。

 テオには教会音楽は耳に新しかったが、ただ賛美歌を歌っているようなだけで、曲自体のおもしろみには欠けると感じていた。と、その時、小さく左肩を叩かれる。振り向くと、マルグレーテが呆れたような笑みを浮かべて、テオに彼女の左隣を見るよう促した。

 なんだろうと思って首を傾けて見ると、マルグレーテの隣に座るエドガーが、ふらふらと首を上下に動かしている。どうやら眠気と戦っているようだ。テオはマルグレーテと顔を見合わせて笑みを漏らした。起きようと必死に顔を上げていたエドガーだったが、しまいにはとうとうかくんと顔を下に向けたままそのまま動かなくなった。どうやら完全に眠ってしまったようだ。

 テオとマルグレーテは互いに肩をすくめて、再び舞台に視線を戻した。

 テオはもう一度まじめに曲を聴き始めた。確かに眠くなるような曲だが、それでもこんなにたくさんの楽器が揃っていて、ガチャガチャした音楽にならないのは不思議だった。演奏していない楽器はないのに、うるさく感じない。いつも楽器が集まるとガヤガヤした音楽ばかり弾いていたテオにとって、神聖な賛美歌は新鮮だった。


 曲が終わり、客席から拍手が響くとエドガーはふと目を覚まして顔を上げた。


「あら叔父様、おはようございます」


 マルグレーテの冷めたような視線に、エドガーは悪びれる風もなくうーんと背伸びをするとすっきりした顔で言った。


「いやあ、素晴らしい演奏だった。賛美歌を聴きながら眠るのは至極贅沢なことなんだぞ。教会では寝られんからな」


「……はいはい、叔父様の寝言は放っておきましょう、次は協奏曲、その後は休憩よ」


 明るい調子の協奏曲が始まる。エドガーは今度はしっかり起きて聴いていた。

 テオは協奏曲を聴きながら、先ほどとは違って様々な方向から来る音とまたその綿密に整えられて調和したメロディーに感心していた。即興にはない音のバランスの良さに、テオは耳を傾けていたが、やはり退屈さを感じていた。もちろん計算された音は美しいが、これでは酒場の大衆は喜ばない。それに、楽器それぞれの音がひとつの音になっている技術は素晴らしいが、個々の音の良さが目立たないし、なにかが足りない。たくさんの楽器があり迫力も雰囲気も作れるが、こうした舞台音楽は自分には向かないと思った。

 テオはきっちりと揃った曲の終わりに拍手を送った。横を見るとマルグレーテも少し退屈そうな顔をして拍手していた。テオがおやと思っていると、マルグレーテは彼の視線に気づいて苦笑いの表情を浮かべた。


「この曲はあんまり変化がないから好きではないの。もっとドラマチックな情緒的な音楽の方が私は好きだわ」


 マルグレーテの言葉をきいてテオはああと理解した。テオが足りないと思ったのは情熱だ。美しくはあったが、上品過ぎて自分とはかけ離れたように感じたのだ。


 エドガーは姪の言葉をきいて笑った。


「安心してくれ。この休憩の後はもっと変化のある曲だそうだ。演奏されるのも今日が初めてらしい」


「あら、それは楽しみね! 休憩なら飲み物でも……と、思ったけど、あまり出歩きたくないわね。叔父様、悪いけど何か持ってきてくださるかしら? 冷たい物ならなんでも……」


 マルグレーテがエドガーに話していると、席の背後から鼻にかかったようなテノールの声が響いた。


「その必要はないよ。僕が君にシャンパンを持ってきたからね」


 その声にマルグレーテは息をのんで凍りつき、続いてげんなりした顔で嘘でしょうと呟いた。それから一瞬できれいな笑みを顔に貼り付けると、立ち上がりくるっと振り返った。


「……あら、これはこれはエリオット・シュレーゲル様。あなたが演奏会に出向いていたなんて思いもしなかったわ」


 テオは横から目を瞬かせながら感心したように頷いた。なるほど、彼女の顔の柔軟さはここで発揮されるのか。

 いつの間にか隣に歩み寄ってきたエドガーが口元をにやつかせて席に座ったままのテオに小声で「社交の始まりだ」と言った。


 マルグレーテのほんとうの笑みを知っているテオにとって、彼女の今のぎこちない笑みは、見ていて滑稽とも言えた。



「おやおや、僕だって音楽をきく教養くらいはあるさ……はい、どうぞ」


 エリオットが笑いながら彼女に歩み寄り、飲み物を差し出したのに、マルグレーテは笑みを貼り付けたまま受け取った。


「ありがとう。そう、糸と糸をこすることのどこに価値があるのかわからないと言っていたのは、どこの誰だったかしら」


「さあ、確かブリュグンデ男爵あたりじゃなかったかな。彼はほんとうに貴族とは思えない男だからね……これはシュミット子爵! ご挨拶が遅れまして申し訳ございません」


 エリオットはやっとエドガーの姿に目を向けると頭を下げた。エドガーもきれいな笑みを浮かべた。


「やあ、エリオット君。こんなところで君を見かけるなんて驚きだ。お父上はお元気かな?」


「ええ、宮殿へ毎日通っているので忙しそうにしていますよ……おや?」


 エリオットは、ここでようやくマルグレーテの席の隣に座っている青年の存在に気づいた。


「君は……一体誰かな? マルグレーテ嬢の隣に座っているとは驚きだが」


 テオは席に座ったまま、こちらを見下ろしているエリオットの顔をじろっと見た。金髪でいくらか鼻の高い若い男だ。テオの遠慮のないその刺すような視線に、エリオットは少し怯んで後ずさった。


「な、なんなんだ、君は……?」


「彼は、私のお友達よ。一緒に演奏を聴きにきたの」


 マルグレーテが代わりに答えた。


「お、お友達? で、でも……」


 その時だ。


「エリオット!」


 甲高い叫ぶような声が遮った。


 全員が振り返ると、きれいに巻かれた金髪を揺らしながら派手に着飾っている令嬢がつかつかと足音を立ててやってきた。


「まったく、エスコートするべき私を放って伯爵の娘に飲み物を運んでいるなんて信じられないわ!」


 テオは金切り声を出して喚く彼女に顔をしかめ、エドガーは後ずさり、マルグレーテはくらくらする頭を抑えた。エリオット・シュレーゲルの今夜のパートナーが、よりによって彼女ーードロテア・コンスタンツだなんて!

 

 エリオットは特段悪びれる様子もなく肩をすくめてみせた。


「愛しのドロテアこそ、休憩を待たずして演奏中に私を置いて席を立ってしまったんじゃないか。それにほら、私はもうひとつ飲み物を持っているだろう? これは君のだよ」


 先ほどまで自分が口につけようとしていた物をパートナーに差し出すエリオットに、ドロテアはふんと鼻を鳴らしたが、そのグラスを引ったくると一気に飲み干した。そして、まるでマルグレーテに見せつけるように彼の腕に自分の腕を絡めると言い放った。


「行きましょう、こんなところに長居は無用よ」


「おっと、わかったわかった……それじゃあマルグレーテ嬢、失礼するよ」


 ドロテアに引っ張られながらエリオットは少し振り返ってマルグレーテに別れを告げ、ようやくボックス席の空間に平和が訪れた。


 三人は去っていった二人の後ろ姿をぽかんと眺めていたが、やがてエドガーが口を開いた。


「……やれやれ、まるで嵐だな」


「嵐どころじゃないわ、ああいうのをハリケーンと言うのよ……どっと疲れてしまったわ。エリオットだけじゃなくてまさかドロテアまでいるなんて」


 力が抜けたようにへたりと席に腰を下ろしたマルグレーテは息をついた。その様子にテオは同情の念を抱いた。


「……貴族というのは大変だな」


 マルグレーテは隣に座るテオにげんなりした顔を向けた。


「そうでしょう、特にさっきの二人は性格破綻で有名、社交界でもトップを飾るほどなの」


 エドガーはわからないというように首を傾げた。


「しかし、マルグレーテ。彼女になぜあそこまで嫌われているんだ? 何かしでかしたのかい?」


「するわけないでしょう、ドロテア・コンスタンツは単に身分の低い人間とは関わりたくないのよ」


 マルグレーテの言葉にきょとんとしたエドガーだったが、突然笑い出した。


「そうか、彼女は、あのコンスタンツ侯爵の娘さんだったな! どうりで私には目もくれなかったわけだ」


 エドガーはひとり納得したように笑い、マルグレーテはただため息をつくばかりで、テオはよくわからなかった。ただマルグレーテからきらきらした笑顔が消え失せ、ぐったりとしているのが目についたのでテオは言った。


「……気分が悪い時は音楽が一番だ」


 その言葉にマルグレーテは目をぱちくりさせると、ようやくにっこりと微笑んで肩をすくめた。


「そうよね」


 その後エドガーが持ってきた冷たい飲み物を飲むといくらかさっぱりしたようで、マルグレーテは気合が入ったように言った。


「いよいよ後半だわ! さっきのことは忘れて音楽を楽しみましょう」


 幕が上がり、始まった演奏は、新しく作曲されたばかりのバイオリン協奏曲だった。先ほどののんびりした退屈さとは一転して、スピード感のある旋律もあり、テオの関心を引いた。

 第三楽章に入った時だ。ソリストのバイオリンの音が一段と目立つ、今まで聴いたことのないメロディーが流れた。弾いている初老の紳士の柔和な雰囲気からは想像もできない音楽だった。一歩間違えれば耳ざわりな音のはずが、観客全ての心を奪う美しい旋律となって舞台に響き渡り、曲を導く。皆その技術に息を飲んだ。


 演奏が終わると割れるような拍手と歓声が送られた。


「信じられない、あんな弾き方は初めて見たわ!」


 マルグレーテは興奮しながら大きく拍手を送った。


「ほんとうにすばらしい! あのソリストだけ飛び抜けていたな」


 マルグレーテの左隣でエドガーも前のめりになって拍手していた。すると突然マルグレーテの右隣で、テオがガタッと音を立てて立ち上がった。


「テオ、どうかしたの?」


 テオは呆然と舞台を見ながら何か呟いていたが、響きわたる歓声の中で二人の方を向くと、大真面目な目で言った。


「頼む。俺をあのバイオリン弾きの……ソリストのところへ連れていってくれないか」


 思いがけないテオの懇願に、エドガーとマルグレーテは目を丸くさせた。






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