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Bravo!  作者: レイチェル
31/33

31. 婚姻のかたち


 “可愛いマルグレーテ


 元気にしていますか。あなたから手紙が届いて、私もギゼラもロザムンドも心からほっとしています。エンマやマリアも、屋敷の使用人達みんなも、そしてもちろんお父様もよ。みんな元気にしています。あなたがテオさんと再会できて、ほんとうによかった。

 エドガー叔父様から聞いたと思うけど、お父様はあなたが家を出たことに腹を立てたりしていません。私達と同じようにあなたのことを心から愛しているわ、ほんとうよ。エンマも前と同じように侍女として勤めてくれています。相変わらずあんまり笑わないけど。

エドガー叔父様に恋人がいらしたこと、知らなかったわ。再会できたなんてとっても素敵。今後はやっぱり一緒に暮らすのでしょうね。

 ところで、叔父様はもうウィーンにお帰りにならないのかしら? 私からも叔父様に手紙を書くけど、あなたからもできれば叔父様に伝えてほしいの、フェルマー男爵とビュルクナー子爵、トーア劇場のオーナー、楽器屋のブルーノさんという方、七区の「リーヤの酒場」の店主さんが叔父様を訪ねて度々うちに来ているわ。お父様はできるだけのことはやってらっしゃるけど、私達もどうすればいいのかわからないから、叔父様はやはり一度はウィーンに戻ってらしたほうがいいのではないかしら。とにかく叔父様に伝えてくれたら嬉しいわ。

 私はこの秋にいよいよ結婚が決まりました。ベットナー侯爵家の次男、エックハルト様よ。あなたにも一度紹介したことがあったはずだけど、覚えているかしら。エックハルト様はとても聡明な方だけど、やっぱりお父様が少し怖いみたい。でもしょっちゅう家に来てお父様と仕事の話をしているわ。婿入りだから事前にやっておくことがたくさんあるらしいのだけど、私との時間も必ず作ってくれる方よ。

 ギゼラとロザムンドが嫁ぐのはまだ先みたい。お父様は何を考えてそう決められたのかわからないけど、きっとマルグレーテが居なくなって寂しいのね。私もあなたがいなくて寂しい。エックハルト様にはどうにかしてあなたに会いに行けないかと、相談しているのよ。

 クレモナはどんなところ? また近況を教えてください。


 あなたの健康と幸せを祈っています。エドガー叔父様とマリアさん、そしてもちろんテオさんにもよろしくお伝えください。


 追伸

 マルグレーテ宛にお礼状が来ているので、同封します。


 心からあなたを愛するベルタ”




 マルグレーテは、マリアの屋敷のエドガーの部屋で、美しく装飾の施された椅子に座って、一昨日長姉ベルタから届いた手紙を何十回も読み返していた。


 エドガーがクレモナに着いてから二十日が経った。

 叔父に再会したその日に、マルグレーテは父と姉に手紙を書いた。突然姿を消したことに対する謝罪と今まで育ててもらったことへの感謝、テオと再会したこと、マリアのこと、今クレモナに住んでいるということ、そしてエドガーがやってきたこと……。書き出せば止まらなかった。

 そして一昨日、姉から返事が届いたのである。



「ベルタお姉様が結婚……」


 言葉に出してみるが、実感は湧かなかった。婿入りだからあのシュミット邸からいなくなるわけではない。しかし、マルグレーテの心にはなんだかざわざわと風が吹きつけるようだった。


「結婚。ベルタお姉様が。ベルタお姉様が結婚……ベルタお姉様が……」


「お前、一昨日から何回それを言うんだ」


 マルグレーテの呟きをエドガーが遮った。振り向くと、叔父が腰に手を当てて呆れた表情をしている。


「何度も言わなくともわかる。それにここは私の部屋だぞ。出ていってくれ」


「だって、ベルタお姉様が結婚なんて」


 暗く沈んだようにマルグレーテは言った。


「想像していなかったのか? ずいぶん前から婚約者もいたじゃないか。第一にお前だって姉より早く嫁ごうとしていたのに」


 叔父の言葉に、拗ねたように口を尖らせる。


「わかってるわよう」


 そう言ってからマルグレーテは立ち上がると、手紙を握り締めたまま部屋を出ていくようにみえたーーと思いきや、エドガーが「あ、ちょ、お前っ」止めるのもきかずに、今度はベッドの上にボスンッと転がって「ああーーベルタお姉様が結婚なんてっ」と悲観した声で言った。

 今朝きれいセットしたシーツにぐしゃりとしわが寄る。エドガーは顔に手を当てた。


「一体何が不満だというんだ。結婚したってお前の姉であることには変わりないし、あの屋敷から出ていくわけでもない。そもそもあの屋敷を出たのはお前の方だぞ」


「それはそうなのだけど……そうなのだけど。お姉様は、私のベルタお姉様なのに。エックハルトなんて誰よ、お姉様のことは私の方がよくわかってるんだから……」


 ぶつぶつベッドの上に転がりながら言う姪に、エドガーは大きくため息を吐いた。その時、扉を叩く音とともにテオが部屋に入ってきた。


「おお、テオ君! ちょうどいいところに来てくれた。頼むから、この困ったわがまま娘を部屋から連れていってくれ」


 部屋に入るなりエドガーがそう言ったのに、テオは目を瞬かせて彼の指した方を見た。マルグレーテがベッドの上に寝転がった状態でこちらを見ている。

 テオはしばらく無表情でそんな彼女を見ていたが、エドガーにすっと視線を戻した。


「……エドガー、マリアが呼んでたぞ。時間があったら式のことでちょっと相談したいことがあるから来てくれないかって。一階のホールにいる」


「おや、そうかい? ありがとう……マルグレーテ、あんまりテオ君に迷惑をかけるんじゃないぞ」


 エドガーはそう言って、部屋を出ていってしまった。


「ふん、迷惑なんてかけないわよ」


 マルグレーテはむくりと起き上がると、もういなくなった叔父に言った。

 テオは何か考えていたようだが、マルグレーテの方を見ずに言った。


「……散歩にいこう」


「えっ」


 いきなり言われてマルグレーテはきょとんとしたが、テオはそれ以上何も言わずにさっさと部屋を出ていってしまった。

 マルグレーテも慌てて「ま、まって」と姉からの手紙を手にしたままベッドから抜け出した。




 テオはそのまま振り返ることもなく、屋敷を出て街中を歩いた。ただ、マルグレーテが追いつけるように歩く速さも歩幅も合わせてくれているようで、マルグレーテは彼のすぐ後ろをてくてく歩いていった。


 川岸まで来ると、ようやくテオは足を止めた。


「……ごめん。ちょっと感じ悪かった」


 川を見つめたまま突然テオが謝ったのに、マルグレーテは驚いた。


「え? そんな、いいのよ。どうかしたの?」


「いや……その……」


 テオは下を向いた。心なしか耳が赤い。


「べ、ベッドに……横になっている君とは……ちゃんと話せそうになかった」


 それを聞いたマルグレーテは、はっとしてみるみるうちに頬を染めた。


「ごご、ご、ごめんなさい……はしたなかったわね……」


「い、いや」


 テオは大きく咳払いをして何度か深呼吸をすると、くるっとマルグレーテの方を向いた。もういつもと同じ表情になっている。


「それより、マルグレーテこそどうしたんだ。姉さんが結婚するのが嫌なのか?」


 マルグレーテはずばり言われて、一瞬言葉に詰まったが、眉尻を下げて小さく頷いた。


「嫌……なつもりはないのよ、祝福しなきゃって思っているわ。でも……結婚してしまうなんて、お姉様にとって私は大事な存在じゃなかったのかしらって思ってしまって。わかっているのよ、お姉様は変わらずに私を愛してくれているわ。でも、なんだか置いていかれたように感じてしまうの……」


 マルグレーテは落ち込んだように暗い声で言った。


「こんな風に思っているなんて、ひどい妹よね。お姉様は私の幸せを望んでくれているのに」


「ひどい妹なんかじゃないさ」


 テオが優しく言ったのに、マルグレーテは顔を上げた。


「君が姉さんを大切に思ってる証拠じゃないか。結婚するんだから、寂しいと思って当然だ」


 マルグレーテは眉をぎゅっと寄せた。そう、そうだ、私は寂しいのだ。お姉様が自分だけのものじゃなくなる気がして寂しいから。


 テオは「でも」と続けた。


「君の姉さんもそう思っていたんじゃないのか? 君が……その、俺を追いかけるためにウィーンを出る時、姉さんだって同じような思いをしたはずだ」


「え、お姉様も……?」


 マルグレーテは目を瞬かせた。思ってもみなかったことだ。

 テオは頷いた。


「俺は正直、君の姉さんをよく知らない。けど君の話を聞く限り、エドガーみたいに協力してくれたんだろう。仲の良い妹が離れていくのに、平気だったとは思えない。姉だからこそ君を送り出してくれたんじゃないのか」


 テオの言うことはもっともだった。言われてみれば確かに手紙には“あなたがいなくて寂しい”とあった。でも、そんなことに姉は気を取られたり、悩んだりしないと思っていた。


 思えばベルタは、マルグレーテのテオへの恋心に関して最初からマルグレーテの味方だった。宮殿の舞踏会の時にテオを探しに町に行く時も、修道院を抜け出してウィーンを発つ時も、彼女の協力なしでは切り抜けられないことばかりだった。

 マルグレーテがウィーンを出ると決断した時、ベルタはどう思っていたのだろうか。



「お姉様は……」



 マルグレーテは、ずっと手にしたままでしわしわになってしまった手紙を広げた。姉の美しく丁寧な字で、“心からあなたを愛するベルタ”と綴られているのが目に入る。

 ウィーンを出ようと思っていると姉達に話した時、ベルタが自分に言ったことがマルグレーテの脳裏に蘇った。


『……忘れないで。どんな生活を送ることになっても、あなたは私の大事な妹よ』


 マルグレーテにとって、ベルタはかけがえのない存在だ。そしてそれはきっとベルタにとっても同じだろう。一体どれだけの思いを噛み締めて姉は自分を送り出してくれたのだろうか。

 お姉様が心から応援してくれたから、私は今、テオと一緒にここにいられるのだわ。お姉様に私を尊重する心があったからこそ。それなのに私は……。


「私」


 マルグレーテは顔を上げて、きりりと真面目な顔でテオを見て言った。


「私、お姉様に祝福の手紙を書くわ。私も心からお姉様を愛しているんだもの。お姉様の幸せを、誰よりも願っているのは私だもの」


 そこまで言うと、マルグレーテは思いがけず目に涙が浮かんできて、すっと顔を川に向けた。

 川は静かに流れていて、優しい風のさやさやと草木を揺らす音だけが響いていた。まるでお姉様のような穏やかな風だわ。マルグレーテの頭に次々とベルタとの思い出が過ぎる。

 幼くして母親を失ったマルグレーテには姉が三人もいたが、歳の離れたベルタは自然と母親代わりとなっていた。その一方でマルグレーテのいたずらにも協力するような茶目っ気もあった。下の姉二人は眉をひそめたが、ベルタはいつもにこにこしながらマルグレーテに付き合ってくれた。そのせいか、父や乳母から叱られるのは自分よりも姉の方が多かったように思える。それでも姉はいつも優しく包み込んでくれていた。

 ああ、お姉様。私はお姉様にしてもらうばかりで、ちっともお返しができないままでした。当たり前のように思っていたのね……そんなことに今更気がつくなんて。


 ふいにマルグレーテの肩に、テオの手がふんわりと置かれた。


「えらいぞ」


 テオがそう言ってくれたのがおかしくて、マルグレーテは笑い声をあげると、テオに身を寄せた。テオの身体は温かく、心地よい香りがした。目を閉じると同時に溢れてきた涙が頬を伝った。


「……ありがとう、テオ」


 何もかもわかってくれているテオの優しさが、マルグレーテはほんとうに嬉しかった。先ほどのような心にざわついていた悲しさはもうなくなっていた。


 二人はそうして川を眺めながら肩を寄せ合っていたが、しばらくしてテオが言った。


「……エドガーとマリアは、式の後にウィーンに行くつもりなんだろう。ついでにトリエステに寄ってもらわなくていいのか」


 そう、エドガーとマリアは近々結婚式を挙げることにしていた。その後で旅行に行こうと思っていたらしいのだが、そこへベルタからあのような手紙が来たので、やはり一度はウィーンに行った方が良いだろうということになったのである。「旅行がてら行くだけで、仕事が片付くものなのかしら」とマリアは心配そうにしていたが、エドガーならきっと無理にでも“片付いたことにする”のだろう。

 またベルタの手紙と一緒に、マルグレーテ宛に一通の礼状が入っていた。差出人はトリエステの仕立て屋アンジェロとその弟子ロメオと書かれている。

 姪が旅先で彼らに世話になったことを知ったエドガーは、すぐに大量の謝礼金を送りつけた。今回届いた礼状はそれに対するものだった。



「礼状には、マルグレーテが置いてったドレスは取りに来るのかって書いてあったんだろ。エドガーに頼んで回収してもらうこともできるんじゃないか」


 マルグレーテは「いいえ」と首を振った。


「ドレスはもういらないわ。あの古着屋の奥様にさしあげたつもりだったの。預けたって言わなきゃ、受け取ってもらえそうになかったから。いいわ、私がロメオ様に手紙を書く。叔父様が大量にお金だけ送ったことも、ちょっと失礼だと思っていたのよ。ふふ、あの方元気かしら」


 マルグレーテが楽しそうに言うと、テオはわずかに声を落として言った。


「……その、ロメオって男と仲良くなったって言ってたな」


「ええ。トリエステの町を道案内してくださったの。彼のおかげであなたが演奏した酒場や泊まった宿に辿り着くことができたのよ。やっぱり直接お礼の手紙を書かなくてはね」


 マルグレーテがそう言ったのに、テオは少し不機嫌な表情になった。すっとマルグレーテから身体を離してそっぽを向く。


「……俺は文字を書けないし読めない。だからその男みたいに、君に手紙を書いたり、返事をもらったりできない。それがなんか……悔しい」


 急にそんなことを言い出したテオに、マルグレーテは少し驚いた。彼はめったに自分の心の内を明かさないのに。

 テオは続けた。


「でも、俺は文字を知らないまま生きていきたいと思ってる。生活していく上で不便だし、きっと困ることもあると思う……けど、それが俺なんだ……そうやって生きてきたし、変えるつもりはない。だから、君には迷惑をかけるかもしれない……」


 すると、突然マルグレーテがテオの腕にがばっと抱きついた。テオは「うわっ」と小さく声を上げたが、マルグレーテはおかまいなしにその体勢のまま顔だけ彼を見上げて言った。


「大丈夫よ! だって私はテオから絶対に離れないもの。手紙を書く機会なんて永遠に訪れないくらい、ずっとそばにいる。文字のことなら任せて。物心つく前から教え込まれたから、もしテオが困ったら力になるわ」


 そう言って得意げに微笑むマルグレーテに、テオは頬を染めて目をぱちくりさせたが、破顔した。


「そうか……君と離れることはもうないんだった。大事なことを忘れてたな」


「そうよ、ふふっ! ロメオ様にもテオと再会できたことを報告しなきゃ。トリエステの人達はみんな私のことを応援してくれたの、きっと心から喜んでくれるわ」


 マルグレーテが嬉しそうに言ったのに、テオは目を細めた。

 その時。


「あの」


 突然すぐ後ろから声がかけられ、マルグレーテとテオは肩をびくっとさせて振り返った。


「……び、びっくりした……ロゼッタじゃない!」


 あまり人の通らない川沿いの道に立っていたのは、クラウゼン邸に勤めるメイドのロゼッタだった。

 テオはほっと胸を撫で下ろしたが、自分の腕にくっついたままのマルグレーテにどきどきしていた。

 ロゼッタはぺこりと頭を下げて言った。


「驚かせてしまい申し訳ありません。通りかかってお見かけしたものですから」


 マルグレーテは、ロゼッタの手にたくさんの荷物があることに気づいた。


「まあ、お買い物? 手伝うわ」


「い、いえ違います、これは」


 ロゼッタは身を引こうとしたが、テオの方が早かった。彼は一番重そうな袋をロゼッタの腕から取り上げた。マルグレーテはその袋から飛び出している何本かのハタキや古い人形など細々としたものを手に取る。

 ロゼッタは自分の小さなかばんと何やら服などが入った手さげのかばんだけになり恐縮しているようだったが、「いいからいいから」とマルグレーテが言って彼女の背中を叩く。



 三人は荷物を抱えて屋敷の帰路についた。


「どこか掃除に行っていたの?」


 歩きながらマルグレーテが訊いた。

 テオの持つ袋にはいろいろな日用品が入っているようだし、ロゼッタの手さげにはエプロンが入っているように見える。何よりマルグレーテは今、使いたての数本のハタキと古ぼけた人形を抱えている。明らかに掃除をした後のようだ。

 ロゼッタは「はい……」と申し訳なさそうに頷いた。


「その、祖母の家の掃除をしてまいりました」


「ロゼッタのお祖母様?」


「はい、七年ほど前に亡くなりました。今のお屋敷にお勤めすることになるまで、私と二人暮らしだったのです。今は空き家になっているので、私がこうして定期的にお掃除をしているというわけでーー」


 ロゼッタはそこまで言って急に言葉を途切らせて、立ち止まった。

 マルグレーテとテオは不思議に思ってロゼッタを見る。


「ロ、ロゼッタ? どうかしたの」


 マルグレーテが彼女の顔を覗き込んで呼びかけると、ロゼッタは突然何か思いついたような表情になって「そうだわ、その手があった」と呟くと、上の空だった視線をマルグレーテとテオに合わせた。


「マルグレーテ様、テオ様。確かお二人は、いずれお屋敷を出て、小さな家で暮らしたいとおっしゃっておりましたね?」


 マルグレーテとテオは目を瞬かせた。


「え、ええ、言ったわ」


「それでしたら、もしよろしければ私の祖母の家をお使いくださいまし! 誰も住んでおらず、古く小さな家で、売家としても出していません。いかがでしょうか、もちろん家賃などいただこうと思っておりません。ただ住んでいただければ良いのです。そうすればマリア様の屋敷を空けて、祖母の家を掃除をしにいく必要がありませんから」


 マルグレーテとテオは驚いて顔を見合わせた。


「俺達が……その家に住む、だって?」


「で、でも……お祖母様は亡くなったとはいえ、あなたの家でもあるじゃない。あなただって使うでしょう」


 ロゼッタは肩をすくめて、歩き出した。


「いいえ! 実のところ、私の私物は奥様のお屋敷に家具からティーカップまで、全て持ち運ばせていただきました。残っている私の物といえばホウキくらいです。いかがでしょう、一度見にこられては? 今日はもうすぐ晩鐘の頃ですから、後日奥様からお暇をいただいて、ご案内いたしますわ」


 ぜひと言うロゼッタに、マルグレーテとテオは顔を見合わせたが、戸惑いながらも頷いた。




**************




「「ロゼッタの家に?」」


 数日後、夕食の席でマリアとエドガーは驚きの声を上げた。

 食事を始めて早々、マルグレーテが突然「私達、ロゼッタの家に住もうと思うの」と言い出したのである。


 マリアが目を瞬かせながら言った。


「ロゼッタの家は……確か川沿いに北に行ったところよね。とっても小さなお家じゃなかった?」


 その時、ちょうど調理場から戻ってきたロゼッタが、入れ替えたばかりの水差しをテーブルに置いて頷いた。


「はい。マルグレーテ様が小さなお家をご所望と伺ったので……静かで住みやすいですから、一度見にきてはいかがとご提案したのです」


 ロゼッタがそう言うと、マルグレーテが「それで今日テオと見にいったのよ」と嬉しそうに言った。


「とっても良いお家だったわ! 頑丈そうだし、周りにはあまり民家もなくて騒がしくないし、落ち着いた場所だったの。窓から差し込む太陽で部屋も明るいし、調理場も勝手が良さそうだったわ。ね、テオ」


 マルグレーテの言葉に、テオも頷いた。


「立地は俺にとってもありがたい。バイオリンを自由に弾けるところが良かったんだ。家具もひと通り揃ってたから、暮らし始めもお金にはそんなに困らないかなって……」


「ほう、ではテオ君も乗り気なのか」


 エドガーは肉を切りながら感心したような声で言うと、テオは肩をすくめた。


「もともとこの屋敷でずっと世話になりっぱなしだったから、それに甘えちゃ悪いって思ってた。結局ロゼッタに借りを作ることになるけど」


「借りだなんてとんでもない!」


 ロゼッタが慌てたように首を振って、声を上げた。


「むしろ私が押しつけてしまいました。毎月誰も住んでいない家を掃除するのは大変なので、住んでいただければありがたいのです」


「ふうん、確かにそれもそうねえ。ロゼッタにはこの屋敷にいてもらわないと私が困るし」


 マリアはそう言った後、眉尻を下げて行儀良く食事をする若い二人を見た。


「でも……寂しくなるわ、もういなくなってしまうなんて。ずっとロゼッタと二人きりだったから、あなた達が来てくれて、とっても嬉しかったのに。毎日とても楽しいのよ」


「まあ、そんな風に思ってくれていたなんて……光栄だわ」


 マルグレーテははにかんだように言い、テオは小さく笑みを浮かべた。


「同じ町だから、会おうと思えば会える。まだいつから家を移るか決めてないし」


 和やかな雰囲気で三人は微笑み合っていたが、話を聞いていたエドガーがにやっと笑って言った。


「二人で暮らすとして、料理や洗濯はどうするんだ? マルグレーテは何にもやらないからな、全部テオ君がやるはめになるぞ」 


 はっはっはっと笑ってエドガーに、マルグレーテはパンをちぎりながら「相変わらず叔父様は水を差すのが好きねえ」と、目を細めて叔父を見た。


「どうぞご心配なく。このお屋敷に住み始めてからいろいろとロゼッタに教わっているの、毎日ぐうたらしている叔父様と違ってね」


「ぐ、ぐうたらってお前……!」


「はいはい、そこまでよ」


 マリアが間に入って二人の攻防を止める。


「エドガーったらマルグレーテをからかうのもいい加減になさい……あなたが今飲んでいるスープはマルグレーテが作ったのよ」


「えっ」


 エドガーが飲んでいた手を止め、驚きの声を上げて姪を見た。

 マルグレーテはふふんと鼻を鳴らす。


「それに、そのメインのお肉に添えてある野菜はテオが剥いたんだから」


「えっ!?」


 エドガーはぐるっとテオの方に顔を向けた。

 テオはパンをちぎりながら肩をすくめた。


「それくらいはやる」


 エドガーは目を見開いたまま「そ、そんな……」と声を漏らした。

 その後ろからロゼッタが、空になった皿を下げながら言った。


「奥様はメインのお肉の火の焼き加減をずっと見ておられましたよ。それにパンを切り分けるのは、いつも奥様でございます」


 エドガーは軽くショックを受けたような顔をマリアに向けた。マリアはくすりと笑みを漏らした。


「あなたはここのところ、ずっと式の事で忙しそうにしているじゃない。だからあなたに声をかけるのはやめたのよ」


 叔父が「私だけ……私だけ除け者に……」しぼんだ声で呟いたのをまるきり無視して、マルグレーテは嬉しそうに言った。


「式ももうすぐね! テオのソロがあると聞いて、とっても楽しみにしているのよ」


 テオは照れたように口の端を上げた。


「晴れ舞台で弾くのは俺も初めてだよ。まあカルロの作ったバイオリンで弾くから、途中で弦が切れることはないだろう」


「そう、それならカルロも来るのね! 町の人や子ども達も招待するのでしょう? ふふ、きっと素敵な日になるでしょうねえ」


 そう言ってマルグレーテは皿に残ったお肉のかけらを平らげた。

 しかしマルグレーテが嬉しそうに言ったのに、エドガーとマリアは少し気まずげに顔を曇らせた。まるでその日を迎えるのを恐れているような表情だ。

 結婚式の話題に、いつもなら笑みを返すか照れるかするはずの二人に、黙々と食事をしていたテオもおやと思った。


「どうかしたの、二人とも」


 マルグレーテが問うと、エドガーは一度マリアと目を合わせてから改まって姪の方を向いた。


「マルグレーテ。実は、私とマリアの結婚式には町の人達の他に……君のお父様にも来てもらおうと思っているんだ」


「えっ、お父様、ですって……?」


 マルグレーテの顔から表情が消えた。エドガーは真面目な顔で頷いた。


「そうだ。最初は呼ばないつもりだった……だが彼は私のたった一人の兄だ。いろいろ考えた上で招待状を送った。それでついこの前、出席の返事を受け取ったんだ。だから……」


「お、お父様が……お父様がここに来るなんて、そ、んな」


 マルグレーテはカタカタと震え出した。まだ父親に対する畏怖は消えていないのだ。顔も青くなっている。


「マルグレーテ」


 テオがテーブルに置かれたマルグレーテの震える手をぎゅっと握る。マルグレーテははっとテオを見た。


「マルグレーテ、大丈夫だ」


 彼の力強い言葉に、マルグレーテは我に返ったように「ええ……そうよね。わかっているわ、大丈夫よ」と小さく頷いた。

 エドガーも言った。


「もちろんマルグレーテを連れ戻すなんて、兄上は考えてはいないはずだ……望んでいるかもしれないが。兄上はあくまで私の結婚を祝いに来てくれる。さすがにお前を叱りつけたりはしないだろう。お前も一緒に、祝ってくれたら嬉しい」


 その心からの言葉に、マルグレーテは少しだけ沈黙したが、目を細めて「わかったわ」と頷いた。

 エドガーは「そうそう」と続けて言った。


「挙式には兄上だけじゃなく、お前の姉さん達も来るそうだ」


「まあ……お姉様達が!?」


 青くなっていたマルグレーテの顔に、一気に赤みがさして嬉しそうな笑みが広がっていく。横から見ていたテオは、呆れたように小さく息を漏らした。全く、相変わらず忙しい顔をしている。

 エドガーは急に元気を取り戻した姪に微笑んだ。


「そうだ。みんな私の婚礼を祝いに……そしてお前に会いにくる。幸せに暮らしているんだぞって、笑顔で出迎えてやろう」


「ええ、そうね……! ふふっ、お父様には驚いたけど、お姉様達に会えるなんて夢にも思っていなかったわ、嬉しい」


 さっきの恐怖はすっかり消え去ったようで、マルグレーテは楽しげに食事を再開させた。

 そんなマルグレーテに、エドガーとマリアはほっと胸を撫で下ろしたようだった。一方、テオはにこにこしながらパンを食すマルグレーテを見ながら、あることを考えていた。






 その夜。

 

 テオは外の庭に出て、バイオリンの練習をしていた。無論、エドガーとマリアの結婚式で弾く曲だ。失敗したところで即興でごまかす技術も持っているが、テオは完璧に弾いてみせたかった。カルロの作ったバイオリンでもあるので、ごまかしたりはしたくない。


 庭に山積みにされてある煉瓦の上の置き時計は隣のランプに照らされて九時を回っている。音を聞きつけたエドガーが「練習は遅くとも十時までだ」と神経質そうな顔をして置いていったのだ。

 月明かりが雲の合間に差す中で、テオは飾りの連符に集中していた。ようやく滑らかに弾けるようになると、テオはふうと楽器を下ろした。

 新緑の香りをまとった心地よい風が吹いている。


 その時カサ、と誰かが歩く音がした。


 振り返ると、一本の燭台を持ったマルグレーテだった。彼女はテオのすぐ近くまで来ると、燭台を時計台の隣に置いた。


「素敵ね、その飾りの部分」


「ありがとう、メロディーに合わせて作ってみた……結婚式で弾くなんて初めてだから、アレンジが大変だ」


 テオがそう言うと、マルグレーテはくすくす笑った。


「叔父様たっての希望ですもの。その割には、あまり練習に協力的ではなさそうだけど」


 マルグレーテは煉瓦の上の置き時計にちらと視線をやった。テオはふっと笑みを浮かべた。


「そんなことないさ。十時なんて、妥協してくれてる証拠だ。ウィーンの屋敷じゃずっと八時までだった。ウィーンに来たばかりの頃、マルグレーテが手紙でよこした楽譜を遅くまで練習したけど、あれは例外だったんだ」


「そういえば、あの時の叔父様の顔はひどかったわね。私、病気かと思って驚いちゃった」


 二人は、寝不足でクマのできたエドガーの顔を思い起こして笑い合った。


「あの時はほんとうに嬉しかったのよ、私の送った楽譜を夜中になってもずっと練習してくれたって。叔父様には気の毒だったけど。ふふふ」


 笑いを収めたマルグレーテは空を見上げた。星はあまり見えなかったが、月はぽっかりと浮かびあがり、マルグレーテとテオの顔を照らしている。


「もうすぐね、叔父様達の結婚式も」


 式までひと月を切っていた。初め、エドガーは再会してすぐ簡単に済ませようと思っていたらしいが、爵位のある身の場合、やらねばならないことが多く、結局手軽に済ませることはできなかったようだ。


 二人はしばらく無言で月を見ていたが、テオが「その、マルグレーテ」と切り出した。


「俺達のことなんだけど」


 テオは楽器をケースの上に置いてからマルグレーテに向き直った。


「俺は……正直、君と一緒に住めれば良いと思ってた。自分の結婚式なんてそんなの柄じゃないし、やりたいと思わないんだ。みんなに認めてもらうとかそういうのはちょっと……それになんていうか、俺が君を妻として娶るとか嫁にもらうとかってのは好きじゃない。君とは、常に対等でありたい。それは君が伯爵令嬢だった時からそう思っていた」


 真剣な声で言うテオに、マルグレーテはこくりと頷いた。

 テオは続けた。


「君がエドガー達みたいな結婚式を挙げたいと言うならやろう……って考えたりもしたけど、そう言ったとしたら君は俺の気持ちを優先してくれるだろう。だからこう考えた。その、俺達……式は挙げないけど、教会の司祭のもとで誓いを立てないか?」


「……司祭様のもとで?」


 テオの意外な提案に、マルグレーテは驚いて彼を見つめた。月明かりとランプと燭台のわずかな明かりに、彼の真剣な目が光っているのがわかる。

 テオは頷いた。


「そうだ。司祭のもとで誓いを立てれば、もう夫婦って証拠だろう。そうすれば君の親父さんに会っても、ちゃんと胸を張ってマルグレーテの夫になったって言い切れる。証人がいれば、いくらなんでも無理やりに君を夫から引き離して連れて帰ろうなんてしないはずだ」


 マルグレーテはぽかんと口を開けた。


「そ、それじゃあ、私のために……私がお父様に連れ戻されないようにって、それを考えてくれていたの?」


 テオは肩をすくめた。


「もちろんもし親父さんが君を無理やり連れていこうとしても、俺もついていくつもりだ。君がここまで追いかけてきてくれたんだ、離れるつもりはない」


 マルグレーテは眉尻を下げ、暗がりのテオを見つめた。手を伸ばして彼の手を取ると、ぎゅっと両手で握る。


「嬉しい。あなたがそういう風に考えてくれていたことも、私と対等でありたいと思っていることも、全部嬉しいわ、テオ……あなたってほんとうに」


 マルグレーテは胸がいっぱいになって言葉を詰まらせると、握ったテオの手を自分の頬に押し当てた。素晴らしい音楽を生み出すこの手は、こんなにも温かく優しい。


「……ふふ、テオは私のお父様への恐怖を一気に消してしまうのだからすごいわ。そうね、明日教会に行って誓いを立てましょう。そうすれば……いいえ、その方がもしかしたら、お父様も安心するのかもしれない……ありがとう、テオ」


 そう言ってテオを見上げると、彼は顔を逸らして暗い花壇の方へ視線を向けていた。暗いので彼の表情はわからなかったが、頬に当てたままの彼の手は熱を持っている。


「マ、マルグレーテ」


 テオはどもりながら言った。


「かく、確認するけど、ほ、ほんとうに俺でいいんだよな。ウィーン貴族の婚約者とか、トリエステ の仕立て屋のロメオって奴じゃなくて、ほんとに俺で」


「まあ、テオったら。何を言っているの」


 マルグレーテは笑って手を下ろし、彼の手を握ったままで言った。


「今までいろんな人と会ってきたけど、あなただけよ。あなただけが……」


「そ、それじゃあさ」


 テオは咳払いをしてから「えっと」や「その」を何度も繰り返してから言った。


「こ、こんなこと……しらふで言うなんて、どうかしてるかと思う……けど、その、今から演奏して、それを気に入ってくれたら……そ、その君に……くく、く、口づけてもいいか」


 握られた手が熱い。

 マルグレーテは彼の言ったことに驚いたが、あのウィーンの夜の酒場のことを思い起こし、少しはにかんだように微笑んだ。


「もちろんよ……でも前も思っていたけど、それってちょっとずるいわよね。私があなたの演奏を気に入らないわけがないもの」


 そう言われると、テオは顔を俯かせて小さな声で「そ、そうだけど。そうでも言わなきゃ、俺なんかが君に……」とぶつぶつ呟いている。


 マルグレーテはふふっと笑うと「ね、テオ」と呼びかけた。


「対価なんかいらないわ。だって、私もあなたにキスをしたいもの」


 暗い中、テオの目が大きく見開いたのがわかった。

 マルグレーテの手を握っている彼の手に少し力が入る。そうしておそるおそるテオは上半身をかがませた。

 マルグレーテは彼の頬に手を伸ばすと、そっと唇を重ねた。それにテオは目を見開いたまま肩をびくりとさせたが、想像以上の幸福感に酔い、思わず目を閉じた。二人は月明かりの下で、長い長いキスを交わした。

 穏やかな薫風がさやさやと草木を揺らし、心地よい若草の香りが二人を包み込んでいた。





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