25. ひと部屋
ミラノを出発したクレマ行きの馬車は平和だった。馬車の進む小道は雪が溶けてからもうずいぶんと経つようで、若草が少しずつ芽吹いているようだった。春の午後の日差しの中を走っているためか乗客の人々も朗らかで、後ろの方の席では歌い出す者達までいた。マルグレーテには聞いたことのない歌だったが、だんだんと前方の席の客達も歌い出したので、有名な民謡なのかと耳を傾けた。
テオの方をちらと見ると、彼は愉快な乗客にはちっとも関心を示さずに、窓からの景色を睨むように眺めていた。マルグレーテははっとした。まさかテオは、街区だけじゃなくて町から町への道も馬車から見て道を覚えようとしているのかしら。
マルグレーテは慌てて窓に目を移した。後方に細い川がいくつも流れているのが見える。いつのまにかあんなに川を越えていたのね。
馬車はそれからいくつか野原を越え、民家を過ぎると、今度は川沿いを走った。日差しに照らされた川の水面がきらきらと輝いている。水の中は透き通っていて、魚が泳いでいる姿まではっきり見えた。
こんなに美しい川は初めて見たわ! 思わずテオに話しかけようとテオを見ると、彼も同じように窓からの景色を先ほどより柔らかい目で見ていた。
そうだわ、彼はこういう表情もするのよ。マルグレーテは嬉しくなって彼に「きれいね」と言った。
テオは、一瞬だけマルグレーテを見たが、すぐに川に視線を戻して頷いた。
「旅の賜物だ。美しい景色は人間性を磨き、音の表現力となる」
「まあ、まるで詩人ね」
マルグレーテがふふっと笑うと、テオも笑みを浮かべて肩をすくめた。
「俺は画家じゃないからこの眺めを絵に描いて残せない。悔しいからせめて目に焼き付けて、音楽に生かしたいんだ」
マルグレーテは目を細めてテオを見た。彼はまさしく芸術家だ。そういえば会ったばかりの頃に、テオが音楽のためには様々な経験が必要だと言っていた。
「……何かを表現できる人って素晴らしいわね。私みたいな人間がきれいな景色を見てもなんにも形にできないから、なんだか無駄な気がしてしまうわ。なにかできたらよかったのに」
「そんなわけないだろう」
テオは一瞬だけ眉をしかめてマルグレーテを見た。
「君が見たり聞いたりすることは、何一つ無駄じゃない。君の心に生きてる。それはマルグレーテの言葉になるし、行動になるんだ。絵で描いたり曲を演奏したりするだけが表現じゃないぞ」
マルグレーテは驚いたように、無表情のテオを見つめた。そんな風に言われるなんて思ってもみなかったのだ。
「そう……そうよね」
テオはやはり表情は動かさないままだったが、こくりと頷いた。そうして二人は、再び窓の外に視線を向けた。
クレマの駅に着く頃には、日はもう沈みかけていた。馬車は夕焼けに染まった大きな広場まで来て止まった。
乗り合わせていた人々がわらわらと散っていくのを、マルグレーテは緊張して見ていた。ベルガモで降りた時に財布を盗まれたと騙る老婆がいたことを思い出したのだ。だが目の前の広場には二人の憲兵が歩いているのが見えた。何か騒ぎが起きれば彼らが放っておくことはないだろう。マルグレーテは憲兵から顔を隠すように頭を覆う布を深く被った。
街灯がちらほら灯り始めた通りを歩いていくと、賑やかな食堂を見つけたので、二人はそこで腹ごしらえをしようと入った。
しかし、店内はすでに客でいっぱいのようだった。店主らしい髭面の男が、入ってきたマルグレーテとテオに気づいたようで奥から出てきた。
「すまねえな、今は見ての通りいっぱいなんだ……おや?」
男がマルグレーテの手元の大きな鞄に目をやった。
「おめえ達、もしかして旅人かい? 宿だったらうちでもやってるぜ。部屋で少し待っててくれたら、そのうち料理も運んでやるよ」
願ってもない話に、マルグレーテは嬉しそうに頷いたが、テオは無表情のまま言った。
「あんまり持ち合わせてないんだ。最初にいくらか教えてほしい」
マルグレーテは隣のテオをちらと見た。ミラノの駅で演奏したのに、足りていないのかしら。それとも信用できないお店? でも、こんなにたくさんのお客さんがいるのだから、悪いお店ではないはず。
しかし、テオは店主から値段を聞くと首を振った。そして彼に「悪いけど、やめとくよ」と言うと、マルグレーテを連れて店の外へ出た。
「ちょ、ちょっと待って、テオ」
ずんずん歩いていく彼をマルグレーテが引き止めた。
「そんなに高かったの? 私だっていくらか持っているのよ」
マルグレーテがそう言ったのに、テオは振り返った。
「……俺達が再会した時の宿を覚えてるか? ここはあそこの三倍はあった。馬車に乗り合わせた連中が噂してたんだ、帝国領内の一部で物価が上がってるって。どうやらこの辺もそうらしい」
マルグレーテは目を丸くした。馬車の客達の噂。テオがそんなことにまで耳を傾けていたのは驚きだった。私は全然気にも止めずに歌しか聞いていなかったのに。
しかし、よく考えてみたら想定内の話だ。広場には憲兵が闊歩し、町の治安は良さそうだった。帝国の手がしっかりと伸びているということだ。
そう考えると、マルグレーテは父の面影を思い出し、ぞっとした顔になった。
「中心街から抜けてみよう、町はずれの方は、もう少しましな値段になるかもしれない」
テオがそう言ったのにマルグレーテはこくりと頷いた。
中心街から離れると、辺りは余計に暗く感じた。もう日はすっかり沈んでしまったようで、空には星が瞬いていた。
しばらく大通りをまっすぐ歩いていると、川にぶつかった。その辺りにはもう街灯もなく真っ暗だったが、川の向こう側のほとりに灯りが見えた。
二人が店の近くまで行ってみると、どうやら酒場のようだった。窓からは静かな雰囲気が見てとれる。
「いらっしゃい」
後ろから急に声がしたので、マルグレーテはびっくりして飛び上がりそうになった。振り向くと、店のランプで照らされた暗がりの中で、エプロンを腰に巻いた若い女が樽を抱えて後ろに立っていた。どうやら店の人間らしい。
テオが尋ねた。
「ここは食事もできるのか?」
「できるさ、食堂ほど大したものは出せないけどパニーノやらつまみならね。入りな、用意してやるから」
そう言うと、女将らしい女は、さっさと店の暗い裏口の方へと行ってしまった。
テオとマルグレーテは顔を見合わせたが、ひとまず店に入ってみることにした。
酒場の中は、窓から見た通り落ち着いた雰囲気で、一人で静かに飲んでいる客ばかりだった。店内はあまり広くないようで、マルグレーテとテオはカウンターの席に座った。
「値段は大丈夫なの?」
マルグレーテはこっそり囁いたつもりだったが、ちょうど奥の厨房から出てきた先ほどの女将がしっかり聞いていたようで、ふふっと笑いながら言った。
「中心街は何でも高くてびっくりしただろ。うちはそこまで高くないから安心しな。まあ、安くもないけどね……何か飲むかい? 酒じゃなくても出せるよ」
「レモネード二つ。俺達、あんまり持ち合わせてないぞ」
テオがそう言うと、女将は笑いながら「わかってるよ」と言って再び厨房に入っていった。
マルグレーテはテオに言った。
「良い人……なのかしら」
「商売上手ってことは確かだな」
テオは肩をすくめて店内にちらりと視線を配ってから自分の足元にバイオリンを置いた。マルグレーテもそれに習って大きな鞄を下に置く。
店内はほんとうに静かで、外の川のせせらぎさえ聞こえた。
庶民向きのお店でも、こんなに穏やかな場所があるのね。マルグレーテは心の中で意外に思った。
「はい、おまたせ」
厨房から女将が出てきて、レモネードと、野菜やハムが挟まれたパンを出してくれた。
テオは女将が差し出した値段を見ると、マルグレーテに頷いてみせた。それを合図にマルグレーテは嬉しそうな笑みを浮かべ、美味しそうなパニーノにかぶりついた。パンが温かかった。
「この値段で、役人に何か言われたりしないのか?」
テオが咀嚼しながら尋ねると、女将は腕組みをしながら答えた。
「言われる言われる。奴らに文句つけられるのはしょっちゅうさ。けど、今に始まったことじゃなくてね。味方してくれる連中もいるから、なんとかやってるよ」
彼女は軽く笑ってそう言った。マルグレーテはパンを飲み込みながら女将を見つめた。憲兵に文句を言われても平気だなんて! 私だったら考えただけでも震え上がるのに。
「その……このお店はお一人で経営されてらっしゃるのですか?」
女将は肩をすくめた。
「そうさ。一応女将をやらせてもらってる」
マルグレーテは「まあすごい……」と感心したように頷いた。女将は自分の長姉と同じくらいの年頃に見える。その年齢で独り立ちをして店を持っているご婦人がいるのだわ。
マルグレーテが尊敬の眼差しで女将を見つめていると、彼女は照れたように目を逸らした。
「大したことじゃないさ、親がやってた店を受け継いだだけなんだから……それよりあんた達、旅人なんだろ? 宿を決めてないんなら、うちに泊まっていきなよ。今夜はちょうどひと部屋空いてるんだ、値段はこれくらいにしといてやるから」
女将が差し出した紙の数字を読んで、テオは少し考えてからマルグレーテを見た。彼は何も言わないまま彼女を見つめ、苦悩するかのように眉を寄せて、最後は机に突っ伏した。
「ど、どうかしたの、テオ」
マルグレーテは慌てたように呼びかけたが、テオは突っ伏したまま何も言わない。
マルグレーテと女将は目をぱちくりさせて顔を見合わせた。
「あれ、値段はそこまで高くないつもりなんだけどねえ。まあ、他に候補者がいるわけでもなし、いくらでも待つから話し合っておいとくれ」
女将は肩をすくませて、奥の厨房へと入ってしまった。
マルグレーテはテオの手元にある紙切れを見た。ひと部屋二人分、三十五リラ。駅の宿よりは高いが、そこまでの額ではないはずだ。それにこれは二人分だ。
マルグレーテは首を傾げて、隣でカウンターに突っ伏しているテオの背中をぽんぽんと叩いた。
「ねえ、テオったら。一体どうしたというの。財布でも落としたの?」
呼びかけられたテオはしばらく沈黙していたが、もそりと顔の半分だけマルグレーテの方に向けて、小さな小さな声で言った。
「値段は申し分ない。問題は部屋の……数だ」
「部屋の数?」
マルグレーテはもう一度紙切れに目を落とした。
ひと部屋二人分、三十五リラ。ひと部屋二人分。マルグレーテはその文字の意味に気づいた。ひと部屋!?
テオが小さな声で言った。
「……大体こういう宿のひと部屋っていうのは、狭くて小さな空間にベッドが一つだと思う……ここのは知らないけど」
いつのまにか再び顔を隠してしまったテオだったが、見える耳は真っ赤だった。それを見た途端、マルグレーテも急に恥ずかしくなって何も言えなくなってしまい、下を向いてしまった。
話し合っていたはずの二人が急に静かになったので、女将はおやと思い、厨房から顔を出した。見ると、先ほどの若い二人の様子がおかしい。青年の方は机に突っ伏したままだし、娘の方は顔を真っ赤にして俯いている。
レモネードに酒でも入れたかな? 女将は不思議に思いながらカウンター越しに二人の前にやってきた。
「ふ、二人とも、大丈夫かい? 具合が悪いなら……」
女将がそう言ったのを、マルグレーテが申し訳なさそうにこちらを見て遮った。
「ち、違うんです。女将さん……その、お聞きしたいことが……おお、お部屋は一つなんでしょうか。二人分というと、もしかして、べべ、ベッドも、ひ、一つだったり……」
そこまでマルグレーテが言うと、女将は言葉の意味がわかったようで、目を見開いた。
「ありゃっ! もしかしてあんたたち、夫婦じゃないのかい!?」
女将が驚きの声で言ったのに、マルグレーテは顔を赤く染めながら小さく頷いた。
すると女将は吹き出してからからからと笑い声をあげた。
「そうかい、そいつは悪かったね! あたしゃ、てっきりねえ、あははっ」
静かな店内で、女将の笑い声だけが響いているので、マルグレーテはますます顔を赤くし小さくなった。反対にテオは、その笑いに腹が立ったのかむくりと起き上がって、むすっとした表情を浮かべた。
それに気づいた女将は、笑いを収めて咳払いをした。
「……悪かったよ。でも大丈夫さ、うちを他の安宿と一緒にしないどくれ。部屋は広いし、ベッドは二つあるんだ。それでも気になるんならどっちかがここの店内で寝るしかないけど……どうする?」
テオは顔をしかめて考えていたが、マルグレーテは女将の言葉にぱっと顔を明るくした。
「よかった、ベッドは二つあるのですね! それじゃ、二人でその部屋で大丈夫ですわ。ね、テオ?」
「えっ」
マルグレーテの言葉に、テオが戸惑いの声を漏らした。そして長い沈黙の後、テオは目を逸らして頷いた。
女将が案内してくれた部屋は、二人が思っていたよりもずっと広かった。二つのベッドは窓際の方と出入り口側というように不揃いに置かれていた。チェストもそれぞれ二つずつあり、長椅子や机などの家具で仕切られている。主人と従者、あるいは他人同士が泊まることが出来るようなつくりになっていた。
隣り合うベッドだったらどうしようと思っていたテオは、ほっと胸を撫で下ろした。
「俺は扉の近くがいいから、君は窓際を使ってくれ」
マルグレーテは彼の気遣いに、微笑みを浮かべて「ありがとう」と言い、部屋の奥へと進んでいった。
テオは上着を脱ぎ、バイオリンと鞄をベッドの上に置くと腰を下ろし、ふうと息を吐いた。
窓際の方では、マルグレーテがケープを脱ぎ、ベッドの前で旅行鞄を開け、中を取り出しているのが見える。先ほどのように恥ずかしがっている様子は微塵もなかった。
まあそれもそうか、これだけ距離があるんだからな。テオは心の中で苦笑いを浮かべた。
しかし、こうして二人で旅をするのに、部屋代の費用がいちいち二人分かかることはテオにとって新しい問題だった。今回のこのようなつくりの部屋は稀だ。先ほどマルグレーテに言った通り、大抵の庶民向けの宿屋は狭い部屋にベッドが一つが典型だろう……それとも、今まで一人旅しかしてこなかったから、知らなかっただけなのだろうか?
「ねえ、テオ」
考えていたテオは、突然近くから呼ばれてびくっと肩を震わせた。マルグレーテがいつのまにか目の前に来ている。
「明日、クレモナ行きの馬車に乗る前に、女将さんのパニーノを買ってもいいかしら。とっても美味しかったの」
「も、も、もちろん」
なぜかどもってしまった。馬車の中の方がもっと近い距離なのに。やっぱりベッドが近くにあると緊張してしまうんだろうか。
しかしマルグレーテは気にせず続けた。
「いい宿屋があって良かったわね……。私、どんなお部屋に泊まるのかって身構えていたけど、とっても素敵なお部屋ね。それぞれにチェストもあるし、サイドテーブルには手鏡まであるのよ」
テオはこくこくと頷いただけだったが、マルグレーテはさらに続けた。
「あのね……ここまで来て思ったの。世の中にはたくさんの女性が男性と同じように自分の力で生きているって。一人で旅をしていた時は、女一人ということにとても心細かったのだけど、なんだか気に病んでいた自分が馬鹿らしくなってしまったわ」
そんなことを考えていたのか。テオは、意外に思いながらマルグレーテの話を聞いていた。マルグレーテは言った。
「でも、それを知ることができたのも、テオのおかげ。テオは私に知らないことをたくさん教えてくれているもの。それはウィーンにいた時から……いいえ、出会った時からよ。だから……ありがとう」
急に改まった言い方をしたマルグレーテに、テオは先ほど緊張していたのも忘れて、ふっと笑みを浮かべた。
「俺だって君からいっぱいもらってる……毎日だ。ずっと一人だったから、君といると楽しいし、演奏を聞いてもらえるのも嬉しい」
ようやく微笑み合えた二人だったが、マルグレーテは笑ったテオの顔をぽかんと見つめた。
「なんだよ」
「最近笑うようになったから思い出したのだけど、テオってとってもハンサムよね」
マルグレーテの思いがけない言葉に、テオはぐっと眉を寄せて顔を逸らした。
「な、何を言いだすかと思えば……」
マルグレーテはそっぽを向いたテオの顔をじっと見た。
「社交界でもあなたがハンサムだって有名だったらしいのよ。そういえばトリエステでも酒場の給仕の女性が声をかけたのに、全く相手にしなかったって聞いたわ。どうして?」
「ど、どうしてって……君がそれを聞くのか」
テオはじとっとした目でマルグレーテを見たが、彼女はきょとんとした顔を浮かべた。
テオは小さくため息を吐いてから少し考えて、下を向いたまま答えた。
「……そうやって声をかけてくるだいたいの女は、俺の演奏を聞いて寄ってくるんじゃない、顔しか見てないんだ。俺がいくら工夫を凝らして懸命に弾いても、そんなのはどうだっていいって思ってる。俺はそういう女が気に入らない。それだけだ」
「……ふうん」
テオはちらりと中央のテーブルに置かれた燭台の火を見た。部屋には風がなく、火は揺らぐことなく静かに燃えていた。
突然マルグレーテがふふふと笑い出した。
「ああ、よかった。私が最初に好きになったのはテオのバイオリンだもの。今はあなたの顔も性格も全部好きだけど、順番は大事ね」
そう嬉しそうに笑みを浮かべたマルグレーテに、テオは赤面して押し黙った。
再び二人の間に沈黙が流れる。窓の外からは、虫が静かに鳴く声、そして川のせせらぎの音が聞こえた。穏やかな春の夜だ。
下の酒場も、静かな客ばかりのようだから一層くつろげる空間だとテオはこの時間を心地よく思った。
「あの……あのね、テオ」
マルグレーテが沈黙を破った。
「その……べ、ベッドの事に関することなんだけど……」
テオは目を丸くしてがばっと顔を上げた。まさかマルグレーテからその話題が出ると思わなかったからだ。マルグレーテは目を泳がせながら続けた。
「私……私にはテオしかいないのよ、だからね、いつかはって思っているのだけど、思っているのだけどね、その……こういう旅先では……い、嫌なの」
言いづらそうにしながらマルグレーテは両手を前で重ねた。彼女の手は震えているように見える。きっと様々な思いを巡らせて、素直に話してくれたのだ。テオは思わず立ち上がってその手を掴んだ。
「わかってる」
テオは真剣な目でマルグレーテを見た。
「俺だって君しかいない。だから、その……言っただろう、どこか住みやすい場所を見つけようって。旅を終えて、二人で暮らすんだ。そしたらその、その時は……その、よ、よろしく」
最後は何を言ったらいいかわからなくなって、テオは顔を赤くして下を向いた。
マルグレーテも少し頬を染めたが、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ふふ、こちらこそよろしくね。今から楽しみだわ!」
夜更けになって、テオはむくりとベッドから起き上がった。眠れないのだ。
テオの頭では、先ほどのマルグレーテの言葉がこだましていたーー“今から楽しみだわ”という言葉が。
今から楽しみってなんだよ、今じゃだめなのか? 今すでに楽しみならいいんじゃないか。いやいやいや、その前に旅先では嫌だと言っていたじゃないか。
テオは、考えを振り払うかのように頭を振って、窓際のベッドの方を見た。マルグレーテは眠っているようですうすうと規則的な寝息が聞こえてくる。それはわずかな音にもかかわらず、テオの耳には外の虫の声や川のせせらぎよりも、ずっと大きく聞こえた。
くそっ。テオはベッドから出ると、テーブルに置いていた楽器ケースをガチャンと開けた。そして乱暴にバイオリンを掴むと、靴を履いて扉を開けようとしたその時。
「どこへ行くの」
突然後ろから声が響き、テオはびくっとして振り返った。
「マ、マルグレーテ、起きてたのか」
窓際のベッドでは、月明かりを背に彼女が上半身を起こし、二つの光る目でこちらを見つめているのがわかる。
「今起きたの……いなくならないで、テオ、お願い」
不安でいっぱいの声に、テオはふっと笑みを浮かべた。彼女は自分が逃げてしまうとまだ思っているらしい。
「いなくならない。ちょっと下の川原で一曲弾いてこようと思っただけだ……いや、よく考えたら、こんな時間に弾くなんて、どうかしてるか……起こしてすまなかった」
そう言ってテオはバイオリンをケースに戻して、ベッドに座った。しかし、マルグレーテはまだ不安そうにこちらを見つめたままだ。テオは迷ったが、頭をかきながら彼女の方へ歩み寄った。
窓際は月明かりに照らされていて、やや明るい。近づくにつれて、マルグレーテの顔もだんだんと見えるようになると、彼女が眉尻を下げて心配そうにこちらを見ているのがわかった。
マルグレーテの方は、テオの顔が見えるとはっとした表情を浮かべ、急に恥ずかしくなったのか下を向いた。
「いいえ、私こそ……おかしなことを言ったわ。ごめんなさい……ずっとあなたを縛っているっていう自覚はあるの。あなたは自由が好きなのに」
テオは俯いた彼女の頬に自分の右手を当てた。マルグレーテの驚いた瞳がテオの瞳に映る。
「縛ってるなんて思うな。確かに俺は自由でありたいと思ってる。けど、君以上にそれをわかってくれてる人間はいないし、そんな君に、俺は心底惚れてるんだ」
マルグレーテの目が見開かれる。テオは口の端を上げた。
「驚くことじゃないだろ、俺には君しかいないってさっきも言った」
思い出したようにマルグレーテは目を見開いたまま、こくこくと頷いた。テオは続けた。
「だから、安心して眠るんだ。君を置いていくなんてことは、絶対にないから」
テオの手が離れても、マルグレーテはぽかんとテオを見上げたままだったが、やがて恥ずかしそうに笑みを浮かべると、さっと横になってシーツを被った。
そして顔だけ出すと、小さな声で言った。
「ありがとう、テオ……おやすみなさい」
そう言うとマルグレーテはすぐに目を閉じた。テオも「おやすみ」と返し、そのまましばらく彼女の顔を眺めた。
マルグレーテは安心したのか、もうすやすやと眠りに入っている。テオはその寝顔を見て、目を細めた。
こうしてみるとただの少女だが、彼女はほんとうは、屋敷で大事に大事に育てられた伯爵令嬢だったのだ。それを忘れてはならないとテオは自分に言い聞かせた。
あの宮殿の舞踏会のことも鮮明に覚えている。彼女は若い貴公子に何度もダンスに誘われていた……自分には遠く及ばない存在だったのだ。マルグレーテはそんな地位も捨ててここまで来てくれた。
テオは額にかかった彼女の髪を優しく撫でて小さな声で呟くように言った。
「俺の方こそありがとう、マルグレーテ。君みたいな人がいて、俺は幸せ者だ」
マルグレーテは眠っていたが、心なしか微笑んだように見えた。




