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Bravo!  作者: レイチェル
16/33

16. ひとりぼっち



 あくる朝、マルグレーテとエンマは小さな荷物を持って宿屋を出た。マリボルの駅に着くと、もうすでに列車は到着しており、乗客達が長い列を作って乗り込んでいる。珍しく駅員達が一人ひとり切符を確認しているようだ。

 マルグレーテとエンマはその列の最後尾に並んだ。


「今度はリュブリャナに向かうのね。その後がトリエステだと思うと、なんだか緊張してきちゃった……」


 マルグレーテは笑みを浮かべながらそう言ったが、エンマは顔を曇らせて列の先頭の方を見つめていた。


「エンマ? どうかしたの」


 マルグレーテが尋ねると、エンマは少し思案してからマルグレーテの目をまっすぐに見た。


「お嬢様、この列は切符の確認だけではないようです……駅員の隣に憲兵が二人います」


「憲兵さんが? 一体なぜ……」


 列が少し前に進んだ。エンマは声を潜めて言った。


「どうやら人探しをしているようです。名前、素性、身分を確認している声が先ほど聞こえました」


 マルグレーテは眉を寄せた。


「でも、私達はちゃんとお金を払って切符を買っているわ。悪いことなんてなんにも……」


 そこまで言ってマルグレーテははっとした。


「ま、まさか、エンマ……お父様が私を探しているというの?」


 エンマは真剣な表情でこくりと頷いた。


「ここは帝国領内ですし、あの旦那様です。可能性は考えられます。そしておそらく、彼らに素性がわかってしまったら……」


 マルグレーテは焦ったように首を振った。


「いやよ、いや! ウィーンになんか戻りたくない、きっと戻ったら今度こそ修道院だもの……!」


「お嬢様、声を荒げてはいけません、気づかれてしまいます、もっとお静かに」


 エンマは強い口調で制し、青い顔のまま少し思案した。そして何かを決断したような顔になって、自分の小さな鞄を持ち直した。


「私達はお互いに一人で旅をしているふりをいたしましょう。名前を聞かれても別の名を名乗るのです。いいですか、決して不安そうな顔をしてはなりません。あくまで凛とした表情で」


「大丈夫かしら、エンマ、私とても怖いわ」


 マルグレーテは不安そうな表情を浮かべ、手を震わせている。エンマはその手をしっかりと握った。


「お嬢様、たとえ私が捕まったところでウィーンに送り返されて解雇されるだけですが、お嬢様は違います。なんとしてもこの列車に乗らなければなりません。おひとりになっても、どうか……どうかお元気で」


「な、なにを言うの。いやよ、まるであなたの身になにか起こるみたいじゃない」


「ですが、お嬢様の身に起こるよりましでしょう。私はお嬢様が思っていらっしゃる以上にタフですから心配ございません」


「で、でも、でも! エンマ、あなたがいなくなったら、私……!」


 マルグレーテは今にも泣きそうな表情を浮かべた。離さないと言うようにエンマの手をぎゅっと握りしめている。

 すると、エンマは長姉のような優しい微笑みを浮かべた。マルグレーテが見る、エンマの初めての笑みだった。それだけでなくエンマは握られている手をやんわりと離し、マルグレーテの両頬に手を当てて言った。


「マルグレーテお嬢様がどんなことでも強気で立ち向かえる方であることは、私がよく存じております。そもそもこの旅は、お一人でされるおつもりだったのでございましょう。絶対に大丈夫ですよ。マルグレーテ様は、伯爵家のお嬢様方の中で誰よりお強い方ですから」


 エンマの言葉はマルグレーテの怯える心を包み込むかのようで、彼女の震えは少し収まった。


 そうこうしている間に列は進む。エンマはマルグレーテを自分の後ろに立たせた。

 いつもエンマに持たせている荷物と切符は、もう自分で持っている。マルグレーテは泣き出したくなる気持ちを抑え、ただ列がゆっくりと進むのに従った。

 前にいるエンマは、いつもと同じようにピンと背を伸ばし、すました顔で列の先頭の方を向いていた。もうこちらを振り向くことはなかった。


 だんだん先頭が近づいてくる。マルグレーテは怯えた目で前方を見た。

 エンマの言う通り、切符を見ている一人の駅員を挟むようにして二人の憲兵が立っている。一人は若く、もう一人はマルグレーテの父くらいの歳のようだ。二人とも髭を生やし、厳めしい顔をしていた。マルグレーテは自分の顔が強張るのを必死でなんとかしようとほぐした。


 とうとうエンマの番が来た。最初に物腰の柔らかい駅員が手を差し出す。


「切符を拝見させていただきます」


 その横から、案の定というように若い方の憲兵が言った。


「失礼ですが、お名前をお聞かせ願えますか。若い女性の人探しをしておりまして」


 そのはっきりとした言い方はまるで嘘を許さないような強い口調で、マルグレーテは縮み上がった。偽名なんてとても名乗れない。

 しかしエンマは眉を寄せた。


「名前? 誰か盗みでもしたのかしら」


 その言い方に、マルグレーテはぎょっとした。今までで聞いたことのないような高飛車な声だ。まるで社交界一高慢なドロテア・コンスタンツが自分に喧嘩を売っている時のようではないか。マルグレーテの心臓は早鐘を打った。


 エンマの問いに、中年の方の憲兵が厳しい表情を崩さずに言った。


「いえ、盗みではありません。さる高貴なお方を探しています。失礼ですがお名前を」


「ふん、わたくしはアーデルハイト・ゲラルト。さっさと列車に乗せてちょうだい」


 憲兵が「身分証は?」と尋ねると、エンマは眉をひそめた。


「何よそれ、疑ってるの?」


 エンマのその言い方に、マルグレーテは彼女が令嬢のふりをしているのがわかった。エンマは、もう自分で断ち切るつもりなのだ。だめよ、エンマ、やめてやめて。


 憲兵は目を細めて言った。


「お言葉から、ご身分の高いお方かと思われるので。後ろの方はお連れ様ですか?」


 すると、エンマは眉をぎゅっと潜めた。


「まあ、失礼ね。わたくしは一人よ! 女が一人では何もできないなんて思わないで……仕方ないわね、身分証を見せればいいんでしょう」


 エンマは、鞄の中からごそごそと紙きれを二枚ゆっくりと取り出した。それを憲兵に差し出した瞬間、紙きれを憲兵達の顔にバシンッと押し付けて、一目散に街中の方へ逃げ出した。

 憲兵達は彼女の思わぬ行動に、「うわっ」と一瞬の間とらわれたが、すぐに駆け出して彼女を追いかけた。

「あやしい女だ、捕まえろっ!」


 エンマと二人の憲兵が人混みの中に消えていくのが見える。人々のどよめきが聞こえてきたが、もうそれきりだった。

 マルグレーテは手が震え、涙が出そうになるのをやっとの思いで堪えた。ああ、エンマ! 私は……私はどうしたらいいの。


「……さん、お嬢さん?」


 マルグレーテははっとして前を向いた。


「切符を拝見しますよ」


 駅員が優しくそう言った。もう名前は言わなくても良いようだった。

 マルグレーテは自分の荷物をしっかり抱えたまま、手が震えないようにして切符を差し出した。そうしてそのまま憲兵の検閲を受けずに、無事に列車に乗り込んだのだった。



 マルグレーテは一人になった。

 トリエステ行きの列車はあまり人が乗り合わせていなかったので、マルグレーテは個室に一人で座った。ガランとした小さな客室は、余計に寒さを感じた。

 もう温かい紅茶や毛布を運んでくれるエンマはいない。

 マルグレーテは、曇った窓に映った強張った表情の自分をじっと見つめていた。



 エンマを残してマリボルの駅を出発した列車は、リュブリャナへ向かった。窓の外はやはり雪景色が続いていた。白い山ばかりが目の前を通った。

 途中に通り過ぎた丘の上で、ジプシーの団体が焚き火をしていた。老人が丸太の上に座りバイオリンを弾いている。女達はその周りを踊り、とても楽しそうに見えた。

 マルグレーテは自分もあそこにいられたら……と考え、今までになかった親近感が彼らに湧いていることに驚いた。そうだ、ジプシーはいつも都市憲兵から追われる身。今の私と同じだわ。そう思った自分に、マルグレーテはふっと笑った。


 夕方になってリュブリャナに着いた。トリエステ行きの切符を駅員に見せると、彼はトリエステ行きと書かれた列車まで案内してくれた。

 まだ乗客はほとんど乗っておらず、マルグレーテは個室に一人でぽつんと座った。

 出発間際の時間になるとわらわら人が乗ってきたようで、マルグレーテだけだった個室には幼い少年を連れた女が疲れた顔をして入ってきた。マルグレーテは荷物を自分の方に引き寄せて身を縮める。

 女の歳は中年くらいで、マルグレーテの前の席をショールで確保すると「やれやれ! やっと乗り込めたよ」と大きく息を吐いた。少年の方はマルグレーテのすぐそばにある窓に駆け寄ると、枠に手を伸ばして外の景色を見た。彼はツギのある上着をはためかせて喜びの声をあげた。


「うわあい! お母さん、お外が見えるよ!」


「そりゃよかった……よいしょっと」


 母親は大きな鞄を上の棚に置くと、マルグレーテの向かいにどっかりと座り込んだ。

 その時、出発の笛が鳴った。列車が音を立てて動き出す。


「うごいた、うごいたよお母さん!」


「そりゃ動いてくれなきゃ困るさね……さ、まだ昼飯食ってないだろ、これでも食べておきな」


 少年は母親が差し出した丸いパンを受け取ると、もぐもぐ食べながらもまだ景色を眺めていた。

 マルグレーテはその様子にふっと笑みを浮かべ、同じように窓の外を見た。

 別段先ほどと変わらない真っ白な雪景色で、マルグレーテにはなんだか寂しく感じた。

 叔父様と列車に乗った時は、森の木々が赤や黄色に染まっていて眺めに飽きることはなかったわ。それに、帰り道は私の前の席にテオが……。

 楽譜を睨んでいる青年が目に浮かんだが、今目の前にあるのは、幼い少年の姿だ。

 マルグレーテの視線に、母親の方が気づいて眉をひそめた。


「なんか用かい、お嬢ちゃん」


 棘のある言い方に、マルグレーテははっとして恥ずかしそうに下を向いた。


「いいえ、なんでもありませんの。ごめんなさい」


 その時、少年が「あっ」と声を上げた。手から持っていたパンをコロコロと落としてしまったのだ。

 列車の床は雪やら泥やらで汚れていた。


「お、おまえっ! 次の駅までもう買えないんだよ!」


 母親がバシッと頭を叩いて叱ると、少年が「うええんっ」と声をあげて泣き始める。


「お腹すいたよう、お腹すいたよう」


「知らないよっ! 母さんだって朝から何も食べてないんだ、次の駅まで我慢しな」


 母親はふんっと鼻を鳴らすと、腕を組んでそっぽを向いた。少年はぐすぐすと涙と鼻水を手で拭っている。

 マルグレーテは少し迷ったが、手元の包みからハンカチを取り出すと、目の前の少年に差し出した。


「どうぞ、使って」


 少年は手で目元をこすりながら、マルグレーテを見上げた。

 マルグレーテが優しく微笑むと、少年はびっくりしたように目を見開いて急に泣き止んだが、ハンカチをさっと受け取り顔を拭いた。そのまま顔をハンカチで覆っていたが、目だけ覗かせてマルグレーテの方を見ている。

 マルグレーテは、今朝エンマがマリボルの駅前で買った昼食用のパニーノが残っていたことを思い出した。朝の出来事がショックで、食べ物が喉を通らなかったのだ。

 鞄からパニーノを二切れ取り出すと、ひとつを少年に、もうひとつを母親に差し出した。


「よろしかったらどうぞ。お昼に食べきれなかったものですから」


 少年はまたもやびっくりした表情を浮かべたが、今度は隣の母親の方を見た。受け取って良いのかわからなかったのだ。

 母親の方も驚いたような顔をしていたが、小さな声で「ありがたくいただくよ」と言うと受け取った。

 少年はそれを見て「わあい」と嬉しそうな声をあげ、マルグレーテから野菜や肉の挟まったパンを受け取ると、ぴょんぴょんと飛び跳ね始めた。


「ありがとう、おねえちゃんありがとう」


「こらっ! おまえはまたそんなにはしゃいで! ちっとは落ち着いて座んな、お嬢ちゃんにも迷惑だろ」


 しかし少年はパニーノにかぶりつきながら、椅子の上に土足で上がってしまいそうな勢いだ。

 マルグレーテは微笑んで立ち上がると、少年の頭をふんわりと撫でた。とたんに少年はびっくりして暴れるのをやめた。

 マルグレーテは言った。


「食べる時は座って食べるのよ。また落としてしまっては困るでしょう。ほら、お母様はきちんと座って食べているわ。それに、座って食べた方がもっとおいしいのよ」


 マルグレーテが諭すように少年に言うと、彼は少し恥ずかしくなったのか顔を赤らめて大人しく食べ始めた。

 驚いたのは母親の方である。


「……やるじゃないか、あんた。若いけど、子どもでもいるのかい?」


 マルグレーテは笑って首を振った。


「いいえ、まだ未婚ですの。私が……昔よくそう言われたものですから」


 マルグレーテは少し前の自分を思い出していた。この少年と同じ年頃か、もっと大きくなってもマルグレーテは自分が落ち着きがなかったことを自覚していた。特に父親がいない時の食事は、すぐにテーブルから飛び出して走り出していたものだ。






「まあ、マルグレーテお嬢様っ! お食事中ですよ、椅子に座っていなければなりません」


 当時の乳母がそう言うと、マルグレーテは走りながら言った。


「だってテーブルがこんなに広いのよ! お姉様の顔なんか見えやしないじゃない。もっと近くで食べたいわ! それにこのパンだってとってもおいしいから飛び跳ねたくなっちゃう」


 すると、ベルタがマルグレーテの元までやってくる。そして優しく妹の頭を撫でてこう言うのだ。


「マルグレーテ、食べる時は座って食べなきゃ。パンはおいしいけど、落ち着いて座ってゆっくり食べたら、きっともっとおいしいわ」


 ベルタの言ったことはほんとうだった。しかしベルタに頭を撫でてほしくて、マルグレーテは大きくなっても食事中にはしゃぎまわっていたものだった。








 少年の母親はじろじろとマルグレーテを見た。


「あんた、一人なの? 連れはいないのかい」


「いいえ、いません。私一人です」


 中年女は目を丸くした。いかにも令嬢然とした彼女が、たった一人で三等車しかないようなこんな列車に乗っているというのだろうか。

 先ほどまで不審に思っていたが、女は急にこの無防備な若い娘が心配になった。


「あんた……大丈夫かい? そんな豪勢な格好で、しかも一人っきりで旅してたら、物盗りの餌食になるよ」


 マルグレーテはきょとんとして自分の服装を見下ろした。この服装はエンマの選んだ一番質素な物なのだ。


「そ、そうでしょうか」


「ああ、まずあたしの服みたいな茶色か黒を選びな。そんなきれいな空色だと目立って仕方ないよ」


「茶色か黒……」


「それから頭もだよ。そんな豪勢なレースの帽子だと金持ちだって大っぴらに言ってるようなもんさ。ぼろ布でも撒いておきな。虫除けになるから」


 マルグレーテは思わずドレスとお揃いの色のボンネットを抑えた。ボンネットの代わりにぼろ布を! ほんとうにジプシーみたい。テオに近づける気さえした。


 マルグレーテがぼんやりと考えていると、女は肩をすくめて言った。


「あとは簡単に人を信用しないことだね。まずその辺にいる輩の話は、真に受けるんじゃないよ。あたしはあんたから食い物をもらったから教えてやるんだから。もっと用心しな。でないとすぐにそこに置いてる鞄だって盗まれちまうよ」


 マルグレーテは目を瞬かせて頷いた。


「わ、わかりました……ご忠告ありがとうございます」


 マルグレーテは女の言葉に少し緊張した。今までエンマがいたからよかったが、もう一人なのだ。自分の身は自分で守らねばならない。



 トリエステに近づくにつれ、風が強くなり窓を吹きつける音が激しくなった。時おり雨も降っているようだ。

 外を眺めていた中年の女は、嫌そうに顔をしかめて言った。


「案の定って言った天気だね。港はもっと激しいんだろう……ボーラにも困ったもんだ」


 マルグレーテは眉を寄せた。


「ボーラ? なんですの、それは」


「おや、あんたトリエステに向かってるのに知らないのかい? この時期のあそこは強い風が吹く。それもただの風じゃない、家が吹っ飛ぶことだってあるくらいだ。その風のことをみんなボーラって呼ぶのさ」


「そんな風が……」


 マルグレーテは感心したように頷いた。


「まあ、もうすぐ春も近い。そのうちあったかくなるのと同じくらいに風もおさまるよ」


 春が近い? マルグレーテは窓に視線を移した。冷たい雨が見えるばかりでちっともそうは見えなかった。

 不安そうな表情のマルグレーテに、少年が言った。


「大丈夫だよ、僕も春が来るか不安になるけど、いっつも必ずくるから」


 彼の得意そうな顔に、マルグレーテは微笑んだ。


「そうね。もうすぐよね」






 夜も更けた頃、ようやくマルグレーテの乗った列車はトリエステに到着した。


「ほら、起きな。着いたよ」


 母親が眠っていた少年を起こす。

 マルグレーテは荷物をまとめると、立ち上がった。母親は心配そうに眉を寄せた。


「大丈夫かい、あんた、この町に当てはあるんだろうね」


「いいえ……でも今夜は駅の宿舎に泊まろうと思っています。前にも来たことがありますの」


 エドガーと旅行に来た時、トリエステの駅の宿舎に一泊したのだ。宿舎にしてはなかなか快適だったことを覚えている。


「駅の宿舎? ああ、確かにトリエステのなら安全だね……駅員は大丈夫だろうけど、他の客が変なこと言ってきても関わるんじゃないよ。あと、町に出る時は服装に気をつけな。暗い通りには近づかないこと」


 女の言葉に、マルグレーテは気合を入れるようにこっくりと頷いた。


「はい。ご忠告痛み入ります。少しでもご一緒できて光栄でしたわ」


「おねえちゃん、パンをありがとう、さようなら」


 少年と母親は、大きな鞄を持って列車を降りていった。

 マルグレーテは、叔父からもらったトリエステまでの切符を取り出した。

 もし見当違いでなければ、テオも数日前はここにいたはずだ。そしてここからは、鉄道を利用していないかもしれない。とにかく今は、自分の勘を信じるしかないわ。


 マルグレーテは荷物を持って列車を降りた。その瞬間に、冷たく強い風がマルグレーテの頬に吹きつける。それは痛いほどに冷たく、瞬時にしてマルグレーテから体温を奪った。身体ががたがた震えだす。なんて寒いの!

 マルグレーテは震えながら灯で照らされた駅の窓口まで行った。宿舎内は頑丈な造りのようで、冷たい風は入ってこなかった。


「すみませんが、駅の宿舎は利用できますでしょうか」


 窓口にいた若い駅員は、上品な物腰の貴婦人が一人でそう申し出たので、少し瞠目した。


「え、ええ、空き部屋がありますよ……ですが、うちの宿舎で良いんですか? よければもう少しましなホテルをご紹介しますけど」


 マルグレーテは微笑んだ。


「ご親切に、ありがとう。でも今夜はこちらでお願いいたします。それから……この町の地図は、どちらで手に入るのかご存知でしょうか」


 駅員は奥の机の引き出しからごそごそと一枚の紙を取り出すと、マルグレーテの前に広げて見せた。


「小さいですが、一応町全体が細かく載ってる地図です。差し上げますよ、鉄道が開通してからこういうものを配るようになったんです」


「まあ、ありがたいこと」


 マルグレーテはほっとして地図を受け取った。ウィーン貴族達の間でも話題に上がっていた鉄道開通は、こういう利点もあったのだわ。

 その後、マルグレーテは駅員に泊まる部屋まで案内してもらった。


「宿舎なのでホテルみたいに朝食などのサービスはできませんよ。それと、一応ここには警備担当もいますが、必ず鍵をかけてお休みくださいね」


 心配そうな表情で言った駅員の言葉に「はい」と頷いて、マルグレーテは部屋に入った。言われた通りに鍵をかけ、荷物を置いてベッドに腰掛けると、ふうっと息を吐いた。


 どっと身体の力が抜ける。あの少年の母親も先ほどの駅員も親切であったが、彼らが警告するほどに、今の自分は犯罪に巻き込まれる可能性が大きいらしい。

 しかしマルグレーテは、怖い目にあうのも嫌だが、それによって名前が明かされ、憲兵に見つかってウィーンに連れ戻されることが何より恐ろしかった。

 それを防ぐためにも、明日から服装を変えよう。そして……テオを探そう、マルグレーテはそう決意すると、荷物を解くこともないまま、ベッドの上ですうっと眠ってしまった。

 部屋の窓が北風でがたがたとうるさく鳴ったが、それにも気づかないほどにマルグレーテは寝入ってしまった。







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