読み違いの先に待つものは……
「急な坂があるので、2人以上の介助者がいないと車椅子は危険」という注意書きを無視して、私は車椅子を押した。背筋を伸ばし、思い切り後方に体重をかけて。
その時、私はいつか登ることになるとは考えなかった。
必ず何処かに登らずに済む道はある。
これはとても合理的な考えだ。この急坂を下ると、いつか登らなければいけないのだったら、ここを降りる人はいないだろう……。うん、うんと得意げに薄笑いを浮かべて納得する。(注意書きを読み違えました。急な坂があるので……とは、目の前の坂のことを言っているのではありません。この坂を指しているのであれば、急な坂なので……と書くはずです。後悔先に立たずの、痛恨の読み違えでした。)
坂を下ると、自然豊かな、心癒される紅葉がぐりぐりと眼を刺激した。
「いいねえ、いいねえ」と心行くまで堪能するQちゃん。私のどんな苦労も吹き飛ぶ瞬間である。
急坂は半時ほどの時間ののち、厚いまだら模様の土壁のように出現した。
登る必要のない、別の道はあった。しかし、そこには黄緑色の塗装がところどころはげた柵が道を塞ぎ、そのうえ、柵は古めかしい大きな鍵で施錠されていた。
登るしかない。
二十段ほどの階段状のきつめの坂。そこからは左右に道が分かれ、そして、どちらも緩やかそうだが、長い、長い階段。
果たして、Qちゃんは登れるだろうか。登れたとして、どのくらい時間はかかるだろう。
ぷちぷちと、私の脳みそは白く泡立った。
「降りて、Qちゃん、歩くよ」
有無を言わさぬ言い方になった。
「登れるかねえ」と坂の尽きたあたりを蒼い顔して仰ぎ見ながら一言言って、Qちゃんはやおら登り始めた。
車椅子を置いて十段ほど登ったであろうか。階段下から、爽やかな声がゆるゆると届いた。
「車椅子、運びましょうか」
見下ろすと、2人の、共に花柄のお洒落な黄色地のスカートを履いた中年の女性がいた。
「あ、はい、すみません」
当然、同意だ。
辛さから直ぐにも逃れたかった。
左右に分かれる道まで車椅子を運ぶと、長い階段を軽やかに登り、呆然と立ち尽くす私を残して2人の女性は消えた。が、また、直ぐに戻ってきて、私たちを、後光射し香しき薫りに満ちた慈悲深い金色の阿弥陀様の如く見下ろした。二人はただ長い階段の先を確かめに行っただけに違いないと私は確信した。
Qちゃんは、女性の待つ位置まで黙々と登った。2人の女性が待っていたから、頑張ったのだと思う。私は車椅子を抱え、休み休み登った。
私たちが登りきると、
「右は急だけど短い、左は長いけど、緩やか。どうします?」銀色の金属フレームの眼鏡をかけた女性が言った。
「左でお願いします」と私。
女性たちの負担を考えたら、それが正しい選択だと思う。甘えも限度がある、などと、ゆとりに導かれて偉そうに桃色の気持ちになって納得する。
「長いねえ、登れるかねえ」
Qちゃんはため息を交えながら呟いた。
2人の女性は、Qちゃんが負担なく登れるほどの緩やかな坂になるまで、Qちゃんの横につき、手を添えながら一緒に登った。Qちゃんは穏やかな笑顔を何度も振りまき、「ありがとね、ありがとね」と首を交互に傾げながら言って登った。少し遅れて車椅子を押して私が続く。
2人の女性はもう大丈夫と判断したのだろう、坂の途中で「では、失礼します」と言って去った。
不意を突かれて、お礼の言葉が遅れてしまった。
「ありがとうございました。助かりました」と言ったが、声は届かなかったかもしれない。二人はこちらを振り向いてはくれなかった。
それから間もなくして、Qちゃんは登り切った。
登りきっても、Qちゃんは息せき切ってもいない。
これが「外」の力だ。
私が言ってもこんなに頑張らなかったろう。
Qちゃんは常識を持った社会人だ。
親切な人に迷惑をかけたくなかった。だから、頑張れた。
Qちゃんの、まだまだ残る潜在的体力を知り、「外」の力の偉大さを堪能できた、嬉しい嬉しい真っ赤な大きな二重丸の一日となりました。