悪夢の中で
気が付くと暗闇の中にいた。
自分の体も認識出来ないほどの闇。
まるでこのまま溶けていってしまいそうな…ーー
恐ろしくなってぶるりと震える身を両腕で抱き締める。
その感覚さえも分からないほどの濃い闇の中、突然先の方にぽんわりと淡い光が現れた。
よくよく目を凝らしてみると、その光の中に居たのは…ーーー
「ルー様!」
思わず歓喜の声を上げる。
一刻も早くルー様に近づきたくて駆け出すけれど、不思議なことに一向に近づかない。
早くルー様の下に行きたい、いや、行かなければという強い焦燥感を抱えながら、息を切らして彼の名を呼び走り続ける。
いつもは宝石のように煌めいている紅の瞳が、どこか虚ろにくすんでいるようで、嫌な予感が首をもたげる。
そんな私に気づく様子のないルー様は、そのままテーブルの上に置かれた杯を手に取った。
どこか禍々しい水の気配を感じるソレは、間違いなく毒が入っている。
なぜか、そう確信できた。
「だめ…」
無機質な紅の瞳でソレをじっと眺めるルー様。
「だめ、だめだめだめだめ…!!」
届かないと分かっていても手を伸ばさずにはいられない。
伸ばした手の向こうでルー様の顔が苦痛に歪み、口元を覆った指の間から、血が滴り落ちる。
「嫌…嫌だ…」
涙で霞んだ視界の中で、屈み込んだルー様の体が静かに崩れ落ちた。
「いやぁぁぁぁぁあああっ!」
ーーーーー
「……!……ナ!!アナ!」
強い呼び掛けに息を切らしながら、ハッと目を開けた私の目の前にあったのは、心配そうにこちらを覗き込む美しい宝石のような紅。
「ルー様…」
唇からルー様の名前がポロリとこぼれ落ちると同時に、止めどなく熱い涙が流れ出していく。
「…っ!ルー様…っ、ルー様ルー様ルー様!!」
すがるように目の前のルー様に抱きつき、存在を確認するように腕に力を込める私を、ルー様は安心させるように強く抱き止めた。
「アナ…。やはりアランは生かしておくべきではなかったか」
「………っ、アラン殿下なんてどうでもいいっ!!」
耳元でポツリと呟かれた言葉に、涙で震える声を絞り出す。
ルー様が驚いて、体を離して私の顔を覗き込もうとするのを、抱きつく力を強めて阻止する。
「アラン殿下なんて、どうでもいい」
もう一度、強く伝える。
本当にどうでもいい。
むしろ先程の夢で忘れてたくらいだったから。
「では、なぜ泣く?」
戸惑った声が私の頭に落ちてくる。
「…ルー様が私を置いて行ったから。名前呼んだのに…だめって言ったのに…っ」
「置いて行った?私が?いつ?」
ルー様は身に覚えがないと首を傾げつつ、記憶を辿ってくれているのだろう。
だけど、ルー様に分かるはずはないのだ。
「ルー様が。さっき。夢の中で」
何せ事の起こりは夢の中、しかもまだ起こっていない出来事。
「夢…?」
耳元でくすりとルー様が笑う。
それは決してバカにして、とか、呆れて、とかではなく、ただただほっとしたという温かい笑み。
それに引き寄せられるように、もっとルー様に身を寄せる。
置いていかれないように。
離れてしまわないように。
夢から覚めても、強制的に与えられた衝撃は今も胸の内に燻っている。
そう、あれは夢。
夢だけど、きっと私が前世で見たゲームのストーリー。
それはつまり、ルー様が辿るであろう未来。
「今度私を置いて行ったら…」
「うん、そんなことはしないと思うけど、置いて行ったら?」
「私は、ルー様以外の人と結婚することになって」
「…」
「そうなったら、あんなこととかこんなこととかしちゃうんだからね!」
「…」
うわ、ルー様以外と結婚って考えるだけで吐きそう。
こりゃ、結婚説はないな。
やっぱり修道院に駆け込むしかないか。
うん、それが一番しっくりくるかも。
「ルー様、やっぱり私…」
そうなったら修道院に、と言い掛けた私は、ルー様の綺麗な笑顔を見て固まった。
違うよ、鼻血じゃないよ。
むしろ血の気引いてるよ。
おかしいな、綺麗な笑顔なのに。
ドウシテコンナニコワインダロウ。
「アナ、少し黙ろうか」
笑顔のルー様に、私はコクコクとバカみたいに頷くしか道はない。
「私がアナを置いて行くことなんて、万が一にもあり得ないし、よって、アナが私以外と結婚することも絶対にない。もし、そんなことがあるとするなら…」
じっと私の目を見つめるルー様の瞳に浮かぶのは、嫉妬と独占欲と執着と。
決して美しくはない感情を纏ってさえも、その紅の美しさは削がれない。
「一緒に連れて行くよ、アナ」
その瞳の美しさと、自分へ向けられる感情の中にある確かな愛情に、溢れる笑顔が止められない。
「喜んで!」
触れた唇の温かさに、ようやく波立っていた心が落ち着くのを感じた。