第15話 尊たちの日常
市立陽ノ岡高校は蓬莱の首都皇都福宮より北に位置する北辰県西部の片田舎に所在する。
全日制普通科のみを有し、取り立てて目立ったところのない学校であったが、今夏高校野球の最高峰、光寅大会で準優勝したことにより俄かに注目を浴びることとなった。
その栄光を祝して現在、校舎には『祝!陽ノ岡高校野球部光寅大会準優勝!』の大きな垂れ幕が赤文字で掲げられている。
現時刻は午前9時すぎ。校内に人影がちらほらと見える。
本日は昨日からの事件を受けて本校は午前中授業となっている。
教室はテロなどなかったかの様に学生たちは思い思いに雑談に耽っている。
本来なら授業の始まる時刻なのだが、やはりテロの混乱も影響しているのだろうか、担当の教師が少し遅れる、ということであった。
その中にあってHRで先ほど返却されたばかりの答案用紙をじっと見つめる少年がいた。
数日前に行われた数学の小テストがこのタイミングで返ってきたのである。
苦悩とも諦観ともとれる表情で少年はう〜んと小さく唸っていた。
「ミコトォ何やってんの?うわぁ・・・」
少年に声をかけた少女は若宮志穂。
陽ノ岡高校3年C組学級委員長にして、野球部のマネージャーである。
化粧気もなく、その黒髪はきっちり整えられており「如何にも」な学級委員長だな、といつも尊は思っている、
「・・・勝手に覗き込んで失礼な奴だな」
少年が握りしめる答案には「18点」と書かれている他に、短くお小言のような一文もご丁寧に添えられていた。もちろん100点満点のテストである。
志穂は頭を振り、一つ結びにした髪を揺らしながら答える。
「前にこの辺教えてあげたじゃない。公式を使うんだって。忘れちゃった?」
志穂と尊は同じクラスメートという立場としてこの学校に入学した時に知り合った。
志穂は成績優秀で、赤点を取りそうな野球部員の面倒を見るのは自然と彼女の仕事となっていった。
今夏も大会前、尊含め部員の何名かは彼女の地獄の勉強合宿により赤点を回避できた。ある意味、彼女こそが大会準優勝の影の立役者であった。
「公式は覚えている。見ろ」
答案の端には確かに公式の走り書きがある。ではなぜ?
志穂は首を捻る。
「じゃあ、なんでこの式に当てはめないの」
「ここからの使い方がわからん!」
ふふん、とばかりに言い放つ尊を見て志穂は軽く溜息をつく。
数学できない子あるある、である。
尊には特に数学のセンスが絶望的にない。
わかってはいたが、自分の努力がこうも報われないと虚しくもなる。
ま、この子はこれからこんなもの使う機会もないでしょう、と切り替え、それでも、と思う。
「ねえ、もうちょっと頑張ろうよ。夏前の試験はもう少しできたでしょ?ここなんかもっと抵抗できたじゃない。」
解答用紙を見ればわかるが、今回の尊の解答はできないなりの「粘り」の後というものが見られなかった。
地頭はそんなに悪くないのにな、と勿体無く思う。
「sinやらcosやら、ましてやΣなんて見てると頭痛くなるんだわ・・・」
顔を顰めて答える。
まるで子どもが嫌いな野菜を皿の端に除けているようである。
これでも尊の数学嫌いはかなり矯正された。強制して矯正した、というべきか。1年生の時など、確率問題で全ての事象を書き出していた時は呆れた。「習ったコンビネーションを使わんかい!」とあの時に初めてこいつに怒鳴ってやったな、と思い出す。
「本試験はもっと頑張ろうね。さすがに赤点はとっちゃまずいよ」
勉強関連では尊は志穂教官に頭が上がらない。
志穂の助言に素直に「おう」と短く答える。
しかし、何となく志穂が心配なのは夏の大会以来尊が緩んでいるように見えることだ。
尊は苦手な科目の試験にしたって、わからないなりに時間ギリギリまで足掻くタイプだ。志穂は尊の斜め後ろの席に座っているのでわかるのだが、今回のテスト、尊は途中から解答を諦めていたようだった。野球にしろ、勉強のことにしろ、「粘り強い」という特性がこいつの最大の武器であると志穂は分析していた。
尊の普段のふわふわした感じを見てるとプロ野球で通用するのだろうか?とお節介ながら不安になってしまう。
志穂も素人なりに3年間、野球部のマネージャーを務め、雑用や勉強の面倒だけでなく、対戦相手の分析や偵察などもよく手伝った。
更に光寅大会で同年代の名選手を何人も志穂自身その目で見たことがある。
その上で思うのだ。「尊には何かが足りない」と。
そんな事を考えていると、2人に話しかけてくる者がいた。
「あー志穂ちゃんに構ってもらっていいなあミコトォ」
野球部員の一員、小野隆弘である。
こいつは大会が終わって以来茶髪に染めて、大会中は鳴りを潜めていたチャラさも最近復活した。
「いや怒られてただけだって。」
「うわあ相変わらずひでえ点数だなあ〜」
「お前に言われたくねえなあ・・・」
そう言って見せる隆弘の答案は25点。五十歩百歩である。
2人の低レベルの争いに志穂はまた溜息をつく。
こいつら2人は特に出来の悪い生徒だった。しかし、あの合宿の努力はなんだったのか。まだ一日は始まったばかりなのに疲労感が志穂の体を襲った。
「・・・尊、隆弘、また地獄の合宿やる?今度はあんたたちだけで」
先ほどまで呑気していた出来の悪い子たちの顔色が変わる。
「マネージャー業はもう廃業したし、受験も近いけど、あんたたちの面倒を見る余裕くらいはあるから」
昏い目で志穂は2人を見つめる。
彼女の祖父は合気道の師範であり、彼女も段持ちである。
あまりの合宿の過酷さに逃げ出そうとした隆弘は彼女に何度も追い回され投げ飛ばされたことがある。この「脅し」は口だけではなかった。彼女にはやると言ったらそれを実際に実行する実力があった。
「いえ、それには及びませんマム!」
「自分たちには自力で次の試験を突破するプランがあります!」
2人は必死で弁明する。質より量だ、と考える志穂のしごきはきつい。ぶっ通しで何時間も勉強させられるのだ。
「ほう、では本試では良い戦果を報告出来るのだな?」
「イエスマム!」
2人は声を揃えて元気に答えた。
志穂はじっと2人を見つめる。
緊張した面持ちだ。隆弘などは過去のしごきのトラウマからか、冷や汗をかいている。
しばらくしてふう、と溜息をつくと
「よろしい諸君らの活躍に期待する」
「Ya!」
がんばろうな、と笑顔で2人が軽くハイタッチする。
全く、体育会系男子って奴は。
しょうがないな、と笑いながら志穂はそんな彼らも可愛いな、とも思ってしまうのだった。
「えぇ、お前兎彩ちゃんのハンバーグ食べたの?昨日?羨ましい!なんで俺はそこにいなかったの?」
同時刻、こちらは隣のC組とは一つ壁を隔てた陽ノ岡高校3-Bの教室。
素っ頓狂な声を出すのはセカンドの永井郁男。小柄で陽に灼けており、猿のような顔をした男である。
そして皇尊の妹、兎彩のファンの1人でもある。
「うるせえなあ、俺にとっては珍しいイベントでもないぞ」
絡まれてる相手は東雲圭一。皇兄妹とは長年の付き合いであるため、兎彩の手料理を食べる、ということは圭一にとってそれほど珍しいことでもない。
「兎彩ちゃんも子供の頃はそんなに料理上手くなかったんだがな。感慨深いよ俺は。」
圭一はうんうん、と目を閉じ勝手に自己満足する。
「ふざけんなよ!兎彩ちゃんの料理の上達具合どころか、成長具合まで観測出来たなんて羨まし過ぎんだろクソが!爆発しろ!」
猿のようにギャアギャア吠える。
藪蛇だったか。
圭一は頭を掻く。
「ほんとうるせえなあ。それ以上言うとなんか変態みたいだぞ」
「おお、変態で結構!よし今度ミコトん家泊まろう!ラッキースケベもあるかもな!ただしおめえ抜きだ!」
圭一は、あーなんか変なスイッチ入っちまったなコイツ、と感じた。ブレーキかけなきゃ。
ほんと猿だなお前、と圭一は溜息をつき、こほん、と咳払いする。
「ああ、イクオくん?言っとくが君のような猿にうちの兎彩ちゃんはやれんよ?もう1人の兄として断固許さん」
「はあ?誰が兄だって?ちょっと仲良いからって調子乗んな!」
郁男は猿のような顔を更に顰め、わなわなと怒りに震える。
「それにお前は兎彩ちゃんのタイプじゃありませーん!昔プリロナのポスターを部屋に貼ってましたぁー!お前とは真逆のタイプですぅー!残念でしたぁー!」
「よし上等だぶっ飛ばす」
郁男は遂に圭一に向かって飛びかかった。
圭一は郁男のタックルを受け止め、ぶんぶんと左右に振り回す。
体格では圭一に分があるのだ。
「おいおい、もう止めとけって。周りの迷惑だろ。」
言われてみれば、いつの間にか、ざわざわと周りの注目を浴びている。
止めに入ったのは野球部キャプテン藤澤映司。クセの強い陽ノ岡高校野球部を纏める苦労人だ。
漸く場を収めるとお小言タイムが始まる。
「永井、嫉妬なんて見苦しいぞ。それに年下の女の子相手だぞ?発言に節度を持て。」
「はい・・・サーセンキャプテン」
「東雲もあまり人をからかうのは止めとけ。持てる者が持たざる者を揶揄うなどみっともないぞ。」
「はい・・・サーセンキャプテン」
2人ともキャプテンの仲裁で神妙になったようである。
決して仲が悪い訳ではないのだが、陽ノ岡高校野球部はこのようにギリギリのところでバランスを保っている。
藤澤映司と若宮志穂。この2人が居なければ野球部の今大会の躍進はなかっただろう。
「はあぁ・・・今日も平和ですね」
遠目に一部始終を見ていたもう1人の野球部マネージャー伊野波塔子はボトルのお茶を啜りながら窓から真っ青な空を見上げる。
まだまだこのド田舎にはロワイエの脅威は迫っていない。今はまだ。




