表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

戦国武将 田丸直昌 乱世の蛍

作者: 松田實靱


    戦国武将・田丸直昌

          乱 世 の 蛍 


                              松田實靭





「おのおの方は妻子を大坂に囚われている身ゆえ、さぞかし心配でござろう。されば、速やかにこの陣を去り、治部(石田三成)や備前中納言(宇喜多秀家)に味方されようとワシはいささかも恨みに思わぬぞ。……さあ、心おきのう上坂されよ」

 家康がしばらくの間合いを作ったあとでしわがれ声を出した。床几の前ににじり寄った本多忠勝から何かの耳打ちを受けた後である。

 そのことさらに平然さを装った声に、急ごしらえの陣屋に居並んだ諸将は震え上がった。

 体を向き変えた本多忠勝の目が、立て膝のままでみんなを睥睨している。家康は下を向いて顔さえ上げなかった。

 慶長五年七月二十四日、会津の上杉討伐に立ち上がった徳川家康が、諸将を江戸城に集めて宇都宮の小山にまで兵を進めたときのことである。石田三成の挙兵が家臣の鳥居元忠からもたらされたのだった。

 軍議の前席を占めていたのは豊臣恩顧の大名である福島正則、山内一豊、黒田長政、淺野幸長、細川忠興、加藤嘉明、蜂須加至鎭(よししげ)、田丸直昌などである。徳川家家臣の本多忠勝、本多正信、井伊直政らが、陣幕の出口を阻むように後方に控えていた。

 そのとき一陣の風が須賀神社前に仕立てられた軍議の仮屋に吹き込み、陣幕を大きく内側にはらませた。バンと大きな音をたて、これがまた諸将に極度の緊張を煽った。

「ワシは内府殿に御味方するぞ」

 たまりかねたように福島正則が床几を立って大声を上げていた。

「拙者も内府殿に御味方する」

「もちろんじゃとも、何であの三成ごときに……」

 黒田長政に続き加藤嘉明の声がして、あとは負けじと次々と豊臣恩顧の大名が家康追従を唱えて立ち上がっていた。

 時刻は暮れ六つ半(七時)になろうとしていた。さっきの風に流されて迷い込んだのか、蛍が一匹三間四方に張られた陣幕の、ちょうど葵の紋の上で青白い光を放っていた。

 色めき立つ豊臣恩顧の大名の中で、末席にいた田丸直昌だけが床几を立たずにいた。

「これ田丸殿、いかがされた――」

 横にいた蜂須賀至鎭(よししげ)(小六の孫)がもどかしげに小声を掛けてきた。年配者への配慮を滲み出させた物言いである。

「蛍がのう……」

「何ですと、蛍がどうされたと言うのです」

 至鎭の目が風に揺れる陣幕を見詰める直昌の目線を咎めるように睨んでいた。

「いや、あの蛍がワシを呼んどるからじゃ」

「何をバカなこんな時に――。いくら田丸殿といえどもワレら豊臣恩顧の大名はここは正念場ですぞ。とくと考え召されい」

 至鎭が声を荒げたときには蛍はもうさっきの風に吹き飛ばされていなくなっていたが、直昌の目は跳ね上がった陣幕の隙間に女の影を捉えていたのである。我知らずに息を乱していた直昌の胸で、鎧の(いた)()(ざね)がぎしぎし鳴っていた。

 伊勢の国司・北畠家一族の武将である田丸直昌は、上辺こそ華奢だったが塚原卜伝に学んだ剣豪である。どこか近寄りがたい趣を持っている。

「そんなことはどうでもいいから、ひとまず立たれよ。さあ――」

 しびれを切らした蜂須賀至鎭の声と同時に、ついに家康の横にいた本多忠勝の声が飛んできた。

「ほほう、田丸殿は上坂なされるのですな……」

 諸将の目が一斉に座した田丸中務大輔直昌に集中したのが分かった。黙したままでいた直昌がゆっくりと口を開くのは、その忠勝の再度の詰問があってからである。

「三成ごときに義理立てはいたさぬが、三成は右大臣の秀頼さまを擁してござるのだ。建前上内府殿に御味方するわけにもまいりますまい」

 口にしたのはいかにも公家らしい官位への拘りだった。なるほど田丸直昌は知行こそ美濃の岩村城で四万石だったが、官位は正五位上の中務大輔なのである。従八位下に属する治部小輔の石田三成などは及びも付かない。ましてそのときの豊臣秀頼は最高位に近い正二位右大臣だったのだ。

 だが、そう言ったものの直昌の目は、さっきからずっと薄闇に消えた蛍の光跡を追っていた。陣屋にいた武将たちもこれはまた直昌の、さっき帰陣の薦めをした家康への追従か、人質に出している妻子への執着なのだと捉えた。なぜなら直昌は秀吉の死以来家康と人がうらやむほどの昵懇を保っていたし、これまで公家武将でありながら、主家の北畠一族を誅殺する「三瀬の変」を初めとして、血を血で洗う争いをいくども繰り返してきたからだ。

「何を今さらこの時勢に……」

 福島正則がことさら大きくののしり声を上げた。武骨一辺倒の正則が知略を労して勝ち残ってきた直昌を快く思えるはずがない。それに、官位への権威などは室町末期の応仁の乱からすっかり地に落ちていて、下克上でのし上がった武将たちには鼻白むものでしかなかったのだ。

 この時点まで生き残っている戦国大名としては、むしろ鎌倉時代から続く伊勢の国司家一族としての田丸直昌のほうが異質だったと言える。

「やはり、公家の出は小難しいのう」

 誰かが言ったが直昌はなおも無言で陣幕の上に消えた蛍の光跡を追っていた。

「さあ田丸殿、建前などもうよいではないか。立たれよ――」

 今度は斜め前にいた細川忠興の声がした。忠興の細川家も他の大名たちとは違う室町幕府三管領の一つである。身分は田丸同様公家だった。その声が切迫したものになっていた。だが、直昌は一旦は忠興に顔を向けはしたが立ち上がることはなかった。

 ここで他の武将たちもようやく直昌の様子がいつもと違うのを感じ取った。

「まあ、良いではないか各々方、中務殿にもご心痛がごさるでのう……」

 そのとき徳川家康の声がした。風に流されほとんど誰の声だと聞き分けられぬほどもごもごしたものだったが、家康だけが直昌のことを官位の称号で呼んでいたのだ。家康が言った直昌の心痛とは、大坂方に取られている人質の妻・志乃の方と次男・直綱、三男・直貞のことである。ことに直昌の妻志乃は家康がうらやむほどの美貌だったのだ。

「しかし、人質は誰しもが……」

 と、立ち上がり掛けた本多忠勝の肩を家康の右手がグイと押さえ込んでいた。

「あれほどの妻女ならうなずけるわ。方々も遠慮のう申し出られよ。ワシはいささかもうらみに思わぬぞ」

 家康の顔には笑みが湛えられている。前で息を殺していた諸将は口元を緩めることさえできなかった。その笑みが不気味なほどに表情を消したものだったからだ。

 家康が床几から立ち上がったのはそのときである。

「中務殿、よう申し出られた。さあ、これはワシからのはなむけじゃ。受け取られよ」

 家康は腰から脇差しの一振りを抜き取り、まだ床几に座ったままでいる直昌に向けて差し出していた。ツツーと前にいざり寄っていく直昌を前に、他の武将たちは身動き一つできず立ち尽くしていた。

 誰もが無言だった。家康の度量に感服しながらも、心の底ではその信義を図りかねていたのである。陣幕だけがときおり吹き込む風にはためいていた。

 田丸直昌が小山の陣を退出したのはその直後で、幕下の兵五百を率いて居城である美濃の岩村城に帰陣した。

 城に着いたのは翌々日の昼過ぎだった。美濃に早馬を仕立てたあと、追っ手を警戒しての慎重な行軍であったが、家康は一兵たりとも追っ手を出すことはなかった。この一件で秀吉にはない寛容さを見せつけられた諸将は、もうすっかり家康の虜になっていた。

 岩村城では留守を守っていた家老の田丸主水が待っていた。主水は直昌より十才上の今年六十八才になる老臣である。

「殿としたことがいかなるご帰陣か。三成ごときがことを起こすなど蟷螂が斧のを振るうがごとくで内府殿に敵うはずがないものを。それに大坂方に囚われていたお方様はすでにお逃れいたしたのでございまするぞ」

 主水は直昌が鎧を外させている奥書院に気忙しげに入ってきて口早に言った。すでに早馬で美濃の主水にも石田三成の挙兵が知らされていた。

「殿はまさか豊臣に義理立てを……」

「そうではない。()()が現れたんじゃ、ついにのう――」

 直昌は最後に外した具足の胸板を家臣に渡しながら主水に語気を強めた。直昌の中でも豊臣への忠節はすでに秀吉の死で終わっていた。それが乱世の習いである。

「何を世迷い言を申される。先の奥方はもう身罷(みまか)って三十年も経っているのでござるぞ」

 田丸直昌の最初の妻の阿古の方は北畠具教卿の娘である。直昌には従兄弟の子に当たるいわゆる近親結婚で、結婚した二年目に労咳で死んでいた。いや、死んだと言うより(むくろ)が忽然と姿を消したと言うほかない。そのとき寝ていたはずの床からは蛍が一匹夜の奥に飛び去っただけなのだ。阿古の方がそんな不可思議な出来事を彷彿させるほど面妖な美しさを持った女だったことは、直昌の守り役をしていた主水も十分承知していた。

「いや、あれは確かに阿古じゃ。何せ青白い光を瞬きさせ、陣幕の隙間に姿まで現したんじゃからのう」

「何をお戯れを……、まさか殿はそのために、内府殿の申し出を見限りお戻りなされたのではないでしょうなあ。内府殿は今までの信長さまや秀吉さまのような無慈悲なお方ではございませぬぞ」

「うむ……」

 立て膝のままでにじり寄る主水に、直昌は顔を背けて返事ができなかった。

「このたびのこの岩村城の賜りも内府殿の直々のお取り計らいですぞ。何でこの期に及んでお見限りなどを……。いえ、内府殿と何らかの遠謀をお交わしになったのなら話は別ですが」

 悔しさを滲ませた主水の声が掠れて聞きづらくなっていた。

 つい八ヶ月前の慶長五年二月一日。五大老の重鎮だった徳川家康は、田丸直昌を信州川中島城より美濃の岩村城に移封し四万石を与えたのだ。これは知行高こそ前と変わらなかったが内五千石に無役の恩恵をつけた特別の配慮だったのである。しかも、豊臣秀吉が死去したあと石田三成などの五奉行にも諮らぬ独断専行の采配だった。

 織田信長の本能寺の変のとき、堺にいて伊賀越えの危機に陥った家康に、田丸直昌が急遽水軍を回して岡崎に戻る手配をしたことへの報いだったとされている。

 元々が伊勢の国司家一族だった田丸直昌が、当時はもう志摩の愛洲家を滅ぼしその水軍をも配下にしていたからなのだ。

「なに、内府殿との謀などあるものか。以前阿古が言ったように、ワシもいつの間にか世の流れに染まって自分を見失っているむなしさに気付いたからじゃよ」

 直昌が主水に言いながら腰からおもむろに一振りの脇差しを抜き取っていた。

「いえいえ我らが伊勢の田丸より乱世を生き延びこの岩村にあるのは、その世の流れに染まったればこそでござりまする。紛れもなく殿の才覚ですぞ」

「いや、その才覚こそがワシにはまやかしじゃったと言うんじゃ。ワシはただ美しく戦いたかっただけじゃからのう。ほれ、小山を退出するとき、内府殿がこれをはなむけに授けられたわ」

 直昌がそう言って右手に取っていた脇差しを主水に差し出した。

「何ですとー、内府殿が寝返った殿にこれを授けてくれたと言うんですか――。ならばこちらの出方次第ではなお期待を掛けているとのことですなあ。やはり内府殿は他のお方とは違いまするぞ」

「主水、勘違いするでないぞ。ワシと内府殿の間にはこの件に関しては何の密約もないんじゃからのう」

 直昌はそう言うと外を向いてゆっくりと茶をすすった。

 美濃の山城の岩村城では朝からクマ蝉が鳴き出している。もう小一時間もすると石垣に接する木立からは蝉時雨が降り注ぐだろう。

「いえ、これは内府殿が豊臣恩顧の諸将方の覚悟を計った、巧妙な企みごとですぞ」

 主水は直昌から手渡された脇差しを右手で撫でさすりながら上目遣いに言った。

「だから……、小山の陣屋に蛍が飛び込んできて阿古が姿を見せたんじゃ。それだけじゃ。そなたも聞いとるであろう。阿古が死んだとき蛍となって姿を消したというのを……」

 人生の大半を直昌に付き従ってきた田丸主水には、阿古に寄せる直昌の心の内もつまびらかに分かる。うち続く戦乱の中で亡くなった阿古の方の骸が忽然と消え、そのあとに蛍が一匹飛び去っていったのも家臣を通じて知っていた。ただ、田丸家にとってこの家康からの離反は、分かっていても見過ごしに出来ない存亡に関わるものだった。

「ハハ、蛍などはこの岩村にもござるぞ。それに青白い蛍のまばたきなど日常茶飯事でござる」

「それはワシも承知しておる。しかしな……」

 直昌はそう言葉を止めて考えた。

 ――戦いの世は狂気です。それでも人はそれに染まって生きるしかないもの。ときが来れば迎えに参りますゆえ、それまではただ美しく生きられよ。

 阿古の方が遺書として最後に直昌に残した言葉である。阿古の言う美しさが蛍の乱舞のごとき無条件の美しさなのを直昌は知っている。

 (ろう)(がい)を病んだ阿古の方が静養に来ていた一之瀬城の座敷からは、一之瀬川がよく見えた。阿古が死んだときもそこに群舞する蛍が一匹、群れから外れて庭の松の木に止まっていたのを直昌は覚えている。もう三十年も前のことである。それ以来その言葉が直昌の頭を離れずにいる。

「ここ岩村の蛍はみな光の小さな平家蛍じゃぞ。ワシが小山で見たのはホレ、一之瀬のあの大きな源氏蛍なんじゃ」

 下野の小山に棲む蛍も本来は体の小さな平家蛍のはずである。それが小山の陣屋に飛び込んできて陣幕に張り付いたのは、親指ほどもある大きな源氏蛍だった。あれほどの蛍の光は一之瀬以外では滅多に見ることはない。

「それがどうしたというのです。今のお方さまだって非の打ちようがないお方ですぞ」

 直昌の向けた眼差しの先へ主水の体が阻むように立ち塞がっていた。

「分かっている。しかしのう、志乃はワシや阿古とは違う乱世の女じゃぞ。このまま志乃の強さに染まっていけば一体ワシは何者だったか分からぬではないか」

 直昌はそう言って目を潤ませ、遙か南西にある伊勢国の一之瀬の地に視線を向けた。


               ※


 田丸直昌は伊勢の国司北畠家より出て田丸家を作った具忠の次男として天分十二年(一五四三年)に生まれている。その後嫡男の具勝が早死にして、次男の直昌が田丸家を継いだ。

 戦乱の時代である。北畠国司家が治める伊勢国でも各地で兵乱が起こっていた。

 当時、「田丸・大河内・坂内」の三氏が北畠の一族三大将で、それぞれが御所と呼ばれて城を構えていた。田丸具忠はその最長老で田丸の他にも度会の一之瀬に支城を持っていた。強大な水軍を持って志摩国に勢力を張る愛洲氏への備えのためにである。

 一之瀬城は川の流れに沿って、縦二十メートル幅四十メートルの小さな丘陵に建つ平山城だったが、愛洲氏が居城する五カ所浦と志摩の要の阿蘇浦に分岐する要衝の地でもあったのだ。

 伊勢の地から志摩に抜ける山間の頂上部で、川幅も一段と狭まりカワセミやカジカも生息する幽谷の地なのだ。その真ん中を狭い街道と一之瀬川がうねるように走っていたのである。川は汚れ一つない清流だった。

 直昌は幼少の頃この一之瀬城でよく遊んだ。初夏には蛍がよく舞った。他では滅多に見られないほどの体の大きい源氏蛍である。それが一条の帯となって一之瀬川の川面を群れ飛ぶのである。身震いするほどの美しさだった。

 天分二十二年(一五五三年)の頃にはまだ織田信長による勢州進行も進んでおらず、田丸家では勢州各地で起こる戦乱の合い間を縫って一之瀬城でよく蛍狩りを催していた。たまに北畠の一族が集う夕べもあったのだ。

 直昌がまだ十五歳に満たない頃だった。北畠本家から従兄弟の娘に当たる阿古姫が蛍狩りに訪れたことがあった。

 阿古姫は気性の強い我が儘な娘だとの評判で、まだ十才だというのにもう大人びた垂らし髪を結ていた。その世話には誰もが手を焼いていたのである。

 天文年間とは勢州でも山岡一党や池山伊賀守が田丸御所に反乱し、時の城主の田丸弾正小弼を自害に追い込んだ年である。俗に言う「田丸の兵乱」で、これに怒った七代国司北畠晴具は、山岡一党と池山伊賀の守を山上城に追い詰め、逃げ惑って許しを請う女こどもまでを引っ捕らえて焼き殺している。さらには、その死骸を土塁の中に山積みし、見せしめに幾日も晒し続けたと言うのだ。国司によるそんな弾圧が間断なく繰り返されていた。

 それでも各地で反乱は起こり、そのたび首謀者の一族一党はもとより、多くは村ごと焼き殺されていたのだ。

 女こどもといえども死を免れられぬ覚悟をしなければならない。誰もの日常に生と死が同居するいわゆる乱世の時代に入っていたのである。

 直昌も幼少から塚原卜伝の剣の道を修行したし、阿古姫もおのずとその気概を備え、死をそれほど恐れてなどいなかった。ただ、公家の流れを汲む国司家では、なお女に嫋やかさを求める風潮が残っていて、それが阿古姫の気質をいっそう目立せていたのである。

 一之瀬の城は北側と西に空堀を巡らせた高さ六メートルほどの土塁の城である。その狭い尾根の部分に二層の本城が建っていた。

 北側の入り口から入って空堀の西をいくと、その南端に石垣を積んだ見張り台がある。そこからは南西方向の阿蘇浦への道と、南東方向の五カ所浦への道が一望できた。

 眼下は絶壁に近い斜面が落ちていて、その真下に一之瀬川の流れがあった。

 直昌が館で催されていた酒宴の席からやっとのことで逃れ出てきたとき、一人でいる阿古姫と出会った。

「これは阿古さまではございませぬか、この下にわたくしの隠れ家がございますゆえ、お連れいたしましょう」

 つい声を掛けていた。刻はすでに宵の六つ半(七時)を過ぎていて薄暗い。直昌も前々からまれに見る跳ねっ返りとうわさのある阿古姫に興味を持っていた。いや、憧憬していたといった方が良いだろう。直昌自体が次男で妾腹の子だったし、初陣もまだ果たしておらず諸将が集う席には気後れがあって居づらかったのである。

 阿古姫は供の者を付けていなかった。女どものほとんどが城内に紛れ込んでくる蛍の見物にかまけて、城塁の南端にある高台に集まっていた。

 その見張り台は石垣が積まれて周囲が人も通れぬぐらいに木立が覆い茂っている。杉やクヌギやアセビの木々が敵の侵入の防備になっていたのである。

 そこに一筋の獣道が崖に沿って川淵にまで落ちていた。この獣道をたどっていくと岩場が抉れた洞窟状の箇所に出る。直昌がいつも一人になりたいときに来る隠れ家だった。一之瀬川の川面がもう手の届く場所で、その岩場の前だけが樹木の枝が途切れて川面が開けていた。

「アレはなに……」

 無言で付いてきた阿古が洞窟の前まで来て川面の上流を指さして声を上げた。風のない雨上がりの日だった。こんな日には蛍がよく舞う。

「アレは一之瀬の竜だよ――」

 無数のゲンジボタルが帯状になって川面をうねっている。その姿はまさに光り輝く竜の舞いに似ていた。昔から一之瀬の村人が崇めを含めて言い伝えている蛍の呼び名である。直昌もそれを真似て言った。

 その光る竜が直昌と阿古がいる岩場の隠れ家に向かってまっしぐらに突進して来ていた。

「こっちに来るわ。何て美しいの。わたしを呼んでいるわ――」

 阿古が岩場の上に立ってその竜に向けて飛び出そうとしたのである。そのとき阿古の額に垂れた髪が割れて白い顔が月明かりに露わになった。恐いほどに透き通った肌である。直昌はその肌が蛍の光に似ていると思った。

「無茶だ。竜と言ってもあれは蛍の群れだ。飛べば崖下に落ちるぞ」

「フフ、わたし多気(たげ)でも飛んだわ――」

 阿古の住む北畠国司家の本城は多気(たげ)の霧山城である。阿古がそう言って再び崖を飛び出そうとしたその瞬間、阿古の体は押し寄せたその蛍の群れの中に飲み込まれていた。

「姫――」

 阿古はまだ七歳の少女である。恐くないはずがない。直昌はとっさにその光の群れに飛び込んだ。目が眩んだ直昌の顔に蛍の固い殻がビシビシと打ち付けてくる。

「阿古姫――」

 必死になって呼んだが阿古の返事はない。周りは蛍の光で何も見えなくなっていた。やみくもに探る手が空を切るまま、蛍の群れが岩場から飛び去るのには相当の間があった。

 やっとのことで光が消えて気付くと阿古が目の前にうずくまっていた。直昌は駆け寄ってその体を抱き寄せた。

「あー、竜が行ってしまう……」

 直昌の腕の中で阿古が右手を差し出しそう叫んだ。その声がまだ興奮で昂ぶっている。もう蛍の群れの大半は川面の上流に飛び去っていた。

「すごかったなあ、こんな蛍の群れの中に入ったのは初めてだよ」

 直昌はまだ阿古の肩に残っている蛍の幾つかを手で振り落としながら言った。

「さっきわたし、あの蛍たちと一緒に飛んでいたのよ……」

 阿古が潤んだ目をまだ蛍が数匹残ったアセビの木に貼り付けている。空を飛ぶなど阿古の思い違いだと思ったが直昌は言い返しはしなかった。そう思えるほど真剣な阿古の眼差しだった。

「蛍は死人の魂なのよ。ほら、まだいるわ。この中に」

 きっとさっきの蛍がまだ浴衣の裾に入り込んでいるのだろう。阿古がそう言って下半身をよじって浴衣の裾を割って見せたとき、闇の中に白い阿古の太股が薄く浮かび上がった。そこに青白い光を放った蛍が一匹、阿古の小さな膝頭を越えて太股の奥へ奥へと這い上がっていた。

 蛍の中には猛毒を持つ種類もあると聞く。直昌が思わず叩き潰そうとすると、

「ダメよ。(いくさ)は狂気よ。だから死んだ人は魂となってみな最後に女の情にすがりにくるんだわ」

 とっさに阿古が右手でその蛍の体を庇っていた。

 戦乱が激しさを増し、阿古のいる多気の城内でも戦のたび幾人もの死人が出ている。運ばれてくる負傷者の手当や死人の処理は女たちの役目で、額に刺さった矢じりを抜いたり目の玉をくり抜いたりもする。味方の取った首に名札を付けるのも女の役目だった。死体はいつも身近にあり、人魂が飛ぶのも日常茶飯事なのだ。それを常に手伝っている阿古はそのことを言ったのだろう。一之瀬の蛍火の大きさはまさに人魂の光に似ていた。

「そうか……。あの竜の舞いは、雄が雌を求めて飛ぶ蛍の最後の宴なのか――」

「死は二度と戻ってこられない悲しいことだわ。でも、美しいことなの」

「ああ、わたしもそう思う……」

 直昌は広げた阿古の股を這い上がっていく蛍の光を目で追いながら言った。

「さっきの蛍はみな(いくさ)で死んだ人の魂なのよ。きっと救いを求めてこの一之瀬の清い流れに集まってくるんだわ。だからこそ美しいのよ……」

 まだ戦場に出たことがなく戦に憧れを持っていた直昌も、城内に運ばれた負傷者の死で、死が生と表裏にある痛ましいものであるとも知っている。だからこそ死が哀しく美しいと言う阿古の魂の話に心が打たれた。

「そんな蛍がわたしの体に入ってくるとき、わたしの体も蛍のように光るの……」

 さっきの蛍が阿古の股間に入っていったのか、阿古の下半身が青白く光り出していた。直昌はそのとき自分も魂になって阿古の体内に入って死ねたらと思った。そんな死なら少しも恐くないように思えた。

 女たちの歓声が南端の見張り台から上がったのはそんなときで、川面を登っていった一之瀬の竜がちょうど見張り台から見える位置に来たときだった。

「わたしの魂もあんな蛍になれるかなあ……」

「うん。きっとなれる」

 抱き寄せた阿古の小さな体が小刻みに震え氷のように冷たかった。

 その次の日も二人は人目を忍んで一之瀬の隠れ家に出向いたが、もう竜の舞に出くわすことはなかった。

「わたくしここの蛍のこと一生忘れない。きっと戻ってくるわ」

 阿古はそう言って北畠本家の居城のある多気に戻っていった。それ以来直昌の心には阿古のこの言葉が澱となって貼り付き、初陣を果たしたあとも蛍になることのみを願って出陣したのである。


                ※


 それから十数年阿古姫の音信がないままに北畠国司家の治める勢州は、天下布武を目論む織田信長に怒濤の如く席巻されていた。

 永禄十二年(一五六九年)八月二十日尾張から桑名に入った信長は、北伊勢の白子観音寺に進み、前もって籠絡していた北畠一族の木造具政と謀って二十二日には木造城を本陣として布陣した。

 そのあと木下藤吉郎を先駆けとして松坂の阿坂城を攻略、二十八日にはもう北畠国司家の本拠である大河内城を攻め囲んでいた。信長の軍兵は八万余騎と伝えられている。

 そのとき北畠一族の三大将と称されていたのが「田丸・大河内・坂内」の三氏であり、当時四十二才だった国司北畠目具教が一番頼りにしていたのが、最長老で兵法にも長けた田丸直昌の父、具忠であった。

 大河内城は七尾七谷に囲まれた天外の要害である。織田方は四十日間城を囲み果敢に攻め立てたが容易には落ちなかった。

 攻めあぐんだ信長の将滝川一益は一番手薄に見えた城の北方にあるマムシ谷から攻め上ったが、城兵の弓鉄砲にことごとく撃ち殺され、マムシ谷が人馬で埋め尽くされたという。

 剛気な一益はそれでも一筋に攻め上ったが、城方は予てより用意していた数万の竹槍に油を塗り、その穂先を火に炙って寄せ手をことごとく谷に突き落としたというのだ。

 一益も怺えかねて引き返したが、この城方の護りを担っていたのが当時二十五才になっていた田丸直昌である。田丸具忠・直昌親子が敵の織田方にも恐れられるようになったのはこのときである。特に直昌の死をも恐れぬ猛烈果敢さには舌を巻いた。直昌が出陣のたびに抱く、蛍となって阿古の体内で死にたいとの願望がそうさせたのである。

 ただ、いかんせん兵力に差がありすぎた。北畠国司方は籠城一ヶ月余の末、十月三日兵糧が尽き餓死者が出始めついに信長に和議を申し入れたのである。

 国司の北畠具教が隠居して信長の次男茶筅丸(のちの信雄)十二才を、具教の嫡子具房(二十二才)の養子として国司を継がせることを条件としたのである。

 そのとき田丸直昌の父具忠も、主家の具教同様出家することで信長に恭順を示している。要するに信長は北畠家の国司・具教と、一族の最長老である田丸具忠の隠居を条件にして北畠家の存続を許したのである。

 田丸家でも田丸具忠の隠居で家督を継いだのは庶子で次男の直昌だった。嫡男で正室の子である具勝が早死しており、その子鶴松(のちの市兵衛)はまだ弱年で心許なく、この乱世を乗り切るためにも武勇のある直昌に託すしかなかったのである。

 北畠家が降伏して間もない永禄十二年(一五六九年)の年の瀬のことである。隠居して一之瀬城にいた田丸具忠が田丸城にいた直昌の元を訪れた。すでに夕刻に近い暮れ六つ(六時)近くだった。

「直昌、今朝ワシの元に三瀬の大御所さまより使いがあってのう」

 大御所とは三瀬の館に隠居した北畠具教のことである。すでに頭を丸めて法体になっていたが、若い頃から剣豪として鍛えていた体は袈裟を付けても様になる。まだ凛とした威厳を放っていた。

「はっ、それで、何か―」

 直昌はその姿を思い浮かべて思わず居住まいを正して聞き質していた。

「そなたと大御所さまの御子の阿古さまとの縁組みのことじゃ」

 阿古姫はわずか半年の間だったが京の公家に嫁ぎ、出戻ってきて三瀬の館にいる具教の長女である。今は田丸城を継いではいるが、次男で側室の子である直昌とは格が違いすぎた。直昌は本来なら他家に養子に出されるか家来筋になる身分だったのだ。

「異存なかろうのう、そちも幼少の頃に見知っているだろうが阿古姫はちと難しいおなごじゃぞ……」

「いえ、わたくしに異存などは……」

 直昌には願ってもないことである。

 直昌は一呼吸置き、聞き違えたのではないかともう一度吟味して答えた。余りの喜悦につい言葉があいまいに途切れた。頭一杯に一之瀬の蛍狩りの情景が浮かんでいた。あれ以来直昌は蛍になって阿古姫の中に入れることのみを願って出陣していたからだ。

「けど、なにゆえ急にわたしごときにそんな縁談話を……」

 成人してからの阿古姫は遠くから眺める以外なかった。色が抜けるように白く眩いばかりの美しさだった。当時まだ部屋住みだった直昌にはとうてい高嶺の花で、それが一度京の公家に嫁いでからはすっかりあきらめていた。

 直昌の田丸家継承は父具忠より暫定的な含みを持たされての相続で、北畠本家の姫君と婚礼するなどとうてい鵜呑みにできることではなかった。直昌は再度言葉を噤みそのあとこう継いだ。

「この縁談話は甥の直綱のほうが適任かと思われまするが……」

 これまでの父・具忠の思惑も、田丸家は直昌のあと嫡流の直綱に戻すとのことだった。当時直昌が二十八で直綱が十八才だった。二十三才の阿古姫とは互いに上と下で五才の違いである。婚儀に何ら支障はないはずだった。

「これは、そなたの武勇を見込んでのことなのじゃ。それと嫡子でないそなたへの博付けじゃよ。実はのう、大御所さまは信長殿の真意を今でも疑ってござるんじゃ」

 具忠は癖になっている丸めた頭を右手でなでつけながら語り継いだ。具忠もまた主家に習って法体になっていたのである。

 和睦の条件とした信長の次男の茶筅丸を養子にするとした申し出を、「これ人質に取るにあり」と考えた北畠具教には、そのときの思惑を実現するためにも武力と知略に長けた田丸直昌の力が不可欠だったのである。

 四十二才の具教自身は塚原卜伝に学んだ剣豪だったが、合戦の戦果はあまりない。嫡子具房は二十二才になっていたが才に乏しい。北畠三大将のうち、大河内家は秀長が弘治三年(一五五七年)に死亡しその子政能は年少で、坂内家は具祐がすでに出家してその子具信の代になったがまだまだ心許なかった。

 総大将たる具教にとっては、信用できない信長の奸策に対向するためにも、あの大河内攻防戦で脚光を浴びた、甥であり同じ塚原卜伝の孫弟子である田丸直昌との絆を、いっそう強固にしておきたかったのである。そのためにも前年の永禄十一年(一五六八年)には「卜伝の一の太刀の秘伝」を直昌にも伝授している。同族でも主従でも何らかの絆を保たねば安閑としておれない時代に入っていたのだ。

 阿古姫は出戻っていたとはいえまだまだ若い。京より帰ってからその美貌にいっそう妖艶さが増したとうわさされていた。

「大御所さまはのう、このたび養子としての茶筅丸さまを六女の姫君に娶すに当たり、その前に何としても長女の阿古さまをそなたに嫁がせたいとの仰せなんじゃ」

「では大御所さまはわたくしのこともお信じなさってないのでございましょうか」

「無理もなかろう。先の木造(こづくり)のこともあるでのう」

 永禄十二年(一五六九年)の春、北伊勢で北畠一族をなす木造御所の木造具政が、家老の柘植三郎左右衛門のそそのかしに乗って信長側に寝返ったのはつい半年前である。

 このとき激怒した北畠具教は人質に取っていた柘植三郎左右衛門の九才の息子と妻を雲出川に連行すると、寄り綱をもって首に掛け取り囲んだ木造城に向けて張り付けにし、泣き叫ぶ母子を尖らせた大木で串刺しにしている。ただ、木造具政の人質については同族でもあり翻意を促す意味でそのまま留めおいたのである。

 だが、すでに北畠に属していた北勢衆の工藤・関・滝川などはみな織田方に落ちていて、城を攻め落とすことが出来ずに引き返さざるを得なかった。

「阿古さまとのこと、父上さえご承知ならわたくしに異存などございませぬ」

 直昌はこのときはっきりとくじ運が巡ってきて前途が開けたと思った。北畠と織田が和睦し、そのあと信長が伊勢神宮を参拝したときのことである。それまで神宮を管轄してきた直昌に信長から直々に同行が命じられた。そのとき信長と一緒に引いた御神籤に、「これまでの運が一挙に開ける」とあった大吉の札を思い出したからだ。


 阿古の方が田丸家に輿入れしてきたのは元亀元年(一五七〇年)の初めである。

 婚儀の喧噪が治まった三日後、水色の蚊帳が吊られた田丸城の奥座敷には涼しげな風が吹き込んでいた。

「姫と一之瀬で蛍狩りをしたのもこの季節でございましたなあ」

 直昌はまだ阿古の方を姫と呼んでいた。祝言を済ませはしたが阿古の体調がすぐれなかったせいもあって、まだ体を合わすまでには到っていなかったのである。

「ええ、わたくしまだ昨日の出来事のように覚えております」

 大人になった阿古の方の声は想像していたよりも低く艶めいていた。言葉と同時に阿古の方が純白の寝衣の裾を少し覆い隠したように見えた。直昌の頭に一之瀬で見た青白く光った幼い阿古姫の下肢が浮かび上がっていた。

「ワシはあの時のことを片時も忘れたことはござらなんだ。もちろん戦場(いくさば)でもですぞ」

 直昌はこれまでの戦いの恐怖を、死ぬときにはあの阿古の青白い光の中に迎えられると信じることで乗り越えてきたのだ。愛する人の中に行ける死ほど幸せなことはない。それがこれからは現実のこととして、自分の中に確立できるのである。

「そなたが北畠家のために京に嫁がれたと聞いたときには、もう生きるのさえがためらわれたぐらいですぞ」

「京でのわたくしの体は(かばね)がごときものだったのです」

「ワシには生き地獄だった」

「なぜです。京にいてもわたくしの心はいつも一之瀬の殿の元にあると言ったはずなのに」

「どうしてそれがワシに分かる……。あのとき姫はただここの蛍を一生忘れずここに戻ると言っただけではござらぬか」

「それで十分ではございませぬか。問題は心がどこにいるかなのですから……」

「怨みだったかも知れぬが、あれ以来ワシはどうしても姫のことが忘れられなかった」

 その間も直昌が出陣して武勲を立てられたのは、阿古姫が自分の心の中にいて、その体の中に入って死ねることを信じたからである。

「わたしはあの日のために、こうしてここに戻ってこれたのです」

 居住まいを正してこちらを向いた阿古の目が、直昌の心を突き刺すように睨んでいる。いったい何の怒りなのか、直昌はその肩をゆるやかに抱いた。

「京ではわたし、指一本触れさせなかったのに……」

 直昌の腕の中で阿古の方の掠れ声が消えゆるようにした。直昌はその言葉と同時に、腕に渾身の力を込めてその体を抱いた。


 阿古の息遣いに怒濤のような一瞬があって、あとは直昌の腕の中で静かな寝息を立てていた。

「阿古姫に言っておかねばならないことがある……」

 直昌の声に阿古はこちらを向いたが、目はまだ焦点を絞りきれずにうつろに直昌の顔を眺めているだけだった。

「わたしが田丸の家を継いでいるのは暫時のことで、いずれ本流の甥・直綱に譲らねばならぬのです」

 直昌はよほどの覚悟を決めて言ったつもりだったが、阿古の目は聞こえているのかいないのか、さっきのうつろさをつゆほども変えずにいる。

「それでもよいのですか……」

 直昌は今度は口を耳元に近づけ頭を抱くようにして声を掛けた。

「むろんです。わたくしの心は北畠にも田丸にもあるのではありません。ただ殿の心の中にあるのです。それ以外何を求めましょうか」

 直昌は胸に包み込んでいた阿古の頭をさらに力を込めて抱きしめていた。

「分かり申した。わたしもそなた以外には何も求めはしないぞ」

 直昌の声が感に堪え切れずに掠れた。

 風が出たのか蚊帳が揺れている。直昌の目がその揺れに誘われて表側の角に向くと、そこにどこから入ったのか蛍が一匹青白い光を放って止まっていた。その光がころなしか弾むよな瞬きを繰り返している。

「おい、蛍だぞ」

 と、直昌が小さく言って阿古の体を揺すってみたが、いつの間に寝入っていたのか阿古はもう死んでいるかのように身動き一つしなかった。

 蝋燭を消しているせいか障子越しに入ってくる淡い月明かりが、まだ衣類をまとわぬ阿古の肌を妖しいまでに浮かび上がらせている。その肌がまるで蛍の輝きのように見えた。

 ――この女のために死のう。

 そう思ってその体を抱きしめたとき、阿古が目を覚ましたのかこちらに寝返りを打った。

「殿、さあもう一度……」

 差し伸べられた阿古の手に、直昌は再度阿古の体の上に覆い被っていった。

 戦国の世は常に死と向かい合っている。死をゆだねられる女がいることがこれほど幸せなことかと直昌は改めて思った。


               ※


 元亀元年(一五七〇年)足利義昭を奉じて天下布武に武威を振るっていた信長に、諸国の武将が一斉に蜂起した。

 まず、越前の朝倉義景が江北の浅井長政と一味して背き、これに続き大坂の石山本願寺門跡が全国の門徒を携えて謀反を企てた。東国では甲斐の武田信玄が北国では上杉謙信が立ち、関東では北条氏政が陸奥や出羽では芦名盛隆、伊達政宗、縣義秋等が蜂起した。中国では安芸の毛利、出雲の尼子、四国の長宗我部が起こった。西国では大友、嶋津が武威を争って大混乱に陥っていた。

 北伊勢の門徒・長島願証寺が織田方の小木江城を攻めて信長の弟・織田信興を自害させたのはそんなときだった。信長は門徒の徹底攻略を決意し、元亀二年(一五七一年)五月十二日に第一回の長島攻めを行った。そして、天正元年(一五七三年)九月二十四日に第二回目、翌天正二年(一五七四年)の七月には三度目の長島攻めを実施したのである。

 田丸直昌が信長から参戦を命じられたのは三度目の長島攻めのときである。直昌が新たに配下にした五カ所の愛洲水軍をもって、長島の輪中にある城や砦を攻略するためだった。石山本願寺からの物資を絶って兵糧攻めにする企ても含まれていた。

 直昌はこのとき水軍を率いて長島側の五端城(特に堅固な城)の一つである大鳥居砦を攻めていた。封鎖して一ヶ月目、田丸勢の強固な河口封鎖で大鳥居砦でも餓死者が出始めていた時期である。耐えかねた門徒衆がついに降伏を申し出たが信長はこれを許さず、小舟で脱出してくる門徒衆をことごとく斬り殺すことを命じていた。

 一之瀬から病状が悪化した阿古の方が危篤に陥ったとの知らせが届いたのはこんなときだった。朝の五ッ前(八時前)である。

「血を吐き、しきりに殿のお帰りを願っているとのことでございます」

「何っー」

 直昌が絶句して床几を立ったのを見て、すかさずそばにいた田丸主水が口を挟んだ。

「なりませぬぞ殿。今は大事な時期、門徒衆を一人たりとも逃すなとの信長さまのきついお言い付けでございます。今はただ信長さまの命を守ることのみが肝要なのです」

 幾艘もの舟団に取り囲まれた大鳥居砦は、すでに反抗する力をすっかりもがれていた。

「うむ……」

 唇を真一文字に噛みしめた直昌はそのまま床几に腰を戻した。

「殿、耐えて下され。信長さまは他の方とは違い例え親子といえども命に背くことを許さないのです。このことはお方さまもご納得下さいますぞ」

 主水が再び声を掛けたが直昌はそれには応えようとせず、そのまま床几を立つと無言で陣幕の外に出て行った。

「殿――」

 主水が陣幕を撥ね上げてそのあとを追う。他の近習の者はなすすべもなく控えていただけである。

 早朝の揖斐川河畔の林にはときおり涼しげな風が吹いてくる。直昌は陣の外に出て木々の間に見える南東の空をながめ深くため息をついた。

「これが(いくさ)と言えるのか……。ただのなぶり殺しではないか……」

 誰もいない木陰には直昌を追ってきた主水だけが身を屈めている。

「これが織田の戦なのです。だから勝つのです……」


 田丸直昌の頭に二年前の北畠が敗北した大河内城籠城のことが甦っていた。

 そのとき信長はまず大河内城下の家や田畑をことごとく焼き払ったあと、南の山には織田上野守、滝川一益、津田掃部、蒲生氏郷、丹羽長秀を、西の山には木下藤吉郎、氏家卜全、佐久間右衛門を、北の山には斉藤新五、東は柴田修理、森三左衛門らを配して二重三重に取り囲みアリの這い出る隙間もない布陣を取っていたのだ。史書にはその数八万余騎と言い伝えられている。

 このとき城の西方を守った田丸直昌は、数百の田丸勢で攻めかける織田の大軍を散々に打ち負かしていた。籠城が長期に及ぶと信長は、今度は北畠の本城である多気の霧山城を焼き払い、残っていた北畠の総力をもぎ取ったのである。

 こうして大河内城は孤立無援となったまま一ヶ月あまりが経っていた。大河内城は土塁に囲まれた平山城である。信長に城下を焼き払われたとき、町民の相当数が城内に逃げ込んでいた。当初は負傷した兵の看護や荷駄の運搬に用だったが、城内の食料が枯渇してくるとその人数が却って重荷になった。

 直昌の部隊にもそんな町民が幾人もいた。食べ物が食い尽くされるとその町民がまず音を上げたのだ。食料の奪い合いから喧嘩、逃亡果ては気が狂って己の家族を絞め殺すものまで現れた。

 ある朝直昌が巡察に出た時、二の丸の柵の横から子どもの悲鳴が聞こえてきた。ただならぬ声だった。町民たちが籠もっている小屋の辺りからである。

 周囲には立ち込めた硝煙の臭いに混じって生臭い血の臭いがしていた。断末魔の声もあちこちでしている。

 そう言えば防戦にかまけ城内の巡察をしばらく怠っていたのだ。直昌は足を止めて死角になっている堀の奥に視線を向けた。

「殿、ご覧になってはなりませぬ」

 そのときもそばに田丸主水が付き従っていた。

「うむ……」

 主水の言う意味は大体想像が付いたが、直昌自体がそのことを考えまいとしてつい足を遠のかせてきたきらいもあった。

「いや、すでにそうもいかぬわ」

 直昌は前に立ちはだかった主水の体を押しのけ柵の向こうに出た。

 夏の終わりの靄った空気の中でやせ衰えた老婆がいる。いや、よく見るとまだ中年の女なのかも知れない。死んだ子どもの骸に顔を埋めてうめいていた。たった今、むずがって泣いた我が子を絞め殺したに違いない。その女が直昌に気付いてこちらを向いた。声は出さなかったが女の目は憎しみに燃えて直昌を射ていた。

「この者たちだけでも逃してやれぬのか」

「はっ、何度も試みましたが、信長めは誰一人逃さずことごとく射殺します」

 飢えは町民たちばかりではない。城兵にも武将の女房たちにも及んでいる。だが、総大将の北畠具教はまだ戦いを止めようとは言わなかったのだ。

「何と酷いことよのう。戦なら防いでみせるが、飢えはどうしようもないわ」

「それにもう援軍はどこからもまいりませぬ」

 それまで残っていた岩内御所は籠絡され、阿坂城は木下藤吉郎によりすでに落とされている。援軍が断たれた籠城など無意味に等しいのだ。

「これはもう戦ではない。父上からも大御所さまに和睦をも申し添えてもらおうぞ」

 直昌の言葉に主水は無言で頭を垂れていた。戦での決着ではないだけに無念だったが、町民を巻き込んだ無意味な死はそれより辛かった。

 日が昇るにつれ城内の異臭はさらに鼻を突いていった。

 北畠具教が織田信長に和睦を申し入れたのはそのすぐあとで、十月四日には北畠具教は織田方の滝川一益、津田掃部に城を明け渡して大河内城を退城している。


「お耐え下され、これが織田の戦いなのです。田丸もそれに倣うしかないのです」

「分かった。ワシも耐えてみせるぞ。だから、今はただ一つだけ見逃してくれぬか……」

「……」

 直昌がかがみ込むようにして主水の耳元に何かをささやいた。主水は身を固めたままじっとうずくまっている。主水が頭をうなずけたのはしばらくのあとだった。

 その日の夕刻には一之瀬城に田丸直昌の姿があった。長島から伊勢湾を早舟で一気に漕ぎ抜け、五カ所浦から早駆けしてきたのである。

 一之瀬城の者は当初誰もがそこに立っているのが田丸直昌だとは信じられなかった。

「まさかー、殿ではございませぬよな」

 直昌が阿古の方の寝ている一之瀬城の別棟に入ったとき、留守居を任されていた重臣の小津外記が驚きの声を上げた。周りはすでに暗闇に包まれていて定かには見分けられなかったのである。

「阿古はどこにいる」

 直昌は外記の声には答えずこう言い継いだ。いつもの床に阿古の姿がなかったからだ。

「たった今身罷(みまか)られましたゆえ、お床を移し替えましてございます」

 外記は平伏したままで小声を出した。

「うむ……、間に合わなんだか。で、亡骸はどこじゃ」

「はっ、こちらでございます」

 先に立った外記が本城にある奥座敷に導いていく。奥座敷に入ると真新しい布団が敷かれていた。直昌は先導する小津外記を追い抜くようにしてその布団に掛けよった。

 確かに目を閉じている阿古の顔があった。

「阿古―、今帰ったぞ……」

 直昌はその顔を両手で包み込むようにして呼びかけた。そのとき手が触れたのか阿古の髪が額からバラリと滑り落ち、一瞬、阿古が身震いしたかに見えた。

「阿古――」

 直昌が再び呼んだ。すると、今まで閉じていた阿古の目が開いたではないか。同時に頬に緩やかな笑みが浮かんできたのだ。

「オイ、生きているではないか」

 直昌の呼びかけで駆けつけた外記も阿古の方の顔を見た。

「えっー」と呻きを上げて直昌を見返した外記の顔にも驚喜が浮かんだ。

「早よう医師を呼べー」

 直昌の声に外記が脱兎の如く飛び出していった。

「阿古ー、死ぬでないぞ。ワシはお前がいないと戦うことなどできぬでのう」

 二人きりになって直昌は、布団をはねのけその阿古の方の体に縋り付いていた。なぜかその体が氷のように冷たい。衣類を通してさえその冷たさが直昌の手に伝わってくるのだ。

 直昌が思わずその体を抱き上げようとすると、阿古の唇が何かを言おうとしてかすかに動いた。だが、声が出ないのだ。

「なんじゃ、早く申せ」

「……うれしゅうございます。殿がどんなことをしてもわたくしの元に戻ってこられると信じておりました。さっき殿の魂が蛍となってわたくしの中に入ってくる夢を見ていたのでございます。これで死ねまする……」

「待て、阿古――」

 直昌の声を拒むかのように首を振る阿古の目尻から涙が一筋流れ落ちた。そして、あとはもう目を閉じ二度と直昌の呼び掛けに答えることはなかったのだ。今度こそ身罷ったとしか考えられず、直昌が外記を呼び戻しに奥座敷を離れたときである。

「あーっ、奥さまの姿がどこにも――」

 奥座敷から医師とともに馳せ参じた侍女たちの声が聞こえてきた。そのうち女たちの声が泣き叫ぶ声に変わり、「賊やも……」との声も混じった。

 いったい何が起こったというのだ。直昌もあわてて奥座敷に駆け戻った。

「殿、お方さまの姿がなくなっているのでございます。それに、ここにこのようなものが……」

 外記がさっきまで阿古が寝ていた掛け布団の下から、一通の書状を取り出して差し出してきた。

「殿に当てたお方さまの書状にござりまする」

 書状の表書きは田丸直昌殿となっている。直昌はそれを受け取ると周りにいた者を部屋から追い出し一人になってそれを読んだ。

 ――戦いの世は狂気です。それでも人はそれに染まって生きるしかないもの。ときが来れば迎えに参りますゆえ、それまではただ美しく生きられよ。

 読み終えてから闇に包まれた奥座敷の外に目をやると、庭の木に留まった蛍が一匹直昌に別れを告げるように大きく円を描いて夜の奥へ飛び去っていった。阿古の言う生きる美しさとは、蛍の乱舞のような無条件の美しさである。直昌の心の中がすべてが消し去られた空洞のようになっていた。今はただ阿古の言うよう狂気に染まって生きるしかない。

「阿古は死んだ。もう決して捜すでないぞ」

 直昌は留守を守らせていた小津外記を呼んでそう言うと、その足で長島の戦場に取って返した。田丸主水以外、信長には勿論家臣の誰一人にも気取られぬ行動だった。

 直昌から人の命への拘りや情が消えたのはそれ以降である。ある意味人間味を捨てた本当の戦国武将になれたのかも知れない。


 長島の大鳥居砦では籠城する門徒衆の飢餓状態が頂点に達していた。ついには来襲した台風の風雨に紛れて何度も脱出を試みてきた。だが、信長はこれをも一切許さず城内にいた老人子供にいたる千人余りをことごとく斬り殺せと命じてきたのだ。田丸直昌は諾々とそれに従った。

 長島成敗の後片付けに田丸直昌を初めとする旧北畠家の武将たちが命じられたのは、信長の忠誠心を試す瀬踏みだったに違いない。その戦後処理に情け容赦のない采配を振るった直昌は、結果的には信長から信任を得る初めての戦果を作ったことになる。

 いずれにしろこの合戦以降田丸直昌の戦いぶりが変わった。それが信長から信任を得たことによるものか、阿古の方の死によるものかは分からなかったが、戦国大名としての勝ちに拘る残忍な勇猛さが増したのである。

 奇しくもときを同じゅうして信長は、その年(元亀六年)の十一月に北畠家臣団の再編成を行っている。そして、田丸城を石垣作りの本格的な城郭に大改修し、北畠国司家の家督を継いだ次男の信雄に居城させたのである。

 それまでいた田丸直昌は一之瀬城に移り父・具忠と同居し、その知行も田丸の一部と度会、それに旧愛洲氏が領していた南島、南勢のすべてに加増された。大がかりな出世である。よほど信長の意にかなったとしか言いようがない。いや、染まったのである。


 天正四年(一五七六年)夏、三瀬御所に隠居して信長の施政を快く思っていなかった北畠の大御所具教は、甲斐の武田信玄の西上作戦に呼応して謀反する密約を交わしたのだ。

 それが信長の知るところとなり、信長は田丸城にいた信雄に三瀬御所父子と坂内御所父子を討ち取ることを命じてきた。だが信雄はこの機に乗じて大河内と田丸御所をも加え、北畠一族を根絶やしにすることを図ったのである。

 信雄のその謀略は同年十一月二十五日に一挙に実施されることになる。

 三瀬御所に向かわす討手の藤方朝成・長野左京進・奥山知忠には領地の朱印を与えて誓紙を書かせ、そのうえで三瀬御所を密かに滝川雄利・柘植保重・加留左京進の軍勢で包囲させたのである。そして内通させていた近習・佐々木四郎左右衛門の手引きで長野左京進がいきなり北畠具教に槍を突き立てたのだ。

 具教は塚原卜伝より奥義の一の太刀を伝授されている剣豪である。怯むことなくこれを交わして太刀を抜こうとした。だが、前もって佐々木四郎左右衛門に封印された太刀は抜くことが出来ない。「おのれー」と四郎左右衛門を睨みながら討ち果たされたのである。あとは三瀬御所を包囲していた軍勢が大挙して討ち入り、具教の二人の子や家臣十四名を殺害し、三十人余がこれに殉じたのである。

 一方信雄の居城する田丸城では長野具藤(具教の次男)・北畠親成(具教の三男)・坂内具義(具教の娘婿)が朝の饗応と称して招き入れられ、信雄の鳴らす鐘を合図に、土方勘兵衛・津川源三郎・日置大膳亮などにより一挙に葬り去られたのである。

 坂内御所の北畠具信はちょうど病のため田丸城下の宿所に来ていたときで、病気を見舞うと偽った池尻平九右衛門尉と天野佐々衛門尉により刺し殺された。

 そんな中で大御所の嫡男で信雄の義父になる北畠具房だけは、田丸城の一室に押し込められただけで命を助けられたのだ。具房が「大腹御所」と揶揄されるほど肥って愚鈍であったからである。

 この殺戮が行われているとき田丸具忠・直昌父子は一之瀬城にあった。

 放っていた物見の者から大御所・具教の殺害を初め、北畠一族の謀殺の知らせが次々と入ってくる。それはいずれも北畠家の旧臣たちに手を掛けられての惨殺だった。

「先ほど坂内殿も討たれたそうじゃ。これでは一族ことごとくの謀殺じゃぞ。女どもが動揺しているわ」

 具足姿のまま物見台に張り付いている直昌に、父の具忠が館から出てきて声を掛けた。直昌は無言でうなずき唇を噛みしめた。阿古の方が死んでからは内向きのことは隠居した具忠が取り仕切っていた。

「しかも、郎党に謀れて首を差し出されたそうじゃぞ」

「ええ……」

 直昌はそれでもなお信雄のいる田丸城の方角から目を離さずにいた。

「坂内殿も無残よのう、田丸の城下に労咳の治療に来ていたと聞くが……」

「無理もございませぬ。織田の戦いは狂気でございますゆえ、旧臣たちも染まらざるを得ないのです」

「そなたいつからそのような考えを……。とにかく防備を固めねばならん。残るのは我々田丸だけじゃからのう」

 直昌は大御所殺害の知らせが入る前に、すでに田丸から度会へ入る宮川右岸の五里山に、鉄砲隊を配備して信雄軍の来襲に備えていた。常に放ってある間者から信雄の動きをつぶさに入れていたのである。

 五ヶ所浦の水軍を配下にしてからは堺との交易を深め、鉄砲の数は北畠一族では並びないものとなっていた。

「そのうち田曽の鉄砲隊も参るであろうからのう」

 具忠が南東に位置する田曽浦の方向をながめて言葉を継いだ。五ヶ所湾を隔ててある田曽からは途中に能見坂峠の険路がある。荷駄の進行がどうしても遅れる。だが、田曽の鉄砲隊は勢州で随一を誇っていた。

「田曽の者は市兵衛に任せ、ここ一之瀬の脇出に詰めさせるつもりでございます」

 早死した兄・具勝の子の市兵衛は、当時二十八歳で田丸随一の剛の者になっていた。

 一之瀬城は西側に獅子ヶ岳、東に牛草山、南に能見坂が取り囲む天然の要害である。一之瀬への導入路にある脇出山に鉄砲隊を詰めれば、万が一五里山の防備を突破されても滅多に落ちるものではなかった。鉄砲隊の総指揮は直臣の田丸主水に担わせていた。

「相変わらず抜かりがないのう」

 具忠が安堵したように体を返すとそのまま館に帰っていった。

 田曽衆が能見坂峠から一之瀬に到着したのはそれから間もなくである。一之瀬城の周囲には柵が幾重にも組まれ兵が充満した。

 信雄が一之瀬に使者を使わしてきたのはそれから三日後である。たぶん入念に一之瀬城の防備を査察した後に違いない。

「いかなる御所存かこの堅固な防備は……。信長さまはあの長島攻め以来中務殿をことのほか信頼してござるのですぞ。早よう防備を解いて信雄さまに謁見されよ」

 使者は信雄の最も信頼する天野佐々衛門慰だった。

「いや、北畠家に連なるものすべてが謀られて討たれたと聞くぞ」

 直昌は天野を平伏させたままで言った。

「ならば()(ども)がここに残ろう。それなら良かろう。中務殿は今すぐ田丸の城に参られよ」

 天野はその証しとして信雄から預かった刀一振りを差し出してきた。信長の田丸の戦力を恐れての慰撫だったが、直昌としても応ぜざるを得なかった。当時の信長の力はあまりにも強大だったからである。

 このときの直昌の頭には長島攻めの最中に一之瀬に戻ったときの、「どうせ戦いの世は狂気で、それに染まって生きるしかない」という阿古の方の言葉が甦っていた。

 信長のこの謀略で北畠一族の十二人がことごとく殺され、伊勢国司北畠家九代の繁栄が一挙に滅亡させられたことになる。ただ、田丸一家だけが残された。


              ※


 このあとの田丸直昌は織田信雄に従って、むしろ生き残った北畠譜代の家臣たちの反乱を押さえる役目を果たすことになるのである。

 天正五年(一五七七年)にはそれまで奈良の興福寺にいた大御所の弟・北畠具親が家臣団に担がれて叛乱した。直昌はそれを信雄の命を受けて鎮圧するのである。そして、天正八年(一五八〇年)に田丸城が家来により炎上させられると、信雄は伊勢湾に近い松ヶ島城に居城を移し、田丸直昌に一之瀬城から南伊勢全般の奉行を担わせたのである。それほど信雄の直昌への信頼は増していたといえる。

 ところが、天正十年(一五八二年)の本能寺の変で織田信長が自刃すると、今度は山崎の合戦で謀反人の明智光秀を討った羽柴秀吉が頭角を現してきた。だが、それを心よしとしない織田信雄は秀吉と対立するのである。

 信雄が徳川家康と組んで秀吉と対峙したとき、田丸直昌は信雄を見限り蒲生氏郷とともに秀吉側についた。そして信雄の松ヶ島城を志摩の九鬼義隆とともに愛洲氏から引き継いだ水軍を擁して海上から封鎖したのである。それは誰の目にも勝ち戦の機運に乗じた小賢しい戦術に取れた。そのときの直昌はまさに信長から学んだ乱世の狂気にどっぷりと染まっていたのである。


 ――今度は其許之儀ニ付て御馳走之旨聞届申候の松ヶ島取巻之事おおかた書状以申おのおの相談候間塀柵付一人も不尓様可被仰付候船手之儀九鬼其方批人数以船を寄これを柵もかりを結わせて不尓様ニ可被仰付灵惣惣謹言

                羽柴 秀吉(花押)

  申し刻

    三月十七日

     田丸殿    御宿所


 陸は塀や柵をめぐらせて一人も逃げないようにして、海上は九鬼と田丸で水軍の舟を寄せ、柵を結んで一人も逃げないようにせよとの秀吉の命令である。

 ただ冒頭の「今度は其許之儀ニ付て御馳走之旨聞届申候」の文言にある「其許之儀」とは田丸直昌の田丸城復帰の願いであり、その願いを承知したとのことである。

 天正十二年(一五八四年)秀吉は蒲生氏郷に南伊勢を合わせた十二万石で松ヶ島城を与え、田丸中務小輔直昌に度会の一万五千石を与えて田丸城に復帰させている。田丸直昌はここで北畠傘下の一豪族から秀吉傘下の大名となったのである。

 直昌が田丸城に復帰して間もない頃、秀吉から内々の使者が来た。使者は石田三成だった。これが直昌と三成が昵懇になる最初の出会いだった。

「秀吉さまは中務殿と蒲生氏郷氏の妹君志乃さまとの婚儀を願っておいでです」

 まだ若い三成がよどみなく切り出した。物怖じ一つない口ぶりだった。

「いや、拙者はもう四十三ですぞ。二十九才の氏郷殿の妹君なら、まだ二十代半ばではござらぬか。その姫には余りにも無体な……」

「もとより秀吉さまも氏郷さまも承知の上でござる。実は、秀吉様はこれより天下統一の総仕上げをなさるおつもりで、そのために奥州の押さえを氏郷様に仰せ付けになるおつもりなのでございます」

「けれど、それがしには……」

 直昌は言い掛けた阿古との約束を思わずのど元に飲み込んだ。三成は少々生意気だが秀吉の信頼の厚い実直な男である。

 ――ここはうかつには返事が出来ぬ。と、直昌は平伏したままで考えた。

 蒲生氏郷はすでに秀吉傘下の十二万石の大名である。それが奥州方面司令官となれば会津九十二万石の太守となる。その任はまだ恭順が心許ない伊達政宗の監視と徳川家康を背後から牽制する重要な役目で、氏郷との縁組みはその配下となって奥州に出向くことを意味していた。

 だが、秀吉の申し出で氏郷が承知しているならば絶対に断るわけにはいけない。それが乱世の習いである。阿古の方の死に様が今も忘れられず独り身を通してきた直昌に、「戦いの世は狂気で、それでも人はそれに染まって生きるしかない」と言ったそのときの阿古の言葉が甦った。

 阿古はあのときすでにこのことを予測していたということか……。直昌はのど元に突きかけた断りの言葉を強引に腹底に押し戻した。

「分かり申した。この上なき申し出、仰せのままにお受けいたしまする」

 直昌は畳に額を擦りつけんばかりに平伏して答えた。直昌はこのとき乱世の習いに染まってただ政略結婚に加担する以外何ごとも考えてはいなかった。

 だが、輿入れをしてきた志乃の姿を見て直昌は目を疑った。阿古と瓜二つに思えるほど美しかったのである。そういえば蒲生氏郷はかって信長に寵愛された美童である。その妹御なら然もあろう。しかも直昌とは二十三も離れた若さなのだ。直昌は一目でその容色の虜になっていた。

 前年に秀吉の勧めで氏郷の姉を娶っている亀山城主の関一政もまさに同様の心持ちだったに違いない。三十才の関一政も田丸直昌同様旧北畠傘下の武将だった。この意味で秀吉は色香を用いる籠絡の名手だったと言える。

 このあと蒲生氏郷姉妹の婿となった関と田丸は、会津黒川城に転封となった氏郷ともに関一政が白河城主に田丸直昌が須賀川城主に転封された。小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が、天下統一の最後の仕上げとした奥州仕置きの布陣のためである。

 このときの田丸直昌の知行は三万石である。なお、これまで共に戦って来た父・田丸具忠はこの須賀川の地で没している。享年七十七才だった。

 秀吉は蒲生氏郷と田丸直昌と関一政の三人で、蒲生氏郷を中心とした三位一体の関係を作ろうとしたに違いない。蒲生を奥州の要である会津に置き、関と田丸を奥州の玄関口である奥州街道の要衝・白川と須賀川に配し、この婚戚関係で結ばれた三人で南部の()(のへ)征伐を行なおうとしたのである。

 その意味で若く美貌の妻に魅せられた田丸直昌と関一政が、いかにこの九戸の乱に渾身の力を注いだかが想像できる。たくみな秀吉の采配といえた。

 それまで直昌の心を染め抜いていた阿古の気品や情は、その志乃の若さと美貌の前に完全に染め変えられたかに見えた。


                ※


 天正一九年(一五九一年)奥州の()(のへ)政実(まさざね)が南部家当主南部信直に叛乱を起こしたのを機に、秀吉による奥州再仕置きが行われた。これが「九戸の乱」だ。

 南部信道は反乱を治めることが出来ずに豊臣秀吉に出兵を求めたのである。秀吉は豊臣秀長を総大将に徳川家康を補佐役にして、浅野長政、井伊直政、蒲生氏郷の援軍を出兵させた。田丸直昌と関一政もこの豊臣軍の主力を担った蒲生軍の与力として出陣したのである。

 九戸城は三方を馬淵川・白鳥川・猿渕川とに囲まれた天然の要害だった。蒲生軍が九戸の手前の一戸に着いたのは八月の下旬で、すぐに付近の姉帯城と根曽利城を包囲し、蒲生氏郷自身は九戸城の正面に当たる南側に布陣した。

 蒲生軍十三手の三番手にあった田丸直昌が命じられたのは近くにある利曽根城の攻略である。丘陵に建つ小城だったが、山稜がすぐそばにまで迫ったうえに城兵の守りが堅い攻め辛い城だった。

 利曽根城の戦いは九月一日の朝の五ツ(八時)より始められたが、翌日の夕刻の暮れ六ツ(六時)になっても一向に落ちる気配がなかった。城兵は元々が音に聞こえた南部氏の精鋭で士気も高く、攻め手がことごとく突き崩されてくるのだ。

 山一つ隔てた九戸城で攻略に当たっている蒲生氏郷の主力軍からも、しきりに早期討伐して加勢するよう催促が来ている。こちらも攻略に手こずっている様子だった。直昌は利曽根城の正面に対峙した丘陵の陣幕で、じりじりとして戦況好転の知らせを待っていた。ようやくそこへ出していた物見の者が帰ってきた。

「殿、田丸市兵衛さまが城中に打ちかかった模様です。それもたった一人ででございます」

 田丸家の嫡流・具勝の子の市兵衛は、次の田丸の領主となるかも知れない、名にし負う武勇の持ち主である。物見の者の口調も自ずと慇懃なものになっていた。

「何ー、市兵衛が一人でか……」

 直昌は絶句したまま、――やはりか。との思いを押し殺して、昨夜の軍議で交わした市兵衛との会話を思い返した。


 軍議が行き詰まって時間だけが刻々と過ぎていた。

「明日の動静次第では田丸をそなたに任せねばならんかも知れんのう。ワシももう歳だし」

 直昌は横にいた市兵衛にそっと耳打ちしたものだ。

 利曽根城の攻防が膠着状態となって活路が見いだせず、軍議の席でもはかばかしい意見が出ずにいたときである。すぐそばに直昌の嫡男の直茂も同席していた。

 領主を直系筋の市兵衛に戻すことは死んだ父・具忠との約束でもある。ただ、直昌には前妻阿古の方との子の直茂と、蒲生氏郷の妹・志乃の方の子の直綱と直貞もいた。実のところ直昌は志乃の方と結婚して以来、田丸城の跡目を誰にするか迷っていたのである。跡目に執着する志乃の方にほだされ、直綱と直貞に情が移っていたというのが本音である。

 いくぶん睡眠不足にも陥っていたこともある。歳とともに眠れなくなり気が立つことが多くなって、耳打ちしたはずの声がつい大きくなった。

 市兵衛は道理をわきまえた恩義に熱い人柄である。下を向いたままで何も答えようとはしなかった。このとき直昌の心には市兵衛なら命がけで何かをやるだろうとの思いが確かにあった。横で直茂が直昌の顔を睨み付けていたが、こちらも無言だった。無言だっただけによけい険が目立った。

 それまで淀んでいた陣幕の空気が一気に刺々しさを加え、直昌はこれはまずいと思った。

「ハハ、それだけ明日の戦はこの田丸家にとっては大事じゃと言うことじゃ」

 直昌は高笑いをして話をそらしたが、己の心の狡猾さを如実に感じた。知らぬうちに志乃の方の情に、どっぷりと染まっていたのだ。こんなはずではないとの思いが湧いた。

 直茂がまだ直昌の顔を睨み付けている。直茂の顔にはどこかに阿古の方の面影がある。

 そう言えば志乃を娶って以来阿古の方への思いがすっかり遠のいていた。不意に、「乱世という狂気の中では、人はそれに染まって生きるしかなく、ときが来れば迎えにくるゆえただ美しく生きられよ」と、言い残した阿古の言葉が甦ってきた。

 ――いや、忘れていたのではないのだぞ。この志乃への情もただ阿古の身代わりに過ぎないのだ。直昌は心の中でそう叫んで直茂の顔から視線をそらした。

 その直後のことだった。田丸の陣屋に蒲生氏郷から三たびの使者が来たのだ。

『何を手ぬるいことをしてござる。秀吉様はこの戦いで田丸殿を試されているのですぞ』

 使者の厳しい口上が直昌を責め立てた。そう言えばその知らせを受けたときにも、そばに田丸市兵衛が控えていたのだ。


「いかん。市兵衛は死ぬ気だぞ。死なせてはならぬ。続け――」

 直昌はそう言うと同時に陣を飛び出し、先頭を切って馬で山麓を駆け下り、十町ほどある畷を一気に利曽根城の城門まで突っ込んでいった。そのあとへ遅れじと数十騎の手勢が続き、間を置かずに数百の兵が城門に向けてなだれ込んでいった。


 その半刻前に田丸市兵衛は、たった一人で縄ばしごを使って利曽根城の城内に潜入していたのである。城兵がちょうど夕餉の交代を摂っていたときで、城門の(かんぬき)を破壊して長槍を構えて怒鳴った市兵衛に城兵は度肝を抜かれた。

「我こそは田丸直昌が家臣、田丸市兵衛なるぞ。我と思わん者は掛かってこい――」

「何っ――」

 と、とっさに頬張っていた握り飯をその場に吐き捨てた二、三人が槍を構えて突っ込んだが、即座に槍が空中に撥ね飛ばされ逆に胸板をぶち抜かれていた。

「ギャー」

 悲鳴が走り、続いて飛び掛かった二、三人も、大車輪のごとく振り回す市兵衛の長槍に苦もなくなぎ倒されていた。どれもが深手を負い身動きできぬ状態になっている。

 周りにいた雑兵がバラバラと市兵衛の周りを取り囲んだが、振り回す長槍の威力に近寄ることすら出来ない。にらみ合ったまま時間だけがいたずらに過ぎ、そんな攻防がどれほど続いたか、

「鉄砲じゃ、鉄砲を持てー」

 ついに誰かが叫んで、後方にいた数人の武者が前に出てきて、立て膝に鉄砲を構えたのだ。

「撃てー」

 四丁の銃口が一斉に火を噴き、市兵衛の体から血飛沫がどっと噴き上がった。

「田丸家は無敵なるぞー」

 市兵衛はそう言うとガクと膝を折って前に崩れ落ちた。

 ――一族田丸市兵衛と云者。城中エ掛入。テキアマタ打取。多勢の中に取籠ラル。ヒルイナキ働キシテ。名ヲ打死ノ跡ニ留ム。

 と、九戸の乱での田丸勢の業績を南部地方の古書はこう伝えている。


 田丸直昌が利曽根城の門の中に討ち入ったのはその直後だったのだ。

 城兵がちょうど田丸市兵衛を取り押さえて一息ついたときで、気を緩ませた一瞬の間合いだった。城門はすでに市兵衛によって打ち開けられている。不意を突かれた城兵が直昌の率いた田丸の手勢に一気に突き崩される格好になった。

 そして外曲輪(土塁の壕)にあった出丸を取り囲んで動きを封じた田丸勢は、北壕に材木を打ち掛けて渡り、さらに内壕に木材をぶち込んで一気に本丸に討ち入ったのだ。

 壕さえ潰せば鉄砲の数や精度では問題にならない。田丸勢は雪崩を打って一気に利曽根城を制圧したのである。暮れの六つ半(七時)の時刻だった。

 すべてが単独突入した田丸市兵衛の手柄だったといえる。直昌はその足で手勢を山越えさせて九戸城に向け、翌九月三日には蒲生勢が主力となっている九戸包囲に加わっている。

 九戸方は利曽根城が落ちたことで、全支城の兵力を捨てさせ九戸城に集結させて立て籠もらせた。利曽根城がいかに要の城であったかが分かる。


 九戸城が落城したのは天正十九年(一五九一年)九月四日である。田丸直昌が利曽根城を陥落させたことで九戸方の志気が一気に萎え、浅野長政の立てた長興寺の和尚の「開城すれば助命する」との説得を聞き入れ降伏したのである。

 しかし、この助命の約束は秀吉によって反故にされた。そして総大将の九戸実親はじめ城内にいた女子供のことごとくまでが、二の丸に押し込められて撫で切りにされたのである。そのときの二の丸に掛けられた火が三日三晩夜空を焦がしたと言い伝えられている。

 田丸直昌はこのとき蒲生勢の傘下として、九戸城の二の丸を囲む最前線に陣していた。

「それでは約束と違うではないか」

 直昌は「これから二の丸に入って一人も逃さず切り捨てよ」と命じてきた蒲生氏郷からの使者に声を荒らげた。開城すれば助命するとの約束は、すでに九戸全体の百姓などにも「還往令」として立て札で示している。人としての信義に関わるものだった。

 とっさに直昌の頭に信長による長島大鳥居砦での殺戮のことが頭をよぎった。

「これは秀吉さまの命にございます」

「うむ……、やはりのう……」

 近頃の秀吉はこれまでとは打って変わって、信長が乗り移ったのかとも思えるほど残酷な策を取ってくる。策動や恐怖で人の心が動かせるはずがないものを……。

 直昌はそれだけ言うと使者をその場に待たせて無言で陣幕を出た。

 ――何かが違う。

 直昌はそのとき甥の田丸市兵衛を死なせた己の心の卑しさにうちひしがれていたのである。利曽根城の城内で多勢に取り囲まれ、四方八方から槍を突き立てられたうえ、最後には鉄砲で撃ち殺されるまで戦った市兵衛の気概は、すべて田丸家の名誉を守るためであり、引いては秀吉の天下統一の大義を引き立てるものではなかったか。いや、ひょっとすると直昌の卑しい心を見抜いての戒めであったのかも知れない……。己を含め周りのすべてが狂気に染まっているとしか思えなくなっていた。

 こんなとき田丸主水がいれば心情を吐露できたのに、あいにく手こずった利曽根城の後始末に引き返させていた。

 陣幕の外も生ぬるい風が吹いていた。迷って混乱し出した直昌の頭に、ふと出陣前に須賀川城でした志乃の言葉がよぎった。

 ――このたびの秀吉さまの奥州再仕置きは、兄・氏郷の命運が掛かった合戦でございます。殿にも何としても御武勲を立てていただかねばなりませぬ。

 神前に打鮑・勝栗・昆布を供えた志乃が、眉を曇らせて直昌を睨んでいた。身震いを覚えるほど美しい目だった。氏郷兄妹の結束は堅い。田丸家と関家に嫁いだ姉妹も何かと言うと蒲生家を立てた。その意味で秀吉の婚姻策は見事に功を奏していたと言えるのだ。

 ふと尿意を感じて小用を足した直昌の足元で蛇が一匹逃げ出すのを見て、「どうせ戦いの世は狂気。人はそれに染まるしかないもの」との阿古の言葉を思い起こし、また行き詰まった迷いをその中に押し包んだ。

 そのときもまだ直昌の心は志乃の美しさに翻弄されていたのである。志乃の悦ぶときの顔がすべての迷いを押し流していた。

「やむをえん。これより城に討ち入って一人残らず切り捨てるぞ」

 直昌は陣幕の中に取って返すと、控えていた武将たちにそう命じ、自らも城内でその一部始終を見届けるために出馬したのである。

 九戸城の二の丸は一方が本丸と通じている以外は、土塁と柵で囲まれた高台になっている。下は深い壕で大手門から攻め上げると逃げ場はなかった。

 そこに押し込められていた九戸勢は(おんな)子どもを含めて百五十人はいる。助命の嘆願が聞き入れられると思っていただけに当然武装を解いていた。言わば無防備に近い状態の中に田丸勢を中心とした蒲生軍がなだれ込んだのである。

 悲鳴を上げて逃げ惑う者、地面にひれ伏し許しを懇願する者、あきらめて立ち向かってくる者。蒲生軍がそれらのすべての者を撫で切りにするのに一刻とは掛からなかった。

 戦いを終えて二の丸を引き上げてきた田丸勢の兵からは、言葉が一切出なかったという。最後までその場を離れず見届けた田丸直昌は、その間心の中でずっとこう叫び続けていた。

 ――どうせ戦いの世は狂気。人はそれに染まるしかないもの。

 直昌が九戸城の城門を出たとき利曽根城から帰ってきた家老の主水と出合った。

「殿、よくお耐え下さりました。これで田丸も安泰でございます」

 主水はそう言って馬上にいる直昌に、平伏して涙を流した。

 田丸直昌が四十八才のときである。このときから直昌の顔貌が極端に変わった。頬がこけ鼻が尖り、目が座ってまるで猛禽類の鷲のような形相をしてきたのである。


              ※


 天正十九年(一五九一年)田丸直昌は九戸の乱の論功行賞で、豊臣秀吉により陸奥の須賀川城主三万石から同じ陸奥の守山城主五万五千石に移封されている。

 このあと文禄元年に行われた朝鮮出兵に際しては、秀吉から関東の留守居役を命じられている。四十八才という年齢のせいもあったかも知れぬがこれも秀吉の恩賞と言えた。誰にも染まり得た田丸直昌の実直さの一端が窺われる。

 ただ、蒲生氏郷が文禄四年(一五九五年)に死亡したときには、その相続をめぐって蒲生家に不和騒動が起り、田丸家は関家とともにその縁者としての責任を取らされている。田丸直昌は知行を信州の海津城四万石に減らされ、関一政も信州飯山城三万石に減封されたのだ。

 そして、豊臣秀吉が死亡した慶長三年(一五九八年)から二年後、ついに動き出した徳川家康が、田丸を美濃の岩村城四万石に関を美濃多良城三万石に移封したのである。

 家康が天下の覇権を狙った最初の行動だった。

 家康はその移封を外向きには田丸直昌と関一政への九戸の乱でも恩賞としたが、内輪には「伊賀越えの危機を助力した謝意」とした。だが、実際は五大老の筆頭である家康が、蒲生家より出ている婚籍関係を利用しての画策である。要するに、豊臣方との決戦を画していた家康は、その西征の途上にある東海道と中山道に、家康に味方しうると思われる田丸家と関家を配することで戦略の要にしようとしたのである。

 伊賀越えの危機というのは、天正十年の本能寺の変で堺にいた家康が三河に逃げ帰るとき、一行が柘植峠で数百名の何者かに行く手を遮られた危機のことである。おそらくは明智方の落ち武者狩りの野伏たちだっただろう。伊勢湾の白子浦まで一里のところだった。

 家康の手勢は数十名しかいなく、山陰に止まったまま身動きが出来ずじりじりしていた。そのとき助けたのが田丸と関だった。

 関一政はこの辺りが旧領地である。田丸直昌は五カ所浦の愛洲氏を滅ぼして以来、その配下の北村一族と南部海岸の水軍を一手に治め、鳥羽の九鬼と並ぶ水軍の雄となっていた。おそらくその水軍を回してきたに違いない。家康はこのとき九死に一生を得たように悦んだという。

 天下分け目の合戦となる関ヶ原の役は、家康がその伊賀越えの助力の恩賞に田丸直昌を美濃の東南部の岩村城に、関一政を西南部の多良城に移封してわずか六ヶ月後に起こったのである。

 家康としては小山評定でこの田丸直昌が離反するとは思ってもみないことだった。


               ※


 岩村城は木曽山脈の懐の、北と東と南が連なった山々に抱かれた高原盆地の中にある。西だけに平野が広がっていた。

 道は東が中馬街道によって奥三河と通じ、北は中山道によって恵那地方に、西は明智から三河地方に通じている交通の要衝でもある。

 田丸直昌が家康の開いた小山評定から岩村に戻った時期は夏で、本丸の木立からは蝉時雨がうなり声を上げて降っていた。

「で、どうされなさるつもりか」

 具足から平服に着替え、後は途方に暮れたようにその蝉時雨を聞き入っていた直昌に主水が聞いた。

「何のことじゃ」

「内府殿との合戦のことにございます。内府殿の本当のお気持ちはどうあれ、殿が小山で背反してきた以上、城を固めてさらには隣国を押さえ込まねばなりませぬ」

 暑い盛りである。いくら高地の岩村といえども汗が肌にしみ出してくる。主水は気概の高揚もあってか、片肌を脱ぎ出すように身構えて言った。

「うむ……。じゃが、いかにしても内府殿に勝てるはずなどないぞ……」

「では、なぜ離反などしてお帰りになったのです」

「だから、それはさっきも言ったではないか、蛍じゃよ。阿古が迎えに来たんじゃ」

「解せませぬ。わたくしには何としても解せませぬ……。もうあの酷いなさりようの信長さまも秀吉さまもこの世にはいないものを……」

 主水は目を畳に落としてゆっくりと首を左右に振り続けた。

「内府殿とて同じよ。しょせん人とはそう言ったものなんだ」

 直昌の心の中にはぽっかりと空洞が出来ていた。それが何によってであるかは自分でも分からなかったが、九戸の乱以来その空洞がどんどん大きさを増していたのは確かである。あのときの二の丸での「撫で切り」は、秀吉の命に従ったというより、直昌が志乃への思慕のために自ら染まったとしか言いようがない。その深層を探れば探るほど己の卑劣さにたどり着く。そう思うと心が凍る思いがして現実から逃れたかった。

「ワシはなあ、これまで知らぬ間にこの乱世の暴挙に染まっていたように思うんじゃよ」

「分かっておりまする……」

「当初の阿古の言う美しさが、いつの間にか志乃の強さにすり替わっていたわ。乱世の強さとは詰まるところ姑息さじゃからのう……」

「御意、しかし、そのおかげで田丸家はここまで来られたのですぞ」

「じゃが、何かが違うんだ。強さとはワシにはあまりにも酷いことじゃ。どうしても染まりきれぬわ。早う市兵衛に家督を譲っとくべきじゃった。あれほど清く強い男はなかったでのう」

「九戸の乱のことを言っておられるのでございますな。しかし、戦さとは善し悪しではなく勝つ方に回って生き残らねばならぬものでございますぞ。それには市兵衛さまでは保ちませんだ」

「うむ……」

 直昌は言葉を詰まらせ、小山に入る直前に来た人質となっている志乃よりの密使の言葉を思い出した。

『何があってもわたくしどものことにはお構い申されるな。命を賭して誰よりも先に内府さまに御味方されますように』とのことにございます。密使は志乃の下女だった。

 大坂城内でもすでに三成の挙兵が取りざたされいたのである。

 ――やはり志乃の求める強さはワシではなく市兵衛の方じゃったぞ。と、言おうとした直昌の声が、寸前に主水の言葉で遮られていた。

「内府殿の胸中を探るためにも、ここは一旦どちらの側にも属していない土岐の妻木城を攻めてみることです。そこで内府殿が援軍を送るようなら早々に手を引きましょう」

「……その方に任す。ワシはもう志乃の強さには染まりきれぬわ」

 岩村城の田丸直昌が隣接する土岐の妻木城に兵を出したのは八月二十日である。それも模様眺めの小規模のものだった。

 徳川家康が関ヶ原に向かうために江戸城を立ったのは九月一日で、それを合図にして土岐周辺の大名はこぞって家康方に回り、時を移さず岩村城の出城であった高山城が落とされた。田丸直昌が参戦に手をこまねいていた寸暇の出来事だった。

 これで田丸直昌は完全に徳川方を敵に回したのである。そのうち関ヶ原での西軍の敗戦が知らされてきた。

「殿、こうなったらもう内府殿に詫びを入れ、この岩村城を明け渡すしかございませぬぞ」

 主水がそう言ったが、そのときはもう岩村城は完全に東軍の兵に取り囲まれていて、手の施しようがなかったのだ。

「内府殿が受け入れてくれようとは思わぬが、まあよいわ……」

 家康が江戸城を立って以来、直昌自身は岩村城に籠もったまま一切動こうとしなかったのである。これまでの戦術に長けた直昌の戦いぶりからは理解しがたい行動だった。それはある意味家康に恭順を示す最低限の意思表示だったと見えなくもなかった。

 直昌はそのあと徳川家康に詫び状を送りその命を待った。

 十月十日家康が田丸直昌に命じてきたのは、城明け渡しと伊勢朝熊への蟄居である。謀反を企てた者には寛大すぎる処置だった。家中の者誰もがいぶかったという。

 そのあと直昌は剃髪し朝熊の金剛証寺に身を隠して法号林鐘と称したのである。

 朝熊は伊勢と志摩を分ける山嶺にあり一之瀬とも近い。この朝熊蟄居は直昌のたっての願いであり、しかも家康が兵糧までを付与しての処置だったのだ。

 このとき家老の田丸主水は、直昌がやはり家康の人柄を見誤ったと悔やんだという。

 ――これでやっと一之瀬の蛍と一緒に過ごせるようになったわ。

 田丸直昌が岩村城を出るとき主水に残した最後の言葉であった。未練の言葉は一切ないたった一人での出立だった。直昌の顔が猛禽類の鷲から鳩のような柔和な表情になっていたという。


               ※


 田丸直昌が朝熊の金剛証寺に蟄居して半年が過ぎようとしていた。

 金剛証寺は伊勢神宮の鬼門を守る寺として、昔より神宮の奥の院と呼ばれている密教修行の一大道場である。

 標高が五百五十五メートルある近辺随一の山で、山頂へ通じる道はみな険路だった。

 直昌が修行と称して夜な夜なその道を徘徊するようになったのは四月の終わり頃である。供の者をつれずにたった一人での徘徊に、みんながいぶかって戒めたが直昌は一向に聞き入れようとはしなかった。

 六月初旬になると日も長くなる。暮れ六つ半(七時)近くになってもまだ明るかった。直昌はその頃になると山伏姿になって寺を出立するのである。

 当時五十八才になってはいたが直昌の足は驚くほどに早い。山門を出て尾根伝いに続く内宮への山道をまるで飛ぶように歩いた。

 内宮前に着く頃には日はとっぷりと暮れていたが、直昌はそのほとんど暗闇近くになった峻路を何の苦もなく進むのだ。少年の頃に父具忠に付き従って精進したという山伏の苦行が如実にうなずけた。

 内宮を過ぎるころになると道が少し平坦になり、道幅も広くなって五十鈴川沿いに登っていたが、そのうち急に右に折れ曲がると、また人が通れぬほどの峻路になった。山伏が修行する(しゆう)(れい)山への道なのだ。

 道幅が極端に狭まり行く手には雑木が幾重にも張り出している。直昌が体を進めるたびその枝が顔を打ったが、直昌に怯む様子は一切なかった。

 山頂近くにまで来ると、もう下草がすっかり消えて周りにはクヌギやトチの大木だけが林立している。そのうち行く手が小高い岡に立ちふさがれて道が左に折れ下っているところにきた。一之瀬へ続く竜ヶ峠に入ったのだ。

 直昌があっと悲鳴を上げてうずくまったのは、その坂道を一段駆け下ったときだった。

 そこには蛍が雲霞のごとく群がっていて、辺りをその光で燃え上がらせていたからだ。

 それまでずっと山道の暗闇続きだっただけに、一瞬直昌の目を眩ませたのだろう。

 立ち止まったままじっと目をこらしていた直昌の前で、その光の中から一人の女の影が浮かび上がってきた。

 女は白地に赤の花模様のある艶やかな衣装を纏っている。背筋がスーと伸びていて、歳は三十前後か、ただ長く伸ばした髪だけは白糸を垂らしたような白髪だった。

 直昌はあまりの意外さに身を凍り付かせて身動きが取れなくなっているようだ。

「待っておりました。さあ、こちらへ……」

 そのとき女が直昌の手を取って山の奥へと導いた。山の奥の蛍の輝きと闇との境目には山小屋らしきものが建っている。女と直昌がその中に消えると、蛍の群れも一緒になってその小屋の中へと流れ込んでいった。

 部屋の中は蛍の光で真昼のように明るかった。

 山伏姿をした直昌が部屋の中央に座っていて、さっきの女がその前に立っていた。それらがまるで物音を消した人形劇であるかのように身動き一つしない。

 女がいきなりその身に纏っていた衣装を脱いだのは、どのぐらいの時が経っていたのだろうか。とっさに眩いばかりの女の裸体が蛍の光の中に浮かび上がっていた。

「阿古……」

 直昌の上げた声と同時に女の体が直昌の膝の上に崩れ落ち、蛍がその二人の回りを渦巻くように群れ飛んだ。

「何だったんだろうなあ……、阿古と別れてからのワシの人生は、一瞬の夢であったかのごとく何ひとつ残っていないわ」

「人の一生とはそのようなものでございますよ。長くても短くても誰でもが一瞬のうちに過ぎ何もないものなのです」

「情けないことにワシは知らぬ間に、信長にも秀吉にも家康にも染まっていたわ」

「ええ、染まったればこそ生き残れたのです」

「だが、心の芯でどこか染まりきれぬものがあって、結局、内府殿までを見限っていたわ」

「それでいいのです。だからこそここに戻ってこられたのです。あのときわたくしが染まりなさいと言い残したのも、殿なら心の芯までは染まり切れぬと見越したからなのです」

「さあ、お入りなさい。今こそわたくしの中に」

 そう言って女が白く輝く膝を割った。直昌の体がかき消えたのはその一瞬の後である。

「ワシは長い間回り道をしてきたように思う。やっとたどり着けたわ」

 直昌の声だけがして、真っ白な女の太股に淡い光を放った蛍が一匹、膝頭を越えて奥へ奥へと這い上がっていた。

 周りを群れ飛ぶ蛍が女の体を炎のように燃え上がらせている。

「さあ、参りましょう。これより二人であの竜の舞う一之瀬に……」

 女の声がしてその体も群れ飛ぶ蛍の光の中に消えていた。

 山小屋の窓から二匹の蛍が飛び立ったのはそのすぐ後で、二匹の蛍は互いに体を絡み合わせながら南の空に向け飛んでいった。

 それからしばらくは朝熊の金剛証寺から田丸直昌の姿が消えていた。


 この地方の伝え話によると、その昔、朝熊と一之瀬を結ぶ深山路の竜ヶ峠に一軒のあばら屋があり、一人の老婆が棲んでいたという。女の髪は真っ白で身はやせ細っていたが、立ち振る舞いにはどこか近寄りがたいほどの気品を漂わてせいたらしい。そこを行き来する山賤(やまがつ) の話では、女は毎年六月の初めの頃になると蛍を引き連れるようにしてその小屋に姿を見せたという。

 その女が一時期まるで若返った乙女のような輝きを見せたことがあったらしい。そして、そのすぐあと姿を消しもう二度と現れることがなかったのだと言う。

 その時期が田丸直昌の朝熊金剛証寺蟄居と重なっていたかどうかは誰にも分からない。


                                     完

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ