中編
「お待たせ、ハルくん。お待ちかねのジョロキアのオイル漬けね」
常連の佐藤は顔なじみらしく、店員も親しげに話しかけてきた。八重樫にも愛想よく会釈して、次々と皿を並べていく。
「こちらのお兄さんは初めてかな? いっぱい召し上がってってくださいね。辛さは調整できますから、いつでも声かけてください」
はいこれ、唐辛子フォンデュ。チキンは揚げたて、万願寺の焼き浸しに、箸休めのピクルスはサービスね。
「おー、サンキュ。これこれ、たまんない」
ひとまずガチ真剣タイムは中断、とばかりに、佐藤は嬉しそうに歓声をあげた。
フォンデュ鍋にはトマトと唐辛子が加えられたチーズがオレンジ色にふつふつと湯気を立てる。
「男ふたりでチーズフォンデュってのも気恥ずかしいけど、この店の名物だからほとんどの客が頼むんだ。八重樫さんにも食わしたくってさ。バゲットが定番だけど、ベーコンが合うよ。ズッキーニもオススメ」
万願寺とうがらしは辛くないから、がっつりいっても大丈夫。うまいよ。
手慣れて取り皿やフォークを渡し、「はい、熱いうちに、食って食って」と、八重樫に勧めた。
八重樫の健啖ぶりはいつも通りだ。湯気の立つチーズソースをたっぷり絡めとって、大きなひと口で頬張る。いかにも「喰ってる」といった野生味があって、佐藤は、ひゅう、と口笛を吹きたくなった。
食ってるところが様になる男、ってのは、イイよな。
「見てると気持ちいいな。遠慮しないでくれて嬉しいよ」
嬉しそうにニコニコ笑った。
「辛い」
「うまい」
「熱い」
「でもうまい」
といった台詞のローテーションに、笑い声が重なる。
「なんで辛いもん食うと笑いたくなるんだろ」
「あんまり辛いと、どうしていいかわからなくなるんですよ。でも、止まらない」
「ヤバいよな。ビールも止まんねえ」
それから佐藤は、満を持して、といった風情でもったいぶりながら、
「これがジョロキアね。フライドチキンにつけて食うの、俺、好きなんだ」
小振りのガラス瓶を手にしてみせる。
中にはしなびた風船のような赤いものが、薄いオレンジ色のオイルに浸かっている。見た目はそれほど強烈なものではない。小さめのハサミが添えられていて、手にとってチョキチョキしてみせた。
「オイルだけでもアリだけど、実の方はこのハサミを瓶に突っ込んで刻んで使う。で、帰りに蓋くれて持って帰れるんだ。いっぺんに食べきるのは無理だからさ」
知ってる? 辛さは痛覚刺激なんだ。舌に「痛い」って感じるのが辛みなんだよ。
「へえ」
八重樫は佐藤のテンションに気圧されつつも、促されてジョロキアオイルの小瓶を手に取った。
おそるおそる覗きこんで、
「あれっ」
と、意外そうに目を見開いた。
「いい香りがする。唐辛子ってこんなに甘い香りがするんですね。フルーツみたいだ」
「だろ?!」
佐藤は嬉しそうに頷いた。目尻にくしゃっとしわをよせて、ニコニコ無邪気に笑う。
辛さばっかりに注目されるけど、唐辛子ってよく味わうと、この香りとか、甘みとか旨み、酸味なんかも感じられるものなんだ。
ジョロキアは、香りがよくて辛みが強く、最初からガツンとくる。そして、キレがいい。
「干した物はまた別の風味があるよ。もっと香ばしい」
唐辛子の種類によって、辛さの質も甘さも香りも異なるんだ。そこがおもしろい。
饒舌に語る佐藤に、八重樫は興味深く頷き、それから、楽しそうに、愉快そうに笑った。
「ハルは本当に、唐辛子が好きなんだな」
その言い方が、さっきとまったく同じ。
なんだか照れくさくて、困ったようにへにゃっ、と笑って返した。
「八重樫さんさ、さっきからずっと前園さんのことを「珠美さん」って呼んでるよね。ごく普通に、以前から呼びなれてるみたいに」
佐藤はジョロキアオイルの瓶にハサミを突っ込みながら、唐突に言った。
八重樫はなんとなく空気が改まったことを察し、居住まいを正す。
佐藤はそれには構わずに、瓶の中身をチョキチョキ刻みながら、世間話みたいになんでもない口調で続けた。
俺、ずっと彼女をそう呼びたかったんだけど、絶対許してくれなかった。同じ職場だから人目を気にして、ってことなんだろうけど、きっとそれだけじゃないよね。
彼女にとって名前呼びは「恋人の称号」なんじゃないかな。違う?
佐藤がちらりと目をやると、八重樫は一瞬驚いて目を見開き、それから、かすかに頷いた。
困ったように目をそらす。耳が赤いのは、辛さのせいでもアルコールのせいでもない。
頑ななほどに拒むのは、名前呼びが嫌だから、ではないんじゃないか。と、佐藤は察していた。
彼女にとって、「珠美」は特別な呼称。DarlingとかSweet HeartとかMy Preciousの意味を重ねる呼び名。ただひとりだけの、特別な誰かのための名前。
クールに見えて、すっげえロマンチストだ。なんて可愛らしい。
くすっ。と笑いをもらして、佐藤は続けた。
「八重樫さんだけだよ、そう呼べるのは。羨ましいな」
前園さんはね、職場ではびっくりするくらい以前と変わらないよ。もとから、潔癖なくらい仕事とプライベート切り離す人だから、まあ当然っちゃ当然なんだけどね。
俺に対しても、気まずくなったりしない。申し訳なさそうにされたらどうしようかと思ったけど、全然まったくそんなことなくって。
ごく普通に常温平温の仕事モード。完璧。鉄壁。
「で、それはさ。俺を信頼してくれてる、ってことなんだよな」
同僚として、たぶん、友人としても。
俺には、恋愛感情を持ってもらえなかった。でもそれは、それだけのことだよ。全人格を否定された訳じゃない。
むしろ、同僚・友人として尊重してくれてるからこそ、ちゃんと断ってくれたんだ。
「そして、八重樫さんにも紹介してくれた」
素直に嬉しいし、誇らしいよ。
佐藤はジョロキアを刻む手を止めて、まっすぐに八重樫を見た。
「俺さ、彼女が好きだったよ。本当に好きだった」
文末は過去形。
八重樫はその視線を逸らさずに、見つめ返す。挑まれる、というよりは、託されたように思った。
黙って静かに頷く。
佐藤はいつものようにへらりとチャラい笑みを浮かべた。
それから「うん」とか「あー」とか曖昧に唸って、マジメな話はこれでおしまい、とばかりに、声音を変えた。
「つーかさあ、八重樫さんも大概だよね。普通、自分の彼女に言い寄ってた男に呼び出されて、友好的に飯なんて食えないだろ。すっげー余裕じゃん。どんだけ懐デカいんだよ」
「……呼び出した方がいうことじゃないと思う」
佐藤の雰囲気の転調に戸惑いながらも、八重樫は言い返した。
「買いかぶり過ぎですよ。余裕なんかないし、内心、戦々恐々だ。ハルみたいないい男が珠美さんと同じ職場にいるんだから」
決戦に赴くような気持ちだったんだ、実際。
「決戦!?」
可笑しそうに笑う佐藤に、八重樫は苦い顔をした。
辛い料理に暑くなったのか、ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩める。
生真面目な表情が剥がれて、彼の素の顔が見え始めてきたようだった。
「珠美さんに「佐藤さんと飲みに行く」って話をしたら、呆れた顔して、I don't care って言われたし。どんな大変な目に遭わされるのかと」
眉尻を下げて困り顔でこぼす八重樫に、佐藤はけらけら笑う。
「こんな大変な目に遭っちゃったよな」
と、鍋底のチーズソースをバゲットでかき集めて「ほい」と八重樫の皿に載せた。八重樫は、ははっ、と笑い混じりに皿を受け取る。
「これが大変な目に遭う、ってことなら大歓迎です。唐辛子を丸ごと食わされるのかと思ってたよ」
「まさか。そんなことしないよ」
佐藤が意外と真面目な顔で応えた時、余所のテーブルから何やら不穏な声が聞こえた。