前編
「まさか、本当に本気で飲みに誘われるとは思いませんでした」
「社交辞令だと思ってた?」
居酒屋で酒卓に向かい合わせるのは、八重樫望と佐藤晴彦。
屈託なく乾杯を促す佐藤に、八重樫はいささかぎこちない風情でグラスを掲げる。
風貌から雰囲気や表情まで、二人の様子は対照的だ。
佐藤晴彦はひょろりと細身で、常に悪戯を企んでいるかのような、軽妙に朗らかな男だ。リラックスしてグラスを傾け、あれやこれやと八重樫に人懐っこく話しかけた。
「八重樫さん、辛いもんヘーキ? 悪いね、勝手に店決めちゃって」
「いえ、何でも食いますよ。大丈夫です」
対する八重樫望はがっしりと大柄な体格で、生真面目そうにかしこまっている。襟元もネクタイもストイックに締め、かっちりと整えたスーツ姿がさらにカタい印象を強めていた。一方で、たまに怪訝そうに首を傾げる癖は純朴な拙さで、おカタい印象とのギャップがなんともいえない可笑しみに映る。
「辛いものも得意です……って、言いたいところだけど、メニュー見たら自信なくなってきました。すごいですね、この店」
この店は佐藤の行きつけで、唐辛子を多用したメニューがウリだ。店名も世界一辛い唐辛子の名を冠した「Bhut Jolokia」という。
「正確には、今は別の品種がギネスとってて、ジョロキアは世界一じゃないんだけどね。それでも桁違いだから」
八重樫さんの好みわかんないし、普通の居酒屋にしようかと思ったんだけど、ジョロキアのオイル漬けの新物ができたっていうからさ、どうしても気になって。
でも、辛くないメニューもあるし、頼めばソースを別添えにしてくれたり、好みに調整できるから大丈夫とは思うよ。
佐藤は普段から饒舌だけれど、唐辛子の話になるとさらに舌の回転があがる。
もっぱら聞き役に徹する八重樫も、とりあえずのビールを飲りながら、メニューを興味深そうに覗きこんだ。
一通り注文を済ませると、一瞬、会話の間が空き、八重樫はほんの少し困ったような顔をした。
彼らは一人の女性を巡り、それぞれに彼女の心を得たい、と望んだ者同士だった。つまりは、恋敵というやつで。
もっとも、互いに見知ったときには既に彼女の気持ちは決まっていたのだけれど。
前園珠美が心を寄せたのは、八重樫だった。
「佐藤さんの立場からしたら、僕とはあまり顔を会わせたくないんじゃないかと思ったんです」
八重樫は気まずそうに言う。
「あー、うん。まあね、恋のライバル? だった訳だしね?」
佐藤は語尾を跳ね上げて、茶化すように返した。それから、少し呆れたように八重樫を見やると、苦笑しながら言った。
「ていうかさ、敬語やめない? 俺の方が年下なのに、なんだか偉そうになっちゃうよ」
「……こればっかりは、性分で。僕、人見知り気味なんですよ。人嫌いではないはずなんですが」
「そっか。俺の方はこんなんでチャラいけど、まあそれも性分って言えば性分だな。馴れ馴れしいかな? あんま気にしないでもらえると助かるけど。それと、俺のことはハルでいいよ、皆そう呼んでるから」
「大丈夫です。……すいません、僕はちょっと慣れるのに時間がかかります。努力はしますが」
……ハル、さん? ハル君?
申し訳なさそうに頷き、大真面目に呼び名を練習する八重樫に、佐藤は思わず吹き出した。
一応は堪えようとしたもののすぐに諦め、声をあげて笑ってしまう。
八重樫は目の前で笑い転げる男をきょとんと怪訝に見つめていたが、楽しそうな佐藤につられて、照れくさそうに相好を崩した。
「……あのときも、笑ってくれましたよね」
「え?」
「あの、洋食屋の前で」
……ああ、あれか。
佐藤はばつが悪そうに肩をすくめた。
佐藤と八重樫の初対面は、珠美と八重樫がデートしている店へ、佐藤が押し掛けたのだった。
彼は、ふられに来た、と言った。八重樫の目の前で、珠美を諦める、と告げたのである。
それから、彼女が改めて八重樫への好意を露わにすると、佐藤はその様をけらけらと笑った。
「あれね。可笑しかったよな。いつもクールな前園さんが真っ赤になって、かっわいいったらさ」
そのときの様子を思い出したのか、目を細めてくすくす笑いをほころばせる。
八重樫は複雑な面もちで軽く眉根を寄せた。それから、淡く微笑すると、遠慮がちに言った。
「佐藤さんが、そんなふうに笑ってくれたから。珠美さんも僕も、気まずくならずにすんだんです」
彼女の気持ちを軽くするために、わざと、そうやって笑い飛ばしてくれたんでしょう?
「あー、もう、勘弁。そういうの、わざわざ言わない!」
気づかなかったふりくらいしてくれよ。
佐藤はパタパタと大げさに手を振って、気恥ずかしさをごまかした。
生真面目な八重樫は、照れまくる佐藤に軽く目をみはった。
気づかないふりをしろ、という意向をまるで頓着せずに続ける。
「いや、かっこよかったです」
いやん止めて。と、なおもふざけて誤魔化そうとしたが、八重樫は誤魔化される気はないようだった。
パディントン、さすがに生真面目だなぁ。
佐藤は観念して、ビアグラスを干した。八重樫が心得て瓶を傾け、注いでくれるのを素直に受ける。
「あのとき、佐藤さんは彼女のために来てくれたんでしょう?」
どうやら八重樫は、そのときの話をしたかったらしい。自分のグラスにも手酌で注ごうとして、佐藤が代わって注ぎ返すのを、恐縮したように受ける。喉を湿してから、訥々と続けた。
珠美さんは以前に交際していた人とトラブルがあって、傷ついたことがある。傷つけられた、といってもいい。
僕が信頼に足る人間かどうか、確かめに来たんじゃないですか? 今度は大丈夫なのか、彼女が心配だったんでしょう?
それに、僕の目の前できっぱり「諦める」って宣言したのだって、彼女が誤解されないように気遣ったからですよね。
彼女が二股とか両天秤なんてする訳ないけど、そんなふうに受け取られる可能性もなくはない。
そして、別れ際に、あんなふうに笑いとばしてくれた。
義理堅い彼女のことだから、少なからず佐藤さんに対して罪悪感を覚えてるだろうから。
それを軽くしてくれた。
そこで彼は目線をあげ、まっすぐに佐藤を見た。
「ハルは徹底して、珠美さんを守るために振る舞ってくれたんだ」
うぉい!
このタイミングで呼び捨てかよ。
佐藤は照れ隠しに威嚇しようとして、八重樫の真剣な眼差しに怯んだ。
「正直、悔しかったです」
大して悔しそうでもなく、どちらかというと切なそうに、八重樫は言った。
「かっこよかったよ」
佐藤はため息を飲み込み、ははっ。と軽く笑いをもらした。
「そりゃ、それくらいは格好つけさせてくれよ。ていうか、悔しがるのはこっちの方だよ? 俺はふられたんだから」
だいたい、それを言うなら八重樫さんだって。
あのとき、前園さんを庇ったろ。ヘンな男が寄ってきたんじゃないか、って警戒したんじゃない? 殺気感じたもん、俺。
でも、前園さんを怖がらせたり、職場での立場を悪くしたりしないように、あくまでも冷静に穏やかに対処しててさ。オットナー、て感じ。頼もしかっただろうな。
「……いや。うん、まあ、警戒したというか」
「彼氏なら当然だろ。俺、殴られても仕方ないと思ってたもん」
「そんな覚悟までしてたんだ」
驚く八重樫に、佐藤は「てへっ」と茶化してふざけた。
「それに、笑いとばしてくれたのは八重樫さんもだろ。いっしょに笑ってくれた。彼女のために」
俺たち、かっこよかったよね?
あくまでもふざけようとする佐藤に、八重樫は目を細めて、しみじみと呟いた。
「……ハルは本当に、珠美さんが好きだったんだな」
「…………」
やりづれえ。佐藤は内心で頭を抱えた。
どうにも誤魔化されてくれない。そもそもがこういう、真正面から来られるのは苦手なのに。
苦笑を洩らしたところに、タイミングよく注文した料理が運ばれてきた。