003
「……あー、しんど……」
仕事を終えてアパートに帰り着く頃には、着てる服さえずしりと重い。
それがありとあらゆる気の力を奪い取っていく。
あるいは体から肉をはぎ取って骨だけになれればどれだけ、楽なことだろう。
現実にそんなことをすれば、おそらく生きてはいられないだろうが、デジタルな世の中にいると、むしろそういう想像は簡単にできる。
ARのアプリを使えば、骨だけのアバターを作って気分を味わうことは簡単だが、うまく自分をだませないと、ひたすらむなしいだけということにもなりかねない。
現実的に、飲むか、寝るか、食うかして気を紛らわせた方がいい。
玄関口でむくんだ足を靴から引き抜き、そこでようやくザアザアとこぼれるような音に気がついた。
「……雨か?」
ひょいと外を見ても、夕暮れの空にはわずかな雲しか浮かんでいない。
その音が洗面所から聞こえてくることに、俺は全身から血の気が抜ける。
「蛇口あけっぱだったか!?」
いつもなら二度三度と確かめるところを、今朝はまったく記憶が蒸発していた。
「水道代が……くそ」
俺は疲れでももつれる足をばたつかせながら、ユニットバスに向かった。
扉を開けた瞬間、ざあざあという音も一気に大きくなる。
それは閉め忘れどころではなく。
「え?」
「ちょっとぉ!!」
一瞬でうすく曇るARグラス、その向こうで乱入してきた俺から体を隠そうと、懸命にシャワーカーテンを体に巻き付けようともがく小娘が一人。
半透明なカーテン越し、薄ピンクに見える肌が余計に悩ましい。
などと鑑賞しているまもなく、罵声と共にシャワーの奔流が俺の顔面に向かってきた。
咄嗟に顔をそらそうとして、ドア枠に額をぶつける。
足下をふらつかせながら、俺はユニットバスを出た。
水滴のついたARグラスから、ぽたりぽたりとしずくが垂れ、拭き取ろうと外した瞬間、周囲の状況が一変する。
俺はこれっぽっちも濡れていなかった。
だまされた。
いやだまされたわけではない。結局AR上の水濡れにしろ汚れにしろ、手で拭くという行為をしなければ消えない。
それは現実と変わらない。
もしくはARシステムを再起動させるという手もあるが、復元力によって結局元に戻ることだってあり得る。
この状況をもう一度繰り返すなど、正直ごめん被りたい。
そもそもこんな頼んでも居ないシチュエーションを、誰がなんのために設定したのか。
どんなギャルゲーから引っ張り出してきたのか、プランナーの正気を疑う。
「まじでうざいな……」
外したARグラスに張り付いた、濡れたしずくを眼鏡ふきでふきとっていると、なにかが小走りで駆け抜けていく気配が、ARグラスを通して聞こえてくる。
ARグラスをかけ直したときには、ちょうど春菜の部屋のふすまが、ぴしゃりとたたきつけられるところだった。
これはまた盛大にマイナスイメージのパラメーターが加算されたことだろう。
そこからどんな判断がなされて、どんな指導が入るのか。どうにでもなれという気持ちだった。こんなイカれた試験の添削結果になんか興味はない。
ユニットバスと春菜の部屋までに、点々と小さな水のシミが続いていた。
こんなリアリティを誰が求めるんだろう。
そう思いながらその道筋の途中に、こんもりとしてピンクの小さな固まりがあった。
「……おいおい」
ARグラスを押し上げると、それはきれいに消える。
「女モンの下着をどう扱うかなんてパラメータでもあんのかよ」
そのまま気づかなかったふりでもすればいいのだろうか。
むしろこういう嫌がらせみたいなことを何度もされるのだろうか。
ならさっさとけりをつけた方がいい。
俺は結局そのピンクのパンツを、申し訳程度につまんで、そっとふすまを軽く叩いた。
「忘れもん……」
ほとんど間髪をおかずに、手に持ったパンツをひったくられた。
「死ね!」
そしてふすま越しに半泣きの罵倒が浴びせられる。
別に俺が悪いわけじゃない。恨むんならドジをふむように仕組んだ役所のプランナーを恨め。
もちろんプログラム以上に、恨む心があればだが。
また疲れがどっと押し寄せてくる。
幻にまで気を遣って、この先どこへ行こうと言うのか。
けれど、それが求められるのなら、それをどこまでも与えていくしかない。
こちらにはもう、選べる権利などないのだから。
自発的なベーシックインカムの辞退を求めているのなら、なかなか成功していると言えた。
する必要のないことをさせられるほど、いやなことはないのだ。