雨上がりの傘
『雨上がりの傘』
三十五歳の春、私は佐藤和樹の名前を六年ぶりに目にした。
雨の夜、冷えたワインを飲みながら、彼の後ろ姿をスマホのストーリーで見た瞬間、胸の奥がざわついた。あの背中、雨に濡れてもなお凛としていた。
翌日、本屋で立ち読みをしていると、背後から聞き覚えのある低い声がした。
「……久しぶり」
振り返ると、そこに和樹が立っていた。
驚きと懐かしさが混じった瞳。六年という時間が、まるで昨日のことのように感じられた。
「和樹……本当に?」
「奇遇だな。雨の中、よく来たな」
私たちは自然と、近くの落ち着いたコーヒーショップへ入った。窓際の席で向かい合い、雨の音をBGMに、六年分の時間を少しずつ紡いでいった。
彼は去年離婚したと言った。私も去年離婚したと伝えると、彼は静かに目を伏せた。
「寂しかっただろ」
「……まあね。でも今は平気よ」
「嘘だな。目がそう言ってない」
彼の指が、テーブルの上でそっと私の手に近づいた。
触れる寸前で止まり、代わりに温かい視線をくれる。
その距離感が、甘くて切なくて、私は思わず微笑んだ。
「相変わらず優しいね」
「優しいんじゃなくて、お前のことが……ずっと気になってただけだよ」
言葉が甘い。
三十五歳の胸を、こんなふうにときめかせるなんて、ずるい。
コーヒーが冷めていく間、私たちは昔の話をした。
大学時代の飲み会で、私が酔って彼の肩に寄りかかった夜。
彼はあの時、そっと私の髪を撫でてくれた。
今、改めてその話をすると、彼は照れくさそうに笑った。
「実はあの時、告白しようかと思ったんだ」
「え……本当?」
「ああ。でも俺に彼女がいて、お前は楽しそうに笑ってるから……邪魔したくなくて」
彼の手が、今度は迷わず私の指先に触れた。
一瞬だけ、重なる。
温かくて、少し荒れた大人の指。
私は触れ返さず、ただその感触を記憶に刻んだ。
「今さら遅いよね」
「遅いかもしれない。でも、こうして会えたんだから……少しだけ、甘えてもいいかな」
その言葉に、胸が熱くなった。
離婚後の乾いた心に、久しぶりの甘い雨が降ってきた気がした。
店を出ると、外は本降りになっていた。
和樹は迷わず自分の傘を私に差し出した。
「使えよ。君、冷え性だったろ?」
「でも和樹は……」
「俺はいい。お前が濡れるのを見たくない」
傘を受け取る時、彼の指が私の指を包み込んだ。
一秒、二秒。
離したくないと言っているかのように、ゆっくりと離れる。
数歩歩いてから、私は振り返った。
和樹は雨の中に立っていた。濡れた前髪が額に張りつき、それでも優しく微笑んでいる。その笑顔は、六年分の想いと、今この瞬間の甘い疼きを全部映しているようだった。
私は傘の下で、涙をこぼした。
雨に紛れて、熱い雫が頰を伝う。
好きだった。
今も、好き。
離婚して傷ついた心に、再び灯ったこの想いは、甘くて、苦くて、切ない。
家に帰り、傘を玄関に立てかけた。
柄の部分には、まだ彼の体温が残っている気がした。
私はその傘を抱きしめるように指で撫で、目を閉じた。
雨上がりの空は、きっと綺麗だろう。
でも今は、この雨の中で感じた甘い余韻に、ゆっくり浸っていたい。
三十五歳の恋は、若かった頃よりずっと慎重で、でもずっと深い。
和樹との次の出会いを、私はもう、静かに待ち始めていた。




