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雨上がりの傘

作者: 蒼狐
掲載日:2026/06/29

『雨上がりの傘』


 三十五歳の春、私は佐藤和樹の名前を六年ぶりに目にした。


 雨の夜、冷えたワインを飲みながら、彼の後ろ姿をスマホのストーリーで見た瞬間、胸の奥がざわついた。あの背中、雨に濡れてもなお凛としていた。


 翌日、本屋で立ち読みをしていると、背後から聞き覚えのある低い声がした。


「……久しぶり」


 振り返ると、そこに和樹が立っていた。

 驚きと懐かしさが混じった瞳。六年という時間が、まるで昨日のことのように感じられた。


「和樹……本当に?」

「奇遇だな。雨の中、よく来たな」


 私たちは自然と、近くの落ち着いたコーヒーショップへ入った。窓際の席で向かい合い、雨の音をBGMに、六年分の時間を少しずつ紡いでいった。


 彼は去年離婚したと言った。私も去年離婚したと伝えると、彼は静かに目を伏せた。


「寂しかっただろ」

「……まあね。でも今は平気よ」

「嘘だな。目がそう言ってない」


 彼の指が、テーブルの上でそっと私の手に近づいた。

 触れる寸前で止まり、代わりに温かい視線をくれる。

 その距離感が、甘くて切なくて、私は思わず微笑んだ。


「相変わらず優しいね」

「優しいんじゃなくて、お前のことが……ずっと気になってただけだよ」


 言葉が甘い。

 三十五歳の胸を、こんなふうにときめかせるなんて、ずるい。


 コーヒーが冷めていく間、私たちは昔の話をした。

 大学時代の飲み会で、私が酔って彼の肩に寄りかかった夜。

 彼はあの時、そっと私の髪を撫でてくれた。

 今、改めてその話をすると、彼は照れくさそうに笑った。


「実はあの時、告白しようかと思ったんだ」

「え……本当?」

「ああ。でも俺に彼女がいて、お前は楽しそうに笑ってるから……邪魔したくなくて」


 彼の手が、今度は迷わず私の指先に触れた。

 一瞬だけ、重なる。

 温かくて、少し荒れた大人の指。

 私は触れ返さず、ただその感触を記憶に刻んだ。


「今さら遅いよね」

「遅いかもしれない。でも、こうして会えたんだから……少しだけ、甘えてもいいかな」


 その言葉に、胸が熱くなった。

 離婚後の乾いた心に、久しぶりの甘い雨が降ってきた気がした。


 店を出ると、外は本降りになっていた。

 和樹は迷わず自分の傘を私に差し出した。


「使えよ。君、冷え性だったろ?」

「でも和樹は……」

「俺はいい。お前が濡れるのを見たくない」


 傘を受け取る時、彼の指が私の指を包み込んだ。

 一秒、二秒。

 離したくないと言っているかのように、ゆっくりと離れる。


 数歩歩いてから、私は振り返った。

 和樹は雨の中に立っていた。濡れた前髪が額に張りつき、それでも優しく微笑んでいる。その笑顔は、六年分の想いと、今この瞬間の甘い疼きを全部映しているようだった。


 私は傘の下で、涙をこぼした。

 雨に紛れて、熱い雫が頰を伝う。


 好きだった。

 今も、好き。

 離婚して傷ついた心に、再び灯ったこの想いは、甘くて、苦くて、切ない。


 家に帰り、傘を玄関に立てかけた。

 柄の部分には、まだ彼の体温が残っている気がした。

 私はその傘を抱きしめるように指で撫で、目を閉じた。


 雨上がりの空は、きっと綺麗だろう。

 でも今は、この雨の中で感じた甘い余韻に、ゆっくり浸っていたい。


 三十五歳の恋は、若かった頃よりずっと慎重で、でもずっと深い。

 和樹との次の出会いを、私はもう、静かに待ち始めていた。

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