どっちとも
ウーーー
サイレンが、鼓動と重なる。
右翼の芝を踏みしめながら、俺はただ一点を見ていた。
マウンドに立つエース、平 熱。
あいつの背中は、いつもより少しだけ小さく見えた。
五回終了。
両校パーフェクト。
六回裏。
相手校の二年主砲、陽田 蘭。
初球。
カーキン!!
乾いた金属音が空気を裂いた。
俺は一歩目を切らさない。
目を切らない。
落ちろ――
だが打球は無情にも右中間を破った。
0-1。
2アウト、ランナーなし。
平「……すまない、勝。あとは頼む」
その声で、俺の中の“スイッチ”が入った。
アナウンサー
「シートの変更をお知らせします。ピッチャー平君がライトへ、ライト嶋口君がピッチャーへ。」
ざわめき。
マウンドへ向かう足音が、やけに静かに聞こえる。
中尾 銀がマスク越しに笑った。
中尾「いくぞ、真打……!」
俺はロジンを握り、空を見た。
ここからが、俺の試合だ。
銀がサインを出す。
嶋口「そりゃあ、当然だよな……!」
中尾 銀。
キャッチャーとしては不利になるほど、素直でまっすぐな男。
だからサインは――ストレート。
変化球なんていらない。
逃げる理由もない。
カウント、2ストライク2ボール。
スタンドのざわめきが、急に遠くなる。
中尾「勝……こい!!」
ミットが、ど真ん中に構えられる。
嶋口「おりゃあああ!!」
白球が唸る。
相手打者のバットが振り抜かれる――
ドンッ!!
一瞬の静寂。
球審「ストライク! バッターアウト!!」
スタジアムが爆発した。
モニターに表示された数字。
141 km/h
中学二年。
この日、俺のストレートは全国に届いた。
球審の右手が上がる。
中尾「自己記録更新だな……勝」
嶋口「銀、おまえのおかげだ」
佐藤「銀、はしゃいでるのはいいがおまえネクストバッターだぞ」
中尾「え、まじっすか!?」
ベンチが笑う。
中尾「よし……やってやりますか!」
相手ベンチは静かだった。
銀は今ノーマーク。
それもそのはず。
中尾銀、この二試合ノーヒット。
バットは湿ったまま。
だが中尾銀は、そこで終わる男じゃない。
バッターボックスに立つ銀の背番号2は、いつもより大きく見えた。
初球。
カッキーン!!
乾いた衝撃音が、夜空を裂く。
打球は一直線。
右翼手が一歩も動けない。
右中間に、突き刺さった。
スタンドが揺れる。
俺は思わず拳を握った。
のソロホームランで、ベンチは一気に沸いた。
流れは、完全にこっち。
のはずだった。
後続は倒れ、追加点は奪えない。
最終回。七回裏。
1-1。
2アウト、ノーランナー。
ネクストバッターは……
陽田 蘭。
スタンドの空気が重く沈む。
銀がミットを構えた。
中尾「まっすぐ、最後いくぞ」
俺は小さく頷く。
言葉はいらない。
これが、俺たちの野球だ。
嶋口「おりゃあ!!」
指先から放たれた一球。
今日いちばんの回転。
今日いちばんの伸び。
完璧だった。
はずだった。
カキィン。
乾いた音が、やけに軽い。
打球は高く、夜空へ吸い込まれていく。
俺は振り返らない。
分かってしまったから。
白球はそのままスタンドへ。
さよならソロホームラン。
静寂。
モニターには
143km/h
とだけ表示されていた。
スコアボードの「2」が、残酷に光る。
俺たちの二年生の夏は、ここで終わった。
マウンドに立ったまま、俺は空を見上げる。
涙は出ない。
代わりに、胸の奥で何かが燃えていた。
次は、俺が超える。
炎暑の黄昏。
家に帰ると、テレビで特番が流れていた。
そこに映っていたのは、レジェンド 鈴木 元 の特集だった。
数々の前人未到の記録を残した男。
記者「成功の秘訣は何ですか?」
鈴木は少し考えてから、笑った。
鈴木「例えば、誰もやらないから自分もやらない。
誰かに言われたからやらない。
そういうのに反抗してきたからですかね」
その言葉が、胸に刺さった。
俺の心の奥で、何かが揺れ動く。
その晩。
ベッドに横になり、天井を見つめていた。
ふと視界の端に、父のグローブが見えた。
左投げ用のグローブ。
嶋口(左……)
俺はゆっくり体を起こす。
嶋口(どっちもやるのは、どうだろう)
胸の奥の火が、少しだけ大きくなった。
俺は早速、父のグローブを持って投球練習に向かった。
外はまだ、昼の熱を残していた。
住宅街の奥にある小さな空き地。
いつも一人で壁当てをしている場所だ。
俺はボールを握る。
左手で。
嶋口(変な感じだな……)
グローブを右手に付け、ゆっくりと振りかぶる。
ぎこちないフォーム。
体のバランスもおかしい。
嶋口「……えいっ」
シュッ。
ボールは壁に届く前に、地面に叩きつけられた。
嶋口「……だよな」
苦笑いがこぼれる。
もう一球。
もう一球。
何度も、何度も投げる。
ボールは暴れ、腕は思うように動かない。
それでも、投げ続けた。
空はいつの間にか、暗くなっていた。
嶋口「はぁ……はぁ……」
汗でシャツが張り付く。
それでも俺は、もう一球だけ投げた。
振りかぶる。
踏み込む。
腕を振る。
シュッ。
ドンッ。
壁に、乾いた音が響いた。
嶋口「……!」
初めて、まっすぐ届いた。
胸の奥が熱くなる。
嶋口「……いけるかもな」
右でも投げる。
左でも投げる。
誰もやらないなら、俺がやる。
空気が爽やかになる初秋。
中尾「なあ勝、お前俺に何か隠していないか?」
嶋口「……」
俺は少し間を置いた。
嶋口「実は、この3ヶ月サウスポーの練習してるんだ」
銀は驚いた顔をし、言葉を忘れたようにも見えた。
中尾「なんだよそれ……」
やっぱり否定されると思った、そのとき。
中尾「めっちゃいいじゃん!」
嶋口「え?」
中尾「だってさ、右も左も投げられるピッチャーなんて聞いたことないぞ!」
銀は目を輝かせていた。
中尾「相手バッター絶対混乱するって!」
中尾「じゃあ、俺監督に話してくる!」
嶋口「銀、少し監督に話すのは待ってくれ」
中尾「なんでだよ?」
嶋口「まだ、ちゃんと投げられるわけじゃない」
俺はボールを握る左手を見つめた。
嶋口「試合で通用するかも分からない」
中尾は少し黙った。
そして、ニヤッと笑った。
中尾「じゃあさ」
中尾「俺がキャッチャーやるよ」
嶋口「え?」
中尾「右でも左でも、全部受けてやる」
中尾「それで通用するか、俺が確かめてやるよ」
銀はミットを軽く叩いた。
中尾「来いよ、スイッチ…!」




