(シリアスversion)残酷で、限りなく純粋
赤い月が、欠け始めていた。
冷たい夜風が、塔の石壁をなぞる。
その瞬間、王宮の西塔の最上階で、百年ものあいだ沈黙を保っていた石像に、ひびが走った。
ピシ、ピシッと、蜘蛛の巣のように割れていく石肌。
やがて、ぱらりと外殻が剥がれ落ちる。
その中から現れたのは、一人の女だった。
漆黒の髪に、白い肌。しなやかな肢体と、閉じられた瞼。
その女――魔女モルガは、ゆっくりと長い睫毛を持ち上げた。
「……赤月蝕、か」
百年前と、変わらぬ姿。
だが、その瞳の奥には、永い時を閉じ込めたような暗い炎が燃えていた。
部屋の隅に隠れていた小さな黒猫が、にゃあと鳴く。
『目覚めたのですね、ご主人』
「ええ……」
モルガは立ち上がり、石の床を裸足で踏みしめた。
そして、ひとこと呟く。
「……私を石に閉じ込めたあの男、許さない」
その声は低く、凍えるように冷たかった。
黒猫は、しばらく魔女を見上げていたが、やがてそっと言った。
『……王子殿下は、もうおそらくこの世にはいないかと』
「ふん。そんな都合のいい話、誰が信じるものか」
モルガはマントを拾い、かつてのように堂々と羽織った。
肩を払うと、長い髪がふわりと背に流れる。
「……でも、一応確かめましょう。たったの百年でしょう? あの男が生きていたら――この手で終わらせる」
塔の扉が、ひとりでに軋んだ音を立てて開いた。
百年間、誰も訪れることなく閉ざされていた扉が、ついに解放された。
モルガは一歩、塔の外へと足を踏み出す。
しかし、そこに広がっていたのは見知らぬ風景だった。
荒れ果てた庭園。崩れた噴水。蔦に覆われた城壁。
緑は根絶え、空は鈍色に濁り、夜鳥の声すらしなかった。
「……随分と変わってしまったのね」
かつてモルガが知っていた美しい王城は、今や廃墟のようだった。
『ご主人が石になってる間に、百年の時が流れました』
黒猫が肩に飛び乗ってくる。
『民は王を失い、王国はかつての栄華を失いました。王子殿下も……存命とは考えづらい』
「そう? でも、私は行くわ」
モルガは答える。声に、一点の迷いもなかった。
「生きていようが、いまいが。あの子に会って、どうしてあのとき……私を裏切ったのか。その理由を、知るまでは」
風が、モルガの髪をなぶる。
月はさらに欠け、空気が震えはじめる。
黒猫はふと、不安げに鳴いた。
『……もし、ご主人が望む答えがそこになかったら?』
モルガは静かに目を伏せた。
「……そのときは、」
言葉を途中で止め、ゆっくりと顔を上げる。
「そのときこそ、終わらせるのよ。私の心ごと、あの夜を」
* * * * *
重い石の階段を、モルガはひとり昇っていく。
途中、魔力に反応して燭台がぽつぽつと灯る。
誰もいない城。誰も来ない場所。
それでも、空気のどこかに、かすかに生きているものの気配がある。
(この感じ……)
モルガの心が、ざわめく。
最後の踊り場を曲がると、重厚な扉が目に入った。
──ここが、月の間。
ゆっくりと扉に手をかける。
ギィ……と、音を立てて、重い扉が開いた。
次の瞬間、室内から――低く、かすれた声が響いた。
「……来たのか。……モルガ」
そこにいたのは――
かつての美貌の青年ではなかった。
白髪に痩せた身体、皺だらけの手、座ったまま動けないほどの老人。
その姿は、枯れた樹のようだった。
けれど、モルガにはわかった。
その男が、紛れもなく――
「……ジェレミー……」
魔女を石化し封印した、かつての恋人、王子だった。
思わず漏れたその名を、モルガ自身が噛み殺した。
百年前のことが、つい昨日のことのように、鮮やかに蘇る。
記憶にある王子の姿は、もっと強く、美しく、冷たく優しい青年だった。
目の前の老人は、その面影を微かに残すだけ。
老人はゆっくりと顔を上げた。
白く濁った瞳が、モルガの姿をとらえる。
「……そなたは、夢のまま……変わらず、美しい……」
モルガは一歩、足を踏み出した。
黒猫は黙って扉の外に身を潜める。
「……随分と老けたのね」
「百年……そなたが封じられてから……誰もいなくなっても、ただここで、……そなたの目覚めを待ち続けていた」
モルガの手が、震えた。
怒りか、哀しみか、自分でもわからなかった。
「なぜ……なぜあの夜、私を裏切ったの?」
ジェレミーは答えなかった。
ただ、顔を伏せたまま、喉を鳴らすように咳をした。
その音が、妙に小さく、弱々しくて――胸の奥が少し熱くなる。
モルガは、あの夜を思い出していた。
宮廷の陰謀に巻き込まれながらも、二人で未来を描いていた日々。
夜明け前、塔の上で交わした約束。
そして……封印の魔法陣に縛られた自分と、それを見下ろすジェレミーの顔。
「そなたを、守るためだった」
ジェレミーがぽつりと呟いた。
「……は?」
「そなたを守るには、封じるしかなかった。あの夜、そなたにかけられた討伐令は、王命だった」
「そんなもの……」
モルガの足元に魔力が集まり、空気が震える。
だがジェレミーは動じなかった。
「私が止めなければ、もっと残酷な処刑が待っていた。そなたの力を、恐れた者たちがいた。だが私は……」
声がかすれる。
老人は大きく呼吸をし、続けた。
「私は、そなたを失いたくなかった。……生き延びさせるために、私自身の手で、そなたを封じた」
「勝手な理屈ね……」
「そうだ。勝手だった。だから私は……その罪とともに、生きてきた」
ふらりと、ジェレミーが立ち上がろうとして、膝をついた。
モルガは思わず身を乗り出しかけるが、踏みとどまる。
「貴方は……なぜ私を、起こさなかったの……?」
「……いつか目覚めるように、月蝕の鍵だけは残した。それが……せめてもの贖罪だった」
老人の声は、もう囁きのようだった。
「目覚めたそなたに、罵られる資格くらいは……残しておきたかったんだ」
蝋燭の炎が沈黙に揺れ、石壁の影を伸ばす。
モルガは口を開けかけて、また閉じた。
怒りは、確かにあった。
だけど、胸の奥では、それよりもっとややこしい感情が、渦を巻いていた。
「奪われた百年のこと……私は貴方が憎い」
「……憎まれて当然だ」
「貴方は生きていたけど、……でも、やっぱり……許せない」
「……それでも、こうして……来てくれたんだな」
老人の顔が、ほんの少しだけ、微笑んだように見えた。
背後で、そっと扉が開く音がした。
黒猫が、何も言わずに佇んでいる。
モルガはふっと笑った。
「……思っていたのと、違ったわ」
「……どんな風に、思っていた?」
「もっと冷たく、もっと……綺麗なままの罪人がそこにいると思ってた」
ジェレミーは何も答えず、ただ静かに座っていた。
そして、モルガはゆっくりと歩み寄り、部屋の窓を開けた。
夜風が入り込み、蝋燭の火を揺らす。
「これが、最後の夜よ」
「……ああ」
「赦すわけじゃない。でも、終わりにしないと。私も……進めないから」
魔力が、淡い光となって部屋を包み込む。
その中心に、二人の姿があった。
かつて、交わらなかったまま終わった心が、わずかに触れた――
そんな夜だった。
窓の外には、赤い月が形を取り戻しつつある。
半分欠けたその姿は、まるで百年前と同じだった。
ただ、魔女が見ていた空と、老人が見続けてきた空は、きっと違うものだったのだろう。
「……まだ、時間はあるのかしら?」
モルガが問うと、ジェレミーは小さく首を横に振った。
「もう……長くはない。……百年は、長かった」
「そう?」
モルガは目を閉じた。
そして、息を吸う。
「なら、ひとつだけ。教えて」
「……なんでも、答えよう」
「最後に、あの夜。私を封じる呪いをかけたとき……どんな気持ちだった?」
ジェレミーの肩が、わずかに震えた。
しばらく沈黙が落ちる。
モルガは、それを責めなかった。
ただ、待った。
やがて、老人は小さく呟いた。
「……泣いていた。誰にも、見せられない顔で」
「……噓つきね。あの夜、貴方は笑っていたわ」
「そうするしかなかった。兵たちの前で、王家の顔を……崩せなかった」
老人の声は、震えていた。
「でも、封印をかける瞬間……そなたの瞳が、私を見ていた。まるで、何もかも理解していたような目で」
モルガの指先が、胸元でぎゅっと握られる。
「……そうね。貴方の笑っていた顔、とても残酷で……美しかったわ」
「だからか。君の瞳は……私を、救ってしまった」
部屋の空気が、静かに冷える。
モルガは、歩み寄った。
ゆっくりと、老いた王子の傍らに膝をつく。
かつて、この手を取って踊った相手。
唇を交わし、未来を語った相手。
そして、自分を封じた罪人。
「……貴方のこと、愛していたの」
「だから、私も生きて、そなたを待っていた……」
「でも、多分、この後、ずっと……憎むわ」
その言葉に、ジェレミーは目を見開いた。
そして、ほんのわずかに、唇が緩んだ。
「……すまない」
その声は、風に溶けるほどに小さかった。
窓の外で、月が再び満ち始める。
夜が明けようとしていた。
「……もう、逝って」
モルガが言う。
「思っていたのと違ったけど、最期に会えて、嬉しかったわ……。もう一度、別の子を探すわ……」
ジェレミーはうなずき、椅子にもたれかかる。
「そうか……それなら、良かった」
そのまま、目を閉じた。
静かに、眠るように、老いた王子はそのまま動かなくなった。
モルガは、ひとことも言わずに立ち上がる。
涙も流さず、ただその死を見届けた。
扉の前で、黒猫が言った。
『……終わりましたね、ご主人』
「ええ」
『これから、どうなさいますか?』
「……次の子を探すわ。今度こそ、失敗しないように……」
モルガは振り返り、最期の王の姿をひと目見た。
「百年なんて、あっという間なのね。……つまらない」
塔を出ると、空がわずかに白んでいた。
長い夜が、終わろうとしていた。
魔女はフードをかぶると、静かに歩き出した。




