第9話: 辺境の一皿
収穫祭の朝は、いつもより早く訪れた。
リゼットは夜明け前に起き出して、宿の裏にある窯に火を入れた。楢の薪——おそらくセドリックが置いていってくれた薪を、慎重に組み上げる。火種を押し込み、息を吹きかける。炎が立ち上がり、薪が爆ぜる音がした。
窯の中で、炎がゆっくりと安定していく。
これなら、焼ける。
昨日の夜、何度も繰り返した言葉を、リゼットはもう一度心の中で唱える。
窯の温度が安定したのを確認してから、リゼットはタルト生地を伸ばし始めた。
大麦粉に、バターと霜花蜜を少しだけ混ぜた生地。辺境では贅沢品のバターも、収穫祭のためにマリーが分けてくれた。ざっくりとした手触りの生地を、薄く伸ばして型に敷き詰める。底にフォークで穴を開けて、空焼きする。
その間に、フィリングを作る。
黒胡桃は、焙煎してから粗く砕いた。香ばしい香りが立ち上る。高原りんごは薄くスライスして、霜花蜜と少しの水で煮る。最初は酸っぱかったりんごが、熱を加えることでゆっくりと甘さを増していく。透明な金色になるまで煮詰める。
空焼きした生地に、焙煎した黒胡桃を敷き詰める。その上に、霜花蜜で煮たりんごのスライスを並べる。最後に、霜花蜜を溶いたものを全体に塗って——
窯に入れる。
楢の薪の火は、安定している。炎の色が、ずっと同じだ。
リゼットは窯の前に座り込んで、じっと中を見つめた。
タルトの香りが、宿の中に広がり始めた。
大麦の生地が焼ける香り。バターが溶けて、霜花蜜が焦げる甘い香り。黒胡桃の香ばしさ。高原りんごの酸味が、熱で変化して——
甘い。
窯の中で、タルトが色づいていく。生地がこんがりと焼けて、縁が黄金色になる。霜花蜜を絡めた黒胡桃が、琥珀色に輝く。りんごのスライスが、透明な金色に変わる。
焼けた。
リゼットは息を止めて、タルトを窯から取り出した。
湯気が立ち上る。甘い香りが、一気に広がった。
完成した。
辺境の素材だけで作った、木の実タルト。
リゼットは、タルトを見つめたまま、動けなかった。
「リゼ! 焼けたの!?」
マリーが、厨房に飛び込んできた。エプロンを締めながら、タルトを見て——固まった。
「……なにこれ」
「木の実タルトです。霜花蜜と黒胡桃と高原りんごで——」
「そうじゃなくて! なんでこんな、こんな……」
マリーは言葉を失って、ただタルトを見つめていた。
「いい匂いすぎるでしょ。宿中に広がってるよ、この香り」
本当だ。宿の廊下から、客たちの声が聞こえてくる。「なんだこの匂いは」「甘い匂いがする」「厨房か?」
リゼットは慌てて、タルトを布で覆った。
「収穫祭まで、誰にも見せちゃダメです! これは、広場で——」
「わかってるよ! あたしだって、これを広場で出すのが楽しみなんだから!」
マリーが笑った。
リゼットも、笑っていた。
収穫祭の広場は、朝から賑わっていた。
村の中央にある広場に、大きな焚き火が焚かれている。その周りに、長テーブルが並んでいる。いつもなら、干し肉とパンと芋のスープだけが並ぶテーブル。今年も同じだった——リゼットたちのタルトが運ばれるまでは。
「マリーさん、ここに置きましょう」
「ええ。真ん中がいいわね」
布で覆ったタルトをテーブルの中央に置いた。
村人たちが、興味深そうに集まってくる。
「マリー、なんだそれは」
「楽しみにしててよ。リゼが作ったんだから」
マリーが、誇らしげに言った。
リゼットは緊張で、手が震えていた。
焚き火の炎が高く上がり、村長が挨拶を始めた。
「今年も無事に収穫を終えられた。豊穣神に感謝する。辺境は厳しいが、俺たちはここで生きている。この冬も、乗り越えよう」
短い挨拶だった。辺境の人々は、言葉を飾らない。王都の収穫祭は華やかな祝祭だが、ここでは冬を越すための覚悟を確かめ合う場だ。
「それじゃあ、食うか!」
村長の号令とともに、村人たちが一斉にテーブルに集まった。
干し肉を取る者、パンを掴む者、スープを椀に注ぐ者——
そして、タルトの前で、足を止める者。
「……なんだこれは」
「初めて見るぞ」
「甘い匂いがする」
リゼットは、布を取った。
タルトが、焚き火の光を受けて輝いた。
最初に手を伸ばしたのは、子どもだった。
十歳くらいの男の子が、恐る恐るタルトを一切れ取る。他の子どもたちも、それに続いた。
「食べていいのか?」
「もちろんです。どうぞ」
リゼットが頷くと、男の子は一口、タルトを齧った。
——そして、目を見開いた。
「……甘い」
その言葉に、周りの大人たちがざわついた。
「甘い?」
「本当か?」
他の子どもたちも、タルトを口に運んだ。そして、一人、また一人と——笑顔になった。
「甘い! 本当に甘い!」
「こんな味、初めて!」
「おいしい!」
子どもたちの歓声が、広場に響いた。
大人たちも、タルトに手を伸ばし始めた。
「どれ、俺も——」
村の男たちが、タルトを一切れ取る。一口食べて——固まった。
「……なんだこれは」
「胡桃が、こうなるのか」
「りんごが、こんなに……」
言葉にならない驚きが、広場を満たしていく。
「甘いな。本当に甘い」
「辺境で、こんな味が食えるとは思わなかった」
「これが、菓子ってやつか」
村の女たちも、タルトを食べている。目を細めて、何度も頷いている。
「霜花蜜を、こんな風に使えるのね」
「黒胡桃、焙煎するとこんなに香ばしくなるのか」
「りんご、煮るだけでこんなに甘くなるなんて」
テーブルの端で、エルザばあちゃんがゆっくりとタルトを口に運んだ。
皺だらけの顔が、ほころんだ。
「ああ……」
震える声だった。
「甘いって、こういうものなのかい」
小さな目に、涙が光っている。
「七十年生きてきて、こんな味は初めてだよ。初めてだ」
エルザは、リゼットを見た。
「ありがとうね、菓子師さん。あたしゃ、死ぬ前にいいものを食べた」
リゼットは唇を噛んだ。泣いてはいけない。笑顔で受け取らなければ。
「エルザさん……まだまだ、たくさん作りますから」
「そうかい。じゃあ、もう少し長生きしなきゃいけないねえ」
エルザは皺くちゃの顔で笑って、もう一切れ、タルトに手を伸ばした。
リゼットは、その光景を見つめていた。
辺境の村に、初めて「菓子」が存在した日。
タルトは、あっという間になくなった。
子どもたちは、まだ食べたそうにテーブルの周りをうろうろしている。大人たちは、焚き火の前で酒を飲みながら、タルトの話をしている。
「あんなもの、生まれて初めて食った」
「辺境でも、あんな味が作れるんだな」
「マリーの宿の新しい菓子師、大したもんだ」
リゼットは、その声を聞きながら——泣きそうになっていた。
菓子を、喜んでもらえた。
辺境の素材だけで、王都の菓子に負けないものを作れた。
「リゼ」
マリーが、リゼットの隣に座った。
手に、タルトの最後の一切れを持っている。
「あたしね、辺境に生まれて、甘いもの食べたの、これが初めてかもしんない」
マリーの声が、震えていた。
「蜂蜜は、傷の手当てに使うもんだと思ってた。胡桃は、そのまま齧るもんだと思ってた。りんごは、酸っぱいもんだと思ってた」
マリーは、タルトを一口食べた。
「でも、こんな風になるんだね。こんなに、甘くなるんだね」
そして——泣いた。
「美味しい。本当に、美味しい」
リゼットも、涙が溢れてきた。
「マリーさん……」
「ありがとうね、リゼ。あたしの宿に来てくれて、ありがとう」
二人は、焚き火の光の中で、泣きながら笑っていた。
焚き火の炎が、ゆっくりと揺れている。
村人たちの笑い声が、広場に響いている。
リゼットは、その光景を見つめていた。
ここは、王都じゃない。
辺境の、小さな村。
でも——
リゼットは、ここで菓子を作れる。
ここで誰かを笑顔にできる。
それだけで、十分だ。
「……まだ、残っているか」
低い声が、背後から聞こえた。
振り返ると——セドリックが、タルトの前に立っていた。
テーブルには、もうタルトは残っていない。
でも、リゼットは——一切れだけ、取っておいた。
セドリックのために。
二人の、目が合った。
セドリックの表情は、いつもと同じだった。
でも——その瞳に、何かが灯っているのを、リゼットは見た。
リゼットは、その一切れを差し出した。
セドリックの手が、ゆっくりと伸びて——タルトを受け取った。
大きな手。剣だこのある、武人の手。その指先に、小さなタルトが収まる。
「……いただこう」
低い声が呟いた。
セドリックがタルトを口に運ぶ。
一口。
噛む音が——リゼットの耳には、はっきりと聞こえた。
大麦の生地が砕ける音。焙煎黒胡桃が歯に当たる音。霜花蜜が溶ける、かすかな音。
セドリックの咀嚼が——止まった。
彼の目が、わずかに見開かれた。
眉の間に、微かな皺が寄る。
唇が——震えている。
リゼットは固唾を呑んで、その顔を見つめた。
歩人です。第9話、収穫祭のクライマックスはいかがでしたでしょうか!
木の実タルトを頬張る村人たちの笑顔、そして「甘い」という言葉が初めて生まれる瞬間——この情景を書くのが本当に楽しくて、筆が止まりませんでした。
リゼットの菓子が、辺境に小さな幸せを灯した日。次話で Arc 1 完結です。彼女の決意の行方をぜひ見届けてください!
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