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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
辺境の一皿

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9/12

第9話: 辺境の一皿

 収穫祭の朝は、いつもより早く訪れた。


 リゼットは夜明け前に起き出して、宿の裏にある窯に火を入れた。楢の薪——おそらくセドリックが置いていってくれた薪を、慎重に組み上げる。火種を押し込み、息を吹きかける。炎が立ち上がり、薪が爆ぜる音がした。


 窯の中で、炎がゆっくりと安定していく。


 これなら、焼ける。


 昨日の夜、何度も繰り返した言葉を、リゼットはもう一度心の中で唱える。




 窯の温度が安定したのを確認してから、リゼットはタルト生地を伸ばし始めた。


 大麦粉に、バターと霜花蜜を少しだけ混ぜた生地。辺境では贅沢品のバターも、収穫祭のためにマリーが分けてくれた。ざっくりとした手触りの生地を、薄く伸ばして型に敷き詰める。底にフォークで穴を開けて、空焼きする。


 その間に、フィリングを作る。


 黒胡桃は、焙煎してから粗く砕いた。香ばしい香りが立ち上る。高原りんごは薄くスライスして、霜花蜜と少しの水で煮る。最初は酸っぱかったりんごが、熱を加えることでゆっくりと甘さを増していく。透明な金色になるまで煮詰める。


 空焼きした生地に、焙煎した黒胡桃を敷き詰める。その上に、霜花蜜で煮たりんごのスライスを並べる。最後に、霜花蜜を溶いたものを全体に塗って——


 窯に入れる。


 楢の薪の火は、安定している。炎の色が、ずっと同じだ。


 リゼットは窯の前に座り込んで、じっと中を見つめた。




 タルトの香りが、宿の中に広がり始めた。


 大麦の生地が焼ける香り。バターが溶けて、霜花蜜が焦げる甘い香り。黒胡桃の香ばしさ。高原りんごの酸味が、熱で変化して——


 甘い。


 窯の中で、タルトが色づいていく。生地がこんがりと焼けて、縁が黄金色になる。霜花蜜を絡めた黒胡桃が、琥珀色に輝く。りんごのスライスが、透明な金色に変わる。


 焼けた。


 リゼットは息を止めて、タルトを窯から取り出した。


 湯気が立ち上る。甘い香りが、一気に広がった。


 完成した。


 辺境の素材だけで作った、木の実タルト。


 リゼットは、タルトを見つめたまま、動けなかった。




「リゼ! 焼けたの!?」


 マリーが、厨房に飛び込んできた。エプロンを締めながら、タルトを見て——固まった。


「……なにこれ」


「木の実タルトです。霜花蜜と黒胡桃と高原りんごで——」


「そうじゃなくて! なんでこんな、こんな……」


 マリーは言葉を失って、ただタルトを見つめていた。


「いい匂いすぎるでしょ。宿中に広がってるよ、この香り」


 本当だ。宿の廊下から、客たちの声が聞こえてくる。「なんだこの匂いは」「甘い匂いがする」「厨房か?」


 リゼットは慌てて、タルトを布で覆った。


「収穫祭まで、誰にも見せちゃダメです! これは、広場で——」


「わかってるよ! あたしだって、これを広場で出すのが楽しみなんだから!」


 マリーが笑った。


 リゼットも、笑っていた。




 収穫祭の広場は、朝から賑わっていた。


 村の中央にある広場に、大きな焚き火が焚かれている。その周りに、長テーブルが並んでいる。いつもなら、干し肉とパンと芋のスープだけが並ぶテーブル。今年も同じだった——リゼットたちのタルトが運ばれるまでは。


「マリーさん、ここに置きましょう」


「ええ。真ん中がいいわね」


 布で覆ったタルトをテーブルの中央に置いた。


 村人たちが、興味深そうに集まってくる。


「マリー、なんだそれは」


「楽しみにしててよ。リゼが作ったんだから」


 マリーが、誇らしげに言った。


 リゼットは緊張で、手が震えていた。




 焚き火の炎が高く上がり、村長が挨拶を始めた。


「今年も無事に収穫を終えられた。豊穣神に感謝する。辺境は厳しいが、俺たちはここで生きている。この冬も、乗り越えよう」


 短い挨拶だった。辺境の人々は、言葉を飾らない。王都の収穫祭は華やかな祝祭だが、ここでは冬を越すための覚悟を確かめ合う場だ。


「それじゃあ、食うか!」


 村長の号令とともに、村人たちが一斉にテーブルに集まった。


 干し肉を取る者、パンを掴む者、スープを椀に注ぐ者——


 そして、タルトの前で、足を止める者。


「……なんだこれは」


「初めて見るぞ」


「甘い匂いがする」


 リゼットは、布を取った。


 タルトが、焚き火の光を受けて輝いた。




 最初に手を伸ばしたのは、子どもだった。


 十歳くらいの男の子が、恐る恐るタルトを一切れ取る。他の子どもたちも、それに続いた。


「食べていいのか?」


「もちろんです。どうぞ」


 リゼットが頷くと、男の子は一口、タルトを齧った。


 ——そして、目を見開いた。


「……甘い」


 その言葉に、周りの大人たちがざわついた。


「甘い?」


「本当か?」


 他の子どもたちも、タルトを口に運んだ。そして、一人、また一人と——笑顔になった。


「甘い! 本当に甘い!」


「こんな味、初めて!」


「おいしい!」


 子どもたちの歓声が、広場に響いた。




 大人たちも、タルトに手を伸ばし始めた。


「どれ、俺も——」


 村の男たちが、タルトを一切れ取る。一口食べて——固まった。


「……なんだこれは」


「胡桃が、こうなるのか」


「りんごが、こんなに……」


 言葉にならない驚きが、広場を満たしていく。


「甘いな。本当に甘い」


「辺境で、こんな味が食えるとは思わなかった」


「これが、菓子ってやつか」


 村の女たちも、タルトを食べている。目を細めて、何度も頷いている。


「霜花蜜を、こんな風に使えるのね」


「黒胡桃、焙煎するとこんなに香ばしくなるのか」


「りんご、煮るだけでこんなに甘くなるなんて」


 テーブルの端で、エルザばあちゃんがゆっくりとタルトを口に運んだ。


 しわだらけの顔が、ほころんだ。


「ああ……」


 震える声だった。


「甘いって、こういうものなのかい」


 小さな目に、涙が光っている。


「七十年生きてきて、こんな味は初めてだよ。初めてだ」


 エルザは、リゼットを見た。


「ありがとうね、菓子師さん。あたしゃ、死ぬ前にいいものを食べた」


 リゼットは唇を噛んだ。泣いてはいけない。笑顔で受け取らなければ。


「エルザさん……まだまだ、たくさん作りますから」


「そうかい。じゃあ、もう少し長生きしなきゃいけないねえ」


 エルザは皺くちゃの顔で笑って、もう一切れ、タルトに手を伸ばした。


 リゼットは、その光景を見つめていた。


 辺境の村に、初めて「菓子」が存在した日。




 タルトは、あっという間になくなった。


 子どもたちは、まだ食べたそうにテーブルの周りをうろうろしている。大人たちは、焚き火の前で酒を飲みながら、タルトの話をしている。


「あんなもの、生まれて初めて食った」


「辺境でも、あんな味が作れるんだな」


「マリーの宿の新しい菓子師、大したもんだ」


 リゼットは、その声を聞きながら——泣きそうになっていた。


 菓子を、喜んでもらえた。


 辺境の素材だけで、王都の菓子に負けないものを作れた。




「リゼ」


 マリーが、リゼットの隣に座った。


 手に、タルトの最後の一切れを持っている。


「あたしね、辺境に生まれて、甘いもの食べたの、これが初めてかもしんない」


 マリーの声が、震えていた。


「蜂蜜は、傷の手当てに使うもんだと思ってた。胡桃は、そのまま齧るもんだと思ってた。りんごは、酸っぱいもんだと思ってた」


 マリーは、タルトを一口食べた。


「でも、こんな風になるんだね。こんなに、甘くなるんだね」


 そして——泣いた。


「美味しい。本当に、美味しい」


 リゼットも、涙が溢れてきた。


「マリーさん……」


「ありがとうね、リゼ。あたしの宿に来てくれて、ありがとう」


 二人は、焚き火の光の中で、泣きながら笑っていた。




 焚き火の炎が、ゆっくりと揺れている。


 村人たちの笑い声が、広場に響いている。


 リゼットは、その光景を見つめていた。


 ここは、王都じゃない。


 辺境の、小さな村。


 でも——


 リゼットは、ここで菓子を作れる。


 ここで誰かを笑顔にできる。


 それだけで、十分だ。




「……まだ、残っているか」


 低い声が、背後から聞こえた。


 振り返ると——セドリックが、タルトの前に立っていた。


 テーブルには、もうタルトは残っていない。


 でも、リゼットは——一切れだけ、取っておいた。


 セドリックのために。


 二人の、目が合った。


 セドリックの表情は、いつもと同じだった。


 でも——その瞳に、何かが灯っているのを、リゼットは見た。


 リゼットは、その一切れを差し出した。


 セドリックの手が、ゆっくりと伸びて——タルトを受け取った。


 大きな手。剣だこのある、武人の手。その指先に、小さなタルトが収まる。


「……いただこう」


 低い声が呟いた。


 セドリックがタルトを口に運ぶ。


 一口。


 噛む音が——リゼットの耳には、はっきりと聞こえた。


 大麦の生地が砕ける音。焙煎黒胡桃が歯に当たる音。霜花蜜が溶ける、かすかな音。


 セドリックの咀嚼そしゃくが——止まった。


 彼の目が、わずかに見開かれた。


 眉の間に、微かなしわが寄る。


 唇が——震えている。


 リゼットは固唾かたずを呑んで、その顔を見つめた。

歩人です。第9話、収穫祭のクライマックスはいかがでしたでしょうか!

木の実タルトを頬張る村人たちの笑顔、そして「甘い」という言葉が初めて生まれる瞬間——この情景を書くのが本当に楽しくて、筆が止まりませんでした。

リゼットの菓子が、辺境に小さな幸せを灯した日。次話で Arc 1 完結です。彼女の決意の行方をぜひ見届けてください!


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