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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
辺境の一皿

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8/11

第8話: 折れそうな夜

 収穫祭まで、あと一日。


 リゼットは厨房の片隅で、崩れたタルトを見つめていた。


 焼き上がりの時点で——もう、駄目だった。生地の縁が焦げている。中心部は生焼け。木の実の詰め物が流れ出し、皿の上でどろどろの甘い泥になっている。


 温度が、高すぎた。松材の薪は火力が強すぎる。石窯は蓄熱してどんどん温度が上がっていく。ふたを閉じても火を弱めても、一度熱し過ぎた窯は言うことを聞かない。


 これで——何度目だろう。


 リゼットはかまどの前に膝をついて、窯の口を覗き込んだ。まだ赤々と炭が燃えている。熱気が顔を撫でて、汗が頬を伝う。


 もう一度、最初から。薪の量を減らす。温度を低く保つ。窯を休ませる時間を増やす。


 ——でも、時間がない。収穫祭は明日の昼だ。


「……もう一回」


 呟いて立ち上がった瞬間、膝が震えた。気づけば、朝からずっと厨房にいる。マリーが昼に持ってきてくれたパンは、半分も食べずに皿に残ったままだった。


 手を伸ばして、レシピ帳を開く。母の字が、蝋燭の明かりでゆらゆら揺れた。


 ——タルト生地は冷やした状態で窯へ。温度は中火より少し弱く。


 母のレシピは、王都の窯を前提にしている。煉瓦れんがで内壁を張った温度調節の効く大きな窯。燃料は炭。温度計がついている。


 ここには何もない。石を積んだだけの素朴な窯と、松材の薪しかない。


 温度計も、ない。


 リゼットは窯の前にしゃがみ込み、手のひらを窯口にかざした。熱の伝わり方で温度を読む——菓子師の基本だ。てのひらが熱くなる速さ、熱気の匂い、石の色。それで温度を推測する。


 だが、辺境の窯は王都の窯と違う。熱のこもり方が違う。燃え方が違う。母のレシピ帳には書いていない、辺境の窯独自の癖がある。


 ——この癖を、リゼットはまだつかめていない。




 何度目かの試作を窯に入れて、リゼットは窯口の前で膝を抱えて座っていた。


 蝋燭の灯りだけが厨房を照らしている。窓の外はもう完全に暗い。村の家々の灯りも、半分ほどは消えていた。村人は早寝早起きだ。日が暮れれば眠り、夜明けとともに起きる。


 リゼットだけが、まだ起きている。


 窯の中でタルトが焼ける音。ぱちぱちと泡立つ霜花蜜の音。木の実が焦げる直前の、甘い匂い。


 リゼットは膝にあごを乗せて、窯の奥の赤い炎を見つめた。


 ——味は、近づいている。


 霜花蜜の甘さと、黒胡桃の香ばしさと、高原りんごの酸味の組み合わせ。この三つのバランスは正解だ。昨日の試作で、それは確信した。マリーが試食して「リゼ、これ美味い! もう完璧じゃない?」と言ってくれた。


 でも——見た目が、駄目なんだ。


 焼き色がまだらになる。生地が崩れる。表面が焦げて、中が生焼けになる。


 宮廷では、見た目が完璧でなければ菓子とは呼ばれない。黄金比で整った円形。均一な焼き色。装飾の精緻せいちさ。それが宮廷菓子師の矜持きょうじだった。


 辺境では——そこまで求められていないかもしれない。マリーさんは「味が良ければいいじゃないか」と言ってくれた。


 でも、リゼットが許せない。


 菓子師として——自分が納得できるものを、出したい。収穫祭は、村の一年で一番大切な日だ。初めて村人が「甘味」に出会う日だ。


 その日に、崩れたタルトを出すわけにはいかない。


 窯の中から、焦げた匂いがした。


 リゼットは慌てて窯口を開けた。熱気と煙が噴き出す。目を細めながら布で手を包み、タルトを引き出す。


 ——やっぱり、焦げている。


 縁が真っ黒だ。中心部は焼けているが、詰め物があふれて、石窯の底に焦げついている。


 リゼットはタルトを作業台に置いた。そして——計量匙スプーンを手に取ろうとして、手が震えて落とした。


 からん、と金属の音が厨房に響いた。


 静けさの中で、その音がやけに大きく聞こえた。


「……」


 リゼットはしゃがみ込んで、落ちた匙を拾おうとした。だが手が震えて、なかなか掴めない。


 ——何をやっているんだろう、リゼットは。


 宮廷でも、追放された。不要だと言われた。お前の菓子はもう要らない、と。


 ここに来て——やっと、菓子を焼く場所を得た。マリーさんが厨房を使わせてくれた。村人が「美味しい」と言ってくれた。


 でも——また、失敗している。


 窯が使えない。温度が読めない。薪の癖が分からない。


 母のレシピ帳は役に立たない。王都で培った技術が通じない。


 ここでも、リゼットの菓子は——


 リゼットは床に座り込んで、膝を抱えた。


 計量匙が、足元で冷たく光っている。




 扉が開いた。


「まだやってるのかい」


 マリーの声。


 リゼットは顔を上げた。マリーが厨房に入ってきて、窯の前のリゼットを見下ろしている。寝間着にショールを羽織った格好だ。


「マリーさん……こんな時間に」


夜更よふけに厨房から煙が出てるんだ。そりゃ見に来るさ」


 マリーはリゼットの隣にしゃがみ込んだ。それから、作業台に並んだ失敗作のタルトを見た。五つ。六つ。どれも焼き色がまだらで、縁が焦げて、見た目がぐちゃぐちゃだ。


「……これ、全部今日作ったのかい?」


「はい……でも、どれも駄目で……温度が高すぎて、焼きムラが出て」


「味は?」


「味は——近づいています。霜花蜜と黒胡桃のバランスは、これで良いと思うんです。でも、見た目が」


「味が良いなら、いいじゃないか」


 マリーがあっさり言った。


「でも……」


「あんた、完璧主義すぎるよ」


 マリーはそう言って、一つのタルトを手に取った。縁が焦げているやつだ。端を指で割って、口に入れる。


 もぐもぐと咀嚼そしゃくして、マリーの表情がふっと緩んだ。


「……うまいじゃないか」


「でも、焦げて——」


「焦げてる部分は取ればいいのさ。中は完璧だよ。この甘さ、この香り——リゼ、あんたすごいよ」


 リゼットは首を横に振った。


「違うんです。わたしは——宮廷菓子師だったんです。見た目が完璧でなければ、菓子じゃない。そう教わって、そうやって作ってきたのに……ここでは、何もできない……」


 声が震えた。


 マリーはリゼットの肩に手を置いた。大きくて温かい手だった。


「リゼ」


「……」


「あんたの菓子は、ここの人を笑顔にしてるんだよ」


 リゼットは顔を上げた。


「ビスコッティ食べた時のじいさんの顔、見たかい? あの人、五年ぶりに笑ったんだよ」


「……え」


「あの人の息子がね、五年前に魔物に殺されたんだ。それ以来ずっと、笑うことをやめちまった。でもあんたの菓子を食べた時——『こんな味、初めてだ』って、笑ったんだよ」


 マリーの声は、いつもより低かった。だけど、温かかった。


「あんたの菓子はね、リゼ。ここの人に、何かを思い出させてる。忘れてたものを、取り戻させてる」


「……」


「完璧じゃなくていいんだよ。甘けりゃいいのさ、ここの人には」


 リゼットの目が、熱くなった。泣きそうになるのをこらえて、うつむいた。


「……ありがとうございます」


「礼はいらないよ。あたしこそ、あんたに感謝してるんだから」


 マリーは立ち上がった。


「もう寝な。明日は大事な日だろ?」


「……はい」


「窯の火、ちゃんと消してから寝るんだよ」


「はい」


 マリーは厨房を出ていった。足音が階段を登っていく音が聞こえて、やがて静かになった。


 リゼットは一人、厨房に残された。


 だが——さっきまでの暗い気持ちが、少しだけ軽くなっていた。


 マリーさんの言葉が、胸に残っている。


 ——あんたの菓子は、ここの人を笑顔にしてる。


 もう一度だけ、やってみよう。




 リゼットは立ち上がって、窯の火を落とそうとした。


 そのとき——厨房の裏口に、何か置いてあることに気づいた。


「……?」


 裏口は宿屋の勝手口で、薪置き場に通じている。いつもは閉まっているはずだが、今日は半分開いていた。


 その入り口に——薪が、積まれている。


 リゼットは近づいて、その薪を見た。


 松材じゃない。


 木肌が滑らかで、色が濃い。ならの薪だ。


 火力が穏やかで、じっくり焼くのに向く薪。王都の菓子房でも使っていた。だが辺境では見たことがない。松材ばかりだ。この辺りでは楢は貴重で、建材にしか使わないとマリーさんが言っていた。


 リゼットは薪を一つ手に取った。


 丁寧に割られている。断面が綺麗だ。ふしがなく、均一な厚さに揃えられている。


 ——誰が、こんな時間に?


 薪置き場に続く小道を覗く。だが人の姿はない。月明かりだけが、薪小屋の屋根を照らしている。


 リゼットは薪を抱えて、厨房に戻った。


 これだけの量があれば——明日の朝、もう一度焼ける。


 誰が置いたのか。こんな時間に。わざわざ楢の薪を割って、ここに置いていった人。


 ——セドリック様?


 確証はない。でも、この薪の割り方には見覚えがあった。


 数日前——厨房の窓から、セドリックが薪を割っているのを見たことがある。おのを正確に振り下ろして、一撃で薪を二つに割る。無駄のない動き。割られた薪は、まるで刃物で切ったように断面が綺麗だった。


 この薪も——同じだ。


 リゼットは薪を窯の脇に並べた。それから、一つ手に取って、窯に火を入れた。


 松材とは違う、静かな火だった。炎がゆっくり燃え上がり、煙が少ない。窯の中の温度が、じわじわと上がっていく。


 リゼットは窯口に手をかざした。熱気が、優しく掌を撫でる。


 ——これなら。


 温度が、安定している。


 松材のように急激に熱くならず、ゆっくりと窯全体に熱が広がっていく。これなら、タルトを焦がさずに焼ける。


 リゼットは作業台に戻った。最後の大麦粉と、バターと、霜花蜜と——もう一度、タルト生地を作り始めた。


 手が、震えていない。


 マリーさんの言葉と、この楢の薪が——折れかけた心を、支えてくれている。




 夜が深くなる。


 窯の中でタルトが焼ける音が、静かに響いている。


 リゼットは窯口の前で、両手を組んで待っていた。


 楢の薪は、本当に優しい火だった。温度が安定して、窯の中が均一に熱せられていく。石窯の底に手を入れても、焦げ付きがない。


 時間をかけて、ゆっくり焼く。


 霜花蜜が泡立つ音。木の実が温まって香ばしくなる匂い。生地が膨らんで、縁に焼き色がつく瞬間。


 ——もう少し。


 リゼットは窯口を覗き込んだ。タルトの表面が、黄金色に輝いている。焼きムラがない。縁も焦げていない。


「……焼ける」


 呟いた声が、厨房に響いた。


「これなら——焼ける」


 タルトを窯から出す。布で包んだ手に、ずっしりとした重みが伝わってくる。


 作業台に置いて、蝋燭の明かりで見た。


 完璧だった。


 表面は均一な黄金色。縁はきつね色に焼けて、香ばしい匂いがする。木の実の詰め物は溢れず、生地の中にしっかり収まっている。霜花蜜の甘い香りと、黒胡桃の香ばしさと、高原りんごの爽やかな酸味が——全部、一つになっている。


 リゼットは息を吐いた。


 手が震えている。今度は、恐怖じゃない。


 ——できた。


 初めて、辺境の窯で、完璧なタルトを焼けた。


 王都のレシピじゃない。母の手帳に載っていない、辺境だけの菓子。


 リゼットはタルトに触れた。まだ温かい。指先に、生地の柔らかさが伝わってくる。


 窓の外が、少しずつ白んできていた。夜明けが近い。


 収穫祭の朝が、来る。


 リゼットは厨房の窓を開けて、外を見た。冷たい風が、顔を撫でる。


 遠くで、一番鶏が鳴いた。


 村が、目覚め始める。


 リゼットは小さく笑った。涙が一粒、頬を伝った。


 でも——悲しくはなかった。


 ただ、嬉しかった。


 リゼットの菓子が——ここで、焼けた。




 厨房の裏口に、もう一度目を向けた。


 楢の薪は、まだいくつか残っている。


 誰が置いていったのか——確証はない。


 でも、リゼットは思う。


 ——セドリック様。


 もし本当に、あなたが置いてくれたのなら。


 ありがとうございます。


 言葉にはしない。でも、心の中で、何度も繰り返した。


 窓の外で、朝の光が村を照らし始めていた。


 収穫祭の日が、始まる。

歩人です。第8話、前夜の失敗と励ましのシーンを読んでいただきありがとうございます。

マリーの温かさと、セドリックが黙って薪を運んでくる不器用な優しさ——この対比が書いていて心に染みました。

リゼットが立ち上がる力をもらう瞬間が、個人的に一番好きなシーンです。次話でついに収穫祭当日! 辺境に「甘い」が生まれます。


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