表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
辺境の一皿

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/11

第6話: 窓辺の騎士

 山ベリーを摘んできたのは、村の子供たちだった。


 麻布の巾着いっぱいに、つやつやした紫がかった赤い粒が転がっている。小指の先ほどの小さな果実は、手に取るとすぐに潰れてしまいそうなほど柔らかい。一粒つまんで口に含むと、びりりと舌を刺す酸味が広がった。


「酸っぱいでしょう? でも、甘くなるんですよね」


 子供たちはきらきらした目でリゼットを見上げてくる。昨日のビスコッティが村中に評判になったらしい。こんな小さな村で、噂が広がるのは早い。


「ええ、甘くなりますよ。煮詰めてジャムにすれば、それはそれは美味しいんです——」


 思わず早口になっていた。リゼットは咳払いをして、子供たちに礼を言う。


「ありがとう。大事に使わせてもらいますね」


 子供たちは満足そうに笑って駆けていった。




 宿屋の厨房で、リゼットは山ベリーを丁寧に洗い、水気を切る。小さな鍋に移し、霜花蜜を少しずつ加えながら火にかけた。


 木べらでかき混ぜると、果実がすぐにとろけ始める。酸味と甘みが混ざり合って、湯気とともに立ち上る香りが厨房を満たす。深い赤紫の色が、煮詰まるにつれてつやを増していく。


「わあ、いい匂い!」


 マリーが覗き込んでくる。


「山ベリーのジャムです。酸味が強いので、霜花蜜を多めに——でも入れすぎると果実の風味が死んでしまうから、この加減が——」


「はいはい、リゼは本当に菓子のことになると止まらないねえ」


 マリーはくすくす笑いながら、リゼットの肩を叩いた。


「明日の朝食に出してもいいかい? パンに合うだろう」


「もちろんです! ぜひ!」




 翌朝、宿屋の食卓に並んだ焼きたてのパンと、小さな陶器の器に盛られた山ベリーのジャム。


 村の男たちが、恐る恐るパンにジャムを塗って口に運ぶ。そして、顔色が変わった。


「なんだこれは……!」


「果物がこんな味になるのか……!」


「酸っぱいだけの山ベリーが、こんなに甘く……?」


 驚きと喜びの声が食卓を包む。リゼットは厨房の隅で、その光景を見ながら胸が温かくなった。


 王都では当たり前だったジャム。でも、ここでは違う。ここでは、小さなジャム一瓶が、こんなにも人を喜ばせる。




 日々は、穏やかに過ぎていった。


 リゼットは宿屋の手伝いをしながら、厨房で試作を繰り返す。掃除、配膳、薪割り。王都にいた頃には想像もしなかった仕事だけれど、手を動かしているうちに、不思議と心が落ち着いていく。


 そして合間を見つけては、厨房で新しい菓子を試す。辺境の素材は限られているけれど、だからこそ一つ一つの素材と向き合う時間が増えた。黒胡桃の焙煎具合、霜花蜜の濃度、山ベリーの煮詰め方——。


 絶対味覚が、今までになく冴えている気がする。




 その日の夕刻、宿屋の扉が開いた。


 セドリックだった。


 北の見回りから戻ったのだろう。黒い外套には雪が薄く積もっている。彼はいつものように無言で席に着き、マリーが出した食事に手をつけた。


 リゼットは厨房の隅から、そっと様子を伺う。


 セドリックは、淡々と食事を口に運ぶ。味わっている、というよりは、作業のように見える。噛んで、飲み込む。ただそれだけ。


 ——あの人は、食事を楽しんでいるのだろうか?


 ふと、そんな疑問がリゼットの頭をよぎった。


 厨房に戻ると、山ベリーのジャムがまだ少し残っている。小さなスプーンですくって、陶器の小皿に盛る。


 深呼吸をして——リゼットは食堂に戻った。


「あの……セドリック様」


 声をかけると、彼は顔を上げた。無表情のまま、リゼットを見る。


「これ、よろしければ……山ベリーのジャムです」


 小皿を差し出す。


 セドリックは一瞬、ジャムを見つめた。そして——迷うように視線を揺らした後、小さく頷いた。


「……いただこう」


 スプーンを受け取り、ジャムをすくって口に運ぶ。


 沈黙。

 長い、長い沈黙。


 彼の表情は、変わらない。

 何も感じていないように見える。

 でも——違う。何かが、彼の中で動いている気がする。わずかに眉が寄せられ、目が細められる。


「……甘いか、これは」


 ぽつりと、呟くような声。


 リゼットは一瞬、言葉を失った。


「……え?」


「甘いのか、と聞いている」


 セドリックは、じっとリゼットを見た。その目には——何があるのだろう。


「は、はい……甘いですよ。山ベリーと霜花蜜で、煮詰めて——酸味と甘みのバランスを整えて——」


 早口になる。止まらない。でも、セドリックの表情は動かない。


「そうか」


 それだけ言って、彼は立ち上がった。


「ごちそうさま」


 そして、宿屋を出ていく。




 リゼットは呆然と、その背中を見送った。


 ——甘いか、これは。


 あの問いかけは、何だったのだろう。


 味が、分からないのだろうか?


 いや、そんなはずは——でも、もしそうだとしたら——。


「マリーさん」


 リゼットは厨房に戻り、食器を洗っているマリーに声をかけた。


「セドリック様は……味が、分からないんですか?」


 マリーの手が、一瞬止まった。


 そして——ゆっくりと、皿を置く。


「あの子の口から、聞いたことはないよ」


 静かな声だった。


「でも……食事を楽しんでる顔、見たことないね。3年前の大侵攻の後から」


「大侵攻……?」


「ああ。3年前、魔物の大群がこの村を襲った。セドはまだ19だったけど、たった一人で村を守り抜いた。でも——その時、何かがあったんだろうね。それ以来、あの子は食事を『栄養補給』としか見てない」


 マリーは、遠い目をした。


「味が分からないのか、それとも分かっていても感じないのか——分からないけど。ただ、あの子にとって食事は『生きるための作業』なんだろう」


 リゼットの胸に、小さな棘のような何かが刺さった。


 味が分からない世界。

 食べることが、ただの作業になる世界。

 菓子師として——いや、一人の人間として、それがどれほど孤独なことか、想像もつかない。




 その夜、リゼットは部屋に戻ってもなかなか眠れなかった。


 マリーの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


 味が分からない。食事が作業。3年間。


 リゼットは毛布の中で、自分の指先を見つめた。火傷の跡がいくつもある菓子師の手。この手は「美味しい」を作るためにある。誰かの舌に甘さを届けるためにある。


 もし、味が分からない人がいるなら。その人にも届く菓子を、作れないだろうか。


 どうすれば届くのか、まだ分からない。でも、考えることをやめたくなかった。


 レシピ帳を開いて、小さく書き加える。


 『味覚を失った人に、菓子は届くか?』


 答えはまだない。


 でも、今日セドリック様は「甘いか」と聞いた。あれは、味を知りたかったのではないだろうか。


 リゼットはレシピ帳を閉じて、目を閉じた。


 窓の外で、風が枝を揺らす音がした。白霜の森の方角から、かすかに木の実の匂いが漂ってくる。


 明日も、厨房に立とう。

歩人です。第6話、セドリックの「香りに足を止める」シーンを読んでいただきありがとうございます。

彼の味覚障害の伏線をさりげなく入れつつ、リゼットとの距離感を少しずつ詰めていく——このバランスが難しくも楽しかったです。

次話でいよいよ収穫祭の準備が始まりますよ!


下にある☆☆☆☆☆をクリックして★★★★★にしてくれたら作者が喜びます!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ