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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
世界で一番甘い朝

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42/42

第42話: 世界で一番甘い朝

 牛乳が、温まっていく。


 夜明け前の工房。石窯には火を入れていない。今朝は窯を使わない。鍋をひとつ、炉の上に載せただけだった。弱い炭火。橙色の光が、銅鍋の底をほんのり照らしている。


 白い牛乳が、ゆっくりと揺れる。


 リゼットは鍋の縁に指先をかざした。まだ、ぬるい。人肌よりすこし上。沸かしてはいけない。沸騰させたら牛乳の甘みが飛ぶ。膜が張る前に——ここ。この温度。舌の先が覚えている、あの境目。


 今朝焼くのは——菓子と呼べるのかさえ分からないものだった。




 婚礼の朝だった。


 昨夜、リゼットは工房で眠った。マリーさんに「花嫁が目の下にくまを作ってどうすんの」と叱られたけれど、結局ここに戻ってきてしまった。寝台の上で天井を見つめていたら、体が勝手に起き上がって、裸足で石の床を踏んで、エプロンに手を伸ばしていた。


 菓子師の朝は、いつもこうだ。


 考えるより先に、手が動く。


 昨日まで、婚礼菓子の試作を続けていた。辺境の素材を贅沢に使った木の実のタルト。焦がしバターのフィナンシェ。高原りんごを丸ごと焼いた焼きりんご。霜花蜜のボンボン。プティフールの詰め合わせ。


 どれも美味しかった。どれも——自信作だった。


 でも、どれも違った。


 セドリック様のための婚礼菓子として——どれも、重かった。素材が多すぎる。技巧が入りすぎる。わたしの腕を見せるための菓子になっている。


 婚礼菓子は——誰のためのものだろう。


 品評会の審査員のためではない。王都の貴族のためでもない。工房を訪れる客人のためでもない。


 たった一人の——あの人のための菓子。


 あの人が「一番分かる」味。


 それは何だろう、と自分に問うた。木の実のタルトの複雑な風味ではない。焼きりんごの甘酸っぱさでもない。プティフールの繊細な技巧でもない。


 もっとシンプルな。もっと——素朴な。


 毎朝のパンケーキを思い出した。小麦粉と卵と牛乳とバターと蜂蜜。あの素朴な味を、セドリック様はいちばんゆっくり咀嚼そしゃくしていた。


 もっと削れる。


 小麦粉を抜こう。卵を抜こう。バターを抜こう。


 残るのは——牛乳と、蜂蜜。


 辺境の牛乳。霜花蜜。


 素材ふたつ。


 それだけで——できる菓子がある。




 ミルクプリン。


 鍋の中で牛乳が適温に達した。指先で縁に触れると、ほの温かい。まだ湯気も立たない。ここだ。


 霜花蜜の瓶を取った。棚の奥に仕舞っておいた、とっておきの一瓶。昨年の冬、白霜の森で採れた最後の蜜。透明で、光にかざすと淡い金色に輝く。花の香りを封じ込めた、辺境だけの——宝物。


 さじすくった。とろり、と粘る蜜が匙から糸を引いて落ちる。鍋の中に——ゆっくりと。


 白い牛乳の中に、金色の蜜が沈んでいく。混ぜた。木の匙で、静かに、ゆっくりと。渦を描いて——白と金が溶け合う。


 ゼラチンをひとかけ、落とした。透明な薄片が白い渦の中に音もなく消えた。


 甘い匂いが——立った。


 花の香り。霜花蜜の、冬の花から集めた透明な甘さ。それが温められた牛乳と出会って、ほわりと空気に広がる。


 工房の中が——甘くなった。


 火から下ろした。


 白い器を二つ並べた。セドリック様の分と——自分の分。いつもの二つ。同じ大きさの、白い器。


 鍋から器に注ぐ。とろりとした液体が、白い器を満たしていく。


 これを——冷やす。


 辺境の朝の冷気が、窓の外にある。四月半ば。雪解けの季節。夜はまだ冷え込む。窓を開ければ、氷点下に近い空気が流れ込む。


 窓際に器を置いた。白い器が二つ、朝の闇の中に並んでいる。


 あとは——待つだけだ。


 冷気がゆっくりと蜜の甘さを閉じ込めて、牛乳がとろりと固まっていく。火も要らない。窯も要らない。技巧も——要らない。


 素材を信じて、待つ。それだけの菓子。


 宮廷菓子師として十八年の人生で——いちばんシンプルな菓子だった。


 リゼットは窓辺に立った。器の横に手を添えた。白い陶器が、夜の冷気を吸って冷えていく。


 思えば——遠くまで来た。


 王都の宮廷菓子房。砂糖と香辛料と発酵バターに囲まれた、あの輝かしい厨房。リゼットが十五歳から三年間を過ごした場所。最高の素材と最高の道具があった場所。


 「もう不要だ」と言われて、追い出された場所。


 馬車で三日。王都から辺境へ。荷物ひとつとレシピ帳と、手に残った菓子師の技だけを持って。


 辺境には砂糖がなかった。バターは高価で、果実は少なく、甘味の文化がなかった。


 でも——木の実があった。蜂蜜があった。高原りんごがあった。痩せた土地だけれど、この土地にしかない素材があった。


 その素材で——焼いてきた。


 木の実タルト。焼きりんご。プティフール。


 そして——ミルクプリン。


 アークが進むたびに、菓子がシンプルになっていった。素材の数が減り、技巧が削ぎ落とされ、最後に残ったのは——牛乳と蜂蜜だけ。


 それでいい、とリゼットは思った。


 菓子師として積み重ねてきた全部が——この二つの素材を「信じる」ことに集約されている。足さなくていい。飾らなくていい。辺境の牛乳と霜花蜜の力を信じて、ただ器に注いで、冷やすだけ。


 最もシンプルで——最も、むずかしい菓子。


 素材がすべてを語る菓子。ごまかしが利かない菓子。


 でも——これがいい。


 この人には——これがいい。




 空が白み始めた。


 窓の外、東の山の稜線が藍色から薄紫に変わっていく。辺境の春の夜明け。冬の厳しさが薄れて、空気がほんのすこしだけ柔らかい。雪解けの匂い。土の匂い。芽吹きの気配。


 工房の扉が——叩かれた。


「リゼ、起きてる?」


 マリーさんの声。


「はい。入ってください」


 扉が開いた。マリーさんが顔を出した。栗色の髪をいつもより丁寧にまとめている。エプロンは——新しいのを下ろしたのだろう。白くて皺ひとつない。


「やっぱりここにいた。あたしの部屋にいないから、まさかと思ったら——」


 マリーさんが工房の中を見回した。窓辺に並んだ二つの白い器。炉の上に置かれた空の鍋。霜花蜜の瓶。


「……何、作ったの」


「ミルクプリン」


「ミルクプリン?」


 マリーさんが首をかしげた。


「牛乳と霜花蜜だけ。それだけです」


「それだけ? 婚礼菓子が?」


「はい」


 マリーさんが——しばらく黙った。窓辺の器を見て、リゼットの顔を見て、もう一度器を見た。


 それから——笑った。


「あんたらしいよ」


 その一言で——胸のつかえが、すとん、と落ちた。


「さ、支度しな。花嫁さん。——あたしが髪やってあげるから」




 白い服を着た。


 宮廷の正装ではない。マリーさんが仕立ててくれた、辺境の白い麻の服。袖は七分丈で、裾は膝の少し下。レースも宝石もない。ただ胸元に、白霜の森の花の刺繍がひとつだけ入っている。マリーさんの手仕事だった。


「マリーさん、この刺繍——」


「霜花の花。あんたの菓子の原点でしょ」


 蜂蜜色の髪を、マリーさんがゆるく編んでくれた。いつもの三つ編みではなく、緩やかな編み込み。後れ毛を数本残して——それが、リゼットの頬にかかる。


「かわいい。うん、かわいいよリゼ」


「マリーさん——目、赤いですよ」


「赤くない。朝の冷気のせいだよ」


 嘘だった。




 村の広場に、人が集まっていた。


 辺境の婚礼は、大きな教会も豪華な祭壇もない。広場の中央に小さな台を置いて、その上に花を飾って、それだけだった。辺境伯の婚礼とは思えないほど質素で——辺境らしく、温かかった。


 村人たちの顔が見える。猟師のおじさん。パン屋のおかみさん。鍛冶屋の親方。工房に菓子を買いに来てくれる女の子たち。冒険者の常連さん。商隊の隊長。


 みんな——笑っていた。


「リゼットさん!」


 フィーネが駆け寄ってきた。両手いっぱいに白い花を抱えている。雪解けの野に咲く、辺境の早春の花。花びらが小さくて、ほんのりと甘い匂いがする。


「フィーネちゃん、きれい」


「あ、あたしの花なんかより——リゼットさんのほうが、きれい」


 フィーネの頬が赤い。花を差し出す手が震えている。十二歳の弟子。卵を割るのが苦手で、生地を混ぜるのは上手で、いつかきっと素敵な菓子師になる——わたしの、最初の弟子。


「ありがとう、フィーネちゃん」


 花を受け取った。白い花びらが、朝の光を透かしてほんのり金色に光っていた。




 セドリック様が——いた。


 広場の端。台座の横。


 灰銀色の髪。いつもの——ではなかった。革鎧ではない。質素な、だが清潔な白い上衣。辺境の布地で仕立てた、飾りのない服。腰に剣はいていない。


 それだけで——別人のように見えた。


 いや、違う。別人なのではない。鎧を脱いだだけだ。鎧の下にいた人が、そのまま立っている。長身で、肩幅が広くて、左の頬から顎にかけて古い傷跡があって。


 青灰色の目が——リゼットを見つめていた。


 リゼットは、歩いた。


 広場を横切って。村人たちの間を抜けて。マリーさんが泣きそうな顔で見守る横を通って。フィーネが花を握りしめている横を通って。


 セドリック様の前に——立った。


 見上げた。百五十八センチから、百八十五センチを。いつもの距離。いつもの角度。


 セドリック様の耳が——赤かった。


「……来たか」


「はい」


 それだけだった。


 辺境の婚礼に、長い式辞はない。神官が祝福の言葉を述べ、二人が手を重ね、誓いの言葉を交わす。それだけ。約束は短く、実行は長く——辺境では、そういうものだった。


 セドリック様の手が——差し出された。


 大きな手。剣だこのある手。リゼットの頬の涙を不器用に拭った、あの手。


 リゼットは——その手を取った。


 菓子師の手。火傷跡のある指先。小さな手が、大きな手の上に重なった。


 神官の声が聞こえた。祝福の言葉が、春の風に乗って広場に響いた。でもリゼットの耳に入っていたのは——セドリック様の手の温度だけだった。掌が温かい。革手袋をしていない素手が、こんなにも——温かい。


「——誓いますか」


 神官の問いに、セドリック様が答えた。


「……ああ」


 短い。たった一音。でもその一音に——この人のすべてが詰まっていた。


「リゼット・フォン・メルヴェーユ。誓いますか」


「誓います」


 声が震えた。震えたけれど——はっきりと。


 広場から——拍手が上がった。


 辺境の拍手は、王都の拍手とは違う。格式もなく、揃いもしない。ただ大きくて、温かくて、ばらばらで——それが、よかった。


 マリーさんの声が聞こえた。


「おめでとう——ッ」


 泣いていた。


 はっきりと、泣いていた。ハンカチで顔を覆って、肩を震わせて。でもその合間に「泣いてない」と言い張っているのが聞こえて——リゼットも笑ってしまった。泣きながら。




 婚礼の祝宴は、村の広場で行われた。


 テーブルを並べて、マリーさんの宿屋の料理と、村人たちが持ち寄った食べ物が並んだ。黒パンとチーズと干し肉。芋の煮物。山羊のミルクスープ。辺境の質素な料理。でもテーブルの上には——リゼットが昨日まで焼いた菓子もあった。


 試作品たち。婚礼菓子に選ばれなかったフィナンシェや木の実タルトやクッキー。余った分をすべて広場に並べた。


 村の子どもたちが群がった。甘いものが辺境の日常になったのは、リゼットが来てからだ。この一年半で、辺境の食卓は変わった。


 でも——婚礼菓子は、まだ出していない。


 それは——二人きりの場所で。




 祝宴の喧騒を抜けて、リゼットは工房に戻った。


 セドリック様がついてきた。何も言わず。誰にも告げず。マリーさんだけが気づいて——何も言わずに、にっと笑った。


 工房の扉を開けた。


 朝の冷気で冷やしていたミルクプリンは——ちょうどよく固まっていた。窓辺の二つの白い器。表面がつるりと滑らかで、ほんのわずかに揺れる。指で触れると、ぷるん、と震えた。


 とろりとした固さ。スプーンを入れれば崩れる、やわらかな固さ。


 リゼットは器を一つ取り上げた。もう一つはそのまま。


 振り返った。


 セドリック様が、工房の入口に立っていた。白い上衣。剣のない腰。大きな体が扉の枠にぎりぎりで——いつもの風景だった。何度も見た風景。朝、菓子を食べに来るときの。


 でも今日は——婚礼の日で、この人はもう「領主さま」ではなく、わたしの。


「座ってください」


 セドリック様が——いつもの椅子に座った。窓際の。朝の光が斜めに差し込む。


 リゼットはセドリック様の前に器を置いた。


 白い器。白いミルクプリン。


 飾りはない。ソースもない。果実も、木の実も、粉砂糖も——何も載っていない。ただ、白い。


 セドリック様が——器を見た。


 困惑していた。


 この人は菓子の専門家ではないけれど、一年以上リゼットの菓子を食べ続けてきた。華やかな木の実タルトも、芳醇な焼きりんごも、繊細なプティフールも知っている。


 それが——白い器に、白い何か。


 匙を添えた。


「これが——婚礼菓子です」


 セドリック様の眉がかすかに動いた。器を見つめている。それから、リゼットの顔を見た。


 何かを訊こうとしたのかもしれない。でも——訊かなかった。


 匙を取った。


 白い表面に匙を入れた。ぷるん、と崩れる。掬い上げると、ゆるやかに匙の上でたわんだ。乳白色。かすかに金がかった透明感。霜花蜜の色だ。


 口に運んだ。




 沈黙。


 リゼットは息を止めていた。


 セドリック様の口の中で——辺境の牛乳と霜花蜜が溶けている。ただ、それだけ。素材ふたつ。菓子師の技巧はほとんど入っていない。温度を見極めたことと、蜜の量を舌で決めたこと。それだけが、リゼットの仕事。


 あとは——素材がすべてを語る。


 辺境の牛乳。痩せた土地で、寒い冬を越えて、春の若草を食んだ牛から搾った乳。王都の温室育ちの乳牛とは違う。脂肪が少なく、あっさりしていて——でも、加熱するとほのかな甘みが立つ。寒暖差が生んだ、辺境だけの味。


 霜花蜜。白霜の森の野生の蜜蜂が、冬の花から集めた蜂蜜。透明で、上品で、温めると花の香りが立つ。王都では無名だけれど——品質は宮廷の養蜂蜜を凌ぐ。


 そのふたつが——口の中で出会っている。


 セドリック様の咀嚼が——ゆっくりになった。


 いつものパンケーキを食べるときよりも、もっとゆっくり。舌の上で溶かすように。味の輪郭をなぞるように。


 二口目。匙がもう一度、器に入った。


 三口目。


 四口目——で、手が止まった。


 匙を、置いた。


 リゼットの心臓が跳ねた。


 まずかっただろうか。シンプルすぎただろうか。婚礼菓子として物足りなかっただろうか。もっと——もっと手の込んだものを——


「……これが」


 セドリック様の声。


 低い。かすれている。いつものぶっきらぼうな声ではなかった。喉の奥が詰まったような——あの日、丘の上でプロポーズしたときと同じ——声。


「世界で、一番甘い」


 リゼットの目が——見開かれた。


 世界で一番甘い。


 砂糖を使っていない。辺境の牛乳と蜂蜜だけ。王都の宮廷菓子の百分の一の甘さもない、素朴で淡い——それを。


 世界で一番甘いと——この人は言った。


 この人の舌は三年間、味を失っていた。リゼットの菓子で味覚が戻った。味が「分かる」ようになった。その舌が——牛乳と蜂蜜の淡い甘さを、世界で一番だと。


 涙が——出た。


 また、だ。この人の前だと——泣いてばかりだ。


 でも止まらなかった。止める気もなかった。


「毎朝、作りますよ」


 声が震えていた。涙声だった。鼻の奥がつんとして、自分の声が自分のものに聞こえなかった。


 セドリック様が——顔を上げた。


 青灰色の目が——潤んでいた。泣いてはいない。涙は落ちていない。でもあの目の奥に——こみ上げてくるものがあるのが見えた。


「……毎朝か」


「毎朝です」


 短い応酬。


 たった三文字と四文字。


 でもそこに——全部があった。


 明日の朝も。明後日の朝も。来月も。来年も。この先ずっと——毎朝、この人に菓子を作る。牛乳を温めて、蜂蜜を混ぜて、器に注いで、窓辺に置いて。あるいはパンケーキを焼いて。フィナンシェを焼いて。何でもいい。何だっていい。


 二人分の朝を、毎日。


 それが——リゼットの誓いだった。婚礼の言葉よりもずっと深い、菓子師としての誓い。


 セドリック様の手が——伸びた。


 テーブルの上で、リゼットの手を取った。匙を持ったままの手。小さな手を、大きな手が包んだ。剣だこのある指が、火傷跡のある指に重なった。


 強く。不器用に。でも——温かく。


「……泣くな」


「泣いてません」


「嘘だ」


「嬉し涙です」


「……それも、毎朝か」


「泣きません。——多分」


 セドリック様の唇が——動いた。ほんのわずかに持ち上がって、それは笑みと呼ぶにはかすかすぎて、でも確かに——この人が笑っていた。


 工房の窓から、春の朝日が差し込んでいた。雪解けの光。やわらかくて、温かくて、白い器を金色に染めている。


 二つの器。二つの匙。


 リゼットは空いた手でもう一つの器を引き寄せた。自分の分。セドリック様の隣に座った。


 匙を入れた。


 ぷるん、と崩れる。口に運んだ。


 ——甘い。


 牛乳の優しい甘さと、霜花蜜の透明な甘さ。ふたつだけ。それだけなのに——今まで作ったどの菓子よりも甘かった。


 隣で、セドリック様が残りを食べている。匙の音が——静かに響いていた。




 工房の扉が開いた。


「リゼ! セド! 何こっそり二人で——」


 マリーさんが飛び込んできた。その後ろからフィーネが顔を覗かせている。


 マリーさんの目が——真っ赤だった。


「泣いてないよ。風が——目にゴミが——」


「マリーさん、風は吹いてません」


「うるさいね!」


 マリーさんが腰に手を当てた。でも——笑っていた。泣きながら、笑っていた。


「……婚礼菓子は? 食べたの?」


「食べた」


 セドリック様が——答えた。短く。


「どうだった?」


 セドリック様は——リゼットを見た。それからマリーを見た。


「……甘かった」


 マリーさんが——また目を拭った。


「あんたがそう言うなら——世界一だね」


 フィーネが工房に入ってきた。小さな手にまだ白い花を握っている。テーブルの上の器を覗き込んだ。


「リゼットさん——あたしにも、いつか教えてくれますか。婚礼菓子の作り方」


 リゼットは笑った。


「いつか、ね。——フィーネちゃんが、作りたい人ができたら」


 フィーネの頬が——ぱっと赤くなった。




 それから——季節が、ひとつ過ぎた。




 朝の工房。


 石窯に火が入っている。薪がぱちぱちとぜて、橙色の光が石の壁を照らしている。バターの焦げる匂い。小麦粉の白い粉。霜花蜜の甘い香り。


 リゼットはエプロンの紐を結んだ。袖をまくった。指先の火傷跡が、窯の光に白く浮かんだ。


 今朝はパンケーキ。


 いつもの朝。いつもの菓子。いつもの——二人分。


 卵を割った。二つ。小麦粉をふるった。牛乳を加えた。泡立て器でなめらかに混ぜた。


 鉄の焼き板にバターを敷いた。山羊乳やぎちちのバターが溶けて、甘い匂いが立つ。生地を流した。じゅう、と音がした。


 窓の外は、初夏の朝。辺境の短い夏が始まろうとしている。高原りんごの木に青い実がついた。白霜の森にベリーが色づき始めた。工房の窓から見える山並みが、冬の白から夏の深緑に衣替えしている。


 足音が聞こえた。


 重い。規則的で、迷いのない歩調。でも——ほんの少しだけ、軽い。


 工房の扉が開いた。


「……おはよう」


「おはようございます」


 セドリック様がいつもの椅子に座った。窓際の。朝日が斜めに差し込む。


 リゼットはパンケーキをひっくり返した。きつね色。ちょうどいい焼き加減。皿に載せて、霜花蜜をひと匙。


 二枚。二皿。


 セドリック様の前に一枚。隣の自分の席に、もう一枚。


 座った。


 セドリック様がパンケーキを手で半分に割った。断面からほわりと湯気が立つ。霜花蜜が浸みて、淡い金色に光っている。


 口に運んだ。


 咀嚼。


 リゼットも自分のをちぎった。口に入れた。


 甘い。


 いつもの味。いつもの甘さ。変わらない。


「……悪くない」


 セドリック様の声。


「ありがとうございます」


 窓から朝日が差し込んでいる。金色の光が作業台を染めて、二枚の皿を照らしている。石窯の火がぱちりと鳴る。小鳥の声が聞こえる。


 外から、小さな足音が近づいてきた。


「リゼットさん、おはようございます! 今日のお稽古は——」


 フィーネが工房の窓から顔を覗かせた。弟子の朝の挨拶。


「おはよう、フィーネちゃん。今日は基本のクッキーをやりましょう」


「はい!」


 フィーネが走っていく足音。エプロンを取りに戻るのだろう。


 セドリック様が二枚目のパンケーキを食べ終えた。指先についた蜜を拭って、椅子から立った。


「……行く」


「はい。気をつけて」


 いつものやりとり。一語一句変わらない。


 セドリック様が扉に手をかけた。


「……明日も」


「焼きます」


 最後まで言わせなかった。


 セドリック様の背中が——一瞬だけ、揺れた。笑ったのかもしれない。


 扉が開いた。初夏の風が流れ込んだ。明るい光の中に、灰銀色の髪が消えていく。北の見回りへ。辺境を守る人の、朝の仕事。


 扉が閉まった。


 工房に、一人。


 空の皿が二枚。霜花蜜の瓶。窓際の二つの椅子。片方にだけ残った、大きな体の温もり。


 リゼットは皿を洗った。セドリック様の皿。自分の皿。並べて乾かした。


 同じ大きさの、二枚の皿。


 エプロンの裾をぱん、と叩いた。袖をまくった。さあ——今日の仕込みを始めよう。フィーネが来る前に、クッキーの生地を準備しなければ。


 窯の石壁がじんわりと熱を返している。


 朝日が工房を満たしている。石の壁が温もりを蓄えて、バターと蜂蜜と小麦粉の匂いが、空気に溶けている。


 当たり前の朝だった。


 特別なことは何もない。昨日と同じ朝。明日も同じ朝。パンケーキを焼いて、二枚の皿を並べて、隣に座って、食べて。「悪くない」と言われて、「ありがとうございます」と答えて。


 それだけの——朝。


 それだけの朝が、世界で一番甘い。


 リゼットは菓子師の手を見つめた。火傷跡のある指先。粉のついた掌。この手が——今日も、明日も、明後日も、菓子を焼く。この人のために。この土地のために。この工房で。


 追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で——幸せを、焼いている。

「追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く」、全42話をもって完結しました。


最後までお読みいただいた皆さま、本当にありがとうございます。


第1話を公開したときは、「辺境で菓子を焼く話なんて読んでもらえるだろうか」と正直不安でした。それが42話まで書き切れたのは、ブックマーク、評価ポイント、そして感想を送ってくださった皆さまのおかげです。


特に、リゼットの菓子の描写に「お腹が空いた」「甘いものが食べたくなった」と言っていただけたのが、何より嬉しかったです。



さて、ご報告が二つあります。


一つ目——書籍化が決定しました!


詳細はまだお伝えできる段階ではないのですが、この物語を本という形でお届けできることになりました。続報をお待ちいただけると嬉しいです。


二つ目——第1話から書き直しています


書籍化にあたり、物語を最初から練り直しています。Web版を書き終えて見えたことがたくさんあって、リゼットやセドリック、マリーたちをもっと丁寧に描きたいと思いました。


この書き直し版(V2)は、なろうにも別途掲載予定です。同じ物語の、もう一段深い味わいをお届けできればと思っています。準備ができましたらまたご報告します。たくさんの新キャラも用意してます。


現在のWeb版はこのまま残しますので、いつでも読み返していただけます。


改めて、42話の長い旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。リゼットの焼き菓子が、皆さまの日常にほんの少しでも甘い時間を届けられていたなら、これ以上のことはありません。


歩人

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― 新着の感想 ―
面白かった。 およそ一ヶ月この作品の最新話をチェックするのが日課になっていたくらい好きだった。全体的に必要以上に棘が無く、優しさに満ちた文章だと感じた。今後の執筆活動に幸多からんことを。
完結おめでとうございます。登場人物の不器用な優しさが沁みて何度か泣いてしまいました。最初から最初まできれいで暖かくて読んでいて心動かされました。こちらの作品に出会えて良かったです。ありがとうございまし…
更新ありがとうございます ミルクプリンの材料 昨日は >山羊乳と、霜花蜜と、卵 でしたけど、卵は無しの作り方がありましたか?
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