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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
世界で一番甘い朝

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第36話: 弟子

 朝の仕込みを終えて、カウンターを拭いていた時だった。


 工房の扉の前に——影があった。


 小さな影。大人の半分ほどの背丈。扉を開けるでもなく、覗き込むでもなく、ただ——じっと、立っている。


 リゼットは布巾を置いて、扉を開けた。


「いらっしゃい——」


 少女だった。


 十二、三歳くらい。栗色の髪を無造作にひとつに結んで、頬が冷たい風で赤く染まっている。服は継ぎぎだらけの毛織物。足元は擦り切れた革の靴。辺境の子どもだ。


 琥珀色の——いや、薄い茶色の目が、まっすぐにリゼットを見上げていた。


「あの」


 小さな声。でも——震えていなかった。


「あたし——ここで、おかし作りを、おしえてほしいです」




 少女の名は、フィーネといった。


 村の外れに住む猟師の娘。母は三年前の冬に亡くなって、父と二人暮らし。兄弟はいない。


 マリーさんの宿屋の手伝いを時々しているらしい。皿洗いや薪運び。その対価に、夕飯の残りを分けてもらっている。


「フィーネちゃん——菓子を作りたいの?」


 工房の椅子に座らせて、温めた山羊乳を出した。フィーネは両手で器を包んで、ふーふーと息を吹きかけている。


「はい」


「どうして?」


 フィーネが——山羊乳の器を見つめた。湯気が立ち上って、薄い茶色の目に白い霧がかかる。


「おかあが——いたとき。いちど、はちみつをなめさせてくれた」


 リゼットは黙って聞いた。


「あまかった。すごく。おかあの指についてた、はちみつ。世の中にこんなおいしいものがあるんだって、おもった」


 フィーネの声は淡々としていた。辺境の子どもは、感情を大袈裟に見せない。でも——器を持つ指が、きゅっと白くなっていた。


「リゼットさんが来て——おかし、ってものをはじめてたべた。収穫祭の、たるとを」


 木の実タルト。あの収穫祭で、村人たちに配った一切れ。


「はちみつよりも、あまかった。あたたかくて、口の中がいっぱいになって——」


 フィーネが——顔を上げた。


「あたしも、あれを作りたい。だれかに、たべさせたい」


 リゼットの胸の奥が——じん、と震えた。


 誰かに食べさせたい。


 あの木の実タルトの味を。あの温かさを。


 それは——リゼットが菓子を作り始めた理由と、同じだった。母が作ってくれた素朴な焼き菓子の味。あの甘さを、自分の手で再現したいと思った日のことを——覚えている。


「フィーネちゃん。文字は——読める?」


「……ううん。読めない」


 恥ずかしそうに、俯いた。辺境の識字率は低い。猟師の家なら尚更だ。読み書きができるのは辺境伯の家と一部の商人くらいで、村の大人でも自分の名前を書けない人がいる。


「大丈夫」


 リゼットは——笑った。


「文字が読めなくても、菓子は作れる」


 フィーネの目が——大きくなった。


「手が覚えるから。生地の柔らかさも、焼き加減も、甘さも。全部——手が、教えてくれる」


 リゼットは自分の指先を見せた。いくつもの小さな火傷跡。菓子師の勲章。


「わたしが口で教える。フィーネちゃんが手で覚える。それが——辺境の菓子教室」


 フィーネの薄い茶色の目が——潤んだ。


 ぐしっと袖で目を拭って——大きく、頷いた。




 最初に作るのは、基本のクッキーにした。


 小麦粉、バター、卵、霜花蜜。四つの素材だけ。辺境で手に入るもの。シンプルで、失敗しにくくて、でも——素材の扱いの基本がすべて詰まっている。


「まず、バターを柔らかくするの。指で押して、耳たぶくらいの硬さになるまで」


「耳たぶ——?」


「こう」


 リゼットがバターの塊を木のボウルに入れて、指で押した。冬が近い辺境のバターは硬い。石窯の近くに置いて温度を上げてやる。


「触ってみて」


 フィーネが恐る恐る指を伸ばした。バターに触れた。


「……やわらかい」


「うん。これくらいが丁度いい。指が沈み込む感覚を——手に覚えさせて」


 フィーネが何度もバターを押した。真剣な顔で。小さな指が、何かを確かめるように。


「次は——霜花蜜を混ぜる」


 透明な蜂蜜をバターに加える。木のへらでゆっくりと混ぜる。白いバターに琥珀色の蜜が溶けて——淡いクリーム色に変わっていく。


「リゼットさん、きれい……」


「でしょう? バターと蜂蜜が馴染むと、この色になるの。この色が見えたら、次に進んでいい合図」


「色で、わかるんだ」


「うん。文字じゃなくて——色と、匂いと、手触りで覚える。菓子は五感で作るものだから」


 フィーネが——小さく頷いた。へらを握り直した。




 卵を割るのに三回失敗した。


 一個目は殻が粉々になって生地に入った。二個目は力が足りなくて割れなかった。三個目は中身が手の上に滑り落ちた。


「あ——ごめんなさい!」


「大丈夫」


 リゼットは笑った。


「わたしも最初はそうだった。卵は——コツがあるの。角にぶつけるんじゃなくて、平らなところで。こう」


 とん、と軽く台にぶつける。ひびが入る。両手の親指を入れて——ぱかり。きれいに割れた。


「やってみて」


 四個目。フィーネが台の上でとんと叩いた。ひびが——入った。指を入れて、開く。


 黄身が——つるんと、殻の中から生地の上に落ちた。


「できた!」


 フィーネの目が輝いた。丸い目がさらに丸くなって、頬が紅潮して、唇が弧を描いて——初めて見る、満面の笑顔。


「できたよ、リゼットさん!」


「うん。上手」


 リゼットの胸が——じわっと温かくなった。


 自分がマリーさんの厨房で初めて霜花蜜を扱った日のことを思い出した。うまくいかなくて、焦がして、泣きそうになって——でも、できた瞬間の喜びは、何にも代えがたかった。


 今、同じ顔を——目の前の少女がしている。


 教えることは、作ることとは違う喜びだった。




 生地を丸めて、薄く伸ばして、型で抜く。


 型がないから、茶碗の縁を使った。きれいな円にはならない。少しいびつで、大きさもばらばらで。


「ゆがんでる……」


「大丈夫。味は変わらない。形は——回数を重ねれば整ってくるから」


 天板に並べた。十二枚。大小さまざまの、いびつな円。


「石窯の温度は、手で確かめるの」


 リゼットが窯口に手をかざした。


「三つ数えて熱ければ丁度いい。五つ数えてもまだ平気なら——もう少し薪を足す」


「手で——」


「手で。道具がなくても、これだけは嘘をつかないから」


 フィーネが真似をした。小さな手を窯口にかざす。


「……いち、に、さん。あつい!」


「うん。入れよう」


 二人で天板を窯に滑り込ませた。


 あとは——待つだけ。


「匂いが変わったら、焼き上がりの合図」


「匂いで?」


「最初は小麦粉の生っぽい匂い。それがだんだんバターの香りに変わって——蜂蜜の甘い匂いがしたら、もう少し。焦げる寸前の、きつね色の匂いがしたら——出す」


 フィーネが鼻をひくひくさせた。窯の前にしゃがみ込んで、真剣な顔で——匂いを嗅いでいる。


 リゼットは——その横顔を見ていた。


 猟師の娘。文字が読めない。甘いものは、母に舐めさせてもらった蜂蜜しか知らなかった。


 それでも——菓子を作りたいと、頭を下げに来た。


 誰かに食べさせたいと言った。


 この子のなかに——芽がある。


「リゼットさん! 匂い、変わった!」


 フィーネが立ち上がった。目がきらきらしている。


「あまい匂い! はちみつの!」


 リゼットも鼻を寄せた。——確かに。霜花蜜の、花のような甘い香りが立ち上っている。


 もう少し。あと——ほんの少し。


「……今」


 天板を引き出した。


 きつね色の——クッキーが、並んでいた。


 いびつな円。大きさはばらばら。焼き色も均一ではない。端の方が少し濃い。


 でも——甘い匂いが、工房いっぱいに広がっていた。


 フィーネが——息を止めていた。


「……これ、あたしが作ったの?」


「フィーネちゃんが作ったの」


「あたしが?」


「うん。わたしは教えただけ。手を動かしたのは、フィーネちゃん」


 フィーネの目から——涙がぽろりとこぼれた。


 袖で拭おうとして——手がバターと粉だらけなのに気づいて——拭えなくて——そのまま、泣いた。


「食べてみて」


 リゼットが一枚取って、フィーネの手に載せた。


 フィーネがかじった。


 さく、と軽い音。


 咀嚼そしゃく。一回。二回。三回——


「あまい」


 涙のまま——笑った。


「あまい。おかあのはちみつよりも——あたたかい」




 昼過ぎ。マリーが宿屋から顔を出した。


「何の匂い? いつもと違うよね、今日」


「クッキーです。基本のバタークッキー。——弟子と一緒に焼きました」


「弟子?」


 マリーが目を丸くして、工房を覗き込んだ。カウンターの奥で、フィーネが天板を丁寧に拭いている。小さな手で、一枚一枚。


「あら、フィーネじゃないの。あんた、ここで菓子を習ってるの?」


「はい、マリーさん。あたし、リゼットさんのでしになりました」


「弟子——」


 マリーがリゼットの方を振り返った。茶色い目が——にやっと笑っている。


「リゼ、あんたも師匠になったか」


「師匠なんて、そんな大げさな——」


「大げさじゃないよ。宮廷菓子師が辺境の子に菓子を教えてるんだ。これ、すごいことだよ」


 マリーがクッキーを一枚つまんだ。齧った。


「——うん。素朴でいい味。ちょっと焼きが甘いけど、それもまた良し」


「分かります? 端の方はもう少し時間が——」


「そうじゃなくて。この味に——この子の一生懸命が入ってるって話さ」


 マリーがフィーネの頭をぽんと撫でた。フィーネが照れたように俯く。


「ねえリゼ。うちの宿屋の菓子メニュー、そろそろ増やさない? 泊り客にお茶請けで出してるタルトが好評でさ。クッキーも加えたいんだよね」


「いいですよ。フィーネちゃんの修業にもなりますし」


「決まりだね。——あ、そうだ。今朝来た商人がね、『辺境の宿で手作り菓子が出るなんて初めてだ』って感動してたよ。あんたの菓子がうちの看板になりつつあるんだ、リゼ」


 マリーの宿屋に、菓子メニューが加わる。


 一年前、甘味の文化がほとんど存在しなかった辺境に——菓子が、根付き始めている。




 夕方。


 フィーネが残りのクッキーを布に包んで、大事そうに抱えた。


「おとうに、もっていく」


「うん。きっと喜ぶよ」


「あしたも——来ていい?」


「毎日おいで。朝の仕込みから」


 フィーネが——ぱっと顔を輝かせた。


「ありがとう、リゼットさん!」


 駆けていった。小さな背中。継ぎ接ぎの服。布に包んだクッキーを胸に抱えて。


 リゼットはその後ろ姿を見送って——胸の奥が、じんわりと温かかった。


「……弟子、か」


 声が——背後から聞こえた。


 振り返った。


 工房の入り口に——セドリック様が立っていた。壁に背を預けて、腕を組んでいる。いつから、いたのだろう。


「セドリック様。見回りは——」


「終わった。通りがかっただけだ」


 嘘だ。工房は南側で、北の見回りの帰り道からは外れている。——もう、指摘しないけれど。


「……小さいな」


「フィーネちゃんですか? 十二歳です」


「十二か」


 セドリック様の青灰色の目が——フィーネが駆けていった方向を見ていた。


「……あの歳でもう、働いてるのか」


「辺境では珍しくないんですよね。でも——菓子を作りたいって自分から来たんです。教えてほしいって、頭を下げに」


 セドリック様が——黙った。


 腕を組み直して、視線を落として。何かを考えている。


「……あの子、猟師のヨルクの娘だな」


「知ってるんですか?」


「ヨルクは腕のいい猟師だ。だが——女房を亡くしてから、冬の備蓄が苦しい」


 領主の目だった。民の暮らしを一人ひとり把握している——辺境伯の目。


「あの子に、菓子を教えるのか」


「はい。文字は読めないけれど——手が覚えるから」


 セドリック様が——リゼットを見た。


 夕日が工房の窓から差し込んで、二人の間に橙色の光を落としている。


「……いい匂いがした」


「え?」


「さっき、通りがかった時に。いつもと違う——甘い匂いが」


 クッキーの匂いだ。フィーネと一緒に焼いた、いびつなバタークッキーの。


「セドリック様も——食べますか?」


「…………」


 沈黙は——肯定だった。


 リゼットはクッキーを二枚、小皿に載せた。一枚は形がきれいなもの。もう一枚は、フィーネが最初に型を抜いた、一番いびつなもの。


 セドリック様が——いびつな方を、先に手に取った。


 齧った。


 さく、と音がした。咀嚼がゆっくりになった。あの——味を確かめる顔。


「……素朴だな」


「はい」


「だが——悪くない」


 セドリック様の口元が——ほんのわずかに、緩んだ。


「弟子が焼いたやつか」


「はい。フィーネちゃんが自分の手で」


「……そうか」


 二枚目も食べた。こちらはリゼットが型を抜いた方。


「……こっちの方がうまいな」


「当たり前です。わたしは菓子師ですから」


「ああ。だがあっちの方が——」


 セドリック様が言葉を切った。


 いびつなクッキーがあった方の皿を見て。


「——あっちの方が、いい顔で食える」


 リゼットは——ぱちりと目を瞬いた。


 いい顔で、食える。


 上手いとか下手とかじゃなくて。味の完成度じゃなくて。誰かが一生懸命に作ったものを食べるときの、あの——温かさ。


 この人は、それを「いい顔で食える」と言ったのだ。


「……ふふ」


「何だ」


「いえ。——明日もフィーネちゃんと焼きますから、また通りがかってください」


「……通りがかるかは分からん」


「通りがかりますよ。工房は南ですけど」


 セドリック様が——そっぽを向いた。耳が赤い。


 扉に向かう。大きな背中。夕日を受けて、灰銀色の髪が金色に光っている。


「……リゼット」


「はい」


「あの子に——ちゃんと食わせてやれ。猟師の家は冬が厳しい」


 背中のまま——言った。


 領主の言葉であり、同時に——この人自身の、不器用な優しさだった。


「はい。任せてください」


 扉が閉まった。


 一人になった工房で、リゼットは作業台を見つめた。フィーネが使ったボウル。粉が飛び散った台。卵の殻が三つ分。


 ——明日は、卵の割り方をもう一度練習しよう。


 リゼットはエプロンの粉を払った。


 窯の残り火が温かい。フィーネが焼いたクッキーの甘い匂いが、まだ工房に残っている。


 弟子ができた。この辺境に、菓子を作る手が——もうひとつ、増えた。


 ふと、思った。


 毎朝セドリック様に焼いている日替わり菓子。いつか——フィーネが、あれを焼けるようになる日が来るのだろうか。


 いや——それは困る。あれだけは、自分で焼きたい。あの人のための朝の一品だけは——


 頬が熱くなった。慌てて首を振った。


 窓の外では、冬の気配を含んだ風が吹いていた。白霜の森の梢がざわざわと揺れている。もうすぐ初霜が降りる季節だ。


 明日の朝も、石窯に火を入れよう。


 フィーネに教える基本のクッキーと——セドリック様のための、日替わり菓子と。


 二人分の仕込みは、少しだけ忙しくなる。


 でも——不思議と、嬉しかった。

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