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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
王都の毒と蜜

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22/22

第22話: 三年ぶりの王都

 王都クラウゼンの尖塔が、秋の陽光に白く輝いていた。


 馬車の窓から身を乗り出すようにして、リゼットはその光景を見つめた。三年ぶりの——あの街。石造りの尖塔が何本も天を突き、朝日を受けて金色に縁取られている。記憶の中の王都と、寸分違わない姿。


 胸の奥が——きしんだ。




 城門を抜けると、甘い空気が流れ込んできた。


 焼き菓子の匂いだ。バターと砂糖と小麦粉を高温で焼いた、あの幸福の匂い。街道沿いの菓子店が朝の仕込みを終えたところらしい。開け放たれた窓から、こんがりと焼けた生地の香りが秋風に乗って漂っている。


 石畳の大通りには、色とりどりの服を着た人々が行き交っていた。絹のドレスに羽根飾りの帽子。金糸の刺繍が入った上着。宝石をあしらった首飾り。すれ違う人々の衣服が、辺境では見たこともない鮮やかさで目に飛び込んでくる。


 辺境の——茶色と灰色の世界とは、何もかもが違う。


「……派手だな」


 隣で、セドリック様がぼそりと呟いた。


 窓の外を見る青灰色の目が、居心地悪そうに細められている。質素な革鎧にヴィントヘルム辺境伯家の紋章。装飾のない灰銀色の短髪。この華やかな街並みの中で、セドリック様の姿だけが——辺境の風を纏ったまま、浮いていた。


「セドリック様、王都にいらしたことは?」


「ある。辺境伯を継いだ時に一度、叙任の儀で来た」


「どうでしたか?」


「……二度と来るかと思った」


 リゼットは、思わず笑った。


 この人は辺境の人だ。広い空と冷たい風と、飾り気のない土地の人。王都の石畳と甘い空気は——きっと、息が詰まるのだろう。


 でも——その人が、ここにいる。リゼットのために。


「ありがとうございます。来てくださって」


「……公務だ」


 セドリック様は窓の外に目を戻した。左頬の傷跡に秋の光が当たって、白く光っている。


 公務。辺境伯としての公務。そう言い張る横顔が——少しだけ、照れているように見えた。




 品評会の登録受付は、王都の中央広場に面した大ホールの中にあった。


 石造りの重厚な建物。高い天井にはシャンデリアが吊られ、磨き上げられた大理石の床が来場者の靴音を反響させている。壁には歴代の品評会優勝者の肖像画が並び、甘い花の香りが漂っている。


 三年前——ここに来たことがある。


 宮廷菓子師の末席として。先輩の菓子師に付き添って、裏方の手伝いをした。あの時は観客席すら遠い場所だった。出場者として立つなど、夢にも思わなかった。


 受付の列に並んだ。前に十人ほどの出場者がいる。見たところ、どの菓子師も上等な服に身を包み、助手を何人も引き連れている。


 リゼットは——質素なワンピースに白いエプロン。袖はまくったまま。背後にいるのは革鎧の辺境伯一人。


 場違いだ、とは思わない。思わないようにしている。


「次の方、どうぞ」


 受付に進んだ。書類を差し出す。


「リゼット・フォン・メルヴェーユ。辺境ヴィントヘルム代表として出場します」


 受付の役人が書類に目を通し、ペンを走らせた。


「辺境ヴィントヘルム……辺境伯の推薦ですね。登録は問題ありません。控室は西棟の第六室を——」


「辺境から?」


 声が割り込んできた。


 振り返ると——男が立っていた。


 仕立ての良い上着に銀糸の刺繍。指には宝石の指輪。腰には菓子師ギルドの一級を示す銀の徽章。きっちりと撫でつけた黒髪に、見下すような薄い笑みを浮かべている。


 知らない顔ではなかった。


 正確には——知っている顔だが、三年前には宮廷にいなかった顔。リゼットの後任として宮廷菓子師になった男。名前は知らない。知る必要もなかった。


「辺境から品評会に? これは珍しい。場違いではないかな」


 男の声には明確な嘲りがあった。リゼットの服装を上から下まで見て——鼻で笑った。


「辺境の素材で何を作るつもりだ? 木の実と蜂蜜か? 品評会はお遊びの場ではないのだよ」


 リゼットは——唇を結んだ。


 怒りはある。でもそれ以上に——この声に、覚えがあった。三年前、宮廷を追われた時に聞いた声と同じ種類の声。「お前は不要だ」と、上から告げる声。


 言い返すべきだ。でも——言葉が、喉の奥で詰まる。


「おい」


 低い声が——背後から響いた。


 セドリック様が、一歩前に出た。


 何も言わなかった。ただ——立っただけだ。


 百八十五センチの長身。引き締まった体躯。左頬の古い傷跡。深い青灰色の目が、後任の菓子師を見下ろしている。革鎧の胸に刻まれた辺境伯家の紋章が、シャンデリアの光を鈍く反射している。


 言葉は、一言も発していない。


 ただ——立っている。辺境を守る武人の、無言の威圧。


 後任の菓子師の顔から——笑みが消えた。


「……これは、辺境伯殿でしたか。失礼を」


 男は一歩退いた。それ以上何も言わず——足早に去っていった。


 セドリック様は去っていく男の背中を一瞥して——何事もなかったかのように、元の位置に戻った。


「……ありがとうございます、セドリック様」


「何もしていない」


「立ってくださいました」


「立っていただけだ」


 リゼットは——少しだけ、笑った。


 立っていただけ。確かにそうだ。でも、その「立っていただけ」が——どれほど心強かったか。


 登録手続きを済ませて、控室の鍵を受け取った。品評会は三日後。予選は明後日。明日は会場の下見と素材の確認がある。


 大ホールを出ると、秋の風が頬を撫でた。


 王都の空は——高い。辺境の空とは違う青。澄んでいるけれど、どこか遠い青。


「少し——歩いてもいいですか」


「好きにしろ」




 王都の街を歩いた。


 三年ぶりの石畳。靴の裏に伝わる硬い感触が、記憶を——呼び起こす。


 あの角を曲がれば、師範菓子師の工房があった。毎朝、開店前に焼きたてのマドレーヌの匂いが路地に漂っていた場所。通りかかるたびに足を止めて、匂いだけで焼き加減を想像した。


 あの橋を渡れば、宮廷への近道。まだ薄暗い朝の道を、菓子房に向かって小走りに駆けた。息が白かった冬の朝。汗が流れた夏の朝。三年間、毎日通った道。


 この街で——菓子を作っていた。この街で——菓子を奪われた。


 懐かしいのか、苦いのか。自分でも分からない。両方が、混ざっている。蜂蜜の中に一滴の苦味を落としたような——甘くて、でも、どこかひりつく感情。


「あの菓子店、まだあるんだ……」


 角の焼き菓子屋が目に入った。小さな店。窓際にパウンドケーキが並んでいる。三年前と同じ——いや。ケーキの種類が少し変わっている。以前はなかったベリーのタルトが加わっている。


 街は——変わっていない。でも、少しずつ変わっている。リゼットがいなくなった後も、この街の菓子文化は動き続けていた。


 当たり前のことだ。リゼット一人がいなくなっても、王都は変わらない。


 分かっている。分かっているけれど——少しだけ、胸が痛んだ。


「ここが——お前がいた場所か」


 セドリック様が、ぽつりと言った。


「はい」


「……そうか」


 それだけだった。でも——その短い言葉の中に、何かが詰まっている気がした。辺境の風を知っている人が、リゼットの過去の場所を——見てくれている。




 品評会の会場に戻る途中だった。


 大ホールの前の広場を横切ろうとした時——足が、止まった。


 人混みの中に——見覚えのある背中があった。


 痩せた肩。くすんだ金髪。そして——擦り切れた濃紺の伯爵服。袖口の刺繍がほつれかけているのに、ボタンだけは磨き上げられている。背筋は真っ直ぐだ。痩せてやつれても、背筋だけは——伯爵のそれだった。


 心臓が——跳ねた。


 嘘だ。なぜ——ここに。


 その人が振り返った。


 琥珀色の目。リゼットと同じ色。でもリゼットの目が菓子を見ると輝くのに対して——その目は、常に皮肉げに細められている。眉間の皺。不機嫌そうに曲がった口元。


 三年半ぶりの——父の顔。


「……お前か」


 ギルベール・フォン・メルヴェーユは、娘を見て——眉間の皺を深くした。


 驚きも、喜びも、感傷も見えない。ただ——眉間の皺。それだけ。


「お、お父様……?」


 声が震えた。自分でも驚くほど。


 三年半、音信不通だった。南部の修道院に隠棲したきり、手紙も伝言もなかった。生きているのか死んでいるのかすら分からなかった。心配していなかったと言えば——嘘になる。


 でも、心配していたとも——素直には言えない。


 だって、この人は。


「品評会に出るそうだな」


 ギルベールが——口を開いた。


 開口一番——それだった。「元気か」でも「久しぶりだな」でもなく。


「お前がまだ厨房に立っているとは。話にならん」


 リゼットは——息を呑んだ。


 変わっていない。三年半経って——何も、変わっていない。


 あの声。あの口調。「厨房に立つな」「伯爵令嬢が菓子師など」「話にならん」——幼い頃から何百回と聞いた言葉。


「品評会の菓子を食べに来ただけだ」


 ギルベールは顎を上げた。落ちぶれた元伯爵の——矜持を示すように。


「誰がお前の心配などするものか。王都の品評会は毎年食べに来ている。たまたま——たまたまだ」


 たまたま。


 リゼットは父を見つめた。擦り切れた伯爵服。かつては恰幅が良かった体が痩せて、服が少し余っている。でも——手入れだけは完璧だ。ボタンは磨かれ、靴は擦り減っているが汚れひとつない。


 落ちぶれても——この人は、この人のままだ。


「お父様、修道院は——」


「あんな所に長居できるか。食事が話にならん。塩味しかしない粥を毎日三食——あれは食事ではない、罰だ」


 ギルベールの声に嫌悪が滲んだ。食に対する激しい拒絶。この人の——変わらない性分。


「今は王都に戻っている。旧知の者に世話になっているのだ。居候ではない、食客だ。食客だぞ」


 二度言った。


 食客——旧知の貴族や美食家仲間の庇護を受けて暮らす、元貴族の処世術。爵位も金も失った。でも教養と舌は健在。「元メルヴェーユ伯の批評舌」は、食通の間では未だ一目置かれているのだろう。


 金はないが、舌で食べている。この人らしいと言えば——この人らしかった。


「お父様、お元気そうで——」


「元気かどうかなど訊くな。当然だろう。私を何だと思っている」


 ギルベールの視線が——ふいに、リゼットの腰元を捉えた。


 エプロンの紐に挟んである革袋。中には携帯用の菓子道具が入っている。小さな泡立て器、折りたたみ式の温度計、味見用のスプーン。旅の間も手放さなかった、リゼットの道具。


 ギルベールの目が——一瞬、鋭くなった。皮肉の色が消え、代わりに批評家の目が覗く。


「……その道具は」


「え?」


「泡立て器。王都の量産品ではないな。柄の太さが違う。手に合わせて削ったか」


 リゼットは——目を見開いた。


 その通りだった。辺境で鍛冶師に頼んで、自分の手の大きさに合わせて作り直してもらった泡立て器。柄を二ミリ細くして、握りに革を巻いた。


 一瞥で——見抜いた。道具の質を。


「……はい。辺境の鍛冶師に」


「ふん。道具だけは一人前か」


 それだけ言って——ギルベールは視線を逸らした。


 批評家の目が消え、また眉間の皺と不機嫌な口元が戻る。


「品評会は三日後だな。辺境の素材で何を出すつもりだ。どうせ蜂蜜と木の実だろう。予選で落ちなければいいがな」


 言葉は辛辣だった。でも——リゼットは気づいた。


 品評会が三日後だと知っている。辺境の素材を使うことも知っている。「たまたま」来ただけの人間が——そこまで知っているだろうか。


 何か言おうとした、その時——


「リゼット」


 背後から、低い声。


 セドリック様が——一歩、前に出た。青灰色の目が、ギルベールを捉えている。


 警戒の目だった。辺境伯の目。知らない人間が、自分の連れに向かって辛辣な言葉を投げている——それだけで、あの人の警戒は十分だった。


「あの男は誰だ」


 短い問い。リゼットに向けた低い声。


 リゼットは——口を開いた。開いて——閉じた。


 何と言えばいいのだろう。三年半音信不通だった父です、と。開口一番ケチをつけてくる父です、と。落ちぶれても食にだけは妥協しない、頑固で偏屈で口うるさい——父です、と。


「……父です」


 小さな声だった。自分でも聞こえないくらい。


「何?」


「わたしの——父です。ギルベール・フォン・メルヴェーユ」


 セドリック様の目が——わずかに見開かれた。


 ギルベールの方もセドリック様を見ていた。革鎧と紋章。左頬の傷跡。辺境の武人の風貌を、値踏みするような目で見上げている。


「辺境伯殿か」


 ギルベールが言った。皮肉を込めた丁寧さで。


「娘が世話になっているようだな。もっとも——世話というより、厨房を貸しているだけだろうが」


 セドリック様は——何も答えなかった。ただ、ギルベールを見ていた。感情の読みにくい青灰色の目で、じっと。


 ギルベールは——少しだけ、居心地が悪そうに目を逸らした。


「まあいい。品評会の日に、また来る。菓子を——食べにな」


 それだけ言って——ギルベールは踵を返した。


 擦り切れた伯爵服の背中が、人混みの中に消えていく。背筋だけは真っ直ぐなまま。痩せた肩が、秋の光の中で小さく揺れていた。


 リゼットは——その背中を、見送った。


「……あれが、お前の父親か」


 セドリック様の声。


「はい」


「嫌な男だな」


 率直だった。ぶっきらぼうで、飾りがなくて——正直な感想。


「……はい。でも」


 でも——何だろう。


 嫌な父親だ。口うるさくて、偏屈で、褒めることを知らない人。菓子師になることに最後まで反対した人。追放された後も、一度も連絡をくれなかった人。


 でも。


 品評会の日程を知っていた。辺境の素材を使うことも。道具の質を一瞥で見抜いた。


 あの人は——知っていたのだ。リゼットのことを。どこかで、誰かから聞いて。食客仲間から、商人の噂話から。辺境で娘が菓子師として名を上げたと——知っていて、品評会に来た。


 「たまたま」なんかじゃない。


 でも——この人は絶対に認めない。「お前の心配などするものか」と言い張る。死ぬまで言い張るだろう。


「……お父様は、ああいう人なんです」


 リゼットは——笑った。


 笑おうとした。上手く笑えたかどうかは——分からない。


「行くぞ。宿を探す」


 セドリック様が歩き出した。


 リゼットは一度だけ——ギルベールが消えた方角を振り返った。


 もう姿は見えない。人混みの中に紛れて、擦り切れた伯爵服の背中は消えていた。


 まだ——あんな調子なんだ。


 三年半経っても。爵位を失っても。修道院を飛び出して、食客として身を寄せる暮らしになっても。


 変わらない。変わらないまま——それでも、ここにいる。


 品評会の菓子を「食べに来た」のだと。そう言い張りながら。


 目頭が——じんと、熱くなった。


 泣くほどのことじゃない。泣くほどのことでは、ないはずだ。


「リゼット」


 セドリック様が——立ち止まっていた。


 数歩先で振り返り、リゼットを待っている。深い青灰色の目。何も言わない。問い詰めもしない。ただ——待っている。


「……すみません。行きましょう」


 リゼットは小走りでセドリック様に追いついた。


 秋の王都の風が、二人の間を吹き抜けていった。


 どこかの菓子店から、焼きたてのパウンドケーキの匂いが漂ってくる。甘くて、温かくて——少しだけ、泣きたくなるような匂い。


 三年ぶりの王都。


 追放された場所。捨てられた場所。


 でも——今度は、一人じゃない。


 隣に、この人がいる。ぶっきらぼうで、短い言葉しか言わなくて、甘いものを食べた時だけ沈黙が長くなる——この人が。


 そして——あの父が、いる。認めないくせに。心配してないくせに。「食べに来ただけだ」と嘘をつきながら——ここに、いる。


 品評会まで、三日。


 リゼットは前を向いた。秋の陽光に照らされた王都の大通り。石畳に二つの影が並んで伸びている。


 作らなければ。最高の一品を。


 辺境の全てを詰め込んだ——あの、一皿を。

王都到着回。そして父ギルベール初登場! 不器用で偏屈で、でもどこか憎めない父親を書くのは本当に楽しかったです。「擦り切れた伯爵服だが手入れだけは完璧」という描写に、この人の矜持を込めました。リゼットとの再会、どうなることやら……。

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