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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
味を失くした騎士

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20/22

第20話: 忘れられなくなる

 春が——来た。


 白霜の森の雪が溶けて、細い流れになって丘を下っている。石畳の隙間から、緑の芽が顔を出している。空が——高い。冬の間ずっと低く垂れ込めていた灰色の雲が割れて、青い空が覗いている。


 空気が変わった。


 冷たい。まだ冷たい。でも——もう、痛くない。肌を刺す冬の風ではなく、頬を撫でていく春の風。


 そして——セドリック様も、変わった。




「……塩が効いてる」


 朝食の食堂で、セドリック様がパンを食べながら呟いた。


 マリーさんが——立ち止まった。


 皿を運ぶ手が、空中で止まっている。


「セド。今、なんて言った?」


「……何が」


「塩って言った? 塩が効いてるって——」


「ああ。このパン、塩味がする。昨日のやつより濃い」


 マリーさんが——皿をテーブルに置いて、目頭を押さえた。


「マリーさん……?」


「ちょっと黙ってて、リゼ。あたし今——感動してるんだから」


「……なんだ、おかしな奴だな」


 セドリック様は怪訝そうにパンをかじっている。


 リゼットはマリーさんの隣で、唇を噛んで笑いを堪えていた。笑いと——もう一つ、別のもの。目の奥がじんと熱くなるのを。


 塩味が分かる。パンの味の違いが分かる。


 あの焼きりんごの日から、十日ほどが経っていた。


 セドリック様の味覚は——完全ではないけれど、大きく回復していた。甘味、酸味、塩味。三つの味が、はっきりと分かるようになっている。


 ただ、回復は一直線ではない。朝は分かっても夜には鈍る日がある。疲れが強い日は苦味が抜け落ち、逆に匂いだけが先に立つこともあった。


 食事のたびに、表情が変わるようになった。


 それまでは——何を食べても同じ顔だった。咀嚼して、飲み込んで、終わり。作業のように。義務のように。


 今は——違う。


 美味しいものを食べた時、かすかに咀嚼が遅くなる。不味いものを食べた時は、眉がわずかに寄る。酸っぱいものには目を細め、辛いものには唇を結ぶ。


 どれも小さな変化だ。注意深く見ていなければ見逃してしまうような。


 でも——リゼットには、全部見える。毎日見ているから。菓子師の目で——いいえ。菓子師の目だけでは、きっと足りない。


 もっと別の目で、あの人を見ている。




 昼過ぎ。厨房で新しい焼き菓子の試作をしていると——足音が聞こえた。


 重い足音。でも最近は、扉の前で一瞬の間がある。


 扉が開いた。


「……邪魔するぞ」


 リゼットは——手を止めた。


 邪魔するぞ。


 「食わせろ」じゃない。


 あの焼きりんごの日を境に、セドリック様の入室の言葉が変わった。「食わせろ」から「邪魔するぞ」に。たった三文字の変化。でも——その三文字の距離が、とてつもなく大きい。


「いらっしゃいませ、セドリック様。ちょうど焼き上がったところです」


 セドリック様は黙ってリゼットの隣の椅子に座った。いつもの席。テーブルの角、窓の光が差し込む場所。いつからか決まった——あの人の、定位置。


 焼きたてのビスコッティを皿に盛って出す。黒胡桃と干しりんごを練り込んだ、ざくざくした食感のもの。


 セドリック様が一つ手に取って、齧った。


 ざく、と乾いた音。


「……前のより甘い」


 リゼットは目を見開いた。


「分かりますか? 今日は霜花蜜を少し多めに入れたんです」


「ああ。こっちの方がいい」


 メモを取りたい。今すぐレシピ帳を開きたい。でもそれより先に——嬉しさが、胸の中で弾けた。


 感想を言ってくれた。「前のより甘い」「こっちの方がいい」——味が分かるようになったセドリック様の言葉は、どんな品評会の審査員の講評よりも——リゼットにとって、重い。


「こっちは?」


 二つ目の試作品を出す。高原りんごの薄切りをバターで焼いて、蜂蜜を絡めたもの。


 セドリック様が食べた。


「……酸っぱいな」


「今日のは少し酸味を残してみたんです。甘いのと酸っぱいの、どちらがお好みですか?」


「好みか」


 考えるような間があった。


「……こっちの方が好みだ」


 最初のビスコッティを指差した。


 好み。セドリック様の「好み」。


 リゼットの菓子師の血が——騒いだ。


「好みですか? どういう点がお好みなんでしょう。甘さの強さですか、それとも食感の問題ですか? 胡桃の香ばしさが合うのかもしれません。もしそうだとしたら、胡桃の焙煎温度をもう少し上げて——」


「知らん」


 セドリック様が遮った。


「好みは好みだ。説明できるか、そんなもの」


「で、でも、もう少し詳しく教えていただけると——」


「だから知らんと言っている」


 ぶっきらぼう。短い言葉。でも——怒ってはいない。


 むしろ。


 口角の端が——ほんのかすかに——上がっている。


 困ったような、呆れたような——でも、嫌ではない表情。


 リゼットは口を閉じた。そして——笑った。


「すみません。菓子師の癖で、つい」


「……変な奴だ」


 セドリック様は三つ目のビスコッティに手を伸ばした。


 二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。セドリック様がビスコッティを齧る、ざく、という音。窓の外で雪解け水が流れる、さらさらという音。石窯の火がぱちりと爆ぜる音。


 平和だった。


 何も特別なことは起きていない。ただ、リゼットが菓子を焼いて、セドリック様が食べて、感想を短く言って、リゼットがそれをレシピ帳に書き留める——それだけの、日常。


 でも。


 この日常が——こんなに温かいものだとは、思わなかった。




「セドリック様、最近よく食べますね」


 夕食の席で、マリーさんが言った。


 セドリック様の皿の上は——空だった。シチューもパンも、きれいに平らげている。以前は半分ほど残すことも多かったのに。


「……別に。腹が減っているだけだ」


「ふうん。腹が減っている『だけ』ねえ」


 マリーさんが、にやにやしている。


「何だその顔は」


「いいことだよ、セド。食べるのはいいことだ」


 マリーさんがリゼットの方を見た。目が合って——二人で笑った。


 セドリック様は居心地悪そうに視線を逸らした。


「……先に上がる」


「おやすみ、セドリック様」


 席を立つセドリック様の背中を見送りながら——マリーさんが、リゼットの耳元で囁いた。


「あの子、照れてるんだよ」


「え?」


「食べるのが嬉しいんだよ。味が分かるのが。でもそれを素直に言えないの。昔からそう。嬉しい時ほど——逃げるんだから」


 リゼットは、セドリック様が消えた扉を見つめた。


 照れている。


 あの大きくてぶっきらぼうで、剣だこのある手で焼きりんごを食べながら泣いた人が——食べる喜びを取り戻したことが嬉しくて、照れている。


 胸の奥が——きゅっと、鳴った。




 四月中旬。


 「雪解けの市」の日が来た。


 朝から村中が沸き立っていた。冬の間閉ざされていた街道が開いて、最初の商隊がやってくる日。約五ヶ月ぶりの外からの物資。約五ヶ月ぶりの手紙。約五ヶ月ぶりの——外の世界との繋がり。


 村の広場には臨時の市場が立ち並んでいた。商人たちが荷を広げ、村人たちが群がっている。塩、香辛料、布地、陶器——冬の間手に入らなかったものが、目の前に並んでいる。


 子どもたちが走り回っている。大人たちが笑い合っている。冬を越えた安堵と、春の到来の喜びが——村全体を温かく包んでいた。


「リゼ! 手紙が来てるよ!」


 マリーさんが、宿の入り口から手を振っていた。


「手紙?」


「商隊が持ってきたんだ。リゼ宛のが一通あるよ」


 リゼットは市場の人混みを抜けて、宿に戻った。


 マリーさんから受け取った封筒は——上質な紙だった。


 厚手の羊皮紙。封蝋が赤く光っている。押された紋章は——見覚えがあった。


 王都の。


 手が、震えた。


 封を切る。折りたたまれた便箋を開く。


 整った筆跡が並んでいた。


『リゼット・フォン・メルヴェーユ殿


 王立菓子品評会への推薦状のご案内を申し上げます。


 辺境ヴィントヘルムにおける菓子文化の興隆に際し、貴殿の功績が王都にも伝え聞こえております。つきましては本年秋に開催される王立菓子品評会への出場のご意思があれば、推薦状を発行いたしたく——』


 文字が——滲んだ。


 読み直した。何度も。


 品評会。王立菓子品評会。


 年に一度、秋に王都で開催される、大陸で最も権威のある菓子の品評会。出場するには有力者の推薦状が必要で、宮廷菓子師でも出場できるとは限らない——あの、品評会。


 誰が——リゼットのことを。


 冬になる前に辺境を去った商人がいた。あの人が王都で話を広めたのだろうか。辺境に追放された宮廷菓子師が、土地の素材で新しい菓子を作っている——と。


 品評会。


 あの品評会に——出られる。


 嬉しい。嬉しいはずだ。菓子師として、これほどの名誉はない。


 でも——手が震えている。


 王都。


 あの場所。リゼットを追放した場所。「お前の菓子はもう不要だ」と言い渡された、あの場所。


 嬉しさか、怖さか——分からない震えが、指先から腕へ、腕から全身へと広がっていった。


「リゼ? どうしたの、顔色が——」


「マリーさん」


 リゼットは手紙を握りしめたまま、マリーさんを見た。


「品評会です。王都の——王立菓子品評会に、推薦状が」


 マリーさんの目が——大きく見開かれた。




 セドリック様を探した。


 市場にはいなかった。見回りにも出ていないとマリーさんが言った。村の外れの、丘の上にいると——見張りの兵士が教えてくれた。


 丘を登った。雪解け水に濡れた草を踏んで。春風に髪を揺らしながら。


 丘の上に——黒い外套の人影があった。


 セドリック様は、白霜の森を見下ろしていた。木々の枝に新しい芽が吹いている。冬の間、白一色だった森が——少しずつ、緑を取り戻し始めている。


「セドリック様」


 振り返った。青灰色の目が、リゼットを捉える。


「……少し、お話があるんです」


 手紙を差し出した。


 セドリック様は黙って受け取り、目を通した。春風が便箋の端をはためかせている。


「品評会か」


「はい」


 リゼットは唇を噛んだ。


「——王都の」


 沈黙が流れた。風の音だけが、二人の間を吹き抜けていく。


 迷っていた。


 王都は——リゼットを捨てた場所だ。あの場所に戻るのは、怖い。宮廷菓子師の座を奪われた記憶。無価値だと言われた記憶。全部が——まだ、消えていない。


 でも——同時に。


 菓子師として、逃げたくない。


 辺境で見つけた素材。辺境で磨いた技術。セドリック様の味覚を取り戻した、あの焼きりんご。


 リゼットの菓子は——もう、王都にいた頃のリゼットの菓子じゃない。


「セドリック様……わたしは——」


「行け」


 言葉が——遮られた。


 リゼットは顔を上げた。


 セドリック様の目は——真っ直ぐだった。


 迷いのない、あの青灰色の目。冬の見回りに出る時も、吹雪の中で村を守る時も——あの目は、いつも真っ直ぐだった。


 今もそうだ。リゼットを——真っ直ぐに見ている。


「お前の菓子は——俺が保証する」


 低い声。ぶっきらぼうな声。でも——揺るぎのない声。


「辺境伯の名にかけて」


 推薦状。辺境伯には、品評会への推薦状を発行する権限がある。王都からの案内状がなくても——辺境伯の推薦があれば、出場できる。


 リゼットの目に——涙が、浮かんだ。


「ありがとう、ございます」


 声が震えた。嬉しくて。怖さが少し和らいで。この人がそう言ってくれるなら——行ける。そう思えて。


「……ただし」


 セドリック様が、言葉を続けた。


「はい?」


「一人では行かせん」


 リゼットは——息を呑んだ。


「俺も行く」


「え——セドリック様が、王都に?」


「品評会に出る辺境の菓子師を、辺境伯が後援する。当然だろう」


 当然じゃない。


 全然、当然じゃない。


 辺境伯が領地を離れて王都に行くなんて、大変なことだ。冬が終わったばかりで、やるべきことは山のようにあるはずだ。それなのに——


 セドリック様の目は、真剣だった。


 冗談でも社交辞令でもない。本気の目だ。


 あの人は——リゼットの菓子を「保証する」と言った。辺境伯の名にかけて。あの焼きりんごを食べて泣いた人が——リゼットの菓子を、世界に向けて保証すると。


 涙が溢れた。


 今度は堪えなかった。堪える理由がなかった。


「ありがとうございます」


 もう一度。今度は涙声で。


「ありがとう——ございます」


 セドリック様は、少しだけ目を逸らした。


「……礼はいい」


「いいえ、言わせてください」


 リゼットは涙を拭って——笑った。泣き笑い。きっとひどい顔だ。でも、構わない。


「一緒に——行きましょう」


 セドリック様は——リゼットを見た。


 何か言いかけた。口が開いて——閉じた。また開いて——


「ああ」


 短い返事。いつもの、ぶっきらぼうな声。


 でも——その「ああ」は、リゼットが今まで聞いた中で、一番温かい「ああ」だった。




 丘を下りながら、隣を歩くセドリック様の横顔を盗み見た。


 春風が灰銀色の髪を揺らしている。左頬の傷跡に、柔らかい日差しが当たっている。


 この人と一緒に、王都へ行く。


 怖い。まだ、怖い。あの場所に戻るのは——きっと、辛いこともある。


 でも——一人じゃない。


「セドリック様」


「何だ」


「品評会に出す菓子——もう、決めているんです」


「……そうか」


「辺境の素材で作ります。高原りんご。霜花蜜。焙煎黒胡桃。白霜の森の恵みを——全部詰め込んだ、一品を」


 セドリック様は何も言わなかった。


 でも——歩調が、少しだけ遅くなった。リゼットの話を、聞いてくれている。


「まだ形は見えていません。でも——秋までに必ず、最高の一品を作ります」


「……ああ」


「楽しみにしていてください」


 セドリック様が——横目で、リゼットを見た。


「楽しみにするかどうかは——食ってから決める」


 リゼットは——笑った。


 ああ、そうだ。この人はそういう人だ。食べるまでは何も言わない。でも——食べたら、ちゃんと言ってくれる。


 「甘い」と。


 「忘れられなくなる」と。




 宿に戻った。


 マリーさんが食堂で待っていた。二人の顔を見て——全部、察したらしい。


「行くんだね、リゼ」


「はい」


「セドも一緒に?」


 セドリック様がリゼットの後ろから入ってきた。マリーさんは二人を交互に見て——大きく笑った。


「あっはは! セド、あんたが王都ねえ。何年ぶりだい」


「……うるさい」


「いいじゃないか。リゼの菓子を王都に見せつけてやれ。あたしも応援してるよ」


 マリーさんがリゼットの手を握った。温かくて、大きな手。


「リゼ。あんたの菓子は——ここの宝だよ。王都の連中に、思い知らせてやんな」


「……はい」


 涙が出そうになったけれど——今度は堪えた。泣いてばかりいられない。


 秋まで、あと半年。


 作るべき菓子を、作らなければ。




 夜。


 一人になった厨房で、エプロンを締め直した。


 品評会は秋。それまでに——辺境の全てを詰めた、最高の一品を作る。


 石窯に手を当てた。


 温かい。


 冬を越した窯は、もう冷えない。毎日、毎日火を入れ続けた。吹雪の日も、食料が足りなくなりかけた日も、セドリック様が泣いた日も——この窯だけは、温め続けた。


 だから——もう、冷えない。


 窓の外は春の夜だ。星が見えている。冬ほどの鋭さはないけれど、辺境の夜空は相変わらず美しい。白霜の森の向こうに、新月の暗い空が広がっている。


 レシピ帳を開いた。


 新しいページ。まだ何も書かれていない、白いページ。


 ペンを持って——書いた。


『品評会出品作——構想ノート』


 まだ白紙だ。何を作るか、形は見えていない。


 でも——使う素材は決まっている。高原りんご。霜花蜜。焙煎黒胡桃。辺境の風と土と水が育てた、ここにしかない宝物たち。


 ここは——リゼットの厨房だ。


 リゼットの居場所で、リゼットの戦場だ。


 王都で「不要だ」と言われた菓子師が、辺境で見つけたもの。素材も、技術も、食べてくれる人も——全部、ここにある。


 さあ——始めよう。


 石窯が、赤い火を揺らしている。


 春風が、厨房の扉を軽く叩いている。


 第2章「味を失くした騎士」——完。

Arc 2、ここで完結です。セドリックの涙のシーン、書きながら私も泣きました。味覚の回復、それは彼にとって「世界を取り戻す」ことだったんですね。そしてリゼットへの想い――恋の転換点として描きました。二人の関係がどう深まっていくのか、次のアークもどうぞお楽しみに!

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