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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
味を失くした騎士

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19/22

第19話: 焼きりんご

 屋根から、しずくが落ちている。


 ぽた、ぽた、ぽた——規則正しく。まるで時計の秒針みたいに。


 三月の終わり。窓を開けると、冷たいけれど痛くない風が頬を撫でた。あの刺すような冬の風とは違う。湿り気を含んだ、柔らかい風。


 春が——近い。


 リゼットは厨房の作業台に立って、手のひらの上のものを見つめていた。


 高原りんご。


 最後の一個。


 秋のうちに保存しておいた中で、唯一残ったもの。皺が寄って、表面はくすんだ茶色に変わっている。王都の果物屋なら棚に並べることすらしないだろう。見た目は——お世辞にも良くない。


 でも。


 リゼットは指先で、そっと皮に触れた。


 硬い。しっかりしている。中の果肉はまだ生きている。冬の間に水分が抜けて、酸味が凝縮されている。この酸味が——加熱すれば、甘みに変わる。


 高原りんごの秘密。小粒で酸っぱい、辺境の果実。でも火を通せば、驚くほど甘くなる。


 この一個に——全てを懸ける。


 今日。焼きりんごを、焼く。




 芯抜きの刃を、りんごの頂点にそっと当てた。


 ゆっくり回す。皮を傷つけないように。中身だけを、丁寧にくり抜いていく。じゃり、と種が刃に当たる音。芯が抜けた穴から、りんごの酸っぱい香りがふわりと立ち上った。


 冬を越した酸味の凝縮。鼻の奥がつんとする、強い香り。でもこの酸味が——焼けば、全て甘みに変わる。


 くり抜いた穴に、バターを詰める。


 指の体温で柔らかくなったバターを、少しずつ押し込んでいく。冬の間に大切に取っておいた、最後のバター。白くて滑らかで、指に触れるとすっと溶ける。


 その上に——霜花蜜。


 瓶の蓋を開けると、白い蜂蜜の上品な香りが広がった。白霜の森の花から集められた、辺境の宝物。とろりと匙から糸を引いて、バターの上に落ちる。金色と白が混ざり合って、淡い琥珀色になる。


 そして——シナモン。


 ほんの少し。指先でひとつまみ。


 これが鍵だった。レシピ帳に何度も書いた。『シナモンの香りにセドリック様の反応あり。焦がしバターとの組み合わせで目を閉じた。記憶に繋がる匂い』。


 バター。霜花蜜。シナモン。


 りんごの穴に、三つの素材が重なっている。これが焼かれて溶け合った時——あの匂いが生まれる。


 セドリック様の幼少期。お母様の台所。焼きりんごの甘い香りが満ちた、温かい記憶。


 あの記憶に——届け。


 石窯の口を開けた。


 冬を越した窯は、毎日火を入れ続けたおかげで、もう冷えない。赤い炭火が奥で静かに脈打っている。手をかざすと、じんわりとした熱が掌を包んだ。


 温度は——低めに。ゆっくりと。じっくりと。


 りんごを、窯の中央に置いた。


 蓋を閉める。


 あとは——待つ。




 時間が過ぎた。


 どれくらい経っただろう。リゼットは窯の前から動けなかった。他の仕事をする気にもなれなかった。ただ窯の温度を手で感じながら、りんごが焼けるのを待った。


 最初に変わったのは——匂いだった。


 バターが溶け始めた匂い。じわり、と脂が熱に触れて、甘く焦げる香り。石窯の隙間から、細い煙のように漏れ出してくる。


 次に——シナモン。


 バターの香りに混ざって、温かくて少しだけ刺激のある匂いが立ち上る。鼻の奥をくすぐるような、懐かしいような——冬の夜に暖炉の前で飲む温かい飲み物の、あの匂い。


 そして——りんご。


 酸味が、変わり始めている。


 酸っぱい青い香りが、少しずつ丸くなって、甘い方向へ変化していく。果汁がバターと霜花蜜と混ざり合って、窯の中で琥珀色のソースになっている——そういう匂いだ。


 厨房中に広がった。


 いや——厨房だけじゃない。廊下にも。食堂にも。宿全体に、焼きりんごの香りが——染み渡っていく。


 甘くて。温かくて。どこか懐かしくて。


 誰かの記憶の底に、そっと手を伸ばすような——そんな香り。


 窯の蓋を、そっと開けた。


 息を飲んだ。


 りんごの皮が——金色に輝いていた。


 皺だらけだった茶色い皮が、熱でふっくらと膨らんで、飴色から金色へと変わっている。表面にバターの油膜がきらきらと光って、その隙間から琥珀色の果汁が滲み出している。


 りんごの中で溶けたバターと霜花蜜が、果汁と混ざり合って——くり抜いた穴から、とろりと溢れ出していた。とろとろの、琥珀色のソース。バターの金色。蜂蜜の淡い白。りんごの果汁の透明な黄色。三つが混ざった、宝石みたいな色。


 匙で、そっとすくう。さらりと流れて、りんごの丸い体を伝い落ちる。


 完璧な焼き加減だった。


 匙を入れると、じゅっと小さな音がして果汁が弾ける。皮はぱりっと薄く、中の果肉はとろりと崩れる。酸味は完全に甘みに変わっている——りんごの表面に浮かんだ泡の一つ一つが、甘い蒸気を放っている。


 皿に移す。


 白い皿の真ん中に、一つだけ。


 金色の焼きりんご。


 湯気が、ゆらゆらと立ち上っている。


 リゼットは——味見をしなかった。


 これはセドリック様のために焼いた菓子だ。最初の一口は——あの人の。




 マリーさんに頼んだ。


「セドリック様を、呼んでいただけますか」


 マリーさんは、リゼットの顔を見て——何も聞かなかった。ただ頷いて、出ていった。


 一人になった厨房で、リゼットはテーブルの上の焼きりんごを見つめた。


 湯気が細くなっていく。でも香りは消えない。厨房の隅々まで、甘い匂いが満ちている。


 足音が聞こえた。


 重い。大きい。いつもの足音。


 厨房の扉が——開いた。


 冷たい外気と一緒に、灰銀色の髪が見えた。黒い外套。左頬の傷跡。大きな体が扉の枠に収まりきらない——いつもの、セドリック様。


 でも。


 一歩目で——足が止まった。


 扉を開けた瞬間。外の冷気と入れ替わるように、焼きりんごの香りが——セドリック様を、包んだ。


 青灰色の目が——見開かれた。


「……焼き、りんご……?」


 声が、揺れていた。


 あのぶっきらぼうで、短くて、感情を押し殺した声が——揺れている。


「はい」


 リゼットは、テーブルの上の皿を示した。


「焼きりんごです。——どうぞ、座ってください」


 セドリック様は——動かなかった。


 扉の前に立ったまま。大きな体を、微かに強張らせて。


 その目が——焼きりんごではなく、どこか遠くを見ている。ここではない場所。ここではない時間。


 記憶の中の——台所を。


「……セドリック様?」


 リゼットの声で、あの人は——瞬きをした。


 ゆっくりと、椅子に向かって歩く。いつもは大股で迷いなく歩くあの人が——一歩一歩、確かめるように足を運ぶ。


 椅子に座った。


 目の前に——焼きりんご。


 金色の皮。琥珀色のソース。バターとシナモンと霜花蜜の甘い湯気。


 セドリック様は、それを見つめていた。動かない。




「……匂いがする」


 低い声だった。


「はい。焼きりんごです」


「知ってる」


 声が——かすれた。


「この匂いを——知ってる」


 セドリック様の手が——震えていた。


 テーブルの上に置かれた大きな手。剣だこのある、傷だらけの手。その指先が、かすかに——小刻みに——震えている。


 匙を手に取った。


 焼きりんごの、金色に焼けた皮に——匙の先を、当てた。


 ジュッ。


 果汁が滲んだ。琥珀色の液体が匙を伝って、白い皿の上に小さな水溜まりを作る。バターと蜜が混ざった甘い香りが、一段と強く立ち上った。


 口に、運んだ。


 一口。


 沈黙。


 リゼットは——息が、止まりそうだった。


 胸の奥が痛い。祈るように。願うように。あの人の舌に——届いて。


 セドリック様の咀嚼そしゃくが——ゆっくりになった。


 最初は普通の速さだった。でも二度目、三度目の咀嚼が——重く、丁寧になっていく。味を探るように。確かめるように。


 目が——見開かれた。


 青灰色の瞳が——大きく、大きく開いた。


「母さんの……」


 声が、かすれた。喉の奥から絞り出すような、壊れかけた声。


 リゼットの心臓が止まった。止まって——また動いた。


「いや……違う。もっと……」


 セドリック様は目を閉じた。


 もう一口。


 匙を入れる。ぱりっと皮が割れて、中のとろりとした果肉が溢れる。琥珀色のソースが匙の縁を滴る。口に入れる。ゆっくりと。


「甘い」


 その声は——震えていた。


「甘いぞ。ちゃんと——甘い」


 セドリック様の目から——涙が、落ちた。


 一滴。


 大きな手の甲に落ちて、弾けた。


 また一滴。今度は頬を伝って、顎の先から落ちた。


 止まらない。


「なんだ、これは」


 声が——壊れていた。


「なんだ——こんな……」


 大きな体が、震えている。椅子に座ったまま、肩が——あの広い肩が、小刻みに揺れている。


 三年間。


 三年間、何も感じなかった舌に——甘さが、戻ってきている。


 りんごの酸味が甘みに変わった、あの優しい甘さ。加熱された果肉が口の中でほどけて、とろりと舌を包む。バターの豊かさが後から追いかけてきて、舌の奥をじんわりと温める。シナモンの温もりが鼻に抜けて、喉の奥まで届く。霜花蜜の上品な甘さが、全てを一つにまとめている。


 そして——


 母の台所の、記憶。


 幼い日。暖炉の火が燃えている。甘い匂いが家中に満ちている。母が焼いてくれた、小さな焼きりんご。熱いから気をつけて、と言われた声。指先が火傷しそうなほど熱い皮。中のとろりとした果肉。甘くて、温かくて——世界で一番幸せだった記憶。


 あの味が——ここにある。


 同じじゃない。母の味とは違う。もっと繊細で、もっと丁寧で、もっと——


 もっと、温かい。


 セドリック様は涙を拭おうとしなかった。


 拭えなかった。


 溢れてくる。次から次へと。せきを切ったように。三年分の、堰き止めていた何かが——


 味のない世界で。食事が作業で。何を食べても何も感じない日々で。父を失い、母はとうに亡く、味覚すら奪われて——何のために食べているのかも分からなくなった、あの三年間が。


 いま、溶けていく。


 一個の焼きりんごの甘さに——溶けて、流れて、涙になって、落ちていく。


 リゼットも泣いていた。


 いつの間にか。気づいたら頬が濡れていた。視界がぼやけて、セドリック様の姿が滲んで見える。


 嬉しくて。


 ただ、嬉しくて。


 この人の舌に甘さが届いた。リゼットの焼きりんごが——三年間閉ざされていた扉を、少しだけ開けた。


「……よかった」


 リゼットの声も震えていた。涙と一緒に、言葉が溢れた。


「甘いが、届いて——よかった」


 セドリック様がリゼットを見た。涙で濡れた青灰色の目が——まっすぐ、リゼットを見た。


 何か言いかけて——言えなかった。口が開いて、閉じた。


 代わりに——もう一口、焼きりんごを口に運んだ。


 噛みしめるように。味わうように。一口ごとに目を閉じて、ゆっくりと、ゆっくりと。


 皿の上のりんごが、少しずつ小さくなっていく。




 しばらく——二人とも、言葉がなかった。


 焼きりんごの甘い香りだけが、静かな厨房に漂っている。窓の外では屋根から雫が落ちる音がする。ぽた、ぽた、と——春を告げる音。


 セドリック様は、焼きりんごを最後の一口まで食べた。


 琥珀色のソースの一滴まで、匙ですくった。


 皿が——空になった。


 白い皿の上に、ソースの跡だけが残っている。金色の名残。


 セドリック様が——顔を上げた。


 涙の跡が残った顔。左頬の傷跡を涙が伝った筋が、光に照らされている。泣き顔なんて、きっと誰にも見せたことがない人だ。


 その顔で——リゼットを、見た。


「……お前の作るものは」


「はい」


「困る」


「え……」


「忘れられなくなる」


 リゼットの心臓が——跳ねた。


 大きく。強く。肋骨の内側を叩くみたいに。


 忘れられなくなる。


 その言葉が——胸の奥に落ちて、じわりと広がった。熱くて、甘くて、苦しいくらいに——温かい。


 セドリック様は椅子から立ち上がった。袖で乱暴に顔を拭って——背を向けた。


 いつものように。あの広い背中。黒い外套。


 でも今日は——少し、違った。肩の強張りが、ほんの少しだけ緩んでいる。三年間ずっと張り詰めていた糸が——一本だけ、解けたような。


 扉のところで、足が止まった。


 振り返らない。


 背中のまま。


「……明日も、焼いてくれるか」


 リゼットは——息を飲んだ。


 「食わせろ」じゃなかった。


 「明日も来る」でもなかった。


 焼いてくれるか。


 それは——お願いだった。


 あの人の口から初めて出た、お願い。


 涙を拭った。拭っても、また溢れた。でも——笑った。泣きながら、笑った。


「はい」


 声が震えた。でも——はっきりと、言えた。


「明日も——焼きます」


 セドリック様の背中が、一瞬だけ——揺れた。


 頷いたのかもしれない。


 そして——扉の向こうに消えた。


 足音が遠ざかる。重い、大きな足音。でも今日の足音は——来た時より、少しだけ軽い。


 厨房に、一人。


 焼きりんごの甘い香りが、まだ残っている。石窯の温もりが、空気を柔らかくしている。窓の外では雫が落ち続けている——ぽた、ぽた、と。春を告げる、小さな音楽。


 リゼットは空になった皿を両手で持ち上げた。


 琥珀色の跡が残った、白い皿。この皿の上に乗っていた焼きりんごを——あの人は、全部食べてくれた。最後の一匙まで。


 皿を胸に抱いた。


 温かかった。焼きりんごの余熱が、まだ残っている。


 泣いた。笑った。泣いて、笑って、また泣いた。


 嬉しくて。嬉しくて——仕方がなくて。


 明日も焼こう。明後日も。春が来ても。夏が来ても。


 あの人が「甘い」と笑える日まで——何度でも、焼こう。


 屋根から落ちる雫の音が、少しずつ速くなっている。


 春が——来る。

焼きりんご、ついに完成です。香りで記憶を呼び起こす設計――リゼットの菓子師としての真骨頂ですね。焼成中の描写、五感をフル活用して書きました。シナモンとバターの香り、キャラメル化した果汁の甘さ……読んでいるだけでお腹が空くはず(笑)。次回、ついにセドリックの反応が……! Arc 2クライマックスです。

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― 新着の感想 ―
良かったね!頑張ったねぇ。でも、リンゴ最後の一個じゃなかった?明日はどうするの?何焼くの?
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