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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
味を失くした騎士

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17/26

第17話: 冬支度

 蝋燭が揺れている。


 二月の朝。窓の外は白一色で、その白さが逆にまぶしい。雪は夜のうちにまた積もって、昨日踏んだ道の跡さえも消してしまっていた。


 厨房に降りると、いつもの時間なのに——セドリック様の姿がなかった。


 毎朝、同じ時間に来るようになっていた。


 扉を開けて、無言で座って、リゼットが出すものを食べて、「明日も来る」とだけ言って出ていく。短いけれど確かな日課。二人の間に出来た、小さな約束。


 今朝は——その約束が、破られていた。


「マリーさん、セドリック様を見かけましたか?」


「ああ、セドね。朝早くに出ていったよ。村の倉庫を見に行くんだって」


 マリーさんの声には、いつもの軽さがなかった。




 セドリック様がここ数日、険しい顔をしていることには気づいていた。


 リゼットが試作品を出しても、食べる速度がいつもより遅い。視線が菓子ではなくどこか遠くを見ている。「明日も来る」の声に、わずかな間ができるようになった。


 でも——聞けなかった。


 あの人が自分から話さないことを、こちらから尋ねてはいけないのだと、なんとなく分かっていた。


 だから代わりに、マリーさんに聞いた。


「マリーさん。何か——あったんですか?」


 マリーさんは暖炉に薪をくべながら、ふう、と息を吐いた。


「リゼ、あんた……気づいてたかい」


「セドリック様の表情が、ここのところずっと——」


「そうだね」


 マリーさんは火掻き棒を置いて、テーブルの端に腰かけた。


「今年の備蓄、少し足りないんだよ」


「……え?」


「秋の収穫がいつもより少なくてさ。大麦も芋も、冷夏のせいで実りが悪かった。塩漬け肉はなんとかなってるけど、穀物が——心もとない」


 マリーさんの目が、窓の外の雪景色に向いた。


「あと一ヶ月半は雪解けまであるのに」


 リゼットは、その言葉の重さを噛みしめた。


 一ヶ月半。


 四月の雪解けの市まで、あと六週間。商隊は来ない。外からの物資は、ない。今あるものだけで——百人近い村人が、食いつながなければならない。


 帳簿上では、大麦換算であと三十七日分。雪解けまで、五日足りない。


「セドは心配してるんだ」


 マリーさんの声が、低くなった。


「領主だからね。餓死者を出すわけにいかない。先代が——セドの父上が命を懸けて守った村だ。魔物じゃなくて飢えで人が死ぬなんて、あの子は絶対に許せないんだよ」


 リゼットは唇を噛んだ。


 毎朝、ここに来てリゼットの菓子を食べていた人。味が分からないのに、毎日来ていた人。


 その人が——村の食料のことで、一人で帳簿と首っ引きになっていた。


 一人で。


「……セドリック様は、誰かに相談していますか?」


「しないよ。あの子は」


 マリーさんが、苦く笑った。


「弱みを見せない子だからね。村の男衆には『備蓄は問題ない』って言ってる。でも——あたしには分かるよ。毎晩、倉庫の帳簿を何度も数え直してるの。何度数えても、増えるわけないのにさ」


 リゼットの胸が、きゅっと痛んだ。




 マリーさんが村の用事で出かけた後、リゼットは一人、厨房に立っていた。


 作業台の上には、今朝の試作品の残り。蜂蜜と大麦粉の焼き菓子。セドリック様のために焼いた分が、手つかずのまま残っている。


 食料が足りない。


 穀物が心もとない。


 あと一ヶ月半。


 リゼットは焼き菓子を手に取って、じっと見つめた。


 ——菓子師の技術。


 ふと、思考が走った。


 菓子師の仕事は、甘いものを作ることだけではない。素材を加工して、保存して、価値を高める——それもまた、菓子師の技術だ。


 砂糖漬け。蜂蜜漬け。乾燥。


 どれも、菓子を作るときに使う基本の技術。


 でも——それはそのまま、保存食の技術でもある。


 リゼットの指が、震えた。


 果物を蜜漬けにする。ナッツを蜂蜜で瓶詰めにする。根菜を甘煮にして瓶に詰める。穀物と干し果実を練り合わせて焼く——高カロリーで、長期間保存できて、しかも甘い。


 菓子の技術は、保存の技術でもある。


「……できる」


 声に出していた。


 リゼットはエプロンの紐を結び直して、棚を確認し始めた。


 霜花蜜——瓶にまだ半分残っている。蜂蜜の殺菌作用は強い。蜂蜜に漬けたものは、何ヶ月でも保つ。


 乾燥果実——秋のうちに干しておいた山ベリーと高原りんごの切片。


 大麦粉——袋に三つ。これと干し果実を練り合わせれば、保存のきく堅焼きパンが作れる。


 根菜——蕪と人参は、地下の貯蔵室にまだ余裕がある。蜂蜜で甘煮にすれば、瓶詰め保存が可能だ。


 黒胡桃——殻付きのまま保管してあるものが、まだ二袋ある。


「……やれる。やれるかもしれない」


 リゼットは作業台に両手をついて、深く息を吸った。


 一人じゃ足りない。でも——菓子教室の生徒たちがいる。


 村の女性たちは、もう基本的な菓子作りを覚えている。生地を練ること。火加減を見ること。材料を計ること。


 その手があれば——保存食菓子の量産は、不可能じゃない。




 その日の午後、リゼットは菓子教室の三人に声をかけた。


 吹雪の中を来てくれた彼女たちに、事情を話した。


「保存食を作りたいんです。菓子師の技術で——蜂蜜漬けや、干し果実のパンや、根菜の甘煮を。できるだけたくさん」


 三人は顔を見合わせて——すぐに、頷いた。


「あたしたちにも作れるかい?」


「もちろんです。今まで教えたことの応用ですから」


 厨房は一気に活気づいた。


 リゼットが指示を出し、三人が手を動かす。


 蕪と人参を薄く切って、蜂蜜と水で煮る。山ベリーの干し果実を大麦粉に練り込んで、薄く延ばして焼く。黒胡桃を砕いて蜂蜜と混ぜ、小さな瓶に詰めていく。


 堅焼きの干し果実パンは、水分を飛ばせば二ヶ月は持つ。蜂蜜漬けの胡桃は、密封すれば半年でも大丈夫だ。根菜の甘煮は瓶詰めにすれば一ヶ月は保つ。


「リゼットさん、この蕪の甘煮、美味しいねえ!」


「甘いのに保存がきくなんて、不思議だねえ」


「菓子の技術は、保存の技術でもあるんです」


 リゼットは作業をしながら、微笑んだ。


「砂糖漬け、蜂蜜漬け、乾燥——全部、菓子師が使う技術です。甘いものを作る技術は、食べものを長く保つ技術でもある」


 窓の外は吹雪。厨房の中だけが温かくて、蜂蜜の甘い香りが充満している。


 夕方までに、瓶詰め十二本と干し果実パン三十枚ができた。


 小さな量だ。百人の村を六週間養うには、到底足りない。


 でも——足りないなりに、できることがある。


 何もしないよりは、ずっといい。




 日が暮れて、生徒たちが帰った後の厨房。


 リゼットは作業台の上に、今日の成果を並べていた。


 干し果実パン。蜂蜜漬けナッツの瓶。根菜の甘煮。どれも素朴だけれど、しっかりとした保存食だ。


 厨房の入り口に——気配がした。


 振り返ると、セドリック様が立っていた。


 外套に雪がついている。北の見回りから戻ってきたところだろう。青灰色の目が、テーブルの上を見渡している。


 いつもの「食わせろ」は——出なかった。


 黙って、立ったまま。リゼットの作業台に並んだものを、一つ一つ見ている。


「……何をしている」


 低い声だった。疲れた声。


「保存食です」


 リゼットは手を止めて、セドリック様のほうを向いた。


「菓子師の技術で——少しでも、冬の食料を増やせないかと思って」


 セドリック様の眉が、わずかに動いた。


「蜂蜜漬けのナッツと、干し果実のパンと、根菜の甘煮です。どれも長期保存ができます。菓子教室の生徒さんたちにも手伝ってもらいました」


「……」


「足りないのは、分かっています。でも——毎日少しずつ作れば、六週間分の足しにはなるはずです」


 セドリック様は、テーブルに近づいた。干し果実パンを一つ、手に取る。硬い表面を指で押して、保存状態を確かめるように。


 そして——リゼットを見た。


「なぜそこまでする」


 声が、低い。


「お前には関係ないだろう」


 その言葉は、前にも聞いた。


 ——俺のことは放っておけ。


 あの時と同じだ。一人で背負おうとする。弱みを見せまいとする。自分の問題だから、他人は踏み込むなと——壁を作る。


 リゼットは、手を止めた。


 エプロンで手を拭いて、まっすぐセドリック様を見上げた。


「関係あります」


 セドリック様が、かすかに目を見開いた。


「ここはもう——わたしの場所ですから」


 声が、自分でも驚くほどはっきりと出た。


「わたしはこの村の人たちに菓子を教えています。この村の素材で菓子を焼いています。この厨房で毎日、朝から晩まで——」


 言葉が、溢れた。


「この村が困っているなら、わたしも困ります。この村の人たちが飢えるなら、わたしの生徒さんたちも飢えます。だから——関係あります」


 長い沈黙が落ちた。


 暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。


 セドリック様の瞳に——何かが、揺れていた。


 怒りではない。拒絶でもない。もっと深い、名前のつかない感情。あの収穫祭の夜にも見た、あの揺れ。


「……そうか」


 静かな声だった。


 セドリック様はテーブルの干し果実パンを一つ取って——外に出ていった。


 足音が遠ざかる。


 リゼットは、しばらくその場に立っていた。


 手が、まだ震えている。


 言い過ぎただろうか。生意気だっただろうか。追放されてきた身で、領主の問題に口を出すなんて——


 でも。


 言わずにはいられなかった。


 ここは——もう、リゼットの場所だから。




 翌日の昼過ぎだった。


 リゼットが厨房で蕪の甘煮を瓶詰めにしていると、外から馬のいななきが聞こえた。


 窓から覗くと——セドリック様が馬を引いて戻ってきたところだった。


 馬の背に、荷が積んである。大きな麻袋がいくつも。


 リゼットは厨房を飛び出した。


 冷たい外気が頬を刺す。雪を踏んで駆け寄ると、セドリック様が馬から荷を降ろしているところだった。


「セドリック様、それは……?」


 セドリック様は荷を地面に降ろして、リゼットをちらりと見た。


「北の倉庫に、去年の余りの大麦があった」


「え……」


「秋に使い切れなかった分が、まだ残っていた。虫は入っていない。使え」


 リゼットは、麻袋の口を覗き込んだ。


 大麦だ。乾燥した、きれいな穀粒が、たっぷり詰まっている。


「こんなに……」


「六袋ある。干し果実のパンとやらに使えるだろう」


「……これで、みんな足りますか」


「足りるわけがない」


 即答だった。


「だが、雪解けまで繋ぐ時間は稼げる。配給は続ける。無駄は一粒も出すな」


「足りない五日分は?」


「干し果実パンと根菜の甘煮で埋める。だから急げ」


 セドリック様は、それだけ言って馬のくつわを直しにかかった。


 リゼットは目を見開いたまま、立ち尽くしていた。


 北の倉庫。去年の余り。


 ——探してくれたのだ。


 リゼットが言ったことを聞いて。リゼットが作ったものを見て。一人で、北の倉庫まで——吹雪の中を。


「……ありがとうございます」


 声が、かすれた。


 セドリック様は振り返らなかった。馬の首を撫でながら——ぽつりと言った。


「礼はいらん」


「でも——」


「……お前の作るパン、村のガキどもが喜ぶだろう」


 リゼットは、目が熱くなるのを堪えた。


 あの人は——こういう人だ。


 弱さを見せない。感謝も受け取らない。でも——黙って、動く。


 言葉じゃなくて、行動で示す人。


 セドリック様が馬を厩舎に引いていく。大きな背中が、白い雪の中を遠ざかっていく。


 リゼットはその背中を見送りながら——思った。


 あの人は——菓子を通して、リゼットの「場所」を受け入れてくれた。


「ここはもう、わたしの場所です」


 そう言った時の、あの瞳の揺れ。


 拒絶ではなかった。あれは——受け入れの、始まりだった。


 リゼットは大麦の袋を抱え上げた。重い。でも——嬉しい重さだった。


 厨房に運び込んで、明日からまた作ろう。干し果実のパンを。蜂蜜漬けのナッツを。村の女たちと一緒に。


 この冬を——越える。


 みんなで。


 リゼットは空を見上げた。灰色の雲が、低く垂れ込めている。まだ降る。まだ冬は続く。


 でも——この冬を越える手伝いができることが、ただ嬉しかった。

辺境の冬、かなり厳しく描きました。保存食と菓子を融合させるアイデア、リゼットらしい発想だと思います。ドライフルーツやジャム、ナッツ菓子――実用性と美味しさの両立。書いていてお腹が空きました(笑)。次回、セドリックが心の内を語ります。彼の「弱さ」が、物語の転換点に。

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