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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
味を失くした騎士

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第16話: 食わせろ

 いつの間にか、日課になっていた。


 朝。厨房で試作品を仕上げていると、重い足音が廊下を近づいてくる。


 扉が開く。


 冷たい外気と一緒に、大きな影が入ってくる。灰銀色の髪。黒い外套。左頬の傷跡。


 セドリック様は、まっすぐリゼットを見て——言った。


「食わせろ」


 たった一言。


 それだけで——リゼットは、笑顔になる。




 始まりは、十二月の終わりだった。


 最初は夜更けだった。


 片づけの終わった厨房に現れて、「昨日の残りを出せ」とだけ言う。リゼットが皿を差し出すと、無言で食べて、無言で帰る。


 それが何日か続いて、やがて言葉が「また残しておけ」に変わった。


 年が明けるころには、朝にも顔を出すようになり——


 一月の半ば、ついに最初の一言が落ちた。


 焼きりんごの研究を続けていたリゼットは、毎日さまざまな試作品を作っていた。りんごの切り方を変えたもの。蜜の配合を変えたもの。シナモンを多くしたもの、少なくしたもの。焼き時間を長くしたもの。バターを焦がしたもの。


 その日も、朝から試作をしていた。厨房に甘い香りが充満している。


 セドリック様が北の見回りから戻ってきたのは、いつもより早い時刻だった。


 厨房の前を通りかかって——足を止めた。


 リゼットは気づかなかった。振り返ったら、扉の前に立っていた。


「あ、セドリック様。おはようございます。今日はお早いですね——」


「食わせろ」


「え?」


「今。焼いてるやつ。食わせろ」


 ぶっきらぼうな声。視線は——試作品のりんごに向いていた。


 リゼットは一瞬きょとんとして、それから慌てて皿を用意した。


「は、はい。まだ試作段階なんですけど——どうぞ」


 セドリック様は黙って椅子に座り、出されたものを食べた。


 淡々と。無表情に。


 何の感想もなく、席を立った。


「……ごちそうさま」


 それだけだった。


 翌朝も——来た。


「食わせろ」


 その翌朝も。


「食わせろ」


 三日続いた時に、リゼットは確信した。


 これは——日課になるのだ、と。




 毎日、違う試作品を出す。


 セドリック様の反応を——リゼットは、一つも見逃すまいと観察した。


 菓子師の目で。そして——もう一つの、名前のつかない感情で。


 シナモンを強めた焼きりんごを出した日。セドリック様の眉が、かすかに動いた。ほんの一瞬。でも、確かに。


 レシピ帳に書く。『眉が動いた → 何かが届いた。シナモンの量は多め寄りで正解か』


 霜花蜜をたっぷり絡めたものを出した日。セドリック様の咀嚼そしゃくが、途中で遅くなった。いつもは規則的に動く顎が、一瞬だけ——ためらうように。


 『咀嚼が遅くなった → 味を探っている。蜜の量は増やす方向で』


 バターを焦がしてから焼いたものを出した日。セドリック様が、目を閉じた。食べながら、瞼を下ろした。三秒ほど。


 リゼットの心臓が、大きく跳ねた。


 『目を閉じた → 香りを感じている。焦がしバターの香りは有効。これは大きな手がかり』


 そして——高原りんごを丸ごと芯をくり抜いて、中に蜜とバターとシナモンを詰めて焼いたものを出した日。


 セドリック様は一口食べた。そして——二口目を食べた。


 二口目。


 いつもなら、出されたものをただ食べきるだけだ。でもこの日は——一口目の後に、ほんの一瞬の間があった。そして、自分から二口目に手を伸ばした。


 食べたいから食べたのか。それとも、いつもと同じただの動作なのか。


 分からない。でも、リゼットはレシピ帳に書いた。


 『二口目を食べた → 良い兆候。丸ごと焼きは有望。配合を固定して、温度を詰める』


 記録は日に日に増えていく。科学者のように精密に。でも——菓子師の直感も、忘れない。数字では測れないもの。あの人の沈黙の質。呼吸の深さ。匙を置く速度。


 全部——リゼットにしか読み取れない言語だった。




「セドリック様、まだ熱いですから——あっ」


 差し出した皿を、セドリック様は待たずに手で取った。焼きたてのりんごを、そのまま口に放り込む。


「問題ない」


「問題あります! 舌を火傷したらますます——」


 言いかけて、止まった。


 味が分からなくなる。


 その言葉が、喉の奥で凍りついた。


 沈黙が、落ちた。


 暖炉の薪が爆ぜる音だけが、厨房に響いている。


 リゼットは顔を伏せた。言ってはいけないことを、言いかけてしまった。


「……すみません」


「何がだ」


「いえ、その……」


 セドリック様を見上げると——怒ってはいなかった。


 むしろ——口角が、かすかに上がっている?


「……ああ、そうだな」


 低い声だった。感情を押し殺した、いつもの平坦な声。でも——どこか、柔らかい。


 リゼットの頬が、じわりと熱くなった。




 ある朝、厨房に入ると——薪が補充されていた。


 暖炉の横の薪置き場に、きれいに積み上げられたならの薪。昨日の夜はもう残り少なかったのに。


「あれ、マリーさん、薪を——」


「あたしじゃないよ」


 マリーさんが、にやにやしながら言った。


「セドが持ってきたんだよ。朝早く」


「え?」


「『薪が減ってる』って。それだけ言って、積んで、出ていった」


 リゼットは薪の山を見つめた。一本一本、同じ長さに割られた楢の薪。暖炉にちょうどいい太さに揃えてある。


「あの子、厨房の薪の量なんかチェックしてるんだねえ」


 マリーさんが、にやにやを隠そうともしない。


「セドリック様が……?」


「他に誰がいるのさ。まったく、あの子は——口じゃ何も言わないくせに、こういうところはちゃんとしてるんだから」


 頬が熱い。


 セドリック様が——リゼットの厨房の薪の量を、見ている。毎日来ているから、減り具合が分かるのだ。


 気づいて——黙って、補充した。


 何も言わず。


 それが、あの人なのだ。




 日が経つにつれて——セドリック様との会話が、少しずつ長くなっていった。


 最初は、こうだった。


「食わせろ」


 食べる。


「……ごちそうさま」


 去る。


 それが——変わった。


「食わせろ」


「はい、どうぞ。今日は蜜の配合を変えてみたんです」


「……」


 食べる。沈黙。


「……前のやつの方がマシだった」


 心臓が跳ねた。


 反応があった。「マシだった」——つまり、違いを感じている。何かが伝わっている。


「え、どっちですか? 前のって、昨日のですか? 一昨日のですか?」


「昨日の。丸いやつ」


「ビスコッティのことですか? あれは黒胡桃を粗めに砕いて——」


「ああ。あれでいい」


「でも、あれは焼きりんごとは別の路線で——あ、でも胡桃の焙煎具合を焼きりんごにも応用したら——」


 気づけば、菓子の話が始まっていた。


 リゼットが一方的に話して、セドリック様は黙って聞いている。時々「ああ」とか「そうか」とか、短い相槌を打つだけ。


 でも——聞いてくれている。


 椅子に座ったまま、帰らずに。


 リゼットの菓子の話を——聞いてくれている。




 ある日のことだった。


 二月の半ば。外は相変わらず雪に閉ざされている。


 セドリック様がいつものように来て、いつものように食べた。今日の試作品は、薄くスライスした高原りんごをバターで焼いて、霜花蜜とシナモンを絡めたもの。


 食べ終えて——立ち上がらなかった。


 椅子に座ったまま、テーブルの上の空の皿を見つめている。


 リゼットは流し台で皿を洗いながら、横目でセドリック様を見た。気にしないふりをしながら、でも——耳は、あの人の方を向いている。


 水の音だけが、しばらく続いた。


「……お前は」


 低い声がした。


 リゼットは手を止めかけて——いや、止めたら気まずくなる。皿を洗い続けた。


「はい?」


「なぜ、俺に食わせる」


 水の音。薪が爆ぜる音。その向こうに、静かな声。


「え?」


「味が分からない人間に食わせても、意味がないだろう」


 リゼットは——手を止めた。


 濡れた手を、エプロンで拭く。


 振り返った。


 セドリック様はまっすぐ前を見ていた。リゼットを見ていない。テーブルの上の空の皿を、じっと見つめている。


「意味はあります」


 自分の声が、思ったよりもはっきりと響いた。


「どういう意味だ」


 セドリック様が、こちらを見た。


 深い青灰色の目。感情が読みにくい、静かな瞳。でも——その奥に、何かがあった。問いかけているのではない。確かめようとしている。


 リゼットは——言葉を探した。


「……うまく言えないんですけど」


 手を、胸の前で組む。


「わたしは菓子師です。菓子師は、食べてくれる人がいるから菓子を作れるんです」


「……」


「王都を追放されて、ここに来て——最初は、誰も甘い味を知らない土地で、わたしに何ができるんだろうって思いました。菓子師なのに、食べてくれる人がいない。それが、一番怖かったんです」


 暖炉の炎が、橙色の影を揺らしている。


「でも——セドリック様が毎日来てくださるから」


 声が、少し震えた。


「セドリック様が『食わせろ』って言ってくださるから——わたしは毎日、新しい菓子を作れるんです」


 セドリック様は、黙っていた。


 長い沈黙だった。暖炉の火が爆ぜる音が、いくつも過ぎた。


 リゼットは胸の奥がぎゅっと締まるのを感じながら、あの人の顔を見つめていた。


「……そうか」


 たった一言だった。


 セドリック様は椅子から立ち上がった。大きな体が、厨房の低い天井の下を動く。


 扉に向かう。


 リゼットは——また背中を見送るのだと思った。


 でも。


 セドリック様は、扉の前で足を止めた。


 振り返った。


「明日も来る」


 低い声。ぶっきらぼうな声。いつもと同じ——でも、いつもとは違う声。


 「食わせろ」ではなかった。


 「明日も来る」。


 それは——初めて、あの人の口から出た約束だった。


「……はい」


 リゼットの声が、かすれた。


「はい。待ってます」


 セドリック様は一瞬だけ——本当に一瞬だけ、口元を緩めた。


 そして、扉の向こうに消えた。




 足音が遠ざかっていく。


 重い、大きな足音。廊下を歩いて、宿の出口に向かう音。外の冷たい空気が、一瞬だけ厨房の中に流れ込んだ。


 リゼットは、流し台の前に立ったまま動けなかった。


 頬が——熱い。


 手を当てた。自分の頬に。


 燃えるように、熱い。


 暖炉のせい? いいえ。暖炉はいつもの温度だ。


 あの人が——「明日も来る」と言った。


 「食わせろ」じゃなくて。「ごちそうさま」でもなくて。


 「明日も来る」。


 自分の意志で。自分の言葉で。明日を——リゼットとの明日を、約束してくれた。


 胸が温かい。


 菓子師としての喜び——だけじゃない。食べてくれる人がいる嬉しさ——だけじゃない。


 もっと別の、もっと深い場所で、何かが温かく灯っている。


 名前がつかない。何だろう、この感情。


 嬉しいとも違う。安心とも違う。もっとふわふわして、もっとどきどきして、もっと——苦しいような、甘いような。


 レシピ帳なら分かるのに。素材の名前も、配合も、温度も、全部言葉にできるのに。


 この気持ちだけは——レシピ帳に書けない。


「……なんだろう、これ」


 呟いた声が、誰もいない厨房に落ちた。


 頬に当てた手が、まだ熱い。


 窓の外は雪が降っている。二月の辺境は、まだ真冬だ。


 でも——厨房の中は、暖かかった。


 暖炉の火のせいだけではない、温もりが——胸の中に、灯っていた。

「食わせろ」――このセリフ、書きたくてうずうずしていました(笑)。セドリックの不器用な優しさが、ようやく表に出てきましたね。二人の距離が縮まる日常シーン、会話のテンポにこだわって書きました。リゼットの嬉しそうな表情が目に浮かびます。次回、辺境の冬が本格化。厳しい環境が二人をさらに近づけます。

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― 新着の感想 ―
食わせろ、ってなんか言い方として嫌ですね。 男が心の中でどう思っていようが言われたほうは「はあ?!小さい子どもでももうちょっとマシな言い方するだろ!」って思うんですが。
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