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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
味を失くした騎士

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第15話: 母の焼きりんご

 雪が、すべてを埋めた。


 十二月。窓の外は白一色だった。屋根も、石畳も、白霜の森の木々のこずえも——何もかもが、音を吸い込む柔らかな白に覆われている。


 厨房の窓硝子に指で触れると、刺すような冷たさが骨まで届いた。


 リゼットは手を引っ込めて、作業台の上のレシピ帳に目を落とした。


 ——匂いが鍵。


 先日、ラベンダーの焼き菓子を差し出した時。セドリック様が、初めて「何か、匂いがする」と反応した。あの瞬間を、リゼットは何度も反芻はんすうしている。


 味覚は舌だけではない。香り、温度、食感、記憶——五感で味わうもの。そこまでは分かった。匂いが嗅覚を通じて脳に届き、記憶を呼び起こす。その記憶が味覚の回路を刺激する。


 理屈は——見えた。


 でも、次の一歩が踏み出せない。


 セドリック様にとって、最も強い記憶と結びつく香りは何だろう。何の匂いが、あの人の奥底に眠る「味」を呼び覚ますのだろう。


 本人に聞けたら一番早い。


 でも——「放っておけ」と言われた記憶が、まだ胸に刺さっている。


 直接は、聞けない。


 なら——誰かから、聞くしかない。




 その夜、厨房の片づけを終えてから、居間の暖炉の前に座った。


 マリーさんが林檎酒を温めて持ってきてくれた。カップから立ち上る湯気が、ゆらゆらと揺れている。


「ありがとうございます、マリーさん」


「ん。今日も冷えるねえ」


 マリーさんが暖炉の前の椅子にどっかりと腰を下ろす。薪がぱちりと爆ぜて、橙色の光が二人の顔を照らした。


 リゼットは、林檎酒を一口含んだ。りんごの酸味と、ほんのりとした温もりが喉を下りていく。


「……マリーさん」


「なに?」


「セドリック様の——小さい頃のこと、教えてもらえますか」


 マリーさんの手が止まった。カップを口元に運びかけたまま、リゼットの顔をじっと見ている。


「セドの昔? なんで?」


 リゼットは、少し迷ってから——正直に話すことにした。


「味覚のことを、研究しているんです。匂いが鍵だと分かって——でも、どんな匂いがセドリック様の記憶に届くのか、それが分からなくて」


「……味覚の研究」


「はい。五感で味わうという仮説があって——特に嗅覚は、記憶と強く結びついているらしいんです。だから、セドリック様の一番古い——一番強い味の記憶に繋がる匂いを見つけたくて」


 マリーさんはしばらく黙っていた。


 暖炉の炎が揺れている。窓の外では、風が雪を巻き上げる音がする。


「……あんた、本気なんだね」


「はい」


「あの子の味覚を、取り戻そうとしてるんだ」


「菓子師として——やれることをやりたいんです」


 マリーさんはカップをテーブルに置いて、深く息を吐いた。


「分かったよ。話すよ」


 そして——少しだけ遠い目をした。


「セドのお母さんのこと、聞きたいんでしょ」




「セドのお母さんね——料理が上手だったんだよ」


 マリーさんの声は、どこか懐かしそうだった。


「辺境伯夫人なのに、自分で厨房に立つ人でね。使用人に任せないの。あの人、料理が好きだったんだよ。心底ね」


「辺境伯夫人が、ご自分で?」


「うん。『美味しいものを食べさせたい人がいるなら、自分の手で作るのが一番だ』って言ってた。あたしが小さい頃、時々お裾分けをもらったんだよ」


 マリーさんが、くすりと笑った。


「特に焼きりんごが得意でね」


 リゼットの指が、カップの取っ手を握り締めた。


「焼きりんご」


「そう。高原りんごをバターと蜂蜜で焼いて、シナモンを少し振るの。秋になるとさ、あの屋敷からいい匂いがしたもんだよ。バターが焦げる甘い匂いと、シナモンの香りが混じって——村の通りまで漂ってくるんだ」


 バターと蜂蜜。シナモン。高原りんご。


 リゼットは一つ一つの言葉を、心の中に刻んだ。


「セドはね、小さい頃、お母さんの焼きりんごが大好きでさ。『もう一個!』って何度もおかわりして——」


「セドリック様が……おかわりを?」


 あの寡黙で無愛想な人が、子供のように「もう一個」とねだる姿なんて——想像しようとしても、うまくいかなかった。


 マリーさんが声を上げて笑った。


「信じらんないでしょ。でも昔は笑う子だったんだよ、あの子。よく笑って、よく食べて、木登りが得意で、あたしを泣かせてばっかりでさ」


 笑い声が、ふっと止んだ。


「お母さんが病気で亡くなってから——変わったけどね」


「……」


「セドが十二の時だったかな。長い冬の終わりに、熱を出して——そのまま。辺境の冬は体力を奪うからね。あの人、元々そんなに丈夫じゃなかったから」


 暖炉の薪が崩れて、火の粉がふわりと舞い上がった。


「先代——セドの父上は、奥方が亡くなってから口数が減った。セドも同じ。笑わなくなった。そして七年後に父上が戦死して、セド自身も味覚を失って——」


 マリーさんは、暖炉の炎を見つめていた。


「あの子は、大事なものを一つずつ奪われてきたんだよ。母の味。父の命。自分の味覚。全部」


 リゼットは唇を噛んだ。


 何も言えなかった。


「でもね、リゼ」


 マリーさんがこちらを向いた。その目に、小さな光が灯っている。


「焼きりんごの話をする時のあの子の顔、あたしは知ってるよ。一度だけ、酔った時にぽろっと漏らしたことがあるんだ。『昔——母が焼いてくれた、りんごの匂い。あれだけは、まだ覚えてる気がする』って」


 リゼットの心臓が、跳ねた。


 匂いを——覚えている。


「高原りんご。バター。蜂蜜。シナモン。焼きりんご——あの子の、一番古い『甘い記憶』だよ」




 翌朝から、リゼットは高原りんごの研究を始めた。


 冬だ。新鮮なりんごはない。でも——秋の終わりに保存しておいた高原りんごが、地下のセラーにあった。低温で眠るように保存された小さなりんごたち。


 一つ手に取って、かじってみる。


 酸っぱい。


 小粒で、皮が硬くて、酸味が舌を刺す。王都で食べていた甘い林檎とは、まるで別物だ。


 でも——加熱すると変わる。


 りんごを四つに切って、鍋にバターをひとかけ落とす。じゅわっと音がして、バターが溶ける。切ったりんごを並べて、弱火でじっくり焼いていく。


 りんごの細胞が熱で壊れる。酸が分解される。寒暖差の激しい辺境で育った高原りんごは、身を守るために糖分を蓄えている。加熱がその糖分を解き放つ。酸味が——甘みに変わっていく。


 霜花蜜を回しかける。蜜がバターと混ざって、りんごの表面に琥珀色のころもをまとわせる。


 最後に——シナモンをひと振り。


 甘い香りが、厨房に広がった。


 バターが焦げるまろやかな甘さ。シナモンの温かくてほろ苦い芳香。霜花蜜の花のような上品な甘さ。そして——りんごそのものの、果実の香り。


 全部が混ざって、一つの匂いになる。


 温かくて、懐かしくて、どこか切ない匂い。


 味見をした。


 柔らかくなったりんごを一切れ、口に入れる。酸味はほとんど消えて、代わりに——深い甘みが舌に広がった。バターのまろやかさ。蜜のとろみ。シナモンが鼻を抜けていく。


 美味しい。


 でも——まだ足りない。何かが、足りない。


 リゼットはレシピ帳を開いて、ペンを走らせた。


 『焼きりんご試作第一号——美味しいが、これではただの菓子だ。セドリック様のお母さんの味を再現するんじゃない。あの香りが呼び起こす——記憶に、働きかけるんだ。配合を詰める。温度と焼き時間を変えて、香りの立ち方を変える必要がある』


 まだ、完成じゃない。でも——方向は見えた。




 冬至の夜が来た。


 冬籠りの宵。一年で最も暗い夜。


 村の集会所に、小さな火が灯っている。暖炉の前に村人たちが集まって、肩を寄せ合うように座っていた。子どもたちは毛布にくるまって、大人の膝の上で目を擦っている。


 冬至の夜は、暖炉の火を絶やさない。最も暗い夜を——温かい火のそばで、大切な人と過ごす。


 リゼットは、小さなビスコッティを焼いてきた。焼きりんごではない。黒胡桃と霜花蜜の、素朴な焼き菓子。冬の夜に、温かい飲み物と一緒に食べるための——ささやかな甘味。


「はい、どうぞ」


 子どもたちの手に、一つずつ渡す。


「甘い!」


「おいしい!」


 小さな歓声が上がる。大人たちも手を伸ばして、ビスコッティを口に運んだ。硬い焼き菓子を噛み砕く音が、暖炉の爆ぜる音に混じる。


「ああ、温まるねえ」


「こういうのが嬉しいんだよ、冬の夜は」


 エルザばあちゃんが、皺くちゃの顔で笑って目を細めた。


「菓子師さん、今年の冬はあったかいねえ。あんたのおかげだ」


「エルザさん……」


 辺境の冬籠りの宵に、甘い菓子がある。去年までは、なかったもの。


 リゼットが——ここに来たから、あるもの。


 胸の奥が、じんわりと温かくなった。




 ふと、視線を感じた。


 集会所の隅——暖炉から一番遠い壁際に、セドリック様がいた。


 一人で、椅子に腰掛けて、暖炉の火を見つめている。


 村人たちの輪から少し離れた場所。誰とも話さず、ただ——炎を見ている。


 橙色の光が、あの人の横顔を照らしていた。灰銀色の髪が、炎に温かな色を帯びる。左頬の傷跡が、影になって、浮かび上がって、また影になる。


 深い青灰色の目が、炎の揺れを映している。


 その瞳は——ここにはない、どこか遠い場所を見ているようだった。


 あの人は何を思い出しているんだろう。


 十二歳の少年だった頃。母が台所に立つ姿。バターとシナモンの匂いが漂う暖かい屋敷。「もう一個」とねだる自分の声。母の笑顔。


 ——もう二度と戻らない、あの台所を。


 リゼットの目の奥が、熱くなった。


 暖炉の火に照らされたあの横顔は、冬の夜に凍えている人のようだった。村人たちの笑い声のすぐ近くにいるのに、どこまでも遠い場所にいる人。


 リゼットは——心の中で、誓った。


 必ず。


 あの香りを——あの味を、もう一度届ける。


 セドリック様のお母さんの焼きりんごの記憶に触れる、あの温かくて甘い香りを。




 深夜。


 村人たちが家路につき、マリーさんも部屋に戻った。


 リゼットは一人、厨房に立っていた。


 蝋燭の明かりの下で、レシピ帳を開く。


 新しいページに、ペンを走らせた。


 『焼きりんご——高原りんご×霜花蜜×シナモン×バター』


 『設計: 香りで記憶を呼び起こす。母の台所の温もり。』


 『課題: 配合の精度。焼き温度と時間。シナモンの量。香りのピーク——最も強く立つ瞬間に食べさせること。焼きたての最初の一口が勝負。』


 ペンを止めて、窓の外を見た。


 雪が降っている。音もなく、白い粒が暗闇の中を落ちていく。


 まだ完成じゃない。


 もっと研究が必要だ。りんごの切り方。バターの量。蜜を入れるタイミング。シナモンの配分。焼き温度。焼き時間。冷める速度。器の素材。——全てを突き詰めなければ。


 でも——方向は見えた。


 この焼きりんごが、セドリック様の味覚を取り戻す鍵になる。


 レシピ帳を閉じて、胸に抱えた。


 厨房の石窯が、今朝の余熱をほんのり残している。リゼットはその窯に手を当てた。微かな温もりが、掌を伝う。


 冬は長い。


 でも——春が来る前に、この焼きりんごを完成させる。


 リゼットは窯の前で、静かに目を閉じた。


 瞼の裏に——暖炉の前のセドリック様の横顔が、浮かんでいた。




 翌朝。


 厨房の扉の前で、重い足音が止まった。


 リゼットが振り返ると、セドリック様が立っていた。目を合わせないまま、短く言う。


「……昨日の。残ってるか」


 その声が、冬の朝の空気に落ちた。

セドリックの幼少期エピソード、書いていて泣きそうになりました。母親の焼きりんごが、彼の「味の原点」だったんですね。マリーさんの証言シーンも好きです。幼馴染だからこそ知っている、小さな記憶のかけら。次回から、リゼットとセドリックの距離がぐっと縮まります。日常の中に滲む変化をお楽しみに。

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