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追放された宮廷菓子師は、辺境の厨房で幸せを焼く  作者: 歩人
味を失くした騎士

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第13話: 密かな常連

 初雪は、音もなく降った。


 朝、目を覚まして窓の外を見た瞬間——世界が白かった。


 屋根も、道も、白霜の森の木々のこずえも。一夜のうちにすべてが白い衣をまとって、昨日までとはまるで違う景色がそこにあった。


 リゼットは窓枠に手をついて、息を呑んだ。


 王都では、雪はめったに降らなかった。降っても薄化粧のように消えてしまう、はかないものだった。


 でも、辺境の雪は——違う。


 積もっている。しっかりと、深く。大地を覆い尽くすように。


「……冬が、来たんだ」


 白い息が、窓硝子まどガラスに触れて曇った。




 階下に降りると、マリーが暖炉に薪をくべていた。


「おはよう、リゼ。見たかい、あの雪」


「はい……すごいですね」


「すごいなんてもんじゃないよ。これが始まりさ。これから五ヶ月、あたしたちはこの村から出られない」


 マリーの声は、淡々としていた。辺境に生まれ育った人にとって、冬の孤立は特別なことではない。毎年やってくる、当たり前の季節。


「最後の商隊は昨日のうちにったよ。街道が塞がる前にって、大慌てでね」


「そう……ですか」


「次に商人が来るのは、四月の雪解けの市。それまで——ここにあるものだけで、やっていかなきゃならない」


 リゼットは頷いた。


 覚悟はしていた。秋のうちに、保存の利く素材はできるだけ買い込んでおいた。霜花蜜は瓶に三本。乾燥させた黒胡桃は麻袋にふたつ。大麦粉と、わずかなバターと、塩。


 足りないものばかりだけれど——足りないなりに、やる。


 窓の外では、雪がまだ降り続けている。


 白い、白い世界。


 五ヶ月。


 リゼットは胸の中で、静かに覚悟を決め直した。




 その日から、暮らしが変わった。


 朝の水汲みは、井戸の蓋を凍りついた雪から掘り出すところから始まる。薪は一日に消費する量が倍になった。窓の隙間から吹き込む冷気を、古い毛布で塞ぐ。


 厨房にいる時間が、ずっと長くなった。


 外に出られない分、リゼットは菓子を焼いた。


 村人に教えた簡単なクッキー。黒胡桃のビスコッティ。霜花蜜を薄く塗った大麦のラスク。素材は限られているけれど、組み合わせを変え、焼き加減を変え、毎日少しずつ違うものを作った。


 菓子教室に通ってくる村の女たちも、冬になると足が遠のいた。雪道を歩くのは大変だし、家々の仕事も増える。


 それでも——週に二回、三人ほどが厨房に来てくれた。赤い頬に白い息を吐きながら、卵や薪を抱えて。


「リゼットさん、今日は何を教えてくれるんだい?」


「今日は——焼き菓子の保存法を。冬籠りの宵まで持つように、しっかり乾燥させる方法です」


 小さな菓子教室。小さな甘い時間。


 辺境の冬は厳しいけれど、厨房だけは——温かかった。




 その夜のことだった。


 リゼットが厨房の片付けを終えて、蝋燭を手に二階へ上がろうとしたとき——


「リゼ」


 小声だった。


 振り返ると、マリーが廊下の壁に寄りかかって、腕を組んでいた。


「マリーさん? どうかしましたか?」


「ちょっと、こっちおいで」


 マリーが手招きする。リゼットは首を傾げながら近づいた。


 マリーは声を落として、囁くように言った。


「ねえ、リゼ。ちょっと聞いてよ」


「はい?」


「セドのやつ、毎晩来てるんだよ」


「……え?」


「あんたが寝た後にね。厨房に来て——残り物の焼き菓子、全部食べてるの」


 リゼットは、言葉の意味を理解するのに数秒かかった。


「セドリック様が……毎晩?」


「そう。最初はたまたまかと思ったんだけどさ。もう一週間以上だよ。毎晩、欠かさず」


 マリーの顔は、いたずらっぽくもあり、どこか切なげでもあった。


「味なんか分からないって言ってたのに……」


「分からなくても食べたいんだろうね。あの子なりの、何かがあるんだよ」


 リゼットは、階段の手すりを握りしめた。


 あの日の言葉が蘇る。


 ——放っておけ。


 ——俺のことは放っておけ。


 そう言って、背を向けた人。


 その人が——毎晩、リゼットの菓子を食べに来ている。


「……マリーさん。セドリック様は、何か言っていましたか?」


「何も。あたしが起きてることにも気づいてないよ。いつも真っ暗な厨房にそーっと入ってきて、そーっと出ていくんだ。猫みたいにね」


 マリーは小さく笑った。


「あの図体ずうたいで猫もないもんだけどさ」


 リゼットは笑えなかった。


 胸の奥が、きゅっと縮むような痛みがあった。




 翌日から、リゼットは焼き菓子を多めに作るようにした。


 いつもの量に、もう少しだけ。五つか六つ、余分に。


「あら、今日はちょっと作りすぎちゃいました。もったいないから、置いておきましょうか」


 マリーに向かって、何でもないように言う。


 マリーは何も言わず——ただ、にやりと笑った。


「そうだね。もったいないからね」


 焼き菓子を、厨房の作業台の端に並べた。布を被せて、でも——取りやすいように。


 霜花蜜の香りが、布越しにほんのりと漂う。


 リゼットはそれを確認して、二階に上がった。


 ——美味しいと、思ってくれているのだろうか。


 味が分からないと言っていた。何を食べても同じだと。


 それなのに、毎晩来る。


 毎晩、食べる。


 その理由が——リゼットには、まだ分からなかった。




 三日が過ぎた。


 毎朝、皿は空になっていた。一つ残らず。


 リゼットは空の皿を洗いながら、考えた。味が分からないのに、毎晩食べに来る。拒絶したはずなのに、菓子を求めている。


 矛盾だ。


 でも——人の心は、矛盾するものだ。


 四日目の夜。


 リゼットは、どうしても確かめたくなった。


 寝間着の上に厚い肩掛けを羽織り、蝋燭は持たずに——暗い廊下を、足音を殺して歩いた。


 階段を途中まで降りて、壁の影に身を隠す。ここからなら、厨房の入り口が見える。


 月明かりが、廊下の窓から差し込んでいた。雪の夜は明るい。白い地面が月光を跳ね返して、薄い青白い光が屋内にまで届く。


 リゼットは壁に背をつけて、息を殺した。


 待った。


 暖炉の残り火が、時折ぱちりと爆ぜる音がする。それ以外は、静寂。雪の夜は、音すら凍るように静かだ。


 どれくらい経っただろう。


 足先が冷えてきた頃——


 かすかな、足音。


 重い。だが、慎重に抑えた足取り。床板のきしみを最小限にするように、ゆっくりと。


 大きな影が、廊下の奥から現れた。


 セドリックだった。


 黒い外套は脱いでいる。厚手の麻のシャツに革のズボンという、寝る前の格好。灰銀色の髪が月明かりに淡く光っている。


 リゼットは息を止めた。


 セドリックは厨房の入り口で一瞬立ち止まり——中に入った。


 蝋燭は灯さない。


 月明かりだけ。


 窓から差し込む青白い光の中で、セドリックの大きな手が——作業台の上の焼き菓子に伸びた。


 布をそっとめくる。


 一つ、手に取る。


 口に運ぶ。


 リゼットは、階段の影から、その横顔を見つめた。


 セドリックは——目を閉じていた。


 ゆっくりと、噛む。一口、一口。急がない。味わうように——いや、味わうのとは違う。もっと切実な何か。


 何かを探すような。


 祈るような。


 眉の間にかすかな皺が寄っている。快楽の表情ではない。かといって苦痛でもない。名前のつけられない表情。


 まるで——一口ごとに全神経を集中させて、舌の上のかすかな何かをすくい取ろうとしているような。


 味を。


 感じようとしている。


 リゼットの目が、熱くなった。


 セドリックは焼き菓子を一つ食べ終えると、二つ目を手に取った。同じように、目を閉じて、ゆっくりと噛んだ。


 三つ目。四つ目。


 全部、同じだ。一つ一つに、同じだけの時間をかける。同じだけの集中を注ぐ。味の分からない菓子を——それでも、一口一口、丁寧に。


 最後の一つを食べ終えると、セドリックは——皿を布で拭いた。


 そして、もとの場所に、丁寧に戻した。


 まるで——誰かの手仕事を、壊さないように。


 セドリックは厨房を出た。


 足音を殺して、廊下の奥へ消えていく。


 リゼットは階段の壁に背中を押しつけたまま、動けなかった。


 胸を、両手で押さえている。


 涙が頬を伝っていた。いつから泣いていたのか、分からなかった。


 ——あの人は。


 味が分からないのに。何を食べても同じだと言ったのに。


 それでも——毎晩、ここに来て。リゼットの菓子を、あんなふうに食べていた。


 祈るように。


 一口一口、味を探して。




 翌朝。


 リゼットは、いつもより早く厨房に降りた。


 作業台の上——空になった皿が、きちんと布の上に置かれている。


 綺麗に拭かれた皿。欠片ひとつ残っていない。


 リゼットはその皿を手に取って、しばらく見つめた。


 あの人は、味を諦めていない。


 「放っておけ」と言いながら、毎晩来ている。味の分からない菓子を、それでも食べている。一つ残らず。


 期待して裏切られるのが怖い——マリーはそう言っていた。


 だから、誰にも言わない。暗い厨房に一人で来て、一人で食べて、一人で帰る。


 味覚を取り戻したいという願いを、誰にも見せずに。


 でも——リゼットは見た。


 あの祈るような横顔を。


「……鍵が、あるはず」


 声に出していた。


 味覚を取り戻す鍵。セドリックの舌に「甘い」を届ける方法。


 収穫祭のあの夜、木の実タルトで一瞬だけ「甘い」と感じた。あれは偶然だったのか? それとも——何か理由があるのか?


 リゼットは作業台に座って、考えた。


 味覚。


 菓子師として、味覚については誰よりも考えてきたはずだ。


 味は、舌だけで決まるものじゃない。


 ——香り。


 焼き菓子の香ばしい匂い。蜂蜜の甘い香り。りんごの酸味を含んだ香り。


 ——温度。


 焼きたての温かさ。冷めた菓子と、温かい菓子では、同じものでも味が違う。


 ——食感。


 さくりと砕ける生地。とろりと溶ける蜜。歯ごたえのある胡桃。


 ——そして、記憶。


 母が焼いてくれたクッキーの味を、リゼットは今でも覚えている。あの味を思い出すだけで、口の中に甘さが蘇る。


 味は——記憶と結びつく。


「味覚は舌だけで決まるものじゃない——香り、温度、食感、記憶……」


 リゼットはエプロンのポケットからレシピ帳を取り出した。


 母のページ。使い込まれて角が丸くなった、古いページ。


 その一節が、目に留まった。


 ——蒸留。


 母のレシピの余白に、小さな字で書かれている。


『ラベンダーの花を蒸留して得た香水エッセンスを一滴。菓子に魂を吹き込むのは、目に見えない香りである』


 蒸留技術。花や薬草から、香りだけを濃く取り出す技術。


 辺境には蒸留器がある。酒を造るために使うものだと、マリーが言っていた。


 リゼットの指先が、震えた。


 何かが——見えかけている。


 まだ形にはなっていない。ぼんやりとした、輪郭だけ。


 でも——確かに、何かが。


「……セドリック様」


 リゼットは空の皿を胸に抱いて、目を閉じた。


「待っていてください。わたし、必ず——」


 言葉は、途中で止まった。


 何を、必ず?


 味を取り戻す? そんな大きなことが、菓子師に出来るのか?


 分からない。


 でも——あの祈るような横顔を、もう見たくない。


 味のない世界で、一人で祈っている人を——放っておくことだけは、出来ない。


 リゼットはレシピ帳を開いて、新しいページに書き込んだ。


『味覚回復の研究——舌以外の感覚で、味に近づく方法を探す』


 窓の外では、雪がまだ降っていた。


 白い世界。閉ざされた冬。


 でも——リゼットの中には、小さな火が灯っていた。

マリーさん、いい仕事しましたね(笑)。彼女の「おせっかい」が物語を動かしていくのが、書いていてとても楽しいです。セドリックが密かにリゼットの菓子を食べ続けていた事実――ここ、個人的にすごく好きなシーンです。拒絶しながらも、手が伸びてしまう矛盾。次回から、リゼットの本格的な挑戦が始まります。

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