「カンニングをした不正者との婚約は破棄する!」と王太子に断罪されましたが、全科目首席の私が下位三割の答案を写す理由がありませんので、論破させていただきますわ
「リリアーナ・ヴェルディエ! お前がエミリアの答案を盗み見ていたという証言がある。カンニングをした不正者との婚約は、本日をもって破棄する!」
王太子エドワードの声が、期末試験を終えたばかりの大講堂に響き渡った。
(あら、来たわね)
私は内心で小さく息を吐いた。予想より二週間早い。しかも、よりによってカンニング疑惑とは。
(このシナリオを考えた人、成績表を見たことがないのかしら。それとも見ても理解できなかったのかしら)
周囲の生徒たちがざわめく。好奇と軽蔑の視線が私に突き刺さる。三年間、誰よりも早く登校し、誰よりも遅くまで図書室に残り、血のにじむような努力で掴み取った首席の座。それが「カンニング」の一言で踏みにじられようとしている。
「私、リリアーナ様が私の答案を覗いているのを見てしまって……」
エドワードの隣で、男爵令嬢エミリア・ホワイトローズが涙ぐんでいた。蜂蜜色の巻き毛を揺らし、潤んだ翡翠の瞳で周囲を見回す。絵に描いたような「か弱い被害者」の姿。
「怖くて、今まで言えなかったんです……っ」
嗚咽を漏らしながら、エミリアはエドワードの腕にすがりついた。
(その演技、舞台女優を目指した方がよかったんじゃないかしら。ただし三流の)
私は表情を変えず、静かに立っていた。銀灰色の髪が窓からの風に揺れる。
「リリアーナ様、酷いわ……」「まさか侯爵令嬢が……」「やっぱり成績が良すぎると思ったのよ」
囁き声が広がっていく。三年間、私に愛想笑いを向けていた令嬢たちが、手のひらを返したように眉をひそめている。
(ええ、知っていたわよ。あなたたちが私の婚約者の地位にしか興味がなかったことくらい)
エドワードは勝ち誇った笑みを浮かべていた。金髪碧眼の完璧な王子様ルックス。けれどその碧い瞳には、知性の光が致命的に欠けている。
「さあ、リリアーナ。申し開きがあるなら聞いてやろう」
彼は私を見下ろした。この展開を何度も夢想していたのだろう。傲慢で、退屈で、どうしようもなく愚かな笑み。
(申し開き、ね)
私は三年間、この瞬間を待っていた。
いいえ、正確には「備えていた」。
法律を調べ、制度を学び、人脈を築き、証拠を集めた。すべては、この理不尽な茶番劇を完膚なきまでに粉砕するために。
私は静かに微笑んだ。
「殿下」
涼やかな声が、ざわめきを切り裂いた。
「一つ、確認させていただいてもよろしいでしょうか」
◇ ◇ ◇
「確認だと?」
エドワードは鼻で笑った。私が泣きすがるか、必死に弁明するとでも思っていたのだろう。
残念ながら、私はそこまで暇ではない。
「ええ。エミリア様のお席は、試験会場のどちらでしたか?」
「最前列だ。お前は三列目だったな。それがどうした」
エドワードは得意げに答えた。
(ありがとう、殿下。自分で墓穴を掘ってくださるとは、手間が省けましたわ)
「その通りです」
私は穏やかに頷いた。
「では殿下。私がどうやって──」
一拍、間を置く。
「二列前の、しかも背を向けているエミリア様の答案を『覗き見る』ことができたのでしょう?」
静寂が落ちた。
文字通り、講堂の空気が凍りついた。
「私の席は三列目の窓際。エミリア様は最前列の中央。試験中、エミリア様が後ろを振り返ることは禁止されておりますし、私が二列も前の答案を透視する能力は、残念ながら持ち合わせておりません」
私は小首を傾げた。
「殿下は、私に何か特殊な魔法の素養があるとお考えで?」
「そ、それは……」
エドワードの顔から血の気が引いていく。金髪碧眼の完璧な造形が、みるみるうちに間抜けな表情に変わっていった。
(あら、やっと気づいたのかしら。遅すぎる上に、これからもっと酷くなるけれど)
「ち、違うの!」
エミリアが甲高い声を上げた。さっきまでの楚々とした態度はどこへやら、翡翠の瞳がぎらぎらと光っている。
「リリアーナ様が、試験前に私の席に来て……そう、答案用紙を確認していたのよ!」
「試験前に答案用紙を?」
私は柔らかく微笑んだ。
「エミリア様。試験用紙は試験開始と同時に配布されます。開始前に答案用紙が存在するはずがありませんわ」
「う……っ」
「それとも、エミリア様は事前に問題を入手されていたのかしら? それこそ『不正行為』に該当いたしますが」
講堂がどよめいた。今度は、エミリアに向けられる視線の色が変わっている。
同情から、疑惑へ。
(さて、ここからが本番よ)
私は懐に手を入れた。
◇ ◇ ◇
「こちらをご覧ください」
私が取り出したのは、学院長の署名と封蝋が施された封書だった。
「これは……?」
「学院長から預かった、私の過去三年間の成績証明書です」
封を切り、中の書類を広げる。びっしりと並んだ科目名と評価。その全てに「首席」の二文字が刻まれていた。
「法学、首席。政治学、首席。経済学、首席。歴史学、首席。魔法理論、首席──」
私は淡々と読み上げた。
「全二十三科目、三年間連続で首席。これが私の成績です」
講堂がざわめく。成績優秀者の名前は公表されるが、全科目の詳細までは知られていない。
「一方で、エミリア様の成績は──」
私はちらりとエミリアを見た。
「失礼ですが、下位三割に入っておられますわね」
「なっ……!」
エミリアの顔が真っ赤に染まった。
「私、成績証明書の開示なんて許可してないわ!」
「ご安心ください。具体的な順位は申し上げておりません。ただ、『下位三割』という事実は、昨年の奨学金選考で公表された情報ですので」
私は肩をすくめた。
「さて、殿下」
視線をエドワードに戻す。
「私が『カンニング』をするとして。なぜわざわざ、全科目首席の私が、下位三割の方の答案を写す必要があるのでしょう?」
沈黙。
「自分より成績の悪い人の答案を写して、何の得があるのか。殿下のお考えをお聞かせ願えますか?」
「それは……その……」
エドワードは口をぱくぱくさせた。金魚のように。
(いや、金魚に失礼ね)
「エミリア」
エドワードがすがるような目で振り返った。
「お前、本当に見たんだろうな? 確かなんだろうな!?」
「み、見たわよ! 絶対に見たもの!」
エミリアは必死に叫んだ。けれどその声は、もはや誰の心にも響いていなかった。
私は小さく息を吐いた。
「では、もう一つ」
次の証拠を開示する時間だ。
◇ ◇ ◇
「エミリア様」
私は穏やかに呼びかけた。
「試験当日、あなたは遅刻して参りましたわね」
「え……?」
「試験開始時刻は午前九時。あなたが試験会場に到着されたのは、九時十五分です。試験監督の記録に残っております」
私は懐からもう一枚の書類を取り出した。
「こちらは試験監督を務められたグレイス教授から預かった、当日の記録です」
「な、なんでそんなものを……!」
エミリアの声が裏返った。
「試験前の教室で私を見かけたとおっしゃいましたね。けれど私は八時四十五分には着席しておりました。あなたが到着した九時十五分には、全員が答案用紙に向かっていたはずです」
私は首を傾げた。
「遅刻して慌てて入室されたあなたが、いつ私の『カンニング』を目撃されたのかしら?」
「そ、それは……試験中に、ふと顔を上げた時に……」
「試験中に後ろを振り返ったのですか?」
「っ!」
「王立学院の試験規則、第十二条。『試験中、受験者は自身の答案用紙以外を注視してはならない。違反者は即座に退場処分とする』」
私は静かに告げた。
「あなたが私を『目撃』したというのが事実なら、あなた自身が不正行為を行っていたことになりますわ」
講堂が完全に静まり返った。
エミリアの顔から血の気が引いていく。潤んでいたはずの翡翠の瞳が、今は恐怖に見開かれている。
「ち、違……私は……」
「矛盾だらけですわね」
私は指を折った。
「一つ、席順から物理的に不可能。二つ、成績差から動機が不在。三つ、時系列から目撃自体が成立しない。四つ、目撃を主張すれば自身の不正行為を認めることになる」
四本の指を立てた手を、優雅に下ろした。
「エミリア様の証言は、何一つ成立しておりませんわ」
「う、うそよ……うそ……」
エミリアの目から涙が溢れた。けれど今度は、誰も彼女に同情の目を向けなかった。
(さて、仕上げといきましょうか)
◇ ◇ ◇
「殿下」
私はエドワードに向き直った。
彼は青ざめた顔で立ち尽くしていた。さっきまでの勝ち誇った笑みは影も形もない。
「王立学院の校則、第四十七条をご存知ですか?」
「こ、校則だと……?」
「『虚偽の告発により他の生徒の名誉を毀損した者は、退学処分とする』」
私は淡々と暗唱した。
「エミリア様の告発が虚偽であることは、先ほど証明いたしました。これにより、エミリア様は退学処分の対象となります」
「退、学……?」
エミリアが膝から崩れ落ちた。
「いやっ……いやよ、そんなの……私は悪くない! リリアーナが悪いのよ! あの女がエドワード様を誑かして……!」
取り繕う余裕もなく、エミリアは醜く喚いた。「か弱い被害者」の仮面が、音を立てて剥がれ落ちていく。
(やっぱりね。追い詰められると本性が出る)
「そして、殿下」
私はエミリアから視線を外し、エドワードを見据えた。
「王家の婚約に関する勅令、第十二条」
「な、何の話だ……」
「『正当な理由なき婚約破棄を行った場合、破棄された側は相応の賠償を請求できる』」
私は微笑んだ。
「虚偽の告発を根拠とした婚約破棄は、『正当な理由』に該当いたしません。ヴェルディエ侯爵家は、王家に対して相応の賠償を請求する権利を有します」
「ば、賠償だと!? この私に……王太子である私に賠償を請求するつもりか!?」
「ええ」
私は一点の曇りもない笑顔で頷いた。
「私、法学も首席でしたの」
講堂のどこかで、誰かが吹き出す音が聞こえた。
エドワードの顔が、怒りで紅潮する。けれどその怒りの矛先を向ける相手が見つからず、彼は右往左往するばかりだった。
(プライドだけは一人前なのに、責任を取る覚悟はないのね。まあ、知ってたけど)
◇ ◇ ◇
「殿下」
私は深々と一礼した。完璧な淑女の所作で。
「婚約破棄のお申し出、謹んでお受けいたします」
「は……?」
エドワードが呆けた声を漏らした。
「私からもお願いしようと思っておりましたの」
顔を上げる。
「ヴェルディエ家の令嬢が、証拠もなく罪人扱いされる謂れはございませんわ」
静かに、けれど講堂の隅々まで届く声で告げた。
「三年間、この婚約のために尽くして参りました。殿下の学業を補佐し、社交界でのお立場を支え、王太子妃として恥ずかしくないよう自らを磨いて参りました」
私は淡々と続けた。感情を込めずに。事実だけを。
「けれど殿下は、確たる証拠もなく、物理的に不可能な罪で私を断罪なさった。これが私への三年間の答えであるならば、もはや何も申し上げることはございません」
(正直、せいせいするわ。毎週のお茶会で殿下の自慢話を聞かされる苦行から解放されるのよ。むしろ感謝したいくらい)
内心はそう思いながら、私は完璧な微笑みを浮かべた。
「エドワード様」
三年間で初めて、敬称を外した。
「あなたに相応しいのは、私のような者ではなく、エミリア様のような方なのでしょう」
皮肉を込めて言った。けれど彼には通じていないだろう。
「ど、どういう意味だ……」
「言葉通りの意味ですわ」
私は肩をすくめた。
「証拠も確認せず、論理も検証せず、ただ感情と涙に流されてお決めになる。そのようなお方には、知性よりも演技力に長けた方がお似合いです」
講堂に失笑が漏れた。
エドワードの顔が、怒りで歪む。けれど何も言い返せない。言い返す材料が何もないのだから。
(さようなら、三年間の徒労よ。次のステージは、もう少しマシな場所であることを願うわ)
その時、講堂の扉が開いた。
◇ ◇ ◇
講堂に入ってきたのは、漆黒の髪に琥珀色の瞳を持つ長身の青年だった。
隣国ノルディア王国の第一王子、アレクシス・ノルディア。
(あら、このタイミングで?)
私は内心で眉を上げた。彼が王立学院を視察に訪れていることは知っていたが、まさかこの場に現れるとは。
「失礼。騒がしいようだったので」
アレクシス殿下は落ち着いた声で言った。その視線が、一瞬だけ私を捉える。
「ア、アレクシス殿下……」
エドワードが狼狽えた。隣国の王子の前で、この醜態。外交問題になりかねない。
「エドワード殿下」
アレクシス殿下は静かに歩み寄った。威厳と余裕に満ちた足取り。
「今の騒ぎ、全て聞かせていただいた」
「こ、これは……その、内政問題でして……」
「虚偽の告発で婚約者を断罪し、論破されて立ち往生している。そういう理解でよろしいか」
容赦のない要約だった。
エドワードが言葉に詰まる。その隣で、エミリアはまだ床にへたり込んだまま、放心状態だった。
アレクシス殿下は私の前で足を止めた。
「リリアーナ嬢」
深い琥珀の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
「見事だった」
「……恐れ入ります」
私は軽く頭を下げた。
「以前から、あなたの聡明さには注目していた。学院の成績だけでなく、政治経済に関する論文も拝読している」
(え、あの論文読まれてたの? 匿名で学術誌に投稿したやつ……)
「我が国への留学の件、改めてご検討いただけないだろうか」
私は目を瞬いた。
「留学、ですか」
「ああ。あなたのような才媛を野放しにしておくのは、国の損失だ」
アレクシス殿下は真剣な眼差しで言った。
「レイフォード王国だけでなく、我がノルディア王国にとっても」
(これは……予想外の展開ね)
私は数秒、考えた。
婚約は破棄された。この国に留まる理由は、もうほとんどない。父上は私の判断を尊重してくださるだろうし、セバスチャンも準備は整えてくれているはず。
何より、この国にいる限り、今日のような茶番に巻き込まれ続ける可能性がある。
「喜んでお受けいたします、アレクシス殿下」
私は微笑んだ。今度は、心からの笑みだった。
◇ ◇ ◇
「ま、待て!」
エドワードが叫んだ。
「リリアーナ、お前……隣国に行くつもりか!?」
私は振り返った。
「ええ。何か問題でも?」
「問題だらけだ! お前は俺の……いや、元婚約者とはいえ、侯爵令嬢が他国へ……」
「先ほど婚約を破棄されたのは殿下ですわ」
私は穏やかに遮った。
「私はもう、殿下と何の関係もございません。どこへ行こうと、誰と親しくなろうと、殿下に口出しされる筋合いはありませんの」
「っ!」
エドワードが言葉に詰まる。
私は一歩、彼に近づいた。
「殿下」
穏やかに、けれどはっきりと告げる。
「次のテストは、ご自分の目で問題をよくお読みになることをお勧めいたします」
「……何?」
「『カンニング』の意味も含めて」
私は優雅に一礼した。
「これまでお世話になりました。どうぞ、エミリア様とお幸せに」
振り返り、講堂を歩き出す。アレクシス殿下が隣に並んでくださった。
背後で、エドワードが何か喚いている。エミリアの泣き声も聞こえる。
けれど、もう振り返る必要はなかった。
(三年間の我慢が、ようやく報われた気分だわ)
講堂の扉を抜けると、見慣れた銀髪の執事が待っていた。セバスチャンは私を見て、わずかに口角を上げた。
「お見事でございました、お嬢様」
「全てあなたの準備のおかげよ、セバスチャン」
「いえ。私はただ、書類を整えただけでございます。あの場を切り抜けられたのは、お嬢様の実力です」
セバスチャンは一礼した。
「……ただ、途中で何度かお顔が『楽しそう』になっておられましたが」
「気のせいよ」
私は素知らぬ顔で答えた。
アレクシス殿下が、小さく笑った気がした。
◇ ◇ ◇
それから一週間後。
エミリア・ホワイトローズは虚偽告発により退学処分となった。ホワイトローズ男爵家は社交界での信用を失い、領地経営も傾いているという。
エドワード・レイフォードは、隣国との関係悪化の責任を問われ、王太子の座を追われかけていた。父王は激怒し、当分の間は謹慎処分。第二王子の擁立論まで出ているらしい。
そして私、リリアーナ・ヴェルディエは──
「お嬢様、お荷物の準備が整いました」
セバスチャンの声で、私は窓の外から視線を戻した。
「ありがとう。父上には?」
「侯爵様は『好きにしろ、ただし月に一度は手紙を寄越せ』とのことです」
「父上らしいわね」
私は微笑んだ。
窓の外には、ノルディア王国からの迎えの馬車が見えた。漆黒と銀の紋章が朝日に輝いている。
(新しい国、新しい生活。少しだけ、楽しみかもしれない)
コンコン、とドアがノックされた。
「リリアーナ嬢、準備はよろしいか」
低い声。アレクシス殿下だ。
「ええ、今参ります」
私は立ち上がり、鏡で身だしなみを確認した。銀灰色の髪を丁寧に編み上げ、控えめだが上質な旅装に身を包んでいる。
鏡の中の私は、三年前より少しだけ大人びて見えた。
「では、参りましょう」
部屋を出ると、アレクシス殿下が待っていた。琥珀色の瞳が、穏やかに細められる。
「緊張しているか?」
「いいえ、まったく」
私は正直に答えた。
「むしろ、せいせいしておりますわ」
アレクシス殿下が小さく笑った。
「あなたらしい」
並んで廊下を歩きながら、私はふと思った。
この先に何が待っているかは分からない。けれど少なくとも、愚かな王太子に振り回される日々よりはマシだろう。
そして──
隣を歩くこの人は、少なくとも「カンニング」の意味くらいは理解しているはずだ。
(それだけで、だいぶましな未来が見えるわね)
私は前を向いた。
新しい物語が、今始まろうとしていた。




