第7話:「予想通りにバグるAI」
「これ、またバグってますね」
佐藤は、誰にも聞こえない声でつぶやいた。
新しいAI監視システムが導入されて半年。
「異常検知精度は95%以上」「24時間365日自動監視」──導入当初のスライドには、そんな勇ましい文言が並んでいた。
だが、佐藤は知っていた。
このAI、バグるときは“いつも同じ場所で”バグる。
エラーログの特定パターン、あるいは閾値ぎりぎりの負荷スパイク。それにAIが「正常」と返すのを、もう何度見ただろう。
「まあ、想定内ですね……」
AIが“予想通り”に誤判定するたび、佐藤の中で何かがすり減っていった。
*
ある日の午前、AIから「異常なし」の通知が届いた。
だが、佐藤の目には明らかに“何か”がおかしかった。DBの応答が断続的に遅れ、グラフに細かい“ノイズ”が混ざっている。
「前もこれだったよな……」
彼は、古いログを遡った。全く同じ波形。
そのときは深夜にバッチが失敗し、復旧に36時間かかった。
今回も、予兆は出ている。
Slackに報告を書いた。
──「AIは異常なし判定ですが、DBの応答に揺れ。再発の兆候かと」
返事はない。スタンプもつかない。
午後。会議室で「生成AIを活用した社内業務効率化」なる講演が開かれていた。
上層部の関心は「次の導入事例」に向いていた。
その夜、ログが真っ赤に染まった。DBの応答が20倍に遅延。AIは「通常の範囲内」と報告を出し続けていた。
「だよな……」
佐藤はPCを閉じ、ため息をついた。
*
翌朝。会議室には、報告書を前にした管理職たちが集まっていた。
「で、何が原因?」
「まだわかっていませんが……AIは“異常なし”と判断していました」
「ということは、AIの設定ですかね?」
「そうですね、閾値を少し調整すれば……」
その議論は、数分で終了した。
“AIが間違えた”のではない。“設定が悪かった”だけ。
誰も、「そもそも人間が気づいていたこと」に触れなかった。
*
「AIは人間より正確」
「AIは人間より早い」
「AIは人間より疲れない」
──すべて事実かもしれない。だが、
「人間が間違いを予測していたのに、それを無視する世界」ができたとき、
それはもう“AIがバグった”というより、
“人間の信仰がバグっている”のかもしれない。
佐藤は今日も、また似たログの山を眺めている。
「そろそろ、次のバグが来る頃だ」
それは、ほぼ確信だった。
【初心者向け用語集】
ログ
システムの動作や異常を記録したデータ。エンジニアが不具合の原因を探す手がかりとなる。
閾値
ある判定をするために設定された基準値。たとえば「CPU使用率80%を超えたら異常」といったように、超えたかどうかで判断される。
Slack
社内で使われるチャットツール。スタンプやスレッドで気軽なやり取りができるが、深刻な報告も埋もれやすい。
エラーログ
システムのエラー(失敗や異常)が記録されたログ。重大な不具合の兆候となる。
バッチ処理
決まった時間に一括で実行される処理のこと。請求書の発行やデータの集計などに使われる。
異常検知AI
サーバーやアプリケーションの動作状況を学習し、通常と異なる動きを“異常”として検知するAIの一種。
【あとがき】
この物語は、「AIファースト企業」の、どこか現実にも似た不条理な日常を描いたものです。
社内の空気は「人間より、AIを信じろ」という“無言の社是”で満たされ、
AIの判断に疑いを持つことすら、いつの間にか許されなくなっていました。
作者自身は、このブラックユーモアを完全に理解しているわけではありません。
むしろ、「なにが笑いどころなのか、わからない」「こういうのは嫌だな」という違和感とともに、
この物語を書きました。だからこそ、表面的にはユーモアであっても、
その奥には真面目な怒りや不安が、静かに沈殿しています。
この作品は、いわば「作者とAIの合作」かもしれません。
人間の“わからなさ”と、AIの“無感情さ”が交差しながら、
奇妙に滑らかに、“笑える現実”を紡いでいく構造です。
たとえば今回の話には、こんな風景が描かれています。
AIにレビューを任せて「見たこと」にしてしまう人たち
問題が起きても、誰も責任を取らず「AIの設定を強めて」で済ませる管理職
誰も内容を読んでいないのに「レビュー済」という文字だけが残る現場
……それって、怖い。でも、どこかバカバカしい。
だからこそ、真顔で「AIがレビューしました」と言い切る人たちに、
ほんの少しだけ乾いた笑いを向けたくなるのです。
それが“ブラックユーモア”なのかもしれません。
現実にも、似たようなことはたくさんあります。
そして、そうした不条理な日常を笑えるようになる瞬間──
それはきっと、あなたの中に「ブラックユーモアへの耐性」が育ってきた証です。
それは、つらい現実と向き合いながらも、
心をすり減らさずに生きていくための、“やさしい防御”なのかもしれません。