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沖谷幸生にしあわせを  作者: 椋木美都
第1章『沖谷幸生と篠木威弦の出会い』

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 第6話『距離が縮まった日』

「あ、ねぇ。ここ結構長いんですか?」


「うぇっ……は、はい割と」


「4階にいる人のこと知ってます?」


蚊帳の外にいる気分だった幸生は突然会話の中に入れられてしまった。内心酷く怯えるが、表には出さずに答える。


「会計事務所ですよね。所長が兄で弟が社員にいるらしいですよ」


「「えーー!!」」


幸生は営業スマイルを浮かべたまま開くボタンを押し、絶対に彼女達と違う道を歩くと決める。女性達は幸生が一つ情報を落しただけで水を得た魚の如く盛り上がった。


「じゃあウチらが見たのって兄の方じゃない?」「服違ったしね」「えー兄弟かぁ……どっち派?アタシ兄」「それな」「アタシも」


――篠木さん(弟)……。そして兄強し。


察しの良い幸生は居たたまれない気持ちになり、一旦フェードアウトしてトイレに逃げる。彼女が最後に聞いた内容は――


「弟もイケメンだったけど女遊び激しそう」「うん。イケメンでもチンピラは無理」「イケメンだったけどねー。絶対金遣い荒いよ。付き合ったら絶対苦労しそう」


――またしても強火だった。


心の中で合掌し、軽く化粧を直してからトイレを出る。そして間髪入れずに叫んだ。


「ふびゃっ!?し、篠木さん……」


――びっっっくりした!何でトイレ前にいんの!?


「お疲れー」


立派な体躯が迫り、幸生は思わず出口の方向へ後ずさる。威弦は瞳孔が開いた目を細めて一言。


「俺ってチンピラ?」


じゃなかったら何だというんだ。という本心を呑み込んで幸生は笑顔を作る。


「篠木さんはカッコいいですよ」


「…………どの辺が?」


――掘り下げてきた……嘘だろ。泳がせるなんて悪趣味な!えーーとどこだ?


この誉め言葉が威弦にとって会心の一撃になっていることに気づかず、幸生は頭を必死に回転させた。


「背中……」


「は?」


――漢は背中で語るってね!もう咄嗟に出たコレで通すしかない!


「いつも自信と余裕たっぷりで、どっしりと構えてる感じというか。篠木さんの逞しさと男らしさが背中に顕れてて……カッコいいと思います!頼りがいのある男性っていいですよねー」


――何を言っているんだ私は……。バトル漫画の読みすぎ。


絶望と羞恥によって2人の時間が止まる。幸生の自然な上目遣いも相まって威弦の理性は崩壊寸前だった。


――可愛い……あー無理!顔緩む……。


「あ、あの」


「……さっさと帰れ」


「は、はい。お疲れ様です」


――よく分かんないけど誘われなくてラッキー。断らずに済んだ。


威弦は目線を幸生の後ろ姿に固定したまま、赤くなった耳を無意識に擦る。


――クソッ……本当に演技なのかよあれ。


威弦ばかり夢中になっていく一方で、幸生は他の男の陰など微塵も感じさせず――


「お待たせ!夕ご飯なに食べる?」


――愛らしい笑顔を浮かべて彼氏の手を握った。


(=^・^=)

幸生と威弦が出会ってひと月が過ぎた頃。過ごしやすい室温の中、幸生は今日もバイト先のビルで威弦と接触する。


「……あ。篠木さんお疲れ様です」


「さ……もういい加減にしろ」


「え?」


瞬きの内に捕まり、人気のない階段で幸生は瞠目する。彼女はすぐ自分の状況を理解して頭に疑問符を浮かべた。


――何で壁ドン?何で怒ってんの?私、またなんかやっちゃいました?


屈強な男が迫っていようが退路を断たれていようが誰も助けに来ない状況だろうが――幸生は怯まない意思を威弦に示す。


「あの、私なにか失礼なことを……ごめんなさい。この前のチンピラの件ですか……?」


それどころか泣きそうな声と顔を作り、相手側に立って自分の非を認める余裕まであった。急にしおらしくなった幸生を前に、威弦の勢いが殺される。彼は怒気を消して渋い表情のまま溜息を吐いた。


「猫被ってんのバレバレなんだよ。敬語もさん付けも止めろ」


「!?」


「遠慮とか要らねぇから。なぁ……そろそろ心開いてくれたっていいだろ?」


「…」


――猫……いやそりゃ被るでしょ。ただでさえ人をイラつかせる天才なのに。


幸生は『でも』や『だって』を使いたい気持ちを抑え、年上だから失礼になると主張する。だが威弦は一笑して己の寛大さをアピールした。


「本当に、怒ったり不機嫌になったりしませんか」


「しねーよ。なに?お前の素ってそんな酷いの」


「まぁ……」


――実家に居場所が無くなるくらいは。


重苦しさを冗談で包み隠し、面目ないという笑みでお茶を濁す。この状況でも幸生は薄い化けの皮を被っていた。


「別にどんなんでも……」


――嫌うとか幻滅とか……。


「さ……っ!オラとっとと吐けや!大丈夫だっつってんだろ!」


「ああああ」


威弦は異常な拍動と幸生から漂う甘くて爽やかな香りに翻弄され、とうとう彼女の頭を鷲掴む。内心では優しく言えないことを後悔していた。


――何でコイツの前だと色々ブッ飛ぶんだよ……!クソ調子狂う!さっきから名前呼ぼうとしても全然言えねぇし!


幸生に不快だと思われるだけで牙を抜かれた虎のように萎む。そう分かっていても乱暴な口調とすぐ手が出る癖は治せなかった。


「……分かった」


「!?」


幸生の声と表情から温度が消え、幽霊を彷彿させるような気配が空間を支配する。激変した素の幸生を目の当たりにし、今度は威弦が瞠目する番だった。頭に置いた手は金縛りにあったかのように動かせない。


「あと何だっけ。呼び方?さん付けしなかったらなんでもいい?」


「……あぁ」


――この人だって呼んでないクセに……まぁ別にどうでもいいか。


幸生は空より濃い闇を濁らせ、焦点が合っていない目を威弦に向ける。それは彼が過去に何度も見た光景と酷似していた。


――こ、コイツ……廃人よりヤベェ目してやがる。やっぱ色々限界だったんじゃねーの……?


ぞっとする程の寒気を感じ、幸生の深層に恐怖心を抱いたのも束の間。


「じゃあ篠木で」


「はぁ!?」


幸生は真顔で威弦の僅かな期待を裏切った。


「お、れは幸生って呼ぶけど?」


「分かった」


「分かったじゃねぇ!何で苗字なんだよ!!」


――折角人が特別に名前呼びを許可してやろうと思ってんのにコイツ……!


再び手に力が籠り、幸生の頭を締め上げる。しかし彼女は眉一つ動かさなかった。まるで痛覚が遮断されているかのように。


「最初に聞いた時から『篠木』って苗字カッコいいなーって思ってたんだ」


「!!」


威弦の頬がぶわっと真っ赤に染まる。『篠木』呼びをしてくる相手が少しでも気に喰わなければ年齢性別関係なく屈従させてきた威弦だったが――幸生の嘘偽りない理由を聞いて素直に興奮していた。


「許してくれる?」


「チッ……しょうがねぇな」


「じゃあお疲れ」


「おい」


威弦は幸生の肩を掴み、そのまま飯屋に連れ込もうとする。流される寸前、幸生は昼飯に食べたパンを思い出した。


「あっごめん。お昼にコンビニパンいっぱい食べたから今日はちょっと」


「は?」


「今パンについてるシール集めるとスミックマのラーメンどんぶりもらえるってヤツやってて……これ」


幸生は威弦の反応を窺ってからキャンペーン用紙を見せる。現在、大手コンビニチェーン『ハッピーステーション(略してハピステ)』は世界的人気を誇る熊のキャラクター『スミックマ』とコラボし秋のスミックマフェアを開催していた。対象商品を購入するとシールがもらえ、30枚集めるとスミックマがプリントされたラーメンどんぶりと交換できる。一人暮らしを始めた幸生がこの食器に興味を惹かれない訳が無かった。


――絶対欲しい欲しい欲しい……!コンビニのパンとか高すぎて論外だけどラーメンどんぶりは欲しい!私はカップ麵より袋麺派なんだ!


「へー。まだ全然だな」


「一昨日から始めたから」


「……スミックマ好きなのか」


「うん。ずっと好きだよ」


「…………てか、スミックマで同じようなヤツとか他にもあんだろ。普通に買えばよくね?」


「あ」


――言っちゃったな?ノンデリがよぉ……。


「コレがいいの。期間限定が成す希少価値に魅力を感じるタチだからさ……篠木ももしハピステでパン買う時があったらシール頂戴」


幸生は若干拗ねた口調で用紙をしまい、ふてぶてしく注文する。威弦はあまりの可愛さに胸を抑えて俯いた。


――クソ可愛い……血管切れそう。


夕飯の誘いを断った理由も、くだけた態度も、威弦からすれば少し子供っぽい趣味も……冷めるどころか、知れば知るほどどこか大事な部分が壊れていく。


「なんでだよマジで……はぁ」


威弦は幸生を駅まで見送り、熱い吐息を漏らした。

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