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沖谷幸生にしあわせを  作者: 椋木美都
第3章『与えられるのは――』

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 第41話『ひとひらの涙』

『想宮』は私にとってのよすがだった。今はもう無いらしいけど、あそこに逃げて君と時間を潰した記憶は一生忘れない。例え裏に黒い思惑や欲望が潜んでたとしても。


――ずっと覚えてる……。その裏を引き寄せるような素質が私にあったのも事実だったから。


死へ逃れたいと、何度も思った。表では平然を装って、一般論を拠り所にして……周囲に流されるまま行動してきた。だっていつ人生が終わってもよかったから。私の心中に恋も希望も芽生えない。そんな自分を全方位から嫌悪して、否定し続けた。


――こんなすぐに崩れ去ってしまうようなモノに振り回されるなんて……。


ぐっとお腹を押さえて鈍痛に耐える。今の私には恋愛が割り込む隙間も、書き換わる余裕もありはしないのに。


「……調子が悪いと、ついついネガティブに走りがちなんだよ」


「なら別日にします?」


「いや今日がいい」


バイト終わり。私と君は春の兆しが見える道を歩き、佐古駅から歩いてすぐの所にあるレンタルスペースに向かっていた。この場所は彼が手配し、準備も万端らしい。


「威弦さんの件、本当に大丈夫なんですか?俺の予想だと」「大丈夫だから」


君の言葉を途中で切り、痛みに耐えるような声で続ける。


「篠木がそういう思考に至らないよう……私が何とかする。楽村君に危害は与えさせないし干渉もさせない。君も協力お願いね」


「いくら幸生さんでも、厳ぃとこあると思いますけどね……俺は別にあの2人がどうなろうと興味ないっすけど」


「どうでもいいと言えばさ」


背筋を伸ばし、私は隣を歩く君をじっと見つめた。


「お母さんの車を巻き込んだトラックの運転手と、私に3億の価値を付けた男性はどうなったの?」


「あの事故自体が無かったことになったんで、運転手はもう無関係っす。あの反社も警察の摘発受けて組ごと解体しましたよ」


淡々と話す君は、まるで結末をこの目で見たかのように話した。私は生理痛の痛みすら忘れ、真っ先に浮かんだ疑問を口にする。


「ヤクザだったんだ……生きてはいるの?」


「ニャルラが置いていった金は、あの絵を買い取ることで因果の連鎖が消えるみたいです。あとは絵の保管場所っすけど……まぁ見てから考えましょ」


あまりに強引な話のすり替えに二の句が継げなくなる。君があえて答えないということは、もうお母さんの死と金に関わった人達は……。


――やめよう。これからホシトキコの絵を見に行くんだから。


およそひと月前。私はホシトキコという女性画家に3億3600万円の価値が付くような絵を描いて欲しいと頼んだ。改めて振り返ると常軌を逸しすぎている。まぁそれはお互い様か。そんな何者かも分からない初対面の私に、彼女はあっさりと承諾をくれたのだから……天才と変人はイコールで繋がっているという方程式もあながち間違いではないのかもしれない。


そして今日の昼。電話で絵が完成したという連絡を受け、私は早速君をこき使……派遣した。


『私の家にある通帳からお金をどうにか全部引き出して、神奈浜にいるホシトキコさんから絵を買ってきて』


『は?今?』


『うん』


『俺も下でバイト中です』


『私の血あげるから。頑張って分身して行ってきてよ』


腕をまくると、君は心底呆れたような顔でため息を吐いた。私は至って真面目だが?


『せめて明日とか……護衛なら喜んでしますけど?』


『……早い方がいい。絵は欲しいけど、私が買って佐古に運んだってバレたくないんだよね』


『絶対面倒くさいだけじゃないっすか!あと更に難しくしないでください。行きは3億超えの大金持って600キロ離れた場所まで飛んで?帰りはどれくらいの大きさか分からない絵を目立たず佐古まで運べって?ちょっと後輩使い荒すぎません?』


『あーー。嫌?』


しょうがないなと諦めると、君は額に青筋を立てて怒った。


『は?やりますけど??その絵はどこに持っていきゃいいんですか?』


『その絵にあったイーゼルも途中で入手して、佐古駅近くのレンタルスペースに置いて。絵が日光に当たらないようにしてね』


『……何で幸生さんの家じゃないんですか?』


『誰にも邪魔されたくないから。それに私の家は……なんか味気ないというか相応しくないし』


『了解です。はぁ……血は帰ったらでいいんで』


『ありがとう。頼り切っちゃってごめんね』


本当に心からそう思うと、君は悔しさを堪えるような顔をして俯く。私は近くなった頭を優しく撫で、いってらっしゃいと言うと――


『っっおおお待って!?多分猫の方が痛いんだろうけど人間でも十分痛いから!』


――君は私の手首をガシッと掴み、親指と人差し指の間にある皮膚に歯を立てようとしてきた。そこは合谷(ごうこく)というツボがあるだけで噛みついていい場所なんかじゃない!


君にかなりの無茶ぶりをさせ、私はいよいよお母さんの命が宿ったと言っても過言ではない絵と対面することになった。10畳ほどの室内にはダイニングテーブルとソファー等が置いてある。そして部屋の中央には、白い布を被せた何かが置かれていた。


――や、ヤバい一気に心拍数が……。


「き、君はもう見たの?」


「はい」


「そっか……よ、よし。じゃあ布とって」


絵の前に正座して目を閉じた瞬間、バサッと絵が露になった音がした。恐る恐る瞼を上げると――


「タイトルは『Mの星葬(せいそう)』だそうです」


「…」


――視界いっぱいに、確かな幽玄の美が広がった。


ホシトキコ作『Mの星葬』――F20号のキャンバスに描かれた縦構図の作品である。ロベリアと胡蝶蘭の花が下から覗く先は、ヒイラギナンテンの花と神秘的な星空が赫奕(かくやく)としている。恐らく、2つの花が水溜まりに映った花と星空を眺めているといった構図なのだろう。独特の色彩は見る者に強い印象を残し、私自身も感情の高まりを抑えられなかった。


――まさか、絵に泣かされる日が来るなんてな……。


息を吞むほどの荘厳さと美に胸を打たれ、涙が頬をつたう。人物が描かれていなくとも、星空の奥深い場所にお母さんが眠っている気がした。


「やっぱ何回見ても抽象的で……俺には分からんっす」


「所詮、主観だからさ……上手く伝えられないけど。私はこの絵を見て、まるで私とお母さんの関係を(かたど)ったような作品だなって思ったよ……」


ロベリアは私。胡蝶蘭はお金。ヒイラギナンテンと星空はお母さんで、それを映す水面は涙――そう解釈してしまうと我慢できなかった。全くの見当違いかもしれないのに。


「っ、うぇ……おかあざっ、お母さん……」


――別にもう……20歳だから1人で何でも出来るし。お母さんなんていなくても……。


「いなくたって、いいのに……お母さんの全部が、無理だったのに……!」


呼吸が浅くなるのを自分でも止められなかった。足元が崩れる感覚と心を掻き乱すような恐怖に襲われ、私はひたすらに泣きじゃくる。


「…」


君はそんな私に何も声をかけなかった。気持ちは分かる。私だったら慰めの言葉を探すほど、無力感が邪魔をして声にならないだろうから。


「タオル」


「っ、はい」


短い一言でも声に嗚咽が残る。私は新品っぽいタオルハンカチで目元を抑え、ポケットティッシュで鼻をかんだ。


「……ごめん」


「…」


眼鏡をかけて謝ると、君は表情を歪ませて口を開いたり閉じたりしていた。その一動作が全てを語っているようにしか思えない。私は黙って俯いた彼の隣に立ち、またそっと頭を撫でた。


「この絵は写真を撮って燃やそうと思ってる」


「……まさか。それも俺にやらす気ですか」


「あ、流石にその時は私も同行するけど。だから……まだまだやることいっぱいあるから。覚悟しててね」


「……はい」


君は後悔と罪悪感の影を消し、何の前触れもなく私の腕に噛みついた。

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